史載(Historical Record)
孫桓(そん かん)、字は叔武は、呉国宗室の孫河(そん か)の子である。『呉書』によれば、孫河には子が四人あり、孫桓は第三にあたる。彼は容貌端正、器宇は軒昂とし、聡慧明朗にして、博学強記、議論応対に長じていた。孫権(そん けん)はかつて彼を「宗室の顔淵」と称賛し、武衛都尉に抜擢した c:1358。
孫桓はわずか二十五歳の時、安東中郎将に任じられ、陸遜(りくそん)とともに劉備(りゅうび)の進攻を防いだ。当時劉備の軍は声勢盛んで「山に弥り谷に盈つ」るほどであったが、孫桓はよく奮闘し、陸遜と協力して、最終的に劉備の軍を撃破した。孫桓は戦役の中で上(兜)(夔)道を断ち切り、劉備の退路の要衝を遮断した。劉備はこのため山を越え嶺を越えて、かろうじて逃れ得て、憤って嘆じた、「吾、昔初めて京城に至りしとき、桓はなお小児なりき、しかるに今、孤を迫ること乃ちここに至れり」と c:1358。孫桓は戦功により建武将軍に任じられ、丹徒(たんと)侯に封じられ、後にまた命を受けて牛港を督し、横江坞を修築したが、まもなく死去した。
夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の初期、孫桓はかつて命を受けて単独で劉備の前鋒部隊を夷道に討ったが、劉備の軍に包囲された。彼は陸遜に救援を求めたが、陸遜は「未だ可ならず」と考え、すぐには救援しなかった。当時諸将は陸遜が孫桓を救わないことを理解できなかったが、陸遜は「安東は士衆の心を得、城は牢く糧は足る、憂うるなかれ。吾が計の展ぶるを待たば、安東を救わんと欲せずとも、安東は自ら解けん」と説明した c:1360。陸遜の戦略的配置が大いに施された後、劉備は果たして潰敗した。戦後、孫桓は陸遜に会った時に言った、「前には実に救われざるを怨みき、今日に定まりて、乃ち調度に自ら方ある耳を知れり」と c:1360。これは彼が最終的に陸遜の戦略的先見を理解し認めたことを示している。劉備を防ぐ戦役において、一部の将領は孫策(そん さく)の時の旧将、あるいは公室の貴戚であり、彼らはそれぞれ才を恃んで傲り、互いに従わなかった。陸遜はこのためかつて剣を按じて諸将を震え上がらせ、もって軍紀を維持した。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、孫桓の人物像はより多くの劇的な色彩と血気盛んな若さの特徴を与えられている。彼が初めて登場するのは孫権が王を称した後、劉備が大挙して東呉に進攻した時のことである。孫権が憂いを分かつ者がいないと嘆いた際、わずか二十五歳の孫桓が進み出て、自ら名乗りを上げ、兵を率いて蜀を破ることを請うた。彼は「年は幼しといえども、かなり兵書に習う」と自称し、麾下に李異、謝旌の二員の猛将がいることに言及した c:1361。孫権は彼の英勇を肯定したものの、その年若さを考慮し、虎威将軍の朱然(しゅぜん)を遣わして彼とともに出征させ、孫桓を左都督、朱然を右都督に任命し、五万の水陸の大軍を統べさせた。
孫桓は軍を率いて宜都の界口に屯し、蜀軍と対峙した。両軍の陣前において、彼は張苞(ちょうほう)、関興(かんこう)と激しい言葉の応酬を交わした。張苞は彼を「竪子」と罵り、孫桓は反唇相譏し、張苞の父である張飛(ちょうひ)の死因に言及した c:10019。続いて、孫桓の麾下の謝旌が張苞と三十余合交戦した後に敗走した。李異が謝旌に代わって張苞と二十余合交戦し勝負がつかなかったが、呉軍の裨将である譚雄(たんゆう)が冷箭を放って張苞の戦馬に当て、張苞を落馬させた。危急の時、関興が間に合って駆けつけ、一刀のもとに李異を馬下に斬り、張苞を救った。孫桓はこのため大敗し、鉦を鳴らして兵を収めた c:10019。
続いて、孫桓は逃亡の途中で、関興と張苞の挟撃に遭い、その部将である崔禹(さいう)が張苞に生け捕られた。孫桓は残兵敗将を引いて彝陵城へ逃げ、呉班(ごはん)ら蜀軍に包囲された c:10020。陸遜が呂蒙(りょもう)に代わって大都督となった後、周泰(しゅうたい)はかつて陸遜に、孫桓が彝陵城中に包囲され、内に糧草なく、外に救兵なきことに言及し、陸遜に早く良策を施して救援するよう請うた。しかし、陸遜は孫桓が「深く軍心を得ており、必ずよく堅守できる、これを救う必要はない。吾が蜀を破った後を待てば、彼は自ら出てくるであろう」と考えた c:1362。これは史実における陸遜の孫桓の包囲に対する判断と一致するが、演義では周泰の問いと陸遜の応答を通じて、陸遜の智謀と諸将の彼に対する不服をさらに際立たせている。
重要な関係
* 孫河(parent_of):孫桓の父であり、本姓は兪氏であったが、孫策が喜愛したため孫姓を賜り、孫桓もこのため呉王の宗族に属した c:1361。
* 陸遜(fights_in):孫桓は夷陵の戦いにおいて陸遜とともに劉備を防ぎ、最終的に陸遜の戦略的配置を理解し敬服した c:1360。演義においても、陸遜は包囲された孫桓に対して「救わずして自ら解ける」策を採った c:1362。
* 劉備(enemy_of):孫桓は夷陵の戦いにおいて劉備の強力な対手であり、ついには劉備を狼狽して逃げ走らせ、劉備に「吾、昔初めて京城に至りしとき、桓はなお小児なりき、しかるに今、孤を迫ること乃ちここに至れり」と嘆かせた c:1358。
* 孫呉(そんご)(commands_in):孫桓は孫呉の宗室であり、官は建武将軍に至り、丹徒侯に封じられ、かつて安東中郎将、武衛都尉などの職を務め、孫呉政権に尽くした c:1358。
* 張苞(enemy_of、演義独自):演義において、孫桓は張苞と陣前で激しい言葉の衝突と交戦を交わし、孫桓の麾下の大将である李異が最終的に関興に殺され、孫桓もこのため大敗した c:10019。
* 関興(enemy_of、演義独自):関興は演義において張苞を救い李異を斬殺し、孫桓を大敗させ、また孫桓を彝陵城に包囲する行動に参与した c:10019。
象徴的な場面
* 夷陵の戦いで劉備を退ける:孫桓は夷陵の戦いにおいて、陸遜と協力し、その奮勇な戦いによって、劉備の大軍を撃破することに成功し、その退路を断ち切り、劉備を狼狽して逃げ走らせ、劉備に「吾、昔初めて京城に至りしとき、桓はなお小児なりき、しかるに今、孤を迫ること乃ちここに至れり」と感慨を発させた c:1358。これは孫桓の史実における最も代表的な軍事的成果である。
* 夷道に包囲され、陸遜の「救わずして自ら解ける」:孫桓は夷陵の戦いの初期、劉備に夷道で包囲されたが、陸遜はその「城は牢く糧は足る」と判断し、すぐには救援しない策を採った。事後、孫桓は陸遜の深謀遠慮を理解し、「乃ち調度に自ら方ある耳を知れり」と表した c:1360。この場面は、孫桓が陸遜の軍事的才能を認めたことを示すとともに、陸遜の戦略的眼力をも体現している。
* 陣前の罵り合いと彝陵への敗走(演義独自):『三国演義』においては、孫桓は宜都で蜀軍と対峙した際、張苞と激しい陣前の罵り合いを行った。続いて、その麾下の大将である李異が関興に斬殺され、孫桓はこのため大敗し、最終的に残兵を引いて彝陵城へ逃げ、蜀軍に包囲された c:10019。この場面は、孫桓の血気盛んな若さと、演義における蜀軍の前期の勝利の引き立て役としての役割を際立たせている。
人間関係
7 件の関係
名言
全 5 件の台詞 · 厳選 3 件
「臣雖年幼,頗習兵書。願乞數萬之兵,已破蜀兵。」
この一句は孫桓(そん かん)の生まれたばかりの子牛が虎を恐れぬがごとき鋭気を示し、その人物像の典型的な描写となっている。
「汝父已作無頭之鬼,今汝又來討死,好生不智!」
この言葉は嘲りを帯び、戦場での孫桓(そん かん)の傲慢な意気込みと敵への軽蔑を体現している。
「前實怨不見救,定至今日,乃知調度自有方耳。」
この一句は正史に基づくもので、孫桓(そん かん)が陸遜(りくそん)の軍事的才能を認める様を示しており、歴史的意義を持つ。
登場回4 回 ▸
- 史ch.51ch.58
- 演ch.82ch.83
関係の年表5 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は叔武と字した。宗室の中でも、若くして博学で記憶力に優れ、議論や応対に長けていると評判だった。孫権(そんけん)は私を「宗室の顔淵」と称し、武衛都尉に抜擢した。こうした称賛は励ましであると同時に、期待を込めたものでもあった。かつて軍に従って