言語
譙

司馬氏(しばし) · 阳城亭侯;骑都尉;散骑常侍

譙周(しょうしゅう)

字 允南

登場回
12
台詞の記録
18
人間関係
11
内面の独白
3

史載(Historical Record)

譙周(しょうしゅう)は、字を允南といい、蜀郡の人である。建興年間、丞相の諸葛亮(しょかつりょう)が益州(えきしゅう)牧を兼領した際、譙周(しょうしゅう)を勧学従事に任命した c:3609。諸葛亮(しょかつりょう)が没すると、譙周(しょうしゅう)は訃報を聞くや直ちに駆けつけ、詔書による禁断があったにもかかわらず、速やかに行を進めたことで弔問に間に合うことができた。大将軍の蔣琬(しょうえん)が刺史を継ぐと、彼を典学従事に転任させ、州全体の学者の事務を統べさせた。後主の劉禅(りゅう ぜん)が太子を立てたとき、譙周(しょうしゅう)は僕に任命され、のちに家令に転じた。後主の劉禅(りゅう ぜん)が当時しきりに遊覧を好み、声楽を増やしていたことに鑑み、譙周(しょうしゅう)は上疏して諫めた c:3610。

蜀漢(しょくかん)の後期、軍旅がしきりに出征し、民は疲弊した。譙周(しょうしゅう)は尚書令の陳祗(ちんし)とその利害を論じ、退いて書を著し、『仇国論』と名づけてその見解を述べた c:3610。景耀五年、宮中の大樹が理由なく自ずから折れ、譙周(しょうしゅう)は深く憂慮したが、訴える相手もなく、柱に「衆にして大、これを期して会し、具えて授く、いかんぞまた」という讖語を書き、蜀漢(しょくかん)が魏に滅ぼされることを暗示した c:14497。

咸熙二年の夏、魏が蜀漢(しょくかん)に大挙して攻め込み、征西将軍の鄧艾(とうがい)、鎮西将軍の鍾会(しょうかい)らが多くの道から並び進んだ。蜀漢(しょくかん)は張翼(ちょうよく)、廖化(りょうか)らの将領を派遣して抵抗させた。鄧艾(とうがい)が綿竹(めんちく)で諸葛瞻(しょかつせん)を破ると、蜀漢(しょくかん)の朝廷は光禄大夫の譙周(しょうしゅう)の建議を採用し、鄧艾(とうがい)に降伏した c:3608。当時、群臣の中には鄧艾(とうがい)が降伏を受け入れるかどうかを疑う者もいたが、譙周(しょうしゅう)は衆議を排し、魏は天下を統一するために必ず降伏を受け入れ、礼をもって遇するであろうと考えた。彼はさらに、もし魏が土地を裂いて劉禅(りゅう ぜん)を封じないならば、自ら都へ赴き、古義をもって力争したいとまで述べた c:14499。

蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)ののち、晋の文王の司馬昭(しばしょう)は、譙周(しょうしゅう)に「全国の功」があるとして、これを陽城亭侯に封じ、詔を下して招聘した。譙周(しょうしゅう)は漢中(かんちゅう)へ向かう途中で病のため進めなくなった c:6364。泰始三年、彼は輿車で洛陽(らくよう)まで送られたが、病のため起き上がって官を拝することができず、その場で騎都尉に拝された。譙周(しょうしゅう)は自ら功なくして封を受けたと述べ、爵土の返還を請うたが、許されなかった。泰始六年の秋、彼は散騎常侍に任命されたが、病が重く就任できず、冬に没した c:14501。譙周(しょうしゅう)は生涯にわたって著述が頗る豊かで、『法訓』『五経論』『古史考』など百余篇に及ぶ c:14501。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、譙周(しょうしゅう)は天文に精通し、しばしば時局を予言する太史として造形され、その言行はしばしば神秘的な色彩を帯び、たびたび君主を諫めるが、往々にして採用されない。彼が初めて登場するのは、劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を攻め取るときである。劉璋(りゅう しょう)配下の官員が降伏を建議したとき、譙周(しょうしゅう)は「夜に乾象を観るに、群星が蜀郡に聚まり、その大星の光は皓月のごとし、すなわち帝王の象なり」という言をもって、劉璋(りゅう しょう)に天意に順って益州(えきしゅう)を劉備(りゅうび)に譲るよう説いた c:3611。これは史実における彼の勧学や著述の姿とは異なっており、演義はここで彼により多くの予言家としての色彩を与えている。

劉備(りゅうび)が漢中王を称したのち、曹丕(そうひ)が漢を簒奪して自立した。孔明は許靖(きょせい)、譙周(しょうしゅう)と劉備(りゅうび)を帝に立てることを議した。譙周(しょうしゅう)は再び天文の異象を証として、「近ごろ祥風慶雲の瑞あり。成都(せいと)の西北角に黄気数十丈、霄を衝いて起こる。帝星が畢・胃・昴の分に見れ、煌々として月のごとし。これまさに漢中王が帝位に即くべきに応ず」と称し c:3612、天象の予言者としての役割をさらに強めた。

諸葛亮(しょかつりょう)の北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう))の間、譙周(しょうしゅう)はしばしば天象の不利を理由に阻止しようとした。例えば、諸葛亮(しょかつりょう)が初めての北伐を準備したとき、譙周(しょうしゅう)は「夜に天象を観るに、北方の旺気がまさに盛んで、星曜は倍して明るく、いまだ図るべからず」と奏上し、孔明が「天文に深く明るいのに、なぜ強いてなさるのか」と直言した c:14493。孔明は「天道は変易常ならず、いかんぞ拘執すべけんや」と応じ、意に介さなかった。三年後、諸葛亮(しょかつりょう)が再び出兵すると、譙周(しょうしゅう)はまた「群鳥数万、南より飛び来たり、漢水(かんすい)に投じて死す」「奎星が太白の分に躔し、盛気は北にあり、魏を伐つに利あらず」「柏樹が夜に哭く」などの災異をもって阻止しようとしたが、孔明はなお北伐を堅持した c:6366。これらの筋立ては史書には明確な記載がなく、諸葛亮(しょかつりょう)の「為し得ぬと知りつつ為す」悲劇的英雄像、および譙周(しょうしゅう)の保守的で時務をわきまえる性格を際立たせるために演義が行った芸術的脚色である。

『三国演義』において、譙周(しょうしゅう)が蜀漢(しょくかん)滅亡の際に降伏を勧める筋立ては史実とおおむね合致するが、その先見性をより強調している。鄧艾(とうがい)が城下に兵を進め、群臣が南中(なんちゅう)へ奔ろうとしたり、東呉に投じようとしたりしたとき、譙周(しょうしゅう)は衆議を排し、「古来、他国に寄りて天子となる者なし」と指摘し、魏は呉を呑むことができるが呉は魏を呑むことができないと予言し、劉禅(りゅう ぜん)に魏へ降って宗廟と民を保つよう勧めた c:3615。これは史料における「魏が土地を裂いて陛下を封じないならば、周は身をもって都に詣で、古義をもって争いたい」という記載 c:14499 と呼応し、彼の深遠な政治的先見性を示している。

主要な関係

* 劉禅(りゅう ぜん):譙周(しょうしゅう)は劉禅(りゅう ぜん)の臣下であり、かつて家令などの職を務め c:3609、たびたび彼に諫言した。蜀漢(しょくかん)末期には、宗廟社稷を保全するため、劉禅(りゅう ぜん)の魏への降伏を強く主張した c:3608。演義においては、彼は劉禅(りゅう ぜん)の側にある重要な謀士であり、たびたび天象を予言し、劉禅(りゅう ぜん)と諸葛亮(しょかつりょう)を諫めた。
* 諸葛亮(しょかつりょう):譙周(しょうしゅう)はかつて諸葛亮(しょかつりょう)の麾下の勧学従事であった c:3609。演義においては、彼はたびたび諸葛亮(しょかつりょう)の北伐に際して天象の不利を理由に阻止しようとしたが、諸葛亮(しょかつりょう)は採用しなかった c:14493。
* 杜瓊(とけい):杜瓊(とけい)は譙周(しょうしゅう)の師であり、譙周(しょうしゅう)はかつて杜瓊(とけい)に天文術数を請い、その言から啓発を得て、蜀漢(しょくかん)が魏に滅ぼされるという予言を推演した c:14497。
* 蔣琬(しょうえん):諸葛亮(しょかつりょう)が没したのち、蔣琬(しょうえん)は刺史を領し、譙周(しょうしゅう)を典学従事に任命して、州の学者を統べさせた c:3609。
* 陳祗(ちんし):譙周(しょうしゅう)はかつて尚書令の陳祗(ちんし)と軍旅のしきりなることや民の疲弊の利害を論じ、『仇国論』を著した c:3610。
* 姜維(きょうい):演義においては、譙周(しょうしゅう)はかつて『仇国論』を作って姜維(きょうい)に寄せ、国の危機を避けるために北伐をやめるよう勧めた c:3613(演義独自)。
* 魏晋政権:譙周(しょうしゅう)は降伏を勧めた功により、晋の文王の司馬昭(しばしょう)に陽城亭侯に封じられた c:6364。

象徴的な場面

* 劉璋に劉備への降伏を勧める:『三国演義』において、劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を攻めたとき、譙周(しょうしゅう)は「夜に乾象を観るに、群星が蜀郡に聚まる」を理由に、劉璋(りゅう しょう)に天意に順って益州(えきしゅう)を劉備(りゅうび)に譲るよう説いた c:3611。
* 劉備に称帝を勧める:劉備(りゅうび)が漢中王を称したのち、曹丕(そうひ)が漢を簒奪して自立すると、譙周(しょうしゅう)は「帝星が畢・胃・昴の分に見れ、煌々として月のごとし」などの天象をもって、劉備(りゅうび)に帝を称して漢統を継ぐよう勧めた c:3612。
* 『仇国論』を著す:蜀漢(しょくかん)の後期、軍旅がしきりで民が疲弊したため、譙周(しょうしゅう)は尚書令の陳祗(ちんし)と利害を論じたのち、『仇国論』を著してその見解を述べた c:3610。演義においては、彼はさらにこの論を姜維(きょうい)に寄せ、北伐をやめるよう勧めた c:3613。
* 柱に讖語を書く:景耀五年、宮中の大樹が理由なく自ずから折れ、譙周(しょうしゅう)は深く憂え、柱に「衆にして大、これを期して会し、具えて授く、いかんぞまた」という讖語を書き、蜀漢(しょくかん)が滅びることを予示した c:14497。
* 魏への降伏を強く主張する:魏軍が城下に兵を進めたとき、譙周(しょうしゅう)は衆議を排し、後主の劉禅(りゅう ぜん)に魏へ降るよう説き、「魏は必ず土地を裂いて陛下を封じよう。さすれば上は自ら宗廟を守り、下は民を安んじ保つことができる」という理由を提示し、最終的に蜀漢(しょくかん)の降伏を成し遂げた c:3608, c:14499, c:3615。
* 病重きまま洛陽へ赴く:蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)ののち、譙周(しょうしゅう)は功により侯に封じられ、招聘された。彼は病が重かったが、なお輿車で洛陽(らくよう)まで送られ、最終的に洛陽(らくよう)で没した c:14501。

人間関係

11 件の関係

名言

全 18 件の台詞 · 厳選 3 件

「自古以來,無寄他國為天子者。臣料魏能吞吳,吳不能吞魏。若稱臣於吳,是一辱也。若吳被魏所吞,陛下再稱臣於魏,是兩番之辱矣。不如不投吳而降魏。魏必裂土以封陛下,則上能自守宗廟,下可以保安黎民。願陛下思之。」

演 第118回→ 劉禅(りゅう ぜん)📍 成都(せいと)

この言葉は譙周の時勢を見極める政治的先見の明を体現し、その降伏を勧める中心的論拠である。

「某夜觀乾象,見群星聚於蜀郡;其大星光如皓月,乃帝王之象也。況一載之前,小兒謠云:『若要吃新飯,須待先主來。』此乃預兆。不可逆天道。」

演 第65回→ 劉璋(りゅう しょう)

この言葉は譙周が讖緯の術を巧みに用い、劉備の入蜀のために世論を作り出す特徴を示す。

「方今東吳未賓,事勢不得不受之,受之後,不得不禮。若陛下降魏,魏不裂土以封陛下者,周請身詣京都,以古義爭之。」

史 第42回

この言葉は譙周が魏国への降伏を勧める鍵であり、蜀漢の宗廟と民のために考える立場を示す。

登場回12 回 ▸
  • 史ch.33ch.42ch.45
  • 演ch.65ch.80ch.91ch.101ch.102ch.105ch.112ch.115ch.118
関係の年表8 条 ▸

史 ch.33

史 ch.42

演 ch.65

演 ch.80

演 ch.112

演 ch.115

演 ch.118

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 成都(せいと)の城内には警報が相次いで届き、綿竹(めんちく)はすでに陥落し、瞻の父子は命を落とした。城外では民衆が老人や子どもを連れて逃げ惑い、泣き声が響き渡っていた。人々の議論では、南中(なんちゅう)へ逃れようという者もいれば、東呉に身を
  • 私は譙周(しょうしゅう)、字は允南である。今、蜀中の傾きかけた情勢を振り返ると、私を最も不安にさせるのは、一時の得失ではなく、人心と国力がとうにかみ合わなくなっていたことだ。後主が即位した後、私は太子僕、家令を務めた。宮中で遊覧することが次
  • 私は巴西西充国(Hasei Seijūkoku)に生まれ、字は允南(Innan)という。幼い頃に見聞きしたことの多くは、蜀の郷里でのことだった。若い頃の志について尋ねられても、史書には詳しく記されていない。私に言えるのは、「昔を思えば」、学
生涯の大事2 ▸