
史書の記録(Historical Record)
高順(こうじゅん)は、呂布(りょふ)配下の将であり、その清廉で威厳ある品格と精鋭部隊「陥陣営」で知られる。彼は人となりとして酒を飲まず、贈り物を受け取らず、率いる七百余名の兵士は千人と号され、鎧や武具は精練され整っており、攻撃のたびに敵陣を破ることができた c:4316。高順は呂布に忠誠を尽くし、たびたび諫言して呂布の決断上の誤りを指摘し、「およそ家を破り国を亡ぼすのは、忠臣や明智の者がいないからではなく、ただ用いられないことを患えるのみである。将軍の挙動は、詳しく思うことを肯んぜず、しばしば言を誤ることを喜び、その誤りは数えきれない」と述べた。呂布はその忠誠を知りながらも、その進言を採用することができなかった。郝萌(かくぼう)の叛変の事件の後、呂布は高順をさらに疎んじ、ついには高順の部下の兵馬をことごとく奪い、自分と親戚関係にある魏續に引き渡した。しかし、攻戦を要するときには、呂布はなお高順に魏續の部隊を率いさせ、高順はこれに対しても終始恨む様子がなかった c:4316。
建安三年(西暦198年)、呂布は袁術(えんじゅつ)に背き、高順を派遣して沛で劉備(りゅうび)を攻めさせ、見事にこれを撃破した。曹操(そうそう)は夏侯惇(かこう とん)を派遣して劉備を救援させたが、夏侯惇もまた高順に撃破された c:4316。高順はこの戦役で劉備の妻子を捕らえ、これを呂布のもとへ送り返した c:4317。その後、曹操は自ら大軍を率いて呂布を征討し、下邳(かひ)を包囲した。呂布はかつて陳宮(ちんきゅう)の計を採用し、城を出て曹操と周旋することを考えたが、その妻の諫めによって取りやめた。城が三か月にわたって包囲された後、呂布の部将である侯成(こうせい)・宋憲(そうけん)・魏續らは陳宮を縛り上げ、衆を率いて投降した。呂布は最終的に白門楼の上で投降し、曹操に生け捕られた。劉備はこのとき進言して、呂布がかつて丁原(ていげん)と董卓(とう たく)に背いたことを曹操に思い起こさせ、曹操は最終的に呂布を処刑することを決定した。呂布は縊り殺された後、その首級は陳宮・高順らの首級とともに梟首されて許都(きょと)へ送られ、その後ようやく埋葬された c:4316。
演義の中(In the Novel)
『三国演義』において、高順の人物像はある程度史書の忠誠と勇猛さを受け継いでいるが、その登場と参加する出来事はより多くの劇的な色彩と細部が付与されている。彼は呂布の重要な将として、たびたび劉備への軍事行動に参加する。たとえば第14回において、呂布は陳宮の計を採用して徐州(じょしゅう)を夜襲し、高順は呂布・陳宮とともに行動し、呂布がまず五百騎を率いて先行し、高順はその後に大軍を率いて進発した c:4318。
高順は小説の中でたびたび呂布の命を受けて劉備を攻めた。袁術はかつて呂布に糧草や財物を約束し、その見返りとして呂布に劉備を挟撃させようとしたため、呂布は高順に五万の兵馬を率いさせて劉備の後方を襲わせた。劉備は知らせを得ると、陰雨に乗じて兵を退き、高順は追いつくことができなかった。高順は紀霊(きれい)と会見した後、紀霊は袁術の約束を果たせなかったことを言い逃れたため、高順はやむなく軍を返して呂布に復命した c:6813。別の折に呂布が小沛(しょうはい)を攻めたとき、高順は張遼(ちょうりょう)とともに命を受けて城を攻め、高順は敵楼の下で劉備になぜ曹操と結盟したのかを問い詰め、直ちに城を攻めた。張遼は西門を攻め、関羽(かんう)はかつて張遼に投降を勧めようとしたが、張遼は応えなかった c:15646。
『演義』においても、高順が呂布集団(りょふしゅうだん)における軍事的役割が描かれており、彼はしばしば張遼・陳宮らとともに呂布に派遣されて任務を執行する。たとえば、呂布と曹操・劉備とのたびたびの交戦において、高順はしばしば呂布が五路に分けた兵の一員として、特定の目標を攻めることを担った c:6815。呂布が下邳で包囲されたとき、高順の結末は史実と一致し、最終的に曹操に処刑された c:4316。小説では高順の「陥陣営」の名は明確には言及されていないが、呂布配下の猛将としての人物像は終始一貫している。
重要な関係
* 呂布集団(serves):高順は呂布配下の重要な将であり、忠誠を尽くし、たびたび呂布のために謀を巡らせ、軍を率いて征戦した。彼はたびたび諫言しながらも採用されず、兵権すら削がれたが、終始恨み言を述べることなく、最後まで呂布とともに死に赴いた c:4316。
* 呂布(serves):高順と呂布は主従の関係にある。高順は呂布に忠誠であり、たびたび率直に呂布の過失を指摘したが、呂布はその言を「用いることができず」、親疎の関係からその兵権を削いだ。それでもなお、高順は呂布が必要とするときには心を尽くして戦った c:4316。
* 劉備(enemy_of):高順と劉備は敵対関係にある。史実と演義の双方において、高順はたびたび呂布の命を受けて劉備を攻め、劉備を撃破してその妻子を捕らえたこともある c:4316, c:4317。演義では、高順は城下で直接劉備を問い詰め、軍を率いて城を攻めさえした c:15646。
* 曹操(enemy_of):高順は呂布の将として、曹操とは敵対関係にある。彼は曹操が派遣した援軍の夏侯惇を撃破したが、曹操が自ら呂布を征した後、最終的に呂布とともに曹操に擒えられ殺された c:4316。
象徴的な場面
* 夏侯惇を撃破し、劉備の妻子を捕らえる:建安三年、高順は呂布の命を受けて沛で劉備を攻め、劉備を撃破しただけでなく、救援に来た夏侯惇をも撃退し、劉備の妻子を捕らえた。この戦役は高順の軍事的才能と「陥陣営」の強大な戦闘力を十分に示した c:4316, c:4317。
* たびたび呂布を諫めるも呂布は用いることができず:高順はたびたび呂布に諫言し、その決断の誤りを指摘し、「家を破り国を亡ぼす」結末を予言した。彼は率直に呂布を批判して「将軍の挙動は、詳しく思うことを肯んぜず、しばしば言を誤ることを喜び、その誤りは数えきれない」と述べた。呂布は高順の忠誠を知りながらも、終始その進言を採用することができず、これは呂布が最終的に敗亡する重要な原因の一つとなり、高順の先見の明と忠誠をも浮き彫りにした c:4316。
* 白門楼で死に赴く:下邳城が破れ、呂布が擒えられた後、高順は陳宮らとともに曹操に処刑された。この場面は呂布集団の完全な覆滅を示すと同時に、呂布の忠臣としての高順の最終的な帰結を示している c:4316。
* 命を受けて小沛を攻め、劉備を問い詰める:『三国演義』において、高順はかつて呂布の命を受けて小沛を攻め、城下で直接劉備になぜ曹操と結盟したのかを問い詰め、その後軍を率いて城を攻めた。この筋立ては、呂布の先鋒としての高順の人物像、および劉備との直接的な衝突を生き生きと描いている c:15646(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 高順(こうじゅん)は人となりが清廉で威厳があり、酒を飲まず、贈り物も受け取らなかった。彼は再三にわたり呂布(りょふ)に諫言したが、呂布はその進言を採り入れることができなかった。
- 生涯
- 高順(こうじゅん)は呂布(りょふ)の命を受けて劉備(りゅうび)を攻め、劉備を破り、さらに劉備の妻を捕らえて呂布に送った。
- 逸話
- 高順(こうじゅん)は呂布(りょふ)の将であり、陥陣営の将でもあった。下邳(かひ)城が落ちたとき曹操(そうそう)に捕らえられ、何も言わなかったために斬殺された。
人間関係
5 件の関係
台詞
- 演 ch.18 §21→ 劉備(りゅうび)
「你結連曹操,欲害吾主,今事已露,何不就縛?」
登場回8 回 ▸
- 史ch.7ch.32
- 演ch.14ch.15ch.16ch.17ch.18ch.19
関係の年表3 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は主命を奉じて兵を率い、沛を攻めた。目の前にあったのは、ただ一つの城ではない。劉備(りゅうび)が散り散りになった兵を集め、兵と兵糧を得たのち、次第に脅威となっていく姿だった。先に彼が窮して帰ろうとしたとき、呂布(りょふ)は州へ戻ることを許
- 私は高順(こうじゅん)、字は伝わっていない。一軍を率いる者の責務は、声勢を誇ることではなく、戦場で動揺せず、号令を行き渡らせることにある。かつて私が率いた陥陣の兵は七百余人で、千人と称されていた。甲冑も武器も精良に整い、攻めれば破れぬものは
- 私は若い頃にどのような経験をしたのか、史書には詳しく記されておらず、みだりに語ることはできない。姓名が呂布(りょふ)の幕下に列せられてからは、軍に従って命令を聞いていた。故郷や家柄、初めて従軍した年月については、自ら語るすべがない。漢末の戦
生涯の大事6 ▸
- 0194-01-01 · 濮陽(ぼくよう)濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)· 武将
- 0195-01-01 · 定陶(ていとう)定陶にて呂布を破る(ていとうにてりょふをやぶる)· 武将
- 0196-01-01 · 徐州(じょしゅう)呂布の徐州奪取(りょふのじょしゅうだっしゅ)· 武将
- 0197-01-01 · 小沛(しょうはい)呂布の小沛襲撃(りょふのしょうはいしゅうげき)· 総大将
- 0198-01-01 · 下邳(かひ)下邳の戦い(かひのたたかい)· 武将
- 0199-01-01 · 下邳(かひ)白門楼の審問(はくもんろうのしんもん)· 被害者