
史載(Historical Record)
呂布(りょふ)、字は奉先、五原郡九原の人で、骁勇善戦をもって并州に名を馳せた。彼は当初、并州刺史の丁原(ていげん)の手下で主簿を務め、丁原(ていげん)に深く信任され親しまれた。しかし、霊帝が崩御し、董卓(とう たく)が入京した際、董卓(とう たく)は丁原(ていげん)の兵馬を併呑しようと意図し、呂布(りょふ)を誘って丁原(ていげん)を刺殺させた。呂布(りょふ)は丁原(ていげん)の首を斬って董卓(とう たく)に投じ、董卓(とう たく)はこれによって彼を騎都尉に任じ、義子と見なして、彼を寵愛して止まなかった。
董卓(とう たく)が専権した後、司徒の王允(おういん)と尚書僕射の士孫瑞が密かに董卓(とう たく)誅殺を謀った。王允(おういん)は呂布(りょふ)と董卓(とう たく)の関係が複雑であると深く知り、呂布(りょふ)の董卓(とう たく)への怨恨を利用して、呂布(りょふ)を内応とするよう説いた。呂布(りょふ)は当初「父子」の情誼のためにいくらか躊躇したが、王允(おういん)の説得のもと、最終的に董卓(とう たく)刺殺に同意した。西暦192年、呂布(りょふ)は自ら董卓(とう たく)を刺殺し、その三族を夷した。事が成った後、王允(おういん)は呂布(りょふ)を奮武将軍に任じ、節を仮し、儀は三司に比し、温侯に進封して、彼とともに朝政を執り掌った。
董卓(とう たく)が死んでまもなく、その旧部である李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは呂布(りょふ)を怨んで連合して長安(ちょうあん)を攻めた。呂布(りょふ)は敵わず、長安(ちょうあん)は陥落し、彼は数百騎を率いて武関から逃れ出て、袁術(えんじゅつ)に身を寄せようとした。しかし、袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)の反復無常を理由に受け入れを拒んだ。呂布(りょふ)は転じて袁紹(えんしょう)に身を寄せ、袁紹(えんしょう)が張燕(ちょうえん)を撃破するのを助けた。しかし、その驕横跋扈のため、袁紹(えんしょう)は彼を忌み憚り、害そうとした。呂布(りょふ)はこれを察知して、河内へ逃れ、張楊(ちょうよう)と兵を合わせた。
西暦194年、曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を東征し、兗州(えんしゅう)が手薄になった。陳宮(ちんきゅう)は張邈(ちょうばく)を説得して曹操(そうそう)に背かせ、呂布(りょふ)を迎えて兗州(えんしゅう)に主として入らせた。呂布(りょふ)はこれによって濮陽(ぼくよう)を占拠し、曹操(そうそう)と激戦を繰り広げた。双方は百余日にわたって相持し、旱害と蝗害のため、百姓は相食み、呂布(りょふ)はやむなく東の山陽に屯した。二年後、曹操(そうそう)は兗州(えんしゅう)を奪回し、巨野で呂布(りょふ)を撃破し、呂布(りょふ)はそこで劉備(りゅうび)に身を寄せた。
劉備(りゅうび)は呂布(りょふ)を受け入れ、彼を小沛(しょうはい)に安置した。しかし、劉備(りゅうび)が東のかた袁術(えんじゅつ)を撃つ際、呂布(りょふ)はその機に乗じて下邳(かひ)を襲い取り、劉備(りゅうび)の妻子を捕虜にした。劉備(りゅうび)はやむなく帰還し、呂布(りょふ)と和解し、呂布(りょふ)は劉備(りゅうび)を小沛(しょうはい)に安置して、自らは徐州(じょしゅう)刺史を称した。この後、呂布(りょふ)と袁術(えんじゅつ)の関係は複雑で、一時は縁組をしようとしたが、陳珪(ちんけい)の説得によって取りやめになった。彼はまた「轅門射戟(えんもんしゃき)」によって袁術(えんじゅつ)と劉備(りゅうび)の衝突を化解したことがある。
西暦198年、呂布(りょふ)は再び劉備(りゅうび)に背き、高順(こうじゅん)を派遣して沛城を攻め、劉備(りゅうび)を撃破した。曹操(そうそう)は呂布(りょふ)を親征し、彼を下邳(かひ)に囲んだ。呂布(りょふ)はかつて投降しようとしたが、陳宮(ちんきゅう)らに阻止された。囲みの間、呂布(りょふ)の部下である侯成(こうせい)・宋憲(そうけん)・魏續らが叛変し、陳宮(ちんきゅう)を捕らえ、城を献じて投降した。呂布(りょふ)は最終的に生け捕りにされ、曹操(そうそう)は劉備(りゅうび)の説得を受けて、彼を縊り殺した。呂布(りょふ)・陳宮(ちんきゅう)らの首級は梟首されて許都(きょと)へ送られ、その後にようやく葬られることができた。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』の呂布(りょふ)は、その形象が史実を基礎にさらに芸術化され、武力が群を抜き、反復無常な典型的な人物となっている。彼は初登場でただちに「器宇軒昂、威風凛凛、手に方天画戟を執る」形象を示した。演義は李肅が赤兎馬と金珠宝物でいかに呂布(りょふ)を誘惑し、丁原(ていげん)に背かせたかを詳しく描き、最終的に「一刀のもとに丁原(ていげん)の首を斬り落とし」、董卓(とう たく)に投じて、董卓(とう たく)を義父として拝した。この情節は呂布(りょふ)の「三姓の家奴」という負の形象を強化した。
董卓(とう たく)が専権した時期、演義は呂布(りょふ)の勇猛さと董卓(とう たく)の彼への信任を重点的に描いた。十八路の諸侯が董卓(とう たく)を討つ際、呂布(りょふ)はかつて「虎狼の師を提げ、ことごとくその首を斬り、都門に懸けん」と豪語したが、その部将の華雄(かゆう)は関羽(かんう)に斬殺され、呂布(りょふ)の勇武の形象は十分には発揮されなかった。演義はまた呂布(りょふ)が董卓(とう たく)の府邸で曹操(そうそう)を刺殺しようとして果たせず、曹操(そうそう)が刀を献じる名目で脱身した一節を虚構し、劇的さを加えた。
貂蟬(ちょうせん)の「連環の計」は演義における呂布(りょふ)形象の造形の最重要点である。演義は貂蟬(ちょうせん)がいかに董卓(とう たく)と呂布(りょふ)の間を周旋し、二人を離間させたかを詳しく描いた。呂布(りょふ)は貂蟬(ちょうせん)のために董卓(とう たく)に殺意を抱き、最終的に王允(おういん)の策動のもとで、自ら董卓(とう たく)を刺殺した。演義では、呂布(りょふ)は董卓(とう たく)を刺殺した後、さらに李肅を斬殺したが、これは史料には明確な記載がない。
呂布(りょふ)が兗州(えんしゅう)で曹操(そうそう)と幾度も交鋒した場面も、演義は多く渲染している。彼はかつて許褚(きょちょ)・典韋(てんい)ら曹営の猛将と幾度も交手し、その「単騎で天下を縦横する」勇武を示した。例えば、濮陽(ぼくよう)の戦いにおいて、呂布(りょふ)は一人で曹操(そうそう)麾下の六員の大将(許褚(きょちょ)・典韋(てんい)・夏侯惇(かこう とん)・夏侯淵(かこう えん)・李典(りてん)・楽進(がくしん))と独力で戦い、最終的に敗退したものの、その武力の強悍さを窺うことができる。演義はまた呂布(りょふ)が濮陽(ぼくよう)城中で曹操(そうそう)に火攻めにされ、危うく命を落としかけた情節や、その妻の田氏が呂布(りょふ)に不満を抱いて城門を開くことを拒んだ情節を描き、これらはさらに呂布(りょふ)の形象を豊かにした。
下邳(かひ)が囲まれた間、演義では呂布(りょふ)の優柔不断、忠言を聞かない性格の特徴が拡大された。陳宮(ちんきゅう)はたびたび計を献じたが、呂布(りょふ)は妻妾の言のため、あるいは自身の猜疑のために採納できなかった。最終的に、部下の侯成(こうせい)・宋憲(そうけん)・魏續らの背叛が、呂布(りょふ)の擒に至らしめた。擒えられた後、呂布(りょふ)は曹操(そうそう)に許しを乞い、曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)の関係を挑発しようとしたが、最終的に劉備(りゅうび)に一言でその反復無常の本性を喝破され、惨めに縊り殺された。演義では、呂布(りょふ)は臨終の前に劉備(りゅうび)を「この小僧こそ最も信ずべからざる者」と指弾し、彼の劉備(りゅうび)への怨恨と不信を反映している。
重要な関係
* 丁原(ていげん)(enemy_of):史載では呂布(りょふ)は董卓(とう たく)の誘惑を受け、丁原(ていげん)を斬殺し、その部衆を併呑した。演義では、李肅が赤兎馬と金銭で呂布(りょふ)を買収し、丁原(ていげん)に背いて殺害させ、董卓(とう たく)を義父として拝させ、さらに呂布(りょふ)の「三姓の家奴」の形象を強化した,。
* 董卓(とう たく)(betrayed_by):呂布(りょふ)は当初、董卓(とう たく)に投じ、その義子とされ、深く寵信された。しかし、董卓(とう たく)の残暴と王允(おういん)の離間の計(演義独自)のため、呂布(りょふ)は最終的に自ら董卓(とう たく)を刺殺した,。
* 董卓集団(とうたくしゅうだん)(serves):呂布(りょふ)は董卓(とう たく)の帳下にあったとき、かつてその為に効力したが、董卓(とう たく)が死んだ後、その旧部の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは呂布(りょふ)を怨んで長安(ちょうあん)を攻め、呂布(りょふ)は敵わずやむなく逃れた。
* 袁術(えんじゅつ)(friend_of):呂布(りょふ)は李傕(りかく)・郭汜(かくし)に撃破された後、かつて袁術(えんじゅつ)に身を寄せようとしたが、袁術(えんじゅつ)はその反復無常を理由に受け入れを拒んだ。後に、呂布(りょふ)と袁術(えんじゅつ)はかつて短い協力と衝突があり、一時は縁組をしようとしたが、最終的に陳珪(ちんけい)の説得によって取りやめになった。演義では、袁術(えんじゅつ)はかつて紀霊(きれい)を派遣して劉備(りゅうび)を攻めさせ、呂布(りょふ)は「轅門射戟(えんもんしゃき)」によってこの衝突を化解した。
* 袁紹(えんしょう):呂布(りょふ)は袁術(えんじゅつ)に拒まれた後、かつて袁紹(えんしょう)に身を寄せ、その張燕(ちょうえん)撃破を助けた。しかし、呂布(りょふ)の驕横のため、袁紹(えんしょう)は彼を忌み憚って害そうとし、呂布(りょふ)はそこで逃れた。
* 劉備(りゅうび):呂布(りょふ)は兗州(えんしゅう)で曹操(そうそう)に撃破された後、かつて劉備(りゅうび)に身を寄せた。しかし、呂布(りょふ)は劉備(りゅうび)が東のかた袁術(えんじゅつ)を撃つ際に乗じて、下邳(かひ)を襲い取り、劉備(りゅうび)の妻子を捕虜にした。この後、二人の関係は良かったり悪かったりし、最終的に下邳の戦い(かひのたたかい)において、劉備(りゅうび)は曹操(そうそう)を説いて呂布(りょふ)を処刑させた。
* 曹操(そうそう):呂布(りょふ)と曹操(そうそう)は長期の対手である。二人は兗州(えんしゅう)と徐州(じょしゅう)でたびたび交戦し、勝敗を互いにした,。最終的に、曹操(そうそう)は下邳の戦い(かひのたたかい)において呂布(りょふ)を撃破して擒殺した。
* 陳宮(ちんきゅう):陳宮(ちんきゅう)は呂布(りょふ)の重要な謀士で、たびたび呂布(りょふ)のために謀を出し策を画した,。しかし、呂布(りょふ)はしばしばその勧告を聞かず、敗北を招いた。最終的に、陳宮(ちんきゅう)は呂布(りょふ)とともに擒殺された。
* 高順(こうじゅん):高順(こうじゅん)は呂布(りょふ)麾下の忠誠な将領で、その率いる「陥陣営」は作戦が勇猛であった。彼はたびたび呂布(りょふ)を諫めたが、呂布(りょふ)は聞かなかった。最終的に、高順(こうじゅん)は呂布(りょふ)とともに擒殺された。
* 貂蟬(ちょうせん)(演義独自):演義では、貂蟬(ちょうせん)は王允(おういん)の義女で、王允(おういん)が董卓(とう たく)と呂布(りょふ)を離間させる「連環の計」に用いられた。貂蟬(ちょうせん)の美貌と計謀は、呂布(りょふ)が最終的に董卓(とう たく)を刺殺した重要な原因の一つである。
象徴的な場面
* 丁原の刺殺:呂布(りょふ)は董卓(とう たく)の誘惑を受け、丁原(ていげん)に背いて殺害し、董卓(とう たく)に投じてその義子となった。この事件は呂布(りょふ)の反復無常な性格の地色を定めた。
* 董卓の刺殺:王允(おういん)の策動のもと、呂布(りょふ)は自ら董卓(とう たく)を刺殺し、董卓(とう たく)の暴政を終わらせた。この事件は呂布(りょふ)に一時期「忠臣」の声望をもたらした。
* 轅門射戟(えんもんしゃき):呂布(りょふ)は袁術(えんじゅつ)と劉備(りゅうび)の衝突を化解するため、営門の前に戟を立て、戟上の小枝を射当てることを賭けとし、最終的に一矢で命中させ、双方に兵を罷めさせた。この場面は呂布(りょふ)の高超な武芸と一定の政治的手腕を示している。
* 濮陽の戦い:呂布(りょふ)は曹操(そうそう)と兗州(えんしゅう)濮陽(ぼくよう)で激戦を繰り広げ、呂布(りょふ)は一時優勢を占め、たびたび曹操(そうそう)麾下の猛将と交鋒した。演義では、呂布(りょふ)はさらに一人で曹操(そうそう)の六将と独力で戦い、敗れても栄誉を保った。
* 下邳の包囲:呂布(りょふ)は曹操(そうそう)に下邳(かひ)で囲まれ、その多疑、忠言を聞かないこと、加えて部下の叛変によって、最終的に擒えられた。この場面は呂布(りょふ)の悲劇的結末の発端である。
* 白門楼の死:呂布(りょふ)は白門楼の上で擒えられ、曹操(そうそう)に許しを乞い、離間を試みたが、劉備(りゅうび)に一言でその反復無常の本性を喝破され、最終的に曹操(そうそう)に縊り殺された。
* 貂蟬の連環の計(演義独自):王允(おういん)は貂蟬(ちょうせん)を利用して董卓(とう たく)と呂布(りょふ)を離間させ、呂布(りょふ)が愛によって恨みを生じ、最終的に董卓(とう たく)を刺殺するに至らしめた。この情節は呂布(りょふ)の形象を大いに豊かにし、彼を単なる武夫ではなく、情欲に左右される悲劇の英雄とした。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 呂布(りょふ)は器量堂々として威風凛々、頭に髪を束ねる金冠を戴き、百花の戦袍を羽織り、唐猊の鎧甲を身にまとい、獅蛮の宝帯を締めていた。彼は頭に三叉の髪を束ねる紫金の冠を戴き、体に西川産の紅錦の百花の袍をかけ、身に獣面呑頭の連環鎧をまとい、腰に鎧を締める玲瓏たる獅蛮の帯を結び、その姿は長大であった。
- 性格
- 呂布は驍猛だが謀がなく、猜疑が多く、軽率狡猾で反覆し、ただ利のみを目に置いた。彼は勇にして謀なく、利を見ては義を忘れ、驍勇絶倫、自負して無敵と思った。彼は色を好み、煽られやすく、義父を妬み、反覆して定まらず、良き謀を容れず、喜怒が動きやすく、ただ妻子のみを恋い慕い、部下を草芥のごとく見なした。
- 話し方
- 呂布の言葉は率直で性急であり、しばしば「父子」「兄弟」の名によって契りを結んではまた裏切った。彼は自負して大言し、「吾に画戟と赤兎馬あり、誰が敢えて我に近づかん?」などと言ったが、死に臨んでは憐れみを乞うこともあった。
- 生涯
- 呂布は五原郡九原の人で、驍武をもって并州に仕え、かつて丁原(ていげん)の主簿を務めた。彼は丁原を殺して董卓(とう たく)に帰属し、後に王允(おういん)と共謀して董卓を殺し、敗走した後は袁術(えんじゅつ)・袁紹(えんしょう)・張楊(ちょうよう)に身を寄せ、後に兗州(えんしゅう)・徐州(じょしゅう)を占拠した。建安三年、彼は曹操(そうそう)に捕らえられ、縊り殺された。
- 武器
- 呂布は矛・戟・弓を持ち、とりわけ方天画戟を主要な武器とし、乗馬は赤兎馬であった。
- 逸話
- 呂布はかつて赤兎馬・金珠・玉帯および李肅の弁舌を受け、そのまま丁原(ていげん)を殺して董卓(とう たく)を義父と拝した。彼はみずから「王司徒(王允)と謀って董卓を殺した」と言い、後に定陶(ていとう)へ敗走し、劉備(りゅうび)を頼って徐州に迎え入れられた。彼はかつてみずから中軍を統べて三方の救援に当たったが、最期には階下の囚人の姿となって階上の玄徳(げんとく)と対比された。
人間関係
77 件の関係
親族5
君臣5
友人11
敵対20
その他28
名言
全 131 件の台詞 · 厳選 3 件
「轅門離中軍一百五十步,吾若一箭射中戟上小枝,你兩家罷兵;如射不中時,各自回營,安排廝殺。有不從吾言者,併力拒之。」
轅門射戟(えんもんしゃき)の故事は、呂布(りょふ)の武勇と豪気を示し、広く伝わっている。
「大丈夫生居天地間,豈能鬱鬱久居人下!」
呂布(りょふ)が董卓(とう たく)に背く際の内心の独白で、人の下に甘んじない性格を示している。
「明公所患不過於布,今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」
呂布(りょふ)が曹操(そうそう)に助命を乞う言葉で、末路のあがきと自らの武力への自信を映している。
登場回28 回 ▸
- 史ch.1ch.6ch.7ch.8ch.10ch.11ch.14ch.17ch.18ch.22ch.32ch.38
- 演ch.3ch.4ch.5ch.6ch.8ch.9ch.11ch.12ch.13ch.14ch.15ch.16ch.17ch.18ch.19ch.44
関係の年表37 条 ▸
史 ch.1
- 袁術(えんじゅつ)§39
friend_of
使高顺攻刘备;陈宫等求救于术
史 ch.6
- 丁原(ていげん)§4
enemy_of
卓使吕布杀丁原
史 ch.7
史 ch.32
- 劉備(りゅうび)§6
fights_in
乘虚袭下邳虏先主妻子
史 ch.38
- 劉備(りゅうび)§16
enemy_of
乘先主出拒袁术袭下邳虏先主妻子
演 ch.4
- 董卓(とう たく)§23
serves
揪倒伍孚以救卓;侍立卓侧
演 ch.5
- 董卓(とう たく)§32
kin_of
父子(吕布称卓"父亲",卓呼吕布"奉先")
演 ch.6
serves
从董卓回洛阳,受命断后
演 ch.8
serves
义子;筵上揪斬张温,又寄卓信「錯下吾兒奉先處」
- 貂蟬(ちょうせん)§25
spouse_of
凤仪亭私会,发愿「今生不能以汝為妻,非英雄也」;为卓夺所恨而生反心
演 ch.9
演 ch.11
演 ch.12
- 曹操(そうそう)§6
fights_in
火光中执戟击曹操盔却不识
演 ch.13
enemy_of
欲再投袁绍未果(袁绍反遣颜良助曹)
- 劉備(りゅうび)§2
defected_to
自定陶败、远投刘备求容;并马入城受礼
演 ch.14
- 劉備(りゅうび)§27
serves
投玄德居小沛;闻曹操密计欲杀之,泣谢玄德
演 ch.15
witnesses
令兵把定宅门、禁诸人不得入;常使侍妾送物未尝有缺
演 ch.16
- 劉備(りゅうび)§7
oath_brother
自称兄弟、辕门射戟以解其危
演 ch.17
enemy_of
公开为敌;袁术大骂「背主家奴」、吕布挺戟而前
演 ch.18
演 ch.19
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は白門楼の上にいる。縄で縛られ、城外の兵のざわめきもすでに静まった。つい先ほどまで、私は「縛るのがきつすぎる、少し緩めよ」と言っていたが、曹操(そうそう)は「虎を縛るには、きつくせざるを得ぬ」と答えた。この言葉も、あながち間違いではない。
- 私は呂布(りょふ)、字は奉先(ほうせん)という。人々は常々、勇名をもって私を評する。まるで画戟一本、赤兎馬一頭さえあれば、天下を定められるかのように。昔、成廉、魏越とともに敵陣を突き破り、燕を破ったことを思い出す。諸軍は風に草木がなびくよう
- 昔、私は五原郡九原県に生まれ、武勇をもって并州に仕えた。丁原(ていげん)は并州刺史として河内に兵を駐屯させ、私を主簿に任じ、たいそう厚遇してくれた。主簿は目立つ官職ではなかったが、そのおかげで彼の側近くに仕え、軍府の務めを知ることができた。
生涯の大事21 ▸
- 0189-01-01 · 洛陽(らくよう)董卓の乱(とうたくのらん)· 武将
- 0190-01-01 · 虎牢關三英の呂布との戦い(さんえいのりょふとのたたかい)· 武将
- 0190-01-01 · 陽人聚陽人の戦い(ようじんのたたかい)· 武将
- 0192-01-01 · 長安(ちょうあん)王允の連環の計(おういんのれんかんのけい)· 武将
- 0194-01-01 · 兗州(えんしゅう)兗州における呂布の乱(えんしゅうにおけるりょふのらん)· 総大将
- 0194-01-01 · 徐州(じょしゅう)曹操の徐州攻め(そうそうのじょしゅうぜめ)· 首謀者
- 0194-01-01 · 濮陽(ぼくよう)濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)· 総大将
- 0194-01-01 · 鄄城(けんじょう)程昱の三城防衛・陳宮を阻む(ていいくのさんじょうぼうえい・ちんきゅうをはばむ)· 総大将
- 0195-01-01 · 兗州(えんしゅう)兗州の戦い(えんしゅうのたたかい)· 総大将
- 0195-01-01 · 定陶(ていとう)定陶にて呂布を破る(ていとうにてりょふをやぶる)· 総大将
- 0196-01-01 · 許昌(きょしょう)二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)· 被害者
- 0196-01-01 · 徐州(じょしゅう)呂布の徐州奪取(りょふのじょしゅうだっしゅ)· 総大将
- 0196-01-01 · 長安(ちょうあん)李傕・郭汜の乱(りかく・かくしのらん)· 総大将
- 0196-01-01 · 小沛(しょうはい)轅門射戟(えんもんしゃき)· 首謀者
- 0197-01-01 · 小沛(しょうはい)呂布の小沛襲撃(りょふのしょうはいしゅうげき)· 総大将
- 0197-01-01 · 寿春(じゅしゅん)袁術の帝位僭称(えんじゅつのていいせんしょう)· 目撃者
- 0198-01-01 · 下邳(かひ)下邳の戦い(かひのたたかい)· 戦死
- 0198-01-01 · 下邳(かひ)沂水・泗水決壊による下邳水攻め(ぎすい・ししすいけっかいによるかひみずぜめ)· 被害者
- 0198-01-01 · 徐州(じょしゅう)陳登(ちんとう)の反間の計と布陣· 総大将
- 0199-01-01 · 寿春(じゅしゅん)曹操の袁術討伐(そうそうのえんじゅつとうばつ)· 武将
- 0199-01-01 · 下邳(かひ)白門楼の審問(はくもんろうのしんもん)· 被害者