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曹仁(そうじん)

曹魏(そうぎ) · 大司马

曹仁(そうじん)

字 子孝

登場回
36
台詞の記録
25
人間関係
30
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

曹仁(そうじん)、字は子孝、曹操(そうそう)の従弟である。若い頃は行いが細事にこだわらなかったが、将帥となってからは厳正に法を奉じることで知られ、常に法令を身近に置き、それに従って行動した c:5516。建安十三年(208年)、曹操が荊州(けいしゅう)を征した後、大軍が凱旋すると、曹仁は征南将軍として江陵(こうりょう)に駐留し、呉の将である周瑜(しゅうゆ)の攻撃を防いだ c:2099。当時、周瑜は数万の大軍を率いて攻め寄せ、その先鋒数千人が到着したばかりのとき、曹仁は城に登って観察し、三百人を募って部曲将の牛金(ぎゅうきん)を遣わして迎え撃たせた。牛金が包囲されると、城上の者は皆顔色を失ったが、ただ曹仁だけは意気盛んで、長史の陳矯(ちんきょう)らの制止を顧みず、自ら甲を着けて馬に乗り、数十騎を率いて敵陣に突入し、牛金を救い出した。続いて再び突入し、残りの包囲された将士をも救い出した。この行いに三軍の将士は皆その勇猛さに感服し、陳矯はこれを「将軍はまことに天人なり」と讃えた c:2099。

その後、曹仁の軍事的経歴は次々と功績を重ねた。曹操が馬超(ばちょう)を討伐した際、曹仁は行安西将軍として諸将を督して潼関(どうかん)を守り、渭南で馬超を撃破することに成功した c:2100。また行驍騎将軍として七軍を都督し、蘇伯・田銀らの叛乱を討伐してこれを撃破した c:2100。曹仁は再び征南将軍に任じられ、節を仮されて樊城(はんじょう)を鎮守し、荊州の防衛を担った。侯音(こうおん)が宛城(えんじょう)で叛乱を起こすと、曹仁は軍を率いてこれを攻め破り、侯音を斬った。関羽(かんう)が樊城を包囲した際、漢水(かんすい)が氾濫し、于禁(うきん)ら七軍が水没して于禁は降伏した。樊城は包囲され、城壁は水没を免れた部分が数板を残すのみとなり、食糧は尽きかけ、援軍は到着しなかった。曹仁は将士を激励し、必死の決意を示すと、将士たちは皆感服した。最終的に徐晃(じょこう)が援軍を率いて到着し、水勢も次第に退き、徐晃が外周から関羽を撃退して、曹仁は囲みを破って脱出することができた c:2100。

黄初元年(220年)、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、曹仁を車騎将軍に任じ、荊・揚・益州(えきしゅう)の諸軍事を都督させ、陳侯に進封し、邑二千戸を増し、前と合わせて三千五百戸とした。その父の曹熾は陳穆侯と追諡された。曹仁はその後召還されて宛城に駐屯した。孫権(そん けん)が将の陳邵を遣わして襄陽(じょうよう)を占拠させると、曹仁は詔を奉じて徐晃とともに陳邵を攻め破り、襄陽を奪回し、漢南の百姓を漢北に移した。文帝は直ちに曹仁を大将軍に任じた。後にまた詔して曹仁を臨潁に移し屯させ、大司馬に遷し、再び諸軍を督して烏江を守らせ、最終的に合肥(がっぴ/ごうひ)に還屯した。黄初四年(223年)、曹仁は死去し、享年五十六、諡を忠侯とした c:5516。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、曹仁の人物像はさらに勇猛果敢で忠誠心篤い曹魏(そうぎ)の大将として描かれるが、時にはいくぶん向こう見ずで頑固な面も見せる。彼は第五回で初登場し、曹洪(そうこう)とともに兵を率いて曹操の董卓(とう たく)討伐を助け、「兵馬に熟達し、武芸に精通する」と描写される c:2102。董卓討伐の初期、曹操は諸侯が動かないことに激怒し、曹仁は夏侯惇(かこう とん)・夏侯淵(かこう えん)らとともに曹操に従って夜を徹して董卓を追撃した c:2103。

演義の中で、曹仁は幾度も重要な戦役で重要な役割を演じる。曹操が呂布(りょふ)と兗州(えんしゅう)を争った際、曹仁は度々戦って勝てず、曹操に急を告げ、曹操はやむなく軍を返して救援することになった c:2104。官渡の戦い(かんとのたたかい)の期間、曹仁は大軍を総督して官渡(かんと)に駐屯し、重要な防御の任を担った c:5522。

史実と異なる点として、演義では曹仁と劉備(りゅうび)が幾度も交戦する筋立てが加えられている。例えば第三十五回では、曹仁は李典(りてん)とともに命を受けて樊城に駐屯し、荊襄を虎視眈々と狙う。呂曠・呂翔が出撃を願い出て劉備を攻めるが、かえって劉備に敗れる。曹仁は李典の「軍を動かさず、丞相に報告すべし」との進言を聞かず、あくまで二将の仇を討とうとし、あまつさえ李典を斬ろうとして、その剛愎自用な一面を露わにする c:11126。彼は自ら軍を率いて新野(しんや)を攻めるが、諸葛亮(しょかつりょう)の火攻めの計にかかり、甚大な損害を被る c:5525。長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)の後、曹操は華容道(かようどう)で敗れ、最終的に谷口で曹仁の軍と合流して、ようやく安堵する c:2106。

演義はまた、南郡(なんぐん)における曹仁と周瑜の交戦を重点的に描く。第五十一回では、曹仁は牛金を遣わして出撃させるが、牛金は包囲される。曹仁は危険を顧みず、自ら甲を着けて馬に乗り、数百の壮士を率いて呉軍の陣中に突入し、牛金を救い出し、再び突入して包囲された将士を救い出し、最終的に呉軍を撃退する。この筋立ては史実に記された江陵の戦い(こうりょうのたたかい)と高度に一致しており、その勇猛さをさらに強調している c:2107。しかし、周瑜の計略のもとで、曹仁は最終的に南郡を捨てて退かざるを得なくなるが、周瑜は追撃の中で曹仁の伏兵の矢に射られ、血を吐いて落馬する c:2108, c:11142。

曹操と馬超の潼関の戦い(とんかんのたたかい)では、曹仁はまず寨柵を構えてから関を攻めるよう進言したが、曹操は完全には採用しなかった。後に曹仁は夏侯淵と左右の寨を分けて守り、ともに西涼軍(せいりょうぐん)を防いだ c:11144。演義はまた、曹仁が許都(きょと)で曹操に拝謁を求めた際に許褚(きょちょ)に阻まれる場面を描き、曹操はこれにより許褚を「まことの忠臣なり」と讃え、宗親の将帥としての曹仁の地位を側面から映し出している c:11145。

主要な関係

* 曹魏:曹仁は曹魏政権の股肱の臣であり、長らく曹操とその子曹丕に仕え、官は大司馬に至り、忠誠心篤く、戦功も卓越していた c:5516。
* 曹操:曹仁は曹操の従弟であり、曹操の信任と重用を深く受けた。曹操はかつてその者を「将軍はまことに天人なり」と評した c:2099。演義では、曹操は幾度も重任を委ね、許都や樊城などの鎮守を任せた c:5520, c:5523。
* 周瑜:曹仁と周瑜は江陵(南郡)で幾度も激しく交戦した。史実では曹仁は周瑜の攻撃を見事に防ぎ、その並外れた胆識と武勇を示した c:2099。演義では、周瑜はかつて計略で曹仁に重傷を負わせたが、曹仁もまた伏兵を設けて周瑜を射傷した c:2108, c:11142。
* 鄭甘:曹仁はかつて命を受けて叛乱した鄭甘を討伐し、これを斬殺した c:5515。
* 劉備:演義では、曹仁は幾度も劉備と交戦し、新野の戦いでは李典の忠告を聞かず軽率に劉備を攻め、結果として諸葛亮の火攻めに大敗した c:11126, c:5525(演義独自)。
* 関羽:曹仁は樊城で関羽に包囲され、水攻めで七軍を失ったが、堅く守って降らず、最終的に援軍を待って囲みを破った c:2100。演義では、関羽はかつて曹仁を破り、その者を樊城へ退かせた c:2111。
* 李典:演義では、李典は幾度も曹仁の副将として、しばしば穏当な進言を行うが、曹仁が時にこれを聞かず、戦事の失敗を招いた c:11126, c:11130, c:11132(演義独自)。
* 牛金:曹仁の部曲将で、江陵の戦いで包囲されたが、曹仁が自ら敵陣に突入してこれを救い出した c:2099。演義でもこの場面が再現されている c:2107。

象徴的な場面

* 江陵で囲みを破り牛金を救う:曹仁が江陵で周瑜に包囲された際、その部将の牛金は数千の呉軍に包囲された。曹仁は人々の制止を顧みず、自ら甲を着けて馬に乗り、数十騎を率いて敵陣に突入し、二度突撃して、牛金とその部衆を見事に救い出し、三軍にその勇猛さを感服させ、「将軍はまことに天人なり」と讃えられた c:2099。演義でもこの場面を詳細に描き、その英勇無畏ぶりをさらに強調している c:2107。
* 樊城の堅守:関羽が樊城を包囲し、水攻めで七軍を破り、于禁は降伏した。樊城の城壁は大半が水没し、食糧は尽きかけ、援軍は到着しなかった。曹仁は将士を激励し、必死の決意を示し、堅く守って退かず、最終的に徐晃の援軍を待って、見事に囲みを解いた c:2100。この出来事は曹仁の堅忍不抜の意志と卓越した守城能力を十分に示している。
* 新野の火攻めに大敗:『三国演義』では、曹仁は李典の忠告を聞かず、あくまで劉備の守る新野を攻めようとした。結果として諸葛亮の火攻めの計にかかり、甚大な損害を被って、ほうほうの体で逃げた c:5525, c:11135, c:11136(演義独自)。この場面は曹仁が時に向こう見ずで諫言を聞かない性格的特徴を際立たせ、また諸葛亮の神算鬼謀を引き立てている。
* 南郡で矢を受ける:『三国演義』では、曹仁は南郡で周瑜と交戦した際、伏兵を設け、周瑜は追撃の中で曹仁の伏兵の矢に左肋を射られ、血を吐いて落馬し、呉軍は一時窮地に陥った c:2108, c:11142(演義独自)。この筋立ては曹仁の智謀を示すとともに、周瑜の病死の伏線ともなっている。

肖像アーカイブ

人物像

性格
曹仁(そうじん)は兵馬に習熟し、武芸に精通していたが、時に短気で勝ち気であり、疑い深くまた自負が強く、甚だしくは「二心を抱いている」と部下を責め立てることもあった。彼は幼い頃は放埒で束縛を嫌ったが、成長すると軍を厳正に治め法を奉じた。
話し方
曹仁(そうじん)の言葉の風格はしばしば怒罵と剛愎として表れ、たとえば他人に「臆したか」あるいは「二心を抱いているのか」と詰問し、また疑い深いことは用兵に不利であると考えた。
生涯
曹仁(そうじん)は若い頃から弓馬や狩猟を好み、豪傑が並び起こった時に少年らを集めて千余人を得て、淮水・泗水の間を転戦した。彼は曹操(そうそう)に従って征戦し、たびたび戦功を立て、かつて征南将軍・車騎将軍・大将軍を務め、最終的に大司馬に遷った。黄初四年三月丁未に薨じ、諡して忠侯といった。
逸話
曹仁(そうじん)は曹操(そうそう)の従弟で、曹魏(そうぎ)の宗室の大将であり、かつて江陵(こうりょう)で牛金(ぎゅうきん)を救った際の勇敢さによって文帝(ぶんてい)から称賛された。彼はたびたび単独で兵を率い、樊城(はんじょう)で関羽(かんう)に包囲された時には将兵を励まして城を固守した。

人間関係

30 件の関係

名言

全 25 件の台詞 · 厳選 3 件

「識吾陣否?」

演 第36回

この一句は曹仁(そうじん)の軍事的才能を示すもので、八門金鎖の陣を敷く際の名高い問いである。

「吾受魏王命,保守此城;但有言棄城而去者斬!」

演 第74回

この一句は曹仁(そうじん)の忠勇で堅毅な性格と、死を賭して城を守る決意を体現している。

「吾乃曹氏宗族,汝何敢阻當耶﹖」

演 第66回→ 許褚(きょちょ)

この一句は曹仁(そうじん)の宗室たる身分を強調し、曹魏(そうぎ)集団における彼の地位を体現している。

登場回36 回 ▸
  • 史ch.2ch.9ch.17ch.18ch.22ch.23ch.26ch.32ch.36ch.56ch.57
  • 演ch.5ch.6ch.11ch.12ch.14ch.17ch.19ch.22ch.29ch.31ch.35ch.36ch.40ch.41ch.42ch.50ch.51ch.58ch.66ch.73ch.74ch.75ch.76ch.84ch.85
関係の年表16 条 ▸

史 ch.9

史 ch.32

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.11

演 ch.29

演 ch.50

演 ch.51

演 ch.58

  • advises_in

    谏"洪性躁,誠恐誤事";后押粮接应;潼关下据左寨;死据寨柵

演 ch.73

演 ch.75

演 ch.76

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は曹仁(そうじん)、字は子孝(しこう)という。黄初四年、病状が次第に重くなり、これまでの生涯を振り返ると、最も忘れてはならないのは、やはり「将たること」の二字である。若い頃は身を慎むことを知らず、成長して軍を率いるようになると、法令を常に
  • 私は曹仁(そうじん)、字は子孝という。軍中では、樊を守って関羽(かんう)を防いだこと、また、かつて江陵(こうりょう)で周瑜(しゅうゆ)を迎え撃ったことが語り継がれている。江陵の城壁にいた昔を思い起こす。呉軍の先鋒が到着したばかりのころ、牛金
  • 私は曹仁(そうじん)、字は子孝である。若き日のことを思い返すと、家門が経験したこと、郷里で耳にしたことは、乱世がまもなく訪れるのではないかと思わせ、ただ安穏に暮らして満足するわけにはいかなかった。兵乱が収まらぬなか、世に志を立てるなら、軍旅
生涯の大事14 ▸
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