
史書の記録(Historical Record)
孫策(そん さく)は、字を伯符といい、孫堅(そん けん)の長子である。父の孫堅がはじめて兵を興したとき、孫策は母とともに舒県に移り住んだ。彼は周瑜(しゅうゆ)と親しく交わり、この間に多くの士大夫と交わり、江淮一帯でかなりの名声があった。孫堅が世を去ると、孫策はその霊柩を曲阿に運んで葬り、その後江を渡って江都に定住した。
孫策はかつて一時袁術(えんじゅつ)に従った。袁術は孫策をかなり重んじ、孫堅の旧部を彼に返した。はじめ、袁術はかつて孫策を九江太守にすると約束したが、後にかえって陳紀を任じたので、孫策は失望した。後に、袁術が徐州(じょしゅう)を攻めようとし、廬江(ろこう)太守の陸康に糧草を求めて拒まれると、孫策は早年に陸康を訪ねた際に冷遇を受けたことを恨んでいたので、自ら進んで陸康を攻めることを願い出た。孫策は廬江を攻略することに成功したが、袁術は再び約束を違え、その旧吏である劉勲(りゅうくん)を太守に任じたので、孫策はいっそう不満を抱いた。
劉繇(りゅう よう)が揚州刺史に任じられた後、治所を曲阿に移し、孫策の舅である吳景と従兄の孫賁を駆逐した。孫策はこのため袁術に、吳景らを助けて江東を平定したいと申し出た。袁術は孫策の能力を疑ったが、最終的にこれを許し、孫策を折衝校尉、行殄寇将軍に任じ、一千余の兵力、数十匹の軍馬、そして従うことを願う賓客数百人を与えた。孫策は江を渡った後、向かうところ敵なく、軍紀は厳明で、百姓の支持を深く得た。彼は前後して牛渚営を攻略し、薛礼(せつれい)、笮融(さくゆう)を破り、最終的に劉繇を撃ち破った。
孫策は人となり英俊で、談笑を好み、性格は豁達で、人を用いるのに巧みであった。それゆえ、士民は彼を見ると尽力せざるはなく、喜んで彼のために死を効そうとした。彼は江東を平定した後、各郡の長吏を換え、自ら会稽(かいけい)太守を領し、吳景を丹楊太守に、孫賁を豫章郡(よしょうぐん)太守に、孫輔を廬陵太守に、朱治(しゅち)を呉郡太守に任じた。張昭(ちょうしょう)、張紘、秦松、陳端らはみな彼の謀主となった。曹操(そうそう)はかつて孫策を討逆将軍に表奏し、呉侯に封じた。
建安五年、曹操と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙した。孫策は許都(きょと)を襲撃し、漢の献帝を迎えることをひそかに謀った。しかし、計画がまだ実施されないうちに、彼は故呉郡太守の許貢(きょこう)の門客に殺され、わずか二十六歳であった。
演義の記述(In the Novel)
『三国演義』における孫策は、その姿が史実の基礎の上に多くの文学的加工を施され、より伝奇的な色彩を帯びている。父の孫堅が董卓(とう たく)を討伐したとき、少年の孫策はすでに父に従って出征し、黄祖(こうそ)との戦いでその勇武を示し、一矢で陳生を射殺し、韓当(かんとう)を助けて張虎を斬った。
孫堅が死ぬと、孫策は江都で賢を招き士を納れ、賢に礼を尽くし士を下したが、袁術の帳下で鬱々として志を得なかった。彼は朱治に泣いて訴え、朱治は彼に袁術から兵を借りて江東に戻って発展するよう勧めた。呂範(りょはん)は孫堅の遺した伝国の玉璽を質に入れることを提案し、袁術は果たして大いに喜び、兵三千、馬五百匹を孫策に貸した。この筋立ては史書には詳しい記載がなく、とりわけ玉璽を質に入れる細部は、演義の独特の描写である。
孫策の江東での征戦において、演義は彼と太史慈(たいし じ)との伝奇的な対決を重点的に描いている。神亭嶺で、孫策は単騎で太史慈と五十合戦って勝負がつかず、最終的に両人は槍を捨てて組み合い、戦袍が裂け、馬が走り去った。この一幕は孫策の勇猛と太史慈の豪気を大いに渲染している。演義において、孫策は劉繇を攻めた際、於糜を生け捕り、また一喝して樊能を退け、馬から落として死なせたので、「小覇王」と称された。この綽名は史書では明確に言及されていない。
孫策の死因についても、演義は劇的な処理を施している。許貢の門客は仇を報いるために孫策を刺し、彼に重傷を負わせた。しかし、演義はさらに、孫策が郭嘉(かくか)の彼に対する「軽はずみで備えなく、性急で謀が少なく、匹夫の勇である」という評を聞き及び、怒りが心を攻め、傷を顧みず、最終的に旧傷が再発して亡くなったと描いている。このほか、演義はさらに孫策が于吉(うきつ)が衆を惑わすとして彼を斬殺し、後に鏡の中で于吉の幻影を見て、驚き怒るあまり傷口が裂けて死ぬという奇怪な筋立てを加えている。これらの細部はいずれも孫策の悲劇的色彩と人物像を大いに豊かにしているが、史実とは隔たりがある。
主要な関係
* 周瑜(friend_of):孫策と周瑜は「総角の好、骨肉の分」であった。史書では周瑜は孫策と同年で、その名声を聞いて舒県から訪ねて来て、両人は「結を推し好を分かち、義は断金に同じ」、周瑜はまた孫策に舒県に移り住むよう勧めたとある。演義では、周瑜は孫策が兵を借りた後に助けに来て、孫策に張昭、張紘ら賢士を募り、ともに大事を謀るよう建議した。孫策は周瑜を極めて信任し、かつて「吾、公瑾を得て、大事諧えり」と言った。
* 袁術(serves):孫策はかつて一時袁術に依った。史書では袁術は孫策をかなり重んじ、かつて「術をして孫郎のごとき子あらしめば、死すとも復た何をか恨まん」と嘆息したとある。しかし、袁術は幾度も約束を違え、孫策への約束を果たせず、最終的に孫策を失望させてその掌握から脱けさせた。演義では、孫策は兵を借りて江東に戻るため、伝国の玉璽を質として袁術に入れ、袁術の貪欲と孫策の無奈をいっそう際立たせている。
* 陸康(enemy_of):陸康は孫策の敵である。史書では孫策が早年に陸康を訪ねた際、陸康は会おうとせず、ただ主簿に接待させたので、孫策はこのため恨みを抱いた。後に袁術が徐州を攻めようとし、陸康に糧を求めて拒まれると、孫策は自ら進んで陸康を攻めることを願い出て、最終的に廬江を攻略した。
* 徐奕(じょえき)(mentor_of):史料では徐奕はかつて江東に難を避け、孫策はかつて彼を礼遇したが、徐奕は姓名を改めて本郡に戻った。史料は徐奕が孫策の「mentor」であるとは明記していないが、孫策の彼への礼遇は、孫策が人材を重んじたことを示している。
* 許貢(enemy_of):許貢は孫策の敵であり、また孫策の死を招いた鍵となる人物である。史書では許貢はかつて漢帝に上表し、孫策を「驍雄にして、項籍に相似たり、宜しく貴寵を加え、京邑に召し還すべし」と称し、孫策を弱めようとした。孫策はこれを知ると、許貢を召して絞殺した。演義では、許貢の門客が仇を報いるために孫策を刺し、その重傷不治を招いた。
* 太史慈(rival_turned_ally):太史慈は孫策の劲敵で、後にその部将となった。演義では、両人の神亭嶺での激戦がその関係の転換点である。孫策はその胸襟と誠意をもって、太史慈を降すことに成功し、彼に重任を委ねた。この筋立ては史料にも記載があるが、演義の描写はより生き生きとして劇的である。
* 張昭・張紘(advisors):史書では張昭、張紘は孫策の重要な謀主であった。演義では、周瑜が孫策に「二張」を推薦し、孫策は自ら出向いて招き、張昭を長史に、張紘を参謀正議校尉に拝した。
象徴的な場面
* 江東のために兵を借り、玉璽を質とす(演義独自):孫策は袁術の帳下で志を得ず、江東に戻って発展するため、呂範の建議に従い、父の孫堅が遺した伝国の玉璽を質として、袁術から兵を借りた。袁術は玉璽を貪り、そこで孫策に兵を貸した。この筋立ては演義において孫策の事業の起点となる鍵であり、彼の果決さと大業への渇望を表している。
* 神亭嶺で太史慈と大戦す:孫策が神亭嶺で太史慈と一騎打ちしたことは、その勇武の集約された表れである。両人は五十合戦って勝負がつかず、最終的に槍を捨てて組み合い、戦袍が裂け、馬が走り去った。この場面は孫策の「小覇王」の像を大いに造形し、また太史慈の後の帰順への伏線ともなった。
* 江東を平定し、四方に威を震わす:孫策は江を渡った後、向かうところ敵なく、牛渚営を攻略し、薛礼、笮融を破り、最終的に劉繇を撃ち破った。彼は軍紀厳明で、「鶏犬菜茹、一も犯すところなし」、百姓の支持を深く得て、旬日のうちに二万余の兵馬を集結させ、江東に威を震わせた。この一連の軍事行動は孫呉(そんご)政権の基礎を築いた。
* 太史慈を降す:孫策は太史慈を破った後、彼を殺さないばかりか、かえって自ら彼の縛を解き、錦袍を贈り、誠をもって接し、最終的にこの猛将を降すことに成功した。この振る舞いは孫策の胸襟と人を見る明を表し、また彼が後により多くの人材を招くための手本を立てた。
* ひそかに許を襲おうとして、かえって暗算に遭う:建安五年、曹操と袁紹が官渡で対峙した際、孫策はひそかに許都を襲撃し、漢の献帝を迎え、「天子を挟みて諸侯に令す」ことを意図した。しかし、計画がまだ実施されないうちに、彼は故呉郡太守の許貢の門客に殺された。この事件は孫策が若くして世を去る悲劇的な結末であり、また三国の歴史の流れをも変えた。
* 臨終の託孤、遺言して位を伝う:孫策は臨終の際、印綬を弟の孫権(そん けん)に佩び、遺言を残した、「江東の衆を挙げ、両陣の間に機を決し、天下と衡を争うは、卿は我に如かず。賢を挙げ能に任じ、各々その心を尽くし、もって江東を保つは、我は卿に如かず」。この言葉は孫策が孫権の能力を冷静に認識していたことを表すのみならず、彼の江東の基業への深謀遠慮を表し、孫権が後に江東を統治する基礎を築いた。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 孫策(そん さく)は姿かたちが美しく、多くの降兵は「孫郎ここに在り」と聞くと皆驚いて兵器を捨てた。
- 性格
- 孫策(そん さく)は度量が大きく人の言を聞き入れ、談笑を好み、人を用いるのに長け、英気に満ちて優れ、勇猛鋭敏は世に冠たるものであった。彼は勇猛で、賢者を礼遇し士人にへりくだり、約束を守り、軍中でみだりに略奪することを許さなかったが、時に軽佻で果断かつ短気であり、性は最も急で、軽々しく備えを欠き、剛愎にして人を容れなかった。
- 話し方
- 孫策(そん さく)の言葉は慨然として事を引き受け、自信に満ちて豪放であり、自軍を「仁義の兵」と称した。
- 生涯
- 孫策(そん さく)は幼い頃からすでに名士と交わりを結び、周瑜(しゅうゆ)と同年で友であった。父の死後、袁術(えんじゅつ)に身を寄せて父の兵を求め、江を渡って江東(こうとう)を平定し、劉繇(りゅう よう)・厳白虎(げんはくこ)・王朗(おうろう)を破り、自ら会稽(かいけい)太守を領した。後に袁術と絶交し、曹公(曹操)の表によって討逆将軍に任ぜられ呉侯に封ぜられ、すでに江東の諸郡を平定していた。建安五年、許貢(きょこう)の食客に刺殺され、重傷を負って養生していたが、後に金瘡が裂けて亡くなった。年二十六、臨終に弟の孫権(そん けん)を張昭(ちょうしょう)に託した。
- 武器
- 孫策(そん さく)が用いた兵器には槍、佩剣(刃が折れて柄だけが残った)、そして弓があった。
- 逸話
- 孫策(そん さく)は孫堅(そん けん)の長子で、江東(こうとう)に基業を開き、世に「小覇王」と称され、後に長沙(ちょうさ)桓王と追尊された。彼はかつて伝国の玉璽を質として袁術(えんじゅつ)に兵を借り、後に袁術を助けることを拒み、また曹操(そうそう)から「狐兎」の一つと喩えられた。
人間関係
66 件の関係
親族13
君臣15
友人5
敵対15
師弟4
その他9
名言
全 61 件の台詞 · 厳選 3 件
「吾得公瑾,大事諧矣。」
この一句は孫策(そん さく)と周瑜(しゅうゆ)の深い情誼を示すもので、「周郎顧みる」の故事の源となっている。
「汝賴吾玉璽,僭稱帝號,背反漢室,大逆不道!吾方欲加兵問罪,豈肯反助叛賊乎?」
この一句は孫策(そん さく)の漢室への忠誠、および袁術(えんじゅつ)が僭越にも帝を称したことへの軽蔑を体現している。
「若舉江東之眾,決機於兩陣之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,使各盡力以保江東,我不如卿。卿宜念父兄創業之艱難,善自圖之!」
この一句は孫策(そん さく)が臨終の際に孫権(そん けん)へ託した言葉であり、二人の長所を概括するもので、「内事の決せざるは張昭(ちょうしょう)に問い、外事の決せざるは周瑜(しゅうゆ)に問え」の原型である。
登場回28 回 ▸
- 史ch.12ch.13ch.14ch.22ch.46ch.47ch.49ch.51ch.52ch.53ch.54ch.55ch.56ch.57ch.58ch.62
- 演ch.7ch.8ch.15ch.17ch.18ch.29ch.38ch.44ch.48ch.68ch.82ch.98
関係の年表30 条 ▸
史 ch.12
- 徐奕(じょえき)§33
mentor_of
礼命徐奕
史 ch.46
- 周瑜(しゅうゆ)§15
friend_of
与周瑜相友,义同断金;瑜劝策徙居舒
- 袁術(えんじゅつ)§16
serves
孙策从袁术求父之余兵;术以堅部曲还策;后因术僭号绝之
- 陸康§16
enemy_of
孙策受袁术命攻陆康,拔之
- 劉繇(りゅう よう)§17
enemy_of
孙策渡江平定江东,击败刘繇使之弃军遁逃
- 厳白虎(げんはくこ)§18
enemy_of
孙策渡浙江据会稽攻破严白虎等
- 曹操(そうそう)§20
serves
曹公表孙策为讨逆将军,封呉侯;以弟女配孙匡,又为子取贲女
- 黄祖(こうそ)§21
enemy_of
建安四年策西讨黄祖,大破之于沙羡(按本传"前进夏口攻黄祖")
- 許貢(きょこう)§22
enemy_of
孙策绞杀许贡,后被许贡客所刺
- 孫権(そん けん)§23
sibling_of
孙策临终佩印绶授孙权,托以江东
史 ch.54
spouse_of
策自纳大桥
史 ch.58
- 陸遜(りくそん)§5
kin_of
孙权以兄策女配陆逊
演 ch.7
演 ch.8
kin_of
长子;迎接灵柩、葬父於曲阿之原
演 ch.15
kin_of
父子;策慨叹「不能继父之志」
演 ch.29
- 曹操(そうそう)§1
rival_of
求为大司马,曹操不许;策恨之,常有袭许都之心
- 曹操(そうそう)§1
kin_of
以曹仁之女许配孙策幼弟孙匡,两家结婚
sibling_of
兄弟(策为兄、匡为幼弟)
- 許貢(きょこう)§4
enemy_of
命武士绞杀许贡
- 許貢(きょこう)§5
betrayed_by
被许贡家客行刺以为主报雠
- 于吉(うきつ)§13
enemy_of
怒囚之、令登坛求雨、终斩于市
- 呉夫人(ごふじん)§15
kin_of
母子(叙事中策对母言「母亲勿听外人妄言」)
- 孫権(そん けん)§25
sibling_of
兄弟;策临终授印綬、托嘱「内事问张昭、外事问周瑜」
- 大喬(だいきょう)§26
spouse_of
夫妻;策临终嘱其孝养尊姑,并托妹转告周郎
- 周瑜(しゅうゆ)§26
friend_of
临终遗命属周郎「外事不决可问周瑜」,又托妻嘱周瑜尽心辅佐其弟
演 ch.38
- 孫権(そん けん)§46
sibling_of
兄弟;策早丧,江东基业付权
演 ch.44
演 ch.98
- 孫権(そん けん)§16
kin_of
被追谥为长沙桓王(孙权兄)
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 血気は衰え、金創も裂けた。もはやこの身が再び起き上がれぬことは分かっている。鏡に映るやつれた顔を見ると、かつて馬を駆って鹿を追い、兵を率いて長江を渡った頃を思い出す。今や志を果たせぬまま、この傷をもって最期を迎えるとは、何とも悔しいことだ。
- 江東はすでに我が手中にあり、諸郡は命に従い、舟は行き交い、兵馬も次第に強くなった。長江を初めて渡った時を思うたび、私に従う者は数百人の賓客にすぎず、兵と資金は千余り、騎兵も数十騎にすぎなかった。歷陽に至ってようやく、兵は五、六千となった。母
- 私は字を伯符といった。昔、父の孫堅(そん けん)が義兵を起こしたころ、私はまだ幼かったが、すでに母とともに舒県へ移り住み、周瑜(しゅうゆ)と親交を結んでいた。江淮の士人たちは、父のかつての名声を聞き、次第に私のもとへ集まってきた。私の目に映
生涯の大事15 ▸
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- 0197-01-01 · 会稽(かいけい)孫静の会稽奇襲策(そんせいのかいけいきしゅうさく)· 総大将
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- 0199-01-01 · 廬江(ろこう)孫策の廬江攻略(そんさくのろこうこうりゃく)· 総大将
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- 0200-01-01 · 豫章郡(よしょうぐん)華歆の呉離脱・許入り(かきんのごりだつ・きょいり)· 目撃者
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- 0200-01-01 · 丹徒(たんと)孫策の死(そんさくのし)· 戦死
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