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李典(りてん)

曹魏(そうぎ) · 校尉

李典(りてん)

字 曼成

登場回
16
台詞の記録
18
人間関係
13
内面の独白
3

史載(Historical Record)

李典(りてん)、字は曼成、山陽鉅野の人。その従父の李乾は、雄武の気をもって賓客数千家を乗氏に集めた。初平年間、李乾は衆を率いて曹操(そうそう)に従い、寿張で黄巾軍(こうきんぐん)を撃破し、後に曹操に従って袁術(えんじゅつ)を征討し、徐州(じょしゅう)征伐の戦役にも参与した。呂布(りょふ)が叛乱した際、曹操は李乾を遣わして乗氏に帰らせ、諸県を安撫慰労させた。しかし、呂布の別駕である薛蘭(せつらん)、治中の李封が李乾を招き、ともに反叛しようと企てたが、李乾は断固として従わず、薛蘭・李封に殺害された。曹操はこれを聞いて、李乾の子である李整に父の旧部を統べさせ、諸将とともに薛蘭・李封を破り、兗州(えんしゅう)の諸県を平定して、しばしば戦功を立て、官は青州(せいしゅう)刺史に至った。李整が没した後、李典は兄に代わって軍を統べ、潁陰令に遷り、後に中郎将に昇り、さらに離狐太守に遷った。『魏書』によれば、李典は幼くして学を好み、軍事には関心がなく、かつて師に就いて『春秋左氏伝』を研読し、博く群書を覧た。曹操はこれを大いに賞賛し、かつて治民の政をもって彼を試用した c:5699。

官渡の戦い(かんとのたたかい)の間、曹操と袁紹(えんしょう)が相持して決せざる中、李典は宗族および部曲を率いて曹操のために穀帛・軍糧を運送した。袁紹が敗れた後、李典は裨将軍に任じられ、兵を屯して民を安んじた。曹操が袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を黎陽(れいよう)に征討した際、李典を程昱(ていいく)らとともに水路の軍糧運輸を担当させた。当時、袁尚は魏郡太守の高蕃に兵を率いて河上に屯駐させ、水道を断っていた。曹操は、船が通行できなければ陸路に改めよと命じた。李典は諸将と議して、高蕃は兵力少なくして水勢を恃み、必ず懈怠の心を生ずるであろう、今これを撃てば必ず勝てると考えた。彼は、軍が外にあって国家に利あらば便宜に事を行ってよく、ただちに高蕃を攻めるべきだと提案した。程昱もこの議に賛同した。そこで彼らは黄河を渡り、高蕃を撃破して、水道を通じさせた c:2447。

劉表(りゅう ひょう)が劉備(りゅうび)を遣わして北のかた葉県に侵攻させた際、曹操は李典を夏侯惇(かこう とん)に従わせて防がせた。劉備が突然に営を焼いて撤退すると、夏侯惇は軍を率いて追撃した。李典は「賊兵が故なく退却するのは、おそらく伏兵があろう。南の道は狭く、草木が茂っており、追撃すべきではない」と考えた。しかし夏侯惇は諫めを聞かず、于禁(うきん)とともに追撃し、李典は後方に留まって守った。果たして、夏侯惇らは劉備の伏撃の圏に陥り、戦いは不利となった。李典が適時に救援に駆けつけると、劉備は援軍の到来を望み見て、散り退いて去った c:2447。

この後、李典は軍に従って鄴(ぎょう)を囲み、鄴が平定された後、また楽進(がくしん)とともに壺関(ここかん)の高幹(こうかん)を囲み、長広で管承を破って、いずれも勝利を得た。彼はこれによって捕虜将軍に昇り、都亭侯に封じられた。李典の宗族・部曲は合わせて三千余戸、乗氏に居住していた。彼は自ら魏郡への移住を請うた。曹操は笑って「卿は耿純に倣おうとするのか」と問うた。李典は謝して「私は資質駑鈍にして功労も微薄であるのに、爵位の恩寵は厚すぎます。当然、挙家して国のために力を尽くすべきです。まして征伐は未だ止まず、なおさら京畿の近くを充実させて四方を震懾すべきであり、耿純に倣うのではありません」と答えた。そこで李典は宗族・部曲合わせて一万三千余口を鄴に移した。曹操は彼を嘉して、破虜将軍に昇進させた c:2447。

建安二十年、曹操は孫権(そん けん)を征討して帰還した後、張遼(ちょうりょう)、楽進、李典ら七千余人を遣わして合肥(がっぴ/ごうひ)を守らせた。曹操が張魯(ちょうろ)を征討した際、護軍の薛悌(せつてい)に密函を残し、函の傍らに「賊至らば乃ち発け」と注記した。まもなく、孫権は十万の大軍を率いて合肥を囲んだ。薛悌らがともに密函を開くと、函中には「もし孫権至らば、張遼・李典将軍は出戦せよ。楽将軍は護軍を守り、参戦するなかれ」と指示されていた。諸将はこの指示に多く疑いを抱いた。張遼は「主公は遠く外に征し、援軍の到着を待てば、我らはおそらくすでに破られていよう。ゆえに密函は、敵軍がまだ集結せぬうちに逆襲し、その鋭気を挫いて軍心を安んじ、然る後に堅守せよと指示しているのだ。成敗はこの一戦にあり、諸君は何を疑うのか」と言った。李典も張遼と意見を同じくした c:2446。そこで張遼は夜を徹して敢死の士八百人を募り、牛を殺して将士を犒い、翌日の大戦に備えた。天が明けると、張遼は鎧を身につけ長戟を手にして真っ先に敵陣に突入し、数十人を斬り、二人の敵将を斬殺し、大声で自ら姓名を名乗りながら孫権の軍営に突入し、孫権の麾下に直迫した。孫権は大いに驚愕し、部衆はどうしてよいか分からず、続々と高い塚に逃げ上り、長戟をもって自衛した。張遼は孫権に陣を下りて迎え戦えと叱令したが、孫権は妄りに動こうとしなかった。張遼の率いる兵力が甚だ少ないのを望み見て、孫権の軍は彼を幾重にも包囲した。張遼は左右に揮い、まっすぐ前へ急撃して、包囲の圏を打ち開き、数十名の部下を率いて重囲を突破した。残りの部衆が「将軍は我らを見捨てるのか」と高呼すると、張遼はまた重囲に取って返して突入し、残る衆を救い出した。孫権の軍は人馬みな披靡(ひび)して、誰も阻む者がなかった。早朝より正午まで戦い、呉軍の士気は大いに挫け、退いて防御の工事を修めるほかなく、城中の軍心はこれによって安定し、諸将は皆張遼に感服した。孫権は合肥を囲むこと十余日、城を攻め落とせず、兵を引いて撤退するほかなかった。張遼は諸軍を率いて追撃し、あやうく再び孫権を擒えるところであった。曹操はこれによって張遼を大いに賞賛し、征東将軍に拝した c:2446。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、李典の登場は比較的早く、第五回において、彼は楽進とともに曹操に投じてきて、曹操に帳前の吏として留められた c:2452。この後、彼は曹操麾下の重要な将領として、曹操の初期の軍事行動に頻繁に登場する。例えば、第六回において、董卓(とう たく)が洛陽(らくよう)を焼き天子を劫遷した後、曹操が諸侯の進まぬのを怒り叱って、自ら兵を率いて董卓を追撃した際、李典は夏侯惇、夏侯淵(かこう えん)、曹仁(そうじん)、曹洪(そうこう)、楽進らの将とともに随行した c:2453。これは史実における李典の曹操初期の軍事行動への参与度と符合するが、ともに董卓を追撃するなどの具体的な細部は演義の文学的創作である。

演義は李典の性格造形において、とりわけその慎重さと大局を顧みる一面を際立たせている。第十二回において、曹操が濮陽(ぼくよう)を攻めた際、李典はかつて曹操に先に城外におり、味方の将士を先に入城させるよう進言したが、曹操は聞かず、自ら兵を率いて入城した c:12260。この後、曹操が囲まれると、典韋(てんい)と李典・楽進らの将領が城の内外で曹操を探し、李典は典韋が曹操を探す際、城外で援軍を催促する役を担った c:12261。

劉備に対する戦役においても、演義は幾度も李典の慎重さを示している。例えば、第三十五回において、曹仁と李典が樊城(はんじょう)に屯兵した際、呂曠・呂翔が兵を請うて新野(しんや)の劉備を攻めたが、結果として二人は殺された。曹仁は急いで仇を報じようとしたが、李典は「二将は敵を侮って亡びました。今はただ兵を按じて動かず、丞相に申し報じて大兵を起こして征剿するのが上策です」と諫めた。彼は劉備が人傑であり軽視できないと考えた c:12262。しかし曹仁は聞かず、李典に従軍を強いた。第三十六回において、曹仁は「八門金鎖の陣」を布いたが、李典は再び曹仁に劉備軍中に必ず能者がいると注意したが、曹仁はなお諫めを聞かず、最終的に劉備軍に破られた。曹仁は敗れた後、ようやく李典の言を信じ、李典を請うて相議した。李典はまた曹仁が夜に劉備の営寨を劫するのを諫止し、劉備に必ず備えがあろうと考えたが、曹仁はなお聞かなかった c:12267。これらの情節はみな李典の謀略と遠見を際立たせており、史実における彼が博望坡(はくぼうは)の戦いで夏侯惇の追撃を諫止した情節と呼応し、芸術的に誇張されている。

演義の合肥の戦い(ごうひのたたかい)における李典の描写は、史実とほぼ一致するが、張遼・楽進・李典三人の間の矛盾と協力をより強調している。第五十三回において、孫権が合肥を囲み、張遼が曹操の命を奉じて出戦しようとしたが、李典は張遼と素より睦まじくなかった。楽進もまた敵衆く我寡なく、迎え難いので堅守するに如かずと考えた。張遼が自ら独り出戦すると表明すると、李典はこの時、慨然として「将軍がそのようであれば、典がどうして私憾をもって公事を忘れましょうか。願わくは指揮に従います」と表明した c:12273。この情節は李典が大局を顧み、国家の大事を重んじる品格を生き生きと示しており、史実の「典も亦た遼と同じ」という記載と符合し、戯劇的に渲染されている。合肥の戦いにおいて、李典は楽進と協力して張遼を助け、ともに孫権を撃退し、宋謙(そうけん)を射殺した(演義独自)c:2456。

主要な関係

* 張遼(ちょうりょう)(friend_of):史実において、李典と張遼は合肥の戦いでともに孫権を防ぎ、李典は張遼の出戦の決策に賛同し、彼と肩を並べて戦い、孫権を撃退することに成功した c:2446。演義では、初期に張遼と李典が素より睦まじくないと描かれているが、国家の大義の前では、李典は私怨を捨てて張遼と協力し、ともに敵に当たることができ、その高尚な品格を示した c:12273。
* 李乾(kin_of):李乾は李典の従父であり、李典の家族の創始者であり、曹操の初期の追随者でもある。李乾が殺された後、その部曲は李整・李典が相次いで統べ、李典の軍事生涯の基礎を築いた c:5699。
* 李整(kin_of):李整は李典の兄であり、李乾の死後にその部曲を継承し、戦功を立てた。李整が没した後、李典は兄に代わって軍を統べ、これによって李典は家族の軍事力と地位を継承しえた c:5699。
* 曹魏(そうぎ)(serves):李典はその従父の李乾以来、曹操に効力し、曹操麾下の重要な将領であった。彼は曹操の北方統一の事業のために赫々たる戦功を立て、多くの重要な戦役に参与し、曹操の信任と器重を深く得た。その宗族・部曲の移住もまた、曹操政権への忠誠を体現している c:2447。
* 楽進(がくしん)(colleague):李典と楽進はともに曹操麾下の将領であり、幾度もともに戦役に参与し、とりわけ合肥の戦いでは二人は張遼とともに「合肥三将」と並称され、ともに孫権を防いだ c:2446。演義でも、楽進と李典は合肥の戦いで密接に協力している c:12272。
* 夏侯惇(かこう とん)(colleague):李典はかつて夏侯惇とともに劉備を防ぎ、博望坡の戦いで夏侯惇の冒進を諫止して、その慎重な性格を体現した c:2447。

象徴的な場面

* 合肥の戦い:これは李典の軍事生涯において最も代表的な戦役である。史実では、孫権十万の大軍の囲城に直面して、諸将が曹操の密令に疑いを抱く中、李典は張遼と意見を同じくし、敵軍がまだ集結せぬうちに逆襲してその鋭気を挫くべきだと考えた。彼は張遼とともに出戦し、孫権の撃退に成功して、軍心を安定させた c:2446。演義では、この場面はさらに戯劇化され、李典と張遼の間の私怨と公義の衝突が強調され、最終的に李典は国家の大局を重んじて私怨を捨て、張遼と肩を並べて戦い、ともに勝利を得た c:12273。
* 博望坡の戦い(演義独自):演義では、李典が夏侯惇に従って劉備を防いだ際、幾度も夏侯惇の冒進を諫止した。劉備が営を焼いて撤退した時、夏侯惇が追撃しようとすると、李典は「賊が故なく退くのは、疑うらくは必ず伏あらん。南道は狭く、草木深く、追うべからず」と指摘したが、夏侯惇は聞かず、最終的に伏に中った。李典が適時に駆けつけて救援し、夏侯惇を脱険させた c:2447。この場面は史実にも記載があるが、演義はこれをより詳細に描写し、幾度も李典の慎重さと遠見を強調しており、曹仁が新野を攻めた際にも、李典は幾度も曹仁の冒進を諫止したが、曹仁は聞かず、最終的に敗れた c:12262。
* 曹操の冒進を諫止する(演義独自):演義では、李典は幾度もその慎重な性格を示しており、濮陽の戦いでは、彼はかつて曹操に先に将士を入城させ、自分は城外におくよう進言したが、曹操は聞かなかった c:12260。長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)の後、曹操が張飛(ちょうひ)を追撃しようとした際、李典もまた曹操に「これはおそらく諸葛亮(しょかつりょう)の詐謀でしょう、軽々しく進むべきではありません」と注意したが、曹操は張飛は「一勇の夫であり、どうして詐謀があろうか」と考え、最終的になお追撃を決した c:2455。これらの情節はみな李典の謀略と局勢への洞察力を際立たせており、演義では彼の進言はしばしば採用されないものの、最終的な結果はしばしば彼が正しかったことを証明している。
* 宗族の移住:李典は自ら宗族・部曲三千余戸を魏郡に移すことを請い、曹操にこの挙が京畿を充実させ国のために力を尽くすためであって、耿純に倣うのではないと説明した。曹操はこれによって彼を嘉し、破虜将軍に昇進させた c:2447。この事件は李典の忠誠と深く大義をわきまえる姿勢を体現するとともに、その家族の曹魏政権における重要な地位を反映している。

肖像アーカイブ

人物像

性格
李典(りてん)は学問を好み、儒雅を貴び、諸将と功を争わず、賢者や士大夫を敬い、軍中では長者と称された。彼は慎重で謀に長け、用心深く敵を見極め、たとえ幾度も諫めが容れられなくとも、なお節義を尽くした。
話し方
李典(りてん)の言葉は典拠を引いて義を明らかにし、兵法の策論を引用した。たとえば「彼を知り己を知れば、百戦百勝」であり、また慎重に諫め止めることを主とし、たとえば「彼の軍は精鋭であり、敵を侮ってはならない」と述べた。
生涯
李典(りてん)は山陽鉅野(さんようきょや)の人で、従父の李乾(りけん)が太祖(たいそ)曹操(そうそう)に従って征戦し、後にその部曲を代わって統率した。彼はかつて宗族の部曲をもって軍糧を船で運び黎陽(れいよう)の水道を通じさせ、張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)とともに合肥(がっぴ/ごうひ)に駐屯して孫権(そん けん)を破り、三十六歳で世を去った。
逸話
李典(りてん)は曹操(そうそう)の将領で、かつて潁陰令・中郎将・離狐太守などの職を務め、死後に愍侯と追諡された。

人間関係

13 件の関係

名言

全 18 件の台詞 · 厳選 3 件

「蕃軍少甲而恃水,有懈怠之心,擊之必克。軍不內御;苟利國家,專之可也,宜亟擊之。」

史 第18回→ 程昱(ていいく)

この一句は李典(りてん)の卓越した軍事的洞察力と果断さを示し、正史に載るもので、その智勇兼備を体現している。

「賊無故退,疑必有伏。南道狹窄,草木深,不可追也。」

史 第18回→ 夏侯惇(かこう とん)🗓 五路の蜀征討(ごろのしょくせいとう)

正史の記載であり、この言葉は李典(りてん)の慎重さと敵情に対する的確な判断を体現し、損失を避けさせたものである。

「此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而忘公義乎!」

史 第18回→ 張遼(ちょうりょう)

この言葉は李典(りてん)が大局を顧み、過去の遺恨を意に介さない崇高な品格を際立たせるもので、その高い義を代表している。

登場回16 回 ▸
  • 史ch.17ch.18
  • 演ch.5ch.6ch.12ch.14ch.18ch.22ch.35ch.36ch.39ch.42ch.48ch.50ch.53ch.67
関係の年表12 条 ▸

史 ch.17

史 ch.18

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.14

演 ch.42

演 ch.53

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 孫権(そん けん)の軍勢が合肥(がっぴ/ごうひ)に迫り、兵勢は城を圧していた。張遼(ちょうりょう)が出戦を議したとき、私はもともと彼と折り合いが悪く、心中に以前からのわだかまりがなかったわけではない。しかし、軍中で議するのは国家の安危に関わ
  • 私は李典(りてん)、字は曼成、山陽鉅野(Shanyang Juye)の人である。今、兵馬が陣を構え、鼓の音が耳に迫るなか、私はまず、しばしば誤解されることを思い浮かべた。慎重さは臆病ではなく、進取の気性も一時の怒りだけに任せるべきではない。
  • 私は李典(りてん)、字は曼成、山陽鉅鹿の人である。若い頃のことや、家のこと、故郷で過ごした年月については、史書に詳しい記載がない。ゆえに、私が勝手に飾り立てることはできない。ただ、後に曹公に仕え、帳前にとどまることを許され、軍中で命令を聞く
生涯の大事11 ▸