言語
周

劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん) · 师友从事

周羣(しゅうぐん)

登場回
1
台詞の記録
1
人間関係
1
内面の独白
1

史載(Historical Record)

周羣(しゅうぐん)は、字を仲直といい、本籍は巴西閬中(ろうちゅう)である。その父・周舒は、字を叔布といい、若くして広漢の楊厚に師事し、学問の造詣は董扶・任安と並び称された。周舒は幾度も徴召されたが、終始命に応じて出仕しなかった。当時、ある人が彼に『春秋讖』の「漢に代わる者は当塗高」という予言の意味を尋ねると、周舒は「当塗高なる者は、魏なり」と解釈した。郷里の学者は私かにその言論を伝え誦んだ。周羣(しゅうぐん)は幼い頃から父・周舒に従って学び、占候の術に専念した c:4988。

周羣(しゅうぐん)は家の庭に小楼を建て、家が裕福で奴僕が多かったため、奴僕を交代で楼上に上らせて天象を観測させた。奴僕がわずかな気象の変化を見つけるたびに、すぐに周羣(しゅうぐん)に告げ、周羣(しゅうぐん)はただちに自ら楼に上って観測し、昼夜を分かたなかった。それゆえ気象の異変があれば、彼はみな速やかに察知でき、その予言も多く的中した。益州(えきしゅう)牧・劉璋(りゅう しょう)はかつて周羣(しゅうぐん)を師友従事に辟召した c:4988。

『続漢書』の記載によれば、建安七年(二〇二年)、越巂の地である男子が女子に化したことがあり、周羣(しゅうぐん)はこれが漢の哀帝の時期に同様の事が起こったことと同じく、王朝の交代の兆しを予示すると考えた。建安二十五年(二二〇年)に至り、漢の献帝は果たして山陽に封じられた。建安十二年(二〇七年)十月、彗星が鶉尾の星宿に現れた。これは荊州(けいしゅう)の分野である。周羣(しゅうぐん)はこれにより、荊州(けいしゅう)牧が亡くなりその地を失うと予言した。翌年の秋、劉表(りゅう ひょう)が死去し、曹操(そうそう)がただちに荊州(けいしゅう)を平定した。建安十七年(二一二年)十二月、彗星が五諸侯の星宿に現れ、周羣(しゅうぐん)は西方に割拠して土地を占める諸侯がみなその地を失うと予言した。当時、劉璋(りゅう しょう)は益州(えきしゅう)を、張魯(ちょうろ)は漢中(かんちゅう)を、韓遂(かんすい)は涼州(りょうしゅう)を、宋建は枹罕を占めていた。翌年の冬、曹操(そうそう)は偏将を遣わして涼州(りょうしゅう)を攻めた。建安十九年(二一四年)、宋建が擒えられ、韓遂(かんすい)は羌中に逃げ込んだ後に殺された。同年の秋、劉璋(りゅう しょう)は益州(えきしゅう)を失った。建安二十年(二一五年)秋、曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を攻め、張魯(ちょうろ)が降伏した c:4988。

先主・劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を平定した後、周羣(しゅうぐん)を儒林校尉に任じた c:4988。後に、先主・劉備(りゅうび)が曹操(そうそう)と漢中(かんちゅう)を争おうとした際、かつて周羣(しゅうぐん)に諮った。周羣(しゅうぐん)は答えて言った。「その地は得られましょうが、その民は得られますまい。もし偏軍を出せば、必ず不利となりましょう。慎まれよ」。当時、州の後部司馬で蜀郡の人・張裕もまた占候の術に精通し、天賦に恵まれており、彼もまた先主・劉備(りゅうび)を諫めた。「漢中(かんちゅう)を争うべからず、軍は必ず不利とならん」。しかし、先主・劉備(りゅうび)は最終的に周羣(しゅうぐん)と張裕の進言を採らず、その結果は彼らの言ったとおり、漢中(かんちゅう)の地を得たものの、その地の百姓の支持を得ることはできなかった。劉備(りゅうび)は将軍・吳蘭・雷銅(らいどう)らを遣わして武都(ぶと)に入れたが、彼らはみな戦死して還らず、周羣(しゅうぐん)の予言を完全に的中させた。周羣(しゅうぐん)の的確な予言に鑑み、劉備(りゅうび)は彼を茂才に挙げた c:1056。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』には周羣(しゅうぐん)の独立した人物造形はなく、彼は小説に登場せず、いかなる台詞や具体的な筋立ての描写もない。したがって、小説における周羣(しゅうぐん)の姿・性格・事績はみな明記がなく、史伝の資料とは著しい差異があり、小説はこの歴史上、占候に精通したことで知られる智者を完全に無視している。『演義』における彼の不在は、小説の読者がその「占候の業に精勤し、晨夜を避けず」という独特の風采を窺い知ることを不可能にしている c:4988。

主要な関係

* 周舒(parent_of):周羣(しゅうぐん)の父で、学識が広く深く、周羣(しゅうぐん)の占候の術の啓蒙の師であり継承者である c:4988。
* 劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)(serves):周羣(しゅうぐん)はかつて益州(えきしゅう)牧・劉璋(りゅう しょう)に師友従事として辟召され、彼のために力を尽くした c:4988。
* 蜀漢(しょくかん)(serves):先主・劉備(りゅうび)が蜀を定めた後、周羣(しゅうぐん)を儒林校尉に任じ、周羣(しゅうぐん)は蜀漢(しょくかん)政権の一員となった c:4988。
* 劉備(りゅうび)(advises_in):周羣(しゅうぐん)はかつて漢中(かんちゅう)の争いについて劉備(りゅうび)に進言し、「その地を得るも、その民を得ず」と予言し、「もし偏軍を出せば、必ず不利となる」と警告した。劉備(りゅうび)は最終的にその進言を採らなかったが、その予言は最終的に的中した c:1056。

象徴的な場面

* 庭中で星を観る:周羣(しゅうぐん)は家の庭に小楼を建て、奴僕を交代で天象を観測させ、自らは昼夜を分かたず自ら楼に上り、占候の業に精勤し、その言は多く的中した。これは彼が占候の術に精通し、労を辞さない様の生き生きとした写しである c:4988。
* 荊州(けいしゅう)の主の交代を予言:建安十二年(二〇七年)十月、彗星が鶉尾に現れ、周羣(しゅうぐん)は荊州(けいしゅう)牧が亡くなりその地を失うと予言し、翌年に劉表(りゅう ひょう)が没し、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を平定し、その予言は的確に的中した c:4988。
* 西方の諸侯の失地を予言:建安十七年(二一二年)十二月、彗星が五諸侯に現れ、周羣(しゅうぐん)は西方の割拠者がその地を失うと予言し、続いて劉璋(りゅう しょう)・張魯(ちょうろ)・韓遂(かんすい)・宋建らの結末がみなその言を裏づけた c:4988。
* 漢中(かんちゅう)の争いを諫止:先主・劉備(りゅうび)が漢中(かんちゅう)を争おうとした際、周羣(しゅうぐん)は明確に「その地を得るも、その民を得ず、もし偏軍を出せば、必ず不利となる」と指摘し、「慎まれよ」と勧めた。劉備(りゅうび)は従わなかったが、戦事の結果は完全に周羣(しゅうぐん)の予言と符合し、遣わされた吳蘭・雷銅(らいどう)らの将領はみな戦死した c:1056。

人間関係

1 件の関係

台詞

  • 史 ch.42 §15→ 劉備(りゅうび)

    「當得其地,不得其民也,若出偏軍,必不利,當戒慎之!」

登場回1 回 ▸
  • 史ch.42
関係の年表1 条 ▸

史 ch.42

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は字を仲直(Nakuchoku)といい、巴西の閬中(ろうちゅう)の人である。若い頃、父の舒(Shu)に従って学問を修め、ひたすら学業に励んだことを思い出す。父はかつて郷里の人々に『春秋讖』の「当塗高き者は魏なり」という言葉を解き明かした。