言語
劉備(りゅうび)

蜀漢(しょくかん) · 皇帝

劉備(りゅうび)

字 玄德

登場回
101
台詞の記録
654
人間関係
267
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

劉備(りゅうび)、字は玄徳。漢の景帝の子である中山靖王劉勝の後裔で、涿郡(たくぐん)涿縣(たくけん)の人である c:1210。彼は少年のころに父を失い、母とともに履を売り席を織って生計を立てた。その家宅の東南の角には一本の高大な桑の木があり、形は車蓋のようで、非凡の兆とされ、その家から貴人が出ることを予示するものとされた c:1212。劉備(りゅうび)は少年のころ、読書を好まず、犬馬・音楽・美服を好み、身の丈は七尺五寸、両手は膝を過ぎ、自ら己の耳を顧みることができた。彼は寡黙で、人を待遇することに巧みで、喜怒を色に表さず、また豪侠の士と交わることを好み、若者たちに深く慕われた。中山の大商人である張世平・蘇雙らは、彼の非凡さに、金財を資助し、劉備(りゅうび)はこれによって徒衆を募ることができた c:1212。

霊帝末年の黄巾の乱(こうきんのらん)の際、劉備(りゅうび)は衆を率いて校尉の鄒靖(すうせい)に従い黄巾の賊を討伐して功があり、安喜尉に任じられた。後に督郵の賄賂の要求に不満を抱き、督郵を鞭打って官を棄て逃亡した c:1215。ほどなく、彼は都尉の毌丘毅に従って兵を募り、下邳(かひ)で賊に遇い、力戦して功があり、相次いで下密丞・高唐尉・高唐令を務めた。高唐が賊に破られた後、劉備(りゅうび)は公孫瓚(こうそんさん)のもとに身を寄せ、別部司馬に表され、青州(せいしゅう)刺史の田楷(でんかい)とともに冀州(きしゅう)牧の袁紹(えんしょう)に抵抗し、たびたび戦功を立て、後に試守平原(へいげん)令となり、さらに平原(へいげん)相を領した c:1215。

曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を征伐したとき、徐州(じょしゅう)牧の陶謙(とうけん)は田楷(でんかい)に救援を求め、劉備(りゅうび)は田楷(でんかい)とともに赴いた。当時、劉備(りゅうび)はすでに兵千余人を擁し、また烏丸の雑胡騎と数千の飢民を有していた。到着すると、陶謙(とうけん)はさらに丹楊兵四千を加え、劉備(りゅうび)はそこで陶謙(とうけん)に帰附した。陶謙(とうけん)は病が重くなると、劉備(りゅうび)でなければこの州を安んじることはできないと考え、臨終に際して徐州(じょしゅう)を彼に託した。初め劉備(りゅうび)は受けることを望まなかったが、陳登(ちんとう)・孔融(こうゆう)らの勧めによって、最終的に徐州(じょしゅう)を領した c:1217。

建安元年、袁術(えんじゅつ)が盱眙・淮陰で劉備(りゅうび)を攻めたが、劉備(りゅうび)はこれを拒いだ。曹操(そうそう)は劉備(りゅうび)を鎮東将軍に表奏し、宜城亭侯に封じた c:1217。劉備(りゅうび)は袁術(えんじゅつ)と一月余り相持したが、呂布(りょふ)が虚に乗じて下邳(かひ)を襲い取り、劉備(りゅうび)の妻子を捕虜にした。劉備(りゅうび)は海西に軍を転じ、後に呂布(りょふ)と和解し、呂布(りょふ)はその妻子を返し、劉備(りゅうび)は関羽(かんう)を遣わして下邳(かひ)を守らせた c:1217。劉備(りゅうび)は小沛(しょうはい)に戻り、再び一万余人を募った。呂布(りょふ)は不満を抱いて劉備(りゅうび)を攻め、劉備(りゅうび)は敗走して曹操(そうそう)のもとに身を寄せた。曹操(そうそう)は劉備(りゅうび)を厚遇し、彼を豫州(よしゅう)牧に任じ、兵糧を資助して、東のかた呂布(りょふ)を撃つよう命じた。呂布(りょふ)は高順(こうじゅん)を遣わして劉備(りゅうび)を攻めさせ、曹操(そうそう)は夏侯惇(かこう とん)を遣わして救援させたが、高順(こうじゅん)に敗れ、劉備(りゅうび)の妻子は再び捕虜となった。曹操(そうそう)は自ら東征し、劉備(りゅうび)とともに下邳(かひ)で呂布(りょふ)を包囲し、呂布(りょふ)を生け捕りにした。劉備(りゅうび)は妻子と再会することができ、曹操(そうそう)に従って許都(きょと)に帰った。曹操(そうそう)は劉備(りゅうび)を左将軍に表奏し、これを甚だ厚く待遇し、出ずるときは輿を同じくし、坐すときは席を同じくした c:1224。

劉備(りゅうび)がまだ許都(きょと)を出ないとき、董承(とうしょう)が献帝の密詔を受けて曹操(そうそう)の誅殺を謀り、劉備(りゅうび)もこれに参与した c:1225。曹操(そうそう)はかつて劉備(りゅうび)に「今、天下の英雄は、ただ使君と操のみ」と言った。劉備(りゅうび)はこれを聞いて、驚いて匕箸を取り落とした c:1225。後に劉備(りゅうび)は下邳(かひ)に拠り、徐州(じょしゅう)刺史の車冑(しゃちゅう)を殺し、関羽(かんう)を残して下邳(かひ)を守らせ、自らは小沛(しょうはい)に戻った c:1226。昌霸ら多くの郡県が曹操(そうそう)に叛いて劉備(りゅうび)に帰附し、衆は数万人に達した。劉備(りゅうび)は孫乾を遣わして袁紹(えんしょう)と連和した。曹操(そうそう)は劉岱(りゅうたい)・王忠を遣わして劉備(りゅうび)を攻めさせたが、勝つことができなかった c:1226。建安五年、曹操(そうそう)が東のかた劉備(りゅうび)を征し、劉備(りゅうび)は敗れ、曹操(そうそう)はその妻子を捕らえ、また関羽(かんう)を擒にした c:1226。

劉備(りゅうび)は袁紹(えんしょう)のもとに身を寄せ、袁紹(えんしょう)父子は心を傾けて敬重した c:1227。後に劉備(りゅうび)は袁紹(えんしょう)を説いて南のかた劉表(りゅう ひょう)と連ねさせ、袁紹(えんしょう)は劉備(りゅうび)を遣わして兵を率いて汝南に至らせ、龔都ら賊と兵を合わせて数千人となった。曹操(そうそう)は蔡陽(さいよう)を遣わして劉備(りゅうび)を攻めさせたが、劉備(りゅうび)に殺された c:1227。曹操(そうそう)が袁紹(えんしょう)を破った後、南下して劉備(りゅうび)を攻めた。劉備(りゅうび)は糜竺(びじく)・孫乾を遣わして劉表(りゅう ひょう)と連絡を取り、劉表(りゅう ひょう)は上賓の礼をもってこれを待遇し、その兵力を増し、新野(しんや)に屯させた。荊州(けいしゅう)の豪傑の多くが劉備(りゅうび)に帰附し、劉表(りゅう ひょう)はその心を疑い、ひそかに防備した c:1231。劉備(りゅうび)はかつて伏兵を設けて夏侯惇(かこう とん)・于禁(うきん)らを撃ち破った c:1231。

建安十二年、曹操(そうそう)が北のかた烏桓征伐(うがんせいばつ)に出ると、劉備(りゅうび)は劉表(りゅう ひょう)に許都(きょと)を襲い取るよう勧めたが、劉表(りゅう ひょう)は採用することができなかった c:1989。曹操(そうそう)が南のかた劉表(りゅう ひょう)を征したが、劉表(りゅう ひょう)は病没し、その子の劉琮(りゅうそう)が継位した後に曹に降った。劉備(りゅうび)は樊城(はんじょう)に屯し、曹操(そうそう)の大軍がすでに至ったことを知らず、宛城(えんじょう)に至ってようやくそれを聞き、そこで衆を率いて南へ撤退した。襄陽(じょうよう)を過ぎる際、諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)に劉琮(りゅうそう)を攻め取るよう勧めたが、劉備(りゅうび)は忍びなかった c:1989。劉備(りゅうび)は南のかた当陽長坂(とうようちょうはん)まで撤退したが、曹操(そうそう)が精騎を率いて追撃し、劉備(りゅうび)は妻子を棄て、諸葛亮(しょかつりょう)・張飛(ちょうひ)・趙雲(ちょううん)ら数十騎とともに逃げ、曹操(そうそう)はその人衆と輜重を大いに獲た c:1233。劉備(りゅうび)は斜めに漢津に趨り、関羽(かんう)の水軍と合流し、後に劉琦(りゅうき)と夏口(かこう)で会師した c:1233。劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)を遣わして孫権(そん けん)と連絡を取り、孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)ら数万の水軍を遣わして劉備(りゅうび)と力を合わせ、赤壁(せきへき)で曹操(そうそう)を大いに破り、その舟船を焼いた c:1233。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の後、劉備(りゅうび)は劉琦(りゅうき)を荊州(けいしゅう)刺史に表し、南のかた四郡を征し、金旋・韓玄(かんげん)・趙範(ちょうはん)・劉度(りゅうど)はみな降った c:1234。劉琦(りゅうき)が病没した後、衆は劉備(りゅうび)を荊州(けいしゅう)牧に推し、公安を治めた。孫権(そん けん)は劉備(りゅうび)にいくらか忌憚があり、妹を劉備(りゅうび)に嫁がせて交好を固めた c:1234。建安十六年、益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅう しょう)は曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)を攻めようとしていると聞き、心に恐れを抱いた。張松(ちょうしょう)は劉璋(りゅう しょう)に劉備(りゅうび)を蜀に迎えて張魯(ちょうろ)を討伐するよう勧めた。劉璋(りゅう しょう)はそこで法正(ほうせい)を遣わして劉備(りゅうび)を迎え、巨億を計る財物をもって賄賂した c:1236。劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)・関羽(かんう)らを残して荊州(けいしゅう)を鎮守させ、歩卒数万人を率いて益州(えきしゅう)に入った。劉璋(りゅう しょう)は自ら迎え、相見えて甚だ歓んだ。劉備(りゅうび)は北のかた葭萌に至ったが、すぐには張魯(ちょうろ)を討伐せず、厚く恩徳を施して人心を買収した c:1236。

翌年、曹操(そうそう)が孫権(そん けん)を征し、孫権(そん けん)は劉備(りゅうび)に救いを求めた。劉備(りゅうび)はこの機に乗じて劉璋(りゅう しょう)に兵力と資財を求めたが、劉璋(りゅう しょう)はただ四千の兵を許し、その余は半減した。張松(ちょうしょう)は劉備(りゅうび)と法正(ほうせい)に書を送り、益州(えきしゅう)を奪取するよう勧めた。張松(ちょうしょう)の兄である張粛(ちょうしゅく)がその謀を告発し、劉璋(りゅう しょう)はそこで張松(ちょうしょう)を斬り、嫌隙はこれより生じた c:1992。劉備(りゅうび)は大いに怒り、劉璋(りゅう しょう)の白水軍督である楊懐(ようかい)を斬殺し、黄忠(こうちゅう)・卓膺(たく よう)を遣わして劉璋(りゅう しょう)を攻めさせた。劉備(りゅうび)は進軍して雒城(らくじょう)を囲攻し、城を攻めること一年近くに及んだ c:1992。建安十九年夏、雒城(らくじょう)が攻め破られ、劉備(りゅうび)は続いて成都(せいと)を囲攻すること数十日、劉璋(りゅう しょう)は出降した c:1237。劉備(りゅうび)はそこで益州(えきしゅう)牧を領し、諸葛亮(しょかつりょう)を丞相、法正(ほうせい)を謀主、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)を爪牙とした c:1237。

建安二十年、孫権(そん けん)は劉備(りゅうび)に荊州(けいしゅう)を返すよう求めた。劉備(りゅうび)は涼州(りょうしゅう)を得た後でなければ荊州(けいしゅう)を返せないと称し、孫権(そん けん)はそこで呂蒙(りょもう)を遣わして長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を襲い奪った。劉備(りゅうび)は兵五万を率いて公安に下り、関羽(かんう)に益陽(えきよう)に入らせた。同年、曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を平定し、張魯(ちょうろ)は遁走した。劉備(りゅうび)は孫権(そん けん)と和解し、荊州(けいしゅう)を分かち、江夏(こうか)・長沙(ちょうさ)・桂陽郡(けいようぐん)は東のかた孫権(そん けん)に属し、南郡(なんぐん)・零陵(れいりょう)・武陵(ぶりょう)は西のかた劉備(りゅうび)に属した。劉備(りゅうび)は軍を引いて江州(こうしゅう)に帰った c:1993。

建安二十四年春、劉備(りゅうび)は陽平より南のかた沔水を渡り、定軍山(ていぐんざん)に営を設けた。黄忠(こうちゅう)は高きに乗じて鼓噪し、夏侯淵(かこう えん)の軍を大いに破り、夏侯淵(かこう えん)を斬殺した。曹操(そうそう)は自ら大軍を率いて南征したが、劉備(りゅうび)は衆を収めて険に拠り、交鋒せず、曹操(そうそう)は久しく攻めても下せず、最終的に軍を引いて撤退し、劉備(りゅうび)はそこで漢中(かんちゅう)を有した c:1994。

章武元年夏四月、劉備(りゅうび)は成都(せいと)の武担の南で帝を称し c:1239、天下に大赦し、改元した。諸葛亮(しょかつりょう)を丞相、許靖(きょせい)を司徒に任じ、百官を設け、宗廟を建て、高皇帝以下歴代の先祖を祭った c:1240。五月、吳氏を皇后に立て、子の劉禅(りゅう ぜん)を皇太子とした。六月、子の劉永(りゅうえい)を魯王、劉理(りゅうり)を梁王に封じた。車騎将軍の張飛(ちょうひ)はその左右に害された c:1240。秋七月、劉備(りゅうび)は関羽(かんう)の仇を報いるため、諸軍を率いて呉を伐ち、孫権(そん けん)は使者を遣わして和を求めたが、劉備(りゅうび)は盛んに怒って許さなかった。呉将の陸議・李異・劉阿らが巫・秭帰に屯し、劉備(りゅうび)は呉班(ごはん)・馮習(ふうしゅう)を遣わして李異らを攻め破り、軍は秭帰に次し、武陵(ぶりょう)の五溪の蛮夷が使者を遣わして兵を請うた c:1240。章武三年春二月、劉備(りゅうび)は病が重くなり、永安(えいあん)宮で丞相の諸葛亮(しょかつりょう)に後事を託し、尚書令の李厳(りげん)を副とした。夏四月癸巳、劉備(りゅうび)は永安(えいあん)宮で崩御した。時に年六十三であった c:1245。

演義の中で(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』による劉備(りゅうび)の造形は、史実を基礎としつつ大量の芸術的脚色を加え、その形象をいっそう豊かで伝奇的な色彩に富むものとしている。

小説は冒頭で劉備(りゅうび)の出自を詳細に描き、その漢室宗親としての身分を強調し、相者の口を借りて「必ず貴人を出さん」と予言させ c:1255、彼の後の帝業に宿命論的な基礎を据えている。史載の「あまり読書を楽しまず」とは異なり、演義では劉備(りゅうび)は年十五歳のとき、母が遊学させ、かつて鄭玄(ていげん)・盧植(ろ しょく)に師事し、公孫瓚(こうそんさん)らと友とした c:1255とされ、彼の早年に名師に教えを受けた経歴を加え、その文化的素養を高めている。

桃園の誓い(とうえんのちかい)は演義における劉備(りゅうび)の形象造形の象徴的な出来事であり、史に明らかな記載はない。小説の中で、劉備(りゅうび)は涿縣(たくけん)の榜文の前で慨然と長嘆し、張飛(ちょうひ)を引き出し、後にまた関羽(かんう)に遇い、三人は一見旧の如く、張飛(ちょうひ)の荘の後ろの桃園で香を焚いて結拝し、「同年同月同日に生まれんことを求めず、ただ同年同月同日に死なんことを願う」と誓った c:1378, c:1260。この筋立ては劉備(りゅうび)と関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の間の兄弟の情義を大いに強化し、また蜀漢(しょくかん)集団の中核的な基礎を据えた。続いて、中山の大商人である張世平・蘇雙が金銀馬匹を資助し、劉備(りゅうび)は良匠に命じて双股の剣を打たせ、関羽(かんう)は青龍偃月刀を造り、張飛(ちょうひ)は丈八点鋼矛を造り、三人はそれぞれ鎧甲を備え、ともに郷勇を集め、鄒靖(すうせい)のもとに投じた c:1260。

黄巾の賊を討伐する初期、演義では劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の三人がたびたび戦功を立てた。例えば、程遠志(ていえんし)と交戦したとき、張飛(ちょうひ)は鄧茂(とうも)を刺し殺し、関羽(かんう)は程遠志(ていえんし)を斬殺した c:1380。青州(せいしゅう)の囲みを解いたとき、劉備(りゅうび)は計略を用い、兵を分けて伏撃し、黄巾の賊を大いに破った c:1381。これらの細部はいずれも劉備(りゅうび)の軍事的才能と仁義の挙を際立たせている。

督郵を鞭打つ筋立ては演義ではいっそう劇的に描かれている。史載では劉備(りゅうび)が「直ちに入りて督郵を縛り、杖二百、綬を解いてその頸に繋ぎ馬枊に着け、官を棄て亡命した」 c:1215とある。演義ではこれを、張飛(ちょうひ)が督郵が劉備(りゅうび)を刁難したことに憤り、これを縛って痛打し、劉備(りゅうび)は仁慈ではあったが、関羽(かんう)の勧めによって、最終的に印綬を督郵の頸に掛けて、官を棄て去った c:1268とする。この改変は、張飛(ちょうひ)の火爆な気性を示すとともに、劉備(りゅうび)の仁義と無念さを際立たせ、また彼が後に「別に遠大の計を図る」ための伏線を据えている。

十八路の諸侯が董卓(とう たく)を討つとき、演義では劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)が公孫瓚(こうそんさん)とともに赴き、虎牢関の前で「三英の呂布との戦い(さんえいのりょふとのたたかい)」を演じた。この筋立ては演義の中で最も古典的な戦闘場面の一つであり、劉備(りゅうび)集団(りゅうびしゅうだん)の声望を大いに高めた c:1270。史載では劉備(りゅうび)はかつて公孫瓚(こうそんさん)とともに袁紹(えんしょう)に抗したことがあるが、「三英の呂布との戦い」の具体的な戦役には言及していない。

陶謙(とうけん)の三度の徐州譲渡は演義における劉備(りゅうび)の「仁義」の形象のもう一つの重要な体現である。小説の中で、陶謙(とうけん)は曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を攻めたことで病が重くなり、再三劉備(りゅうび)に徐州(じょしゅう)を領するよう懇請したが、劉備(りゅうび)は堅く辞退し、「汝らは我を不義に陥れんと欲するか」とまで言った c:1403。最終的に陶謙(とうけん)の苦しい哀求と百姓の擁戴によって、ようやく「権に徐州の事を領した」 c:1277。この筋立ては史載の劉備(りゅうび)が陳登(ちんとう)・孔融(こうゆう)の勧めによって徐州(じょしゅう)を領したのとはいくらか異なり、演義は劉備(りゅうび)の謙譲と民に命を受けたことをいっそう強調している。

主要な関係

* 公孫瓚集団(こうそんさんしゅうだん)(serves):劉備(りゅうび)は高唐が賊に破られた後、かつて公孫瓚(こうそんさん)のもとに身を寄せ、別部司馬に表され、田楷(でんかい)とともに袁紹(えんしょう)に抵抗した。公孫瓚(こうそんさん)もかつて劉備(りゅうび)を平原(へいげん)相に表奏した c:1215, c:1274。演義では、公孫瓚(こうそんさん)は劉備(りゅうび)の初期の重要な支持者であり、かつて兵を借りて劉備(りゅうび)の黄巾討伐を助け、彼を平原(へいげん)相に推薦した c:1270。
* 董承(とうしょう)(friend_of):劉備(りゅうび)はかつて董承(とうしょう)らと曹操(そうそう)の誅殺を密かに謀った c:1225。
* 車冑(しゃちゅう)(enemy_of):劉備(りゅうび)は下邳(かひ)に拠ったとき、徐州(じょしゅう)刺史の車冑(しゃちゅう)を殺した c:1226。
* 夏侯惇(かこう とん)(enemy_of):曹操(そうそう)はかつて夏侯惇(かこう とん)を遣わして呂布(りょふ)に攻められた劉備(りゅうび)を救援させたが、夏侯惇(かこう とん)は高順(こうじゅん)に敗れた c:1224。後に夏侯惇(かこう とん)はまた于禁(うきん)らとともに博望で劉備(りゅうび)の伏兵に撃ち破られた c:1231。
* 関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)(sworn brothers):演義では、劉備(りゅうび)は関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)と桃園の誓い(とうえんのちかい)を結び、情は手足の如く、ともに漢室のために奔走した c:1260(演義独自)。史実では、三人の関係は密接であったが、結義の記載はない。
* 陶謙(とうけん)(benefactor):陶謙(とうけん)は病が重くなると、徐州(じょしゅう)を劉備(りゅうび)に託した c:1217。演義では、陶謙(とうけん)の三度の徐州譲渡が劉備(りゅうび)の仁義を際立たせている c:1403。
* 曹操(そうそう)(rival/temporary ally):劉備(りゅうび)はかつて一時曹操(そうそう)に依附し、曹操(そうそう)はこれを厚遇し、彼を左将軍に表奏した c:1224。しかし両者は最終的に対立に向かい、曹操(そうそう)はかつて「天下の英雄は、ただ使君と操のみ」と言った c:1225。
* 呂布(りょふ)(enemy):呂布(りょふ)はかつて劉備(りゅうび)が袁術(えんじゅつ)と交戦する隙に下邳(かひ)を襲い取り、劉備(りゅうび)の妻子を捕虜にした c:1217。後に劉備(りゅうび)は曹操(そうそう)とともに下邳(かひ)で呂布(りょふ)を包囲し、呂布(りょふ)を生け捕りにした c:1224。
* 袁術(えんじゅつ)(enemy):袁術(えんじゅつ)はかつて袁紹(えんしょう)と隙があり、公孫瓚(こうそんさん)に救援を求め、公孫瓚(こうそんさん)は劉備(りゅうび)を高唐に屯させて袁紹(えんしょう)を逼らせた c:1205。後に袁術(えんじゅつ)は盱眙・淮陰で劉備(りゅうび)を攻めた c:1217。
* 袁紹(えんしょう)(temporary ally/enemy):劉備(りゅうび)はかつて袁紹(えんしょう)のもとに身を寄せ、袁紹(えんしょう)父子は心を傾けて敬重した c:1227。後に劉備(りゅうび)は袁紹(えんしょう)を説いて南のかた劉表(りゅう ひょう)と連ねさせ、兵を率いて汝南に至った c:1227。
* 孫権(そん けん)(ally/rival):赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の際、劉備(りゅうび)は孫権(そん けん)と手を結んで曹操(そうそう)を大いに破った c:1233。後に孫権(そん けん)はかつて劉備(りゅうび)に荊州(けいしゅう)を返すよう求め、呂蒙(りょもう)を遣わして三郡を襲い奪い、両者の関係は盟友から対手に転じた c:1993。
* 劉璋(りゅう しょう)(enemy):劉璋(りゅう しょう)はかつて劉備(りゅうび)を益州(えきしゅう)に迎えて張魯(ちょうろ)に抗させたが、後に張松(ちょうしょう)の密告によって、両者は反目し、劉備(りゅうび)は最終的に益州(えきしゅう)を奪取した c:1992, c:1237。

象徴的な場面

* 桃園の誓い(とうえんのちかい):劉備(りゅうび)が関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)と桃園で異姓の兄弟となり、生死の誓いを立て、蜀漢(しょくかん)集団の基礎を据えた c:1260(演義独自)。
* 督郵を鞭打つ:劉備(りゅうび)が督郵の賄賂の要求に不満を抱き、怒って督郵を鞭打ち、官を棄て去り、その強権を畏れず仁義耿直な性格を示した c:1215, c:1268。
* 三英の呂布との戦い(さんえいのりょふとのたたかい):虎牢関の前で、劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の三人が力を合わせて呂布(りょふ)と大いに戦い、劉備(りゅうび)集団(りゅうびしゅうだん)の武勇と団結を顕した c:1270(演義独自)。
* 陶謙(とうけん)の三度の徐州譲渡:陶謙(とうけん)が病が重くなると、再三徐州(じょしゅう)を劉備(りゅうび)に譲ったが、劉備(りゅうび)は堅く辞退し、最終的に百姓の擁戴によってようやく「権に領し」、その仁徳と謙遜を際立たせた c:1403, c:1277。
* 青州(せいしゅう)の囲み解き:劉備(りゅうび)が兵を率いて青州(せいしゅう)の囲みを解き、伏兵の計を用いて黄巾の賊を大いに破り、その軍事的才能を示した c:1381(演義独自)。
* 酒を煮て英雄を論ず:曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)が青梅で酒を煮、曹操(そうそう)が「天下の英雄は、ただ使君と操のみ」と言い、劉備(りゅうび)はこれを聞いて匕箸を取り落とし、その深く蔵して露さぬ政治的知恵と曹操(そうそう)への警戒を表した c:1225(演義独自、史載に類似の対話はあるが酒を煮る細部はない)。
* 長坂(ちょうはん)で妻子を棄てる:曹操(そうそう)が劉備(りゅうび)を長坂(ちょうはん)まで追撃し、劉備(りゅうび)は妻子を棄てて走り、後に趙雲(ちょううん)が単騎で主を救い、劉備(りゅうび)の危難の際の決断と趙雲(ちょううん)の忠勇を示した c:1233(演義では趙雲(ちょううん)の単騎救主の筋立てがいっそう詳細である)。
* 赤壁の戦い(せきへきのたたかい):劉備(りゅうび)が孫権(そん けん)と手を結び、赤壁(せきへき)で曹操(そうそう)を大いに破り、三国(さんごく)鼎立の基礎を据えた c:1233。
* 蜀に入り益州(えきしゅう)を奪う:劉備(りゅうび)が劉璋(りゅう しょう)の招きによって蜀に入り、後に劉璋(りゅう しょう)と反目し、最終的に益州(えきしゅう)を奪取し、蜀漢(しょくかん)政権を建てる基礎を据えた c:1236, c:1237。
* 夷陵の戦い(いりょうのたたかい):劉備(りゅうび)が関羽(かんう)の仇を報いるため、大軍を率いて呉を伐ち、最終的に夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で大敗し、元気を大いに損なった c:1240。
* 白帝城(はくていじょう)の託孤:劉備(りゅうび)が永安(えいあん)宮で病が重くなり、後主劉禅(りゅう ぜん)を諸葛亮(しょかつりょう)に託孤し、遺詔を残して、諸葛亮(しょかつりょう)に劉禅(りゅう ぜん)の輔佐を嘱した c:1245。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
身の丈七尺五寸、両耳は肩まで垂れ、両手は膝を過ぎ、目はみずからその耳を見ることができ、顔は冠玉のごとく、唇は脂を塗ったようであった。
性格
劉備(りゅうび)は口数が少なく、よく人にへりくだり、喜怒を顔に出さず、豪侠と交わることを好み、弘毅にして寛厚、人を見分けて士を遇した [c:28]。彼は義を重んじ礼を守り、信義を第一とし、しかも謙譲してみずからを抑えた [c:31, c:32]。苦境に直面したときには、深く沈んで忍ぶことができ、機に応じて変化し、仁義をもってみずからの旗印とした [c:35, c:48]。
話し方
劉備の言葉は簡素で抑制が利き、しばしば「吾は忍びざるなり」「吾いかで捨て去るに忍びんや」とみずから述べた [c:187]。彼は宗室たる身分と忠義の大義を引いて言葉とするのに巧みで、言葉のうちにみずからを抑えて沈着であり、その思いを「志」に託した [c:189]。
生涯
劉備は漢の景帝の子、中山靖王の後裔であり、幼くして父を失い母とともに履を売り筵を織ることを生業とし、十五歳のとき母の命に従って学問に就き盧植(ろ しょく)に師事した [c:58, c:60]。彼は黄巾討伐から身を起こし、安喜尉・平原(へいげん)相を歴任し、後に公孫瓚(こうそんさん)・陶謙(とうけん)・曹操(そうそう)・袁紹(えんしょう)・劉表(りゅう ひょう)に身を寄せ、赤壁(せきへき)の後に荊州(けいしゅう)を占拠し、益州(えきしゅう)に入って蜀を取った [c:58]。建安二十四年にみずから漢中(かんちゅう)王に立ち、章武元年に成都(せいと)で帝位に即き、章武三年に永安(えいあん)宮で崩じた。享年六十三 [c:58, c:65]。
武器
劉備の武器は双股剣である [c:1, c:2, c:3, c:4, c:5]。
逸話
劉備はみずからを漢の景帝の後裔と称し、群臣に推戴されて、まず漢中(かんちゅう)王となり後に帝位に即いた [c:6]。彼はかつて幾つもの功を続けて立て、朱儁の副将として張宝(ちょうほう)を討ち、宛城(えんじょう)の役では孫仲を射殺し、漁陽では張純の鋭気を挫いたが、わずかに安喜県尉を得たにすぎなかった [c:9]。彼はかつて豫州(よしゅう)牧となり、後に蜀漢(しょくかん)の開国の君、蜀漢の昭烈皇帝となった [c:125, c:84, c:88]。

人間関係

267 件の関係

名言

全 654 件の台詞 · 厳選 3 件

「古人云:『兄弟如手足,妻子如衣服。衣服破,尚可縫;手足斷,安可續?』吾三人桃園結義,不求同生,但願同死。今雖失了城池家小,安忍教兄弟中道而亡?況城池本非吾有;家眷雖被陷,呂布必不謀害,尚可設計救之。賢弟一時之誤,何至遽欲捐生耶!」

演 第15回

この言葉は、劉備(りゅうび)が情義を重んじ身の安泰を軽んじるという中心的な価値観を示し、広く伝わっている。

「為汝這孺子,幾損我一員大將!」

演 第42回→ 趙雲(ちょううん)🗓 東興の戦い(とうこうのたたかい)

この一句は、劉備(りゅうび)が民を我が子のように愛し人材を重んじることの典型的な表れであり、その仁君としての人物像を形づくっている。

君才十倍曹丕,必能安邦定國,終定大事。若嗣子可輔,則輔之;如其不才,君可自為成都之主。

演 第85回→ 諸葛亮(しょかつりょう)

白帝城(はくていじょう)での託孤は、劉備(りゅうび)の諸葛亮(しょかつりょう)への信頼と君臣の情を示し、影響は深く大きい。

登場回101 回 ▸
  • 史ch.1ch.6ch.7ch.9ch.11ch.14ch.17ch.18ch.22ch.23ch.26ch.31ch.32ch.33ch.34ch.35ch.36ch.37ch.38ch.39ch.40ch.41ch.42ch.43ch.45ch.47ch.49ch.51ch.56ch.58ch.61
  • 演ch.1ch.2ch.5ch.6ch.7ch.11ch.12ch.13ch.14ch.15ch.16ch.17ch.18ch.19ch.20ch.21ch.22ch.24ch.25ch.26ch.27ch.28ch.31ch.32ch.33ch.34ch.35ch.36ch.37ch.38ch.39ch.40ch.41ch.42ch.45ch.48ch.49ch.51ch.52ch.53ch.54ch.55ch.56ch.57ch.58ch.60ch.61ch.62ch.63ch.64ch.65ch.66ch.67ch.69ch.70ch.71ch.72ch.73ch.74ch.77ch.78ch.79ch.80ch.81ch.82ch.83ch.84ch.85ch.96ch.103
関係の年表132 条 ▸

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  • advises_in

    玄德以"明公只听一面之词"自辩;又以"曹操借公之手以杀刘备"之论再脱险

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  • 劉闢§18

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    已住汝南会合刘辟

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  • friend_of

    司马徽特来探备,备请入后堂高坐、问诸葛亮其人若何

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    路旁酒店中相遇,同饮人之一;备欲请同往卧龙庄上一谈,广元辞之

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    掩面大哭、搥胸頓足放聲大哭;又拱手稱謝「此皆子敬善言之力」

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内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 朕はいま永安(えいあん)に臥し、病状は日ごとに深まっている。だが、朕が思い煩うのは、わが身の生死だけではない。かつて先帝に従って創業し、苦難の中を奔走したことを思い起こす。幸いにも諸葛亮(しょかつりょう)の補佐を得て、ようやく二川の地を手に
  • 私は常々思う。天下は分裂し、戦乱が日ごとに続いている。今日この機を逃しても、明日には事に応じる機会がないとは限らない。かつて曹操(そうそう)が烏桓征伐(うがんせいばつ)に赴いたとき、私は劉景升(りゅうけいしょう)に、機に乗じて許を襲うよう勧
  • かつて涿郡(たくぐん)で若かったころ、家は貧しかったが、志を自ら卑しめようとは思わなかった。私はむしろを織り、わらじを編み、宗室の名をしばしば思ったが、それを頼みに栄達を求めたのではない。ただ乱世にあって、民のために力を尽くそうとする者が、
生涯の大事84 ▸
  1. 桃園の誓い(とうえんのちかい)· 首謀者
  2. 0190-01-01 · 虎牢關
    三英の呂布との戦い(さんえいのりょふとのたたかい)· 武将
  3. 反董卓連合軍の討伐(はんとうたくれんごうぐんのとうばつ)· 武将
  4. 0190-01-01 · 汜水關
    汜水関の戦い(しすいかんのたたかい)· 総大将
  5. 界橋の戦い(かいきょうのたたかい)· 武将
  6. 曹操の徐州征討(そうそうのじょしゅうせいとう)· 総大将
  7. 劉備の徐州領有(りゅうびのじょしゅうりょうゆう)· 総大将
  8. 北海の囲み解除(ほっかいのかこみかいじょ)· 総大将
  9. 曹操の陶謙征討(そうそうのとうけんせいとう)· 武将
  10. 曹操の徐州攻め(そうそうのじょしゅうぜめ)· 武将
  11. 陶謙(とうけん)の三度の徐州譲渡· 目撃者
  12. 陶謙(とうけん)の徐州譲渡· 目撃者
  13. 0195-01-01 · 都昌
    太史慈の都昌脱出援軍要請(たいしじのとしょうだっしゅつえんぐんようせい)· 総大将
  14. 二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)· 被害者
  15. 呂布の徐州奪取(りょふのじょしゅうだっしゅ)· 被害者
  16. 轅門射戟(えんもんしゃき)· 被害者
  17. 呂布の小沛襲撃(りょふのしょうはいしゅうげき)· 総大将
  18. 0198-01-01 · 下邳(かひ)
    下邳の戦い(かひのたたかい)· 目撃者
  19. 帝、劉備を皇叔と認める(てい、りゅうびをこうしゅくとみとめる)
  20. 曹操の袁術討伐(そうそうのえんじゅつとうばつ)· 武将
  21. 劉備の袁術撃破・徐州にて(りゅうびのえんじゅつげきは・じょしゅうにて)· 総大将
  22. 0199-01-01 · 下邳(かひ)
    白門楼の審問(はくもんろうのしんもん)· 軍師
  23. 0199-01-01 · 江亭
    袁術の敗亡(えんじゅつのはいぼう)· 総大将
  24. 青梅煮酒論英雄(せいばいしゅしゅろんえいゆう)· 目撃者
  25. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    関羽の曹操への降伏(かんうのそうそうへのこうふく)· 目撃者
  26. 0200-01-01 · 古城
    古城の再会(こじょうのさいかい)· 総大将
  27. 衣帯の詔(いたいのみことのり)· 首謀者
  28. 劉備の荊州依附(りゅうびのけいしゅういふ)· 総大将
  29. 0201-01-01 · 穰山
    穰山の戦い(じょうざんのたたかい)· 総大将
  30. 0206-01-01 · 檀溪
    躍馬檀渓(やくばたんけい)· 被害者
  31. 三顧の礼(さんこのれい)· 総大将
  32. 0207-01-01 · 新野(しんや)
    単福の八門金鎖の陣破り(たんふくのはちもんきんさのじんやぶり)· 総大将
  33. 0207-01-01 · 新野(しんや)
    徐庶、劉備に仕える(じょしょ、りゅうびにつかえる)· 総大将
  34. 博望坡の戦い(はくぼうはのたたかい)· 総大将
  35. 走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ)· 目撃者
  36. 劉備の荊南四郡占領(りゅうびのけいなんしぐんせんりょう)· 総大将
  37. 劉備の民を率いての江渡り(りゅうびのたみをひきいてのえわたり)· 総大将
  38. 劉表の廃立争い(りゅうひょうのはいりつあらそい)· 軍師
  39. 曹操の荊州南征(そうそうのけいしゅうなんせい)· 総大将
  40. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 総大将
  41. 0208-01-01 · 新野(しんや)
    新野の戦い(しんやのたたかい)· 総大将
  42. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
  43. 長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)· 総大将
  44. 魯肅當陽會劉備· 総大将
  45. 関羽と黄忠の戦い・長沙の攻略(かんうとこうちゅうのたたかい・ちょうさのこうりゃく)· 総大将
  46. 劉備の呉入り(りゅうびのごいり)· 総大将
  47. 0209-01-01 · 劉郎浦
    劉備の呉脱出(りゅうびのごだっしゅつ)· 総大将
  48. 孔明の三錦嚢の計(こうめいのさんきんのうのけい)· 目撃者
  49. 趙雲(ちょううん)の桂陽攻略· 目撃者
  50. 魏延殺韓玄歸降· 総大将
  51. 荊州の借用(けいしゅうのしゃくよう)· 首謀者
  52. 周瑜の假途滅虢(しゅうゆのかとめっかく)· 総大将
  53. 龐統の蜀帰参と将軍任命(ほうとうのしょくきさんとしょうぐんにんめい)· 総大将
  54. 魯肅討荊州· 総大将
  55. 0211-01-01 · 成都(せいと)
    張松の地図献上と蜀謀略(ちょうしょうのちずけんじょうとしょくぼうりゃく)· 総大将
  56. 劉備の入蜀(りゅうびのにゅうしょく)· 総大将
  57. 龐統の上中下三計の献策(ほうとうのじょうちゅうかさんけいのけんさく)· 総大将
  58. 涪城の会見(ふじょうのかいけん)· 首謀者
  59. 0212-01-01 · 涪水關
    涪水関での楊高斬殺(ふすいかんでのようこうざんさつ)· 首謀者
  60. 劉備の入蜀(りゅうびのにゅうしょく)· 総大将
  61. 雒城の戦い(らくじょうのたたかい)· 総大将
  62. 0214-01-01 · 成都(せいと)
    劉璋の降伏(りゅうしょうのこうふく)· 総大将
  63. 0214-01-01 · 成都(せいと)
    劉璋の成都開城(りゅうしょうのせいとかいじょう)· 総大将
  64. 龐統の雒城での流矢による戦死(ほうとうのらくじょうでのながれやによるせんし)· 総大将
  65. 0214-01-01 · 成都(せいと)
    簡雍による劉璋の説得降伏(かんようによるりゅうしょうのせっとくこうふく)· 総大将
  66. 0214-01-01 · 落鳳坡
    落鳳坡の戦い(らくほうはのたたかい)· 総大将
  67. 0214-01-01 · 落鳳坡
    落鳳坡における龐統の戦死(らくほうはにおけるほうとうのせんし)· 総大将
  68. 金雁橋(きんがんきょう)での張任捕縛· 総大将
  69. 馬超降劉備· 首謀者
  70. 孫呉の荊州三郡奪取(そんごのけいしゅうさんぐんだっしゅ)· 総大将
  71. 0218-01-01 · 成都(せいと)
    彭羕の事件(ほうようのじけん)· 首謀者
  72. 劉備の漢中王即位(りゅうびのかんちゅうおうそくい)· 首謀者
  73. 劉備の漢中王進位(りゅうびのかんちゅうおうしんい)· 首謀者
  74. 定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)· 総大将
  75. 漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)· 総大将
  76. 漢水の戦い(かんすいのたたかい)· 総大将
  77. 魏延拔漢中太守· 首謀者
  78. 孟達の魏への降伏と劉封の賜死(もうたつのぎへのこうふくとりゅうほうのしさ)· 首謀者
  79. 0221-01-01 · 成都(せいと)
    劉備の即位(りゅうびのそくい)· 首謀者
  80. 0221-01-01 · 武擔山
    劉備の称帝(りゅうびのしょうてい)· 首謀者
  81. 張飛の暗殺(ちょうひのあんさつ)· 目撃者
  82. 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)· 総大将
  83. 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)· 総大将
  84. 白帝城の托孤(はくていじょうのたくこ)· 首謀者