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楊奉(ようほう)

袁術集団(えんじゅつしゅうだん) · 降将

楊奉(ようほう)

登場回
6
台詞の記録
11
人間関係
9
内面の独白
3

史載(Historical Record)

楊奉(ようほう)は、後漢末年の車騎将軍であり、その生涯は主に献帝の洛陽(らくよう)遷都前後に活躍した。初めは李傕(りかく)の部将であったが、後に李傕(りかく)の行いに不満を抱き、宋果(そうか)らと密かに李傕(りかく)を刺殺する謀をめぐらし、事が漏れた後に兵を率いて反叛した。この挙は李傕(りかく)の軍心を散らし、勢力を日増しに衰えさせた c:2517。張済(ちょうさい)の斡旋により、漢献帝は長安(ちょうあん)から東へ帰ることができた。献帝の車駕が新豊、霸陵一帯に至った時、郭汜(かくし)は再び天子を劫して郿坞へ戻そうと意図した。この時、楊奉(ようほう)は部を率いて駕を迎え、郭汜(かくし)を撃破し、彼を南山へ敗走させた。続いて、楊奉(ようほう)は将軍・董承(とうしょう)とともに天子を護送して洛陽(らくよう)へ帰した c:2517。

しかし、李傕(りかく)、郭汜(かくし)はたちまち天子を放ったことを後悔し、二人は再び和し、献帝を弘農の曹陽で追撃した。楊奉(ようほう)は急ぎ河東の白波帥・韓暹(かんせん)、胡才(こさい)、李楽(りがく)らの部を召集し、ともに李傕(りかく)、郭汜(かくし)と激戦を展開した。この戦いで楊奉(ようほう)軍は失利し、李傕(りかく)らは機に乗じて兵を放ち公卿百官および宮人を劫掠した c:2517。天子はやむなく車を捨てて歩き、北のかた黄河を渡り、最終的に楊奉(ようほう)、韓暹(かんせん)らの護衛のもと安邑に至った。安邑において、献帝は牛車を歩みの代わりとし、随行の近臣はわずか十余人であった。楊奉(ようほう)は韓暹(かんせん)、胡才(こさい)、李楽(りがく)、董承(とうしょう)とともに朝政を執り、それぞれ征東、征西、征北将軍に封じられた。その間、楊奉(ようほう)はかつて太僕・韓融を遣わして弘農へ赴かせ李傕(りかく)、郭汜(かくし)と議和し、劫掠された宮人および官員を贖い戻すことを期した c:2517。

連年の戦乱に加え、蝗害旱害により、糧食が乏しく、朝廷の上下は困境に陥った。諸将の間は矛盾が重なり、協調しがたく、最終的に楊奉(ようほう)、韓暹(かんせん)、董承(とうしょう)は天子を護送して洛陽(らくよう)へ帰すことを決めた。道中、河内太守・張楊(ちょうよう)が軹道で献帝を迎え、糧食の補給を提供した c:2517。献帝が洛陽(らくよう)に至った時、宮室はことごとく毀れ、百官は流離失所し、飢寒交迫していた。この時、楊奉(ようほう)はかつて韓暹(かんせん)とともに曹操(そうそう)を鎮東将軍に表奏し、その父の爵・費亭侯を襲わせた c:12404。

楊奉(ようほう)の麾下には徐晃(じょこう)という名の将領がおり、字を公明といい、河東楊県の人である。徐晃(じょこう)は早年に楊奉(ようほう)に従って賊を討ち功があり、騎都尉に拝された。李傕(りかく)、郭汜(かくし)の乱の中で、徐晃(じょこう)はかつて楊奉(ようほう)に天子を護送して洛陽(らくよう)へ帰すよう勧め、楊奉(ようほう)はその建議を採用した。天子が河を渡って安邑に至った後、徐晃(じょこう)は都亭侯に封じられた。献帝が洛陽(らくよう)に至り、韓暹(かんせん)と董承(とうしょう)の間の矛盾が日増しに激化した時、徐晃(じょこう)は再び楊奉(ようほう)に曹操(そうそう)に帰附するよう勧めた。楊奉(ようほう)は一度はそれに従う意があったが、最終的に翻意した。曹操(そうそう)はその後楊奉(ようほう)を梁地で討伐し、徐晃(じょこう)はそこで曹操(そうそう)に投じた c:2518。楊奉(ようほう)のその後の事績は史書には明確な記載がない。

演中(In the Novel)

『三国演義』においては、楊奉(ようほう)の人物像はさらに造形され、その忠義と反覆の性格的特徴がより突出している。彼は李傕(りかく)が天使・皇甫酈(こうほり)を殺そうとした際に初めて登場し、当時、楊奉(ようほう)は騎都尉として、賈詡(かく)とともに李傕(りかく)を諫め、天使を殺害すれば郭汜(かくし)に兵を興す口実を提供し、諸侯の干渉を招くと指摘した c:2519。

続いて、李傕(りかく)は女巫の言によって大司馬に封じられたが、生死を出入りした将士を賞賜しなかった。楊奉(ようほう)はこれに大いに不満を抱き、自分と宋果(そうか)らが生死を出入りしたのに、功労はかえって女巫に及ばないと考えた。彼は宋果(そうか)と密かに謀り、夜に火を放って合図とし、内外から挟撃して李傕(りかく)を刺殺しようとした。しかし、事が密かでなく、宋果(そうか)は殺された。楊奉(ようほう)は事の敗れたのを見て、兵を率いて西安へ投じた c:12395。

献帝が張済(ちょうさい)の護送のもと東へ帰る途中、郭汜(かくし)が再び追撃し、駕を劫しようと意図した。この時、楊奉(ようほう)は「大漢楊奉」の旗号を掲げた一軍を率いて終南山から駆けつけ、天子を保護した。華陰県において、郭汜(かくし)の部将・崔勇(さいゆう)が陣を出て罵ると、楊奉(ようほう)麾下の大将・徐晃(じょこう)が馬を出し、一合で崔勇(さいゆう)を斬殺し、郭汜(かくし)軍を撃破した c:12397。楊奉(ようほう)はこれによって献帝の慰労を受け、斬将者は誰かと問われると、徐晃(じょこう)を引き合わせた c:12397。

献帝を護送して河を渡る際、楊奉(ようほう)は馬の手綱をつなぎ合わせ、献帝の腰に結んで船を下りやすくするよう提議した。国舅・伏德は十数匹の白絹を取り出し、つなぎ合わせて縄とした。行軍校尉・尚弘は献帝を背負って船を下りた c:12399。河を渡った後、李楽(りがく)はかつて李傕(りかく)、郭汜(かくし)の追兵と詐称し、駕を劫しようと意図したが、徐晃(じょこう)に一斧で斬殺された c:12400(この場面は史実における李楽(りがく)が護駕の将領であったのとは著しく異なる)。

献帝が洛陽(らくよう)に至った後、城郭が残破していたため、李傕(りかく)、郭汜(かくし)が再び襲来し、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)はかつて敵と決死の一戦を交えることを望むと表明した。しかし董承(とうしょう)が山東へ避けることを建議し、献帝はこの議を採用した c:2521。曹操(そうそう)が軍を率いて洛陽(らくよう)に入った後、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)は曹操(そうそう)が大権を独り占めし、自分たちを容れないことを恐れ、李傕(りかく)、郭汜(かくし)を追殺するという名目で、兵を率いて大梁に屯駐した c:12402(この挙は史実における楊奉(ようほう)がかつて曹操(そうそう)を鎮東将軍に表奏したのとは食い違いがある)。

徐晃(じょこう)は満寵(まんちょう)の説得のもと、楊奉(ようほう)を離れて曹操(そうそう)に投じることを決めた。楊奉(ようほう)はこれを知って大いに怒り、軍を率いて追撃したが、曹操(そうそう)の伏兵に遭遇した。楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)は最終的に敗走し、袁術(えんじゅつ)に投じた c:2522。

後に、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)は袁術の帝位僭称(えんじゅつのていいせんしょう)の後、袁術(えんじゅつ)によって徐州(じょしゅう)を征討する七路の大軍の将領の一人に任じられた c:5753。呂布(りょふ)を攻める際、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)は夜に火を放ち、呂布(りょふ)軍を寨に引き入れ、張勲(ちょうくん)を大敗させた。続いて、彼らはまた呂布(りょふ)とともに紀霊(きれい)を撃破した c:5754。呂布(りょふ)は勝った後、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)を徐州(じょしゅう)に留めようと思ったが、陳珪(ちんけい)が諫めて阻み、この二人は山東に拠れば、一年もたたぬうちに城郭をことごとく呂布(りょふ)に帰せると考えた。呂布(りょふ)は陳珪(ちんけい)の建議を採用し、二人を沂都、琅琊に安置した c:5755。その後、楊奉(ようほう)は演義において再び明確な記載がない。

重要な関係

* 李傕(りかく):楊奉(ようほう)は最初その部将であったが、後にその行いに不満を抱いて裏切り、李傕(りかく)を刺殺する謀をめぐらし、その勢力を衰えさせた c:2517。演義では、楊奉(ようほう)は李傕(りかく)が女巫を重く賞して将士を軽んじたために、憤って謀反した c:12395。
* 徐晃(じょこう):楊奉(ようほう)の部将であり、またその重要な謀士であり戦将であった。徐晃(じょこう)はかつて何度も楊奉(ようほう)に建議を提出し、天子を洛陽(らくよう)へ護送して帰すこと c:2518、曹操(そうそう)に帰附することなどを含む。最終的に、徐晃(じょこう)は曹操(そうそう)が楊奉(ようほう)を討伐する際に曹操(そうそう)に投じた c:2518。演義では、徐晃(じょこう)は楊奉(ようほう)麾下の猛将であり、かつて郭汜(かくし)の部将・崔勇(さいゆう) c:12397、李楽(りがく)(演義独自)を斬殺した c:12400。
* 献帝(けんてい)(漢献帝):楊奉(ようほう)は献帝の東帰および洛陽(らくよう)への還幸の過程において重要な保護者の役割を演じ、かつて郭汜(かくし)を撃破し、天子を護送した c:2517。演義では、楊奉(ようほう)は献帝に対して一定の忠誠を示し、何度も駕を護った c:12397。
* 袁術(えんじゅつ):楊奉(ようほう)は史書において袁術(えんじゅつ)に投じたとの明確な記載はない。演義では、楊奉(ようほう)は曹操(そうそう)に敗れた後、韓暹(かんせん)とともに袁術(えんじゅつ)に投じ c:2522、その麾下の将領となり、呂布(りょふ)を攻める戦役に参与した c:5753。
* 韓暹(かんせん):史書には、楊奉(ようほう)が韓暹(かんせん)、胡才(こさい)、李楽(りがく)ら白波帥とともに天子を護送し、朝政を執ったと記載されている c:2517。演義では、韓暹(かんせん)と楊奉(ようほう)は関係が密接で、二人はともに進退し、最終的にともに袁術(えんじゅつ)に投じた c:2522。
* 董承(とうしょう):史書には、楊奉(ようほう)が董承(とうしょう)とともに天子を護送して洛陽(らくよう)へ帰したと記載されている c:2517、そしてともに朝政を執った。演義では、董承(とうしょう)はかつて献帝に山東へ避けるよう建議し、楊奉(ようほう)の決策とは異なった c:2521。

象徴的な場面

* 李傕(りかく)を刺殺する謀をめぐらし、兵を率いて反叛する:楊奉(ようほう)は李傕(りかく)の暴行に不満を抱き、宋果(そうか)らと密かに李傕(りかく)を刺殺する謀をめぐらし、事が漏れた後に兵を率いて反叛し、この挙は直接李傕(りかく)の勢力を衰えさせ、献帝の東帰のための条件を作り出した c:2517。演義では、この事件は楊奉(ようほう)が李傕(りかく)の女巫を重く賞して将士を軽んじたために、憤って謀反したものとして描かれている c:12395。
* 郭汜(かくし)を撃破し、献帝を護送して洛陽(らくよう)へ帰す:献帝の東帰の途中、郭汜(かくし)が駕を劫しようと意図し、楊奉(ようほう)は兵を率いて郭汜(かくし)を撃破し、董承(とうしょう)とともに天子を護送して洛陽(らくよう)へ帰し、その護駕の功績を示した c:2517。演義では、この場面で徐晃(じょこう)が初めて頭角を現し、崔勇(さいゆう)を斬殺した c:12397。
* 白波帥とともに朝政を執る:天子が安邑に至った後、楊奉(ようほう)は韓暹(かんせん)、胡才(こさい)、李楽(りがく)、董承(とうしょう)とともに朝政を執り、当時の朝廷における重要な地位を示した c:2517。
* 徐晃(じょこう)が曹操(そうそう)に投じる:楊奉(ようほう)の部将・徐晃(じょこう)は曹操(そうそう)が楊奉(ようほう)を討伐する際、最終的に曹操(そうそう)に投じることを選び、この事件は楊奉(ようほう)の勢力のさらなる削弱を示し、その最終的な結末をも予示した c:2518。演義では、徐晃(じょこう)は満寵(まんちょう)の説得のもと、主を弑することを望まなかったが、最終的になお楊奉(ようほう)を離れることを選んだ c:12403。
* 袁術(えんじゅつ)に投じ、呂布(りょふ)攻めに参与する(演義独自):演義では、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)は曹操(そうそう)に敗れた後、袁術(えんじゅつ)に投じ、袁術(えんじゅつ)の将領として呂布(りょふ)の征討に参与し、ついには夜に火を放ち、呂布(りょふ)が張勲(ちょうくん)を撃破するのを助けた c:5754。この場面は楊奉(ようほう)の演義における反覆無常な性格を示している。
* 沂都、琅琊に安置される(演義独自):呂布(りょふ)は陳珪(ちんけい)の建議を採用し、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)を徐州(じょしゅう)に留めず、沂都、琅琊に安置し、二人がもたらしうる隠患を避けた c:5755。

肖像アーカイブ

人物像

性格
楊奉(ようほう)はかつて李傕(りかく)の部将であったが、のちに李傕に叛いた。彼は董承(とうしょう)・韓暹(かんせん)とともに天子を護送して洛陽(らくよう)に還り、当時、献帝を奉じて洛陽に還った将領の中で最も兵馬の強い一人であった。彼はかつて韓暹(かんせん)と共同で行動し、また呂布(りょふ)と力を合わせて張勲(ちょうくん)に対抗した。
生涯
楊奉(ようほう)はかつて李傕(りかく)の軍吏である宋果(そうか)らと李傕の暗殺を謀ったが、事が漏れて叛いた。郭汜(かくし)が天子を脅して郿へ遷都させようとしたとき、天子は楊奉の営中に奔り、楊奉は郭汜(かくし)を撃破し、董承(とうしょう)とともに天子を奉じて洛陽(らくよう)に還ったが、のちに曹陽で敗れた。彼はかつて韓暹(かんせん)とともに徐・揚の間で劫掠し、最後には劉備(りゅうび)に邀撃されてことごとく斬られた。
逸話
楊奉(ようほう)はかつて董承(とうしょう)と誓って二賊を斬ることを約し、終南山に屯兵した。彼はかつて騎都尉であったが、宋果(そうか)との挙事が成らなかったため、兵を引いて西安に投じ、駕を保して終南山に屯し献帝を救った。彼はかつて天子を奉じて洛陽(らくよう)に還るよう勧めたが、のちに曹に帰す議を悔い、最後には敗れて袁術(えんじゅつ)に投じた。

人間関係

9 件の関係

名言

全 11 件の台詞 · 厳選 3 件

「吾等出生入死,身冒矢石,功反不及女巫耶?」

演 第13回→ 宋果(そうか)

この一句は楊奉(ようほう)の功績の分配に対する不満を示し、群雄割拠の時代における将領の心境を反映している。

「今曹操成了大功,必拏重權,如何容得我等?」

演 第14回→ 韓暹(かんせん)📍 洛陽(らくよう)

この一句は楊奉(ようほう)と曹操(そうそう)の衝突を予示し、軍閥間の利益争奪の本質を反映している。

「兗州諸軍近在許耳,有兵有糧,國家所當依仰也。」

史 第14回

この一句は楊奉(ようほう)が正史において述べた重要な発言であり、時局に対する判断と曹操(そうそう)への依存を表している。

登場回6 回 ▸
  • 史ch.6ch.14ch.17
  • 演ch.13ch.14ch.17
関係の年表5 条 ▸

史 ch.17

演 ch.13

演 ch.14

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は楊奉(ようほう)、字は詳らかでない。乱世では兵馬の集散は風のようであり、今日頼りにしている相手が、明日も頼れるとは限らない。かつて私は徐晃(じょこう)とともに賊を討ち、彼が功を立てて拝命するのを見た。その後、長安(ちょうあん)で兵乱が起
  • 私は楊奉(ようほう)、字は不詳である。今振り返って最も忘れがたいのは、軍中の号令ではなく、車駕がさすらい、天子が塵にまみれたことだ。追手が迫り、皆が陛下に車を捨てて徒歩で進むよう勧め、黄河の岸辺までたどり着いた。寒さは厳しく水の流れは速いう
  • 私は楊奉(ようほう)、字は不詳である。かつて軍に従って各地を転々とし、乱世に身を置いたが、目にした災いは一日にして起きたものではなかった。朝廷の詔命はなお存在していたものの、軍中ではそれぞれが強弱をうかがっていた。ひとたび戦が始まれば、天子
生涯の大事9 ▸