史載(Historical Record)
劉璋(りゅう しょう)、字は季玉、益州(えきしゅう)牧劉焉(りゅうえん)の子。建安の初年、天下が飢荒となり、孟達(もうたつ)は同郡の者とともに蜀に入って劉璋に身を寄せた。後に新都(しんと)令となり、また召されて軍議校尉に署せられたが、重用されることはなかった c:8335。
建安十六年(211年)、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を征し、すでに漢中(かんちゅう)を定めると、劉璋はこれを聞いて心に恐れを抱き、河内の陰溥を遣わして曹操に敬意を表させ、曹操は劉璋を振威将軍に加封した c:607。その兄劉瑁(りゅうぼう)もまた平寇将軍に封ぜられたが、後に狂疾のために死去した。劉璋はまた別駕従事である蜀郡の張粛(ちょうしゅく)を遣わして三百の叟兵および雑御物を曹操に送り、曹操は張粛を広漢太守に拝した。続いて、劉璋は再び別駕の張松(ちょうしょう)を曹操のもとへ遣わしたが、この時曹操はすでに荊州を平定し、劉備(りゅうび)を破っており、張松を相手にしなかったため、張松は怨みを抱いた。ちょうど曹操の軍隊が赤壁(せきへき)で失利し、加えて疫病があり、張松は帰ってから曹操を詆毀し、劉璋に曹操との関係を断つよう勧めた c:607。
張松はさらに劉璋に建議した。「劉豫州(よしゅう)(劉備)は、使君の肺腑であり、彼と交通すべきです」と。劉璋は張松の建議を採り、法正(ほうせい)を遣わして劉備と交好させた。まもなく、また法正と孟達に数千の兵力を送って劉備の防守を助けさせ、法正はその後帰った。後に張松は再び劉璋に勧めた。「今、州中の将領である龐羲(ほうぎ)・李異らはみな功を恃んで驕横で、異志を抱いています。もし豫州の助けを得なければ、外には強敵が攻め、内には百姓が乱を起こし、必ず敗れること疑いありません」と。劉璋は再び聞き入れ、法正を遣わして劉備を蜀に招いた c:607。
劉璋の主簿黄権(こうけん)は利害を陳べ、広漢従事の王累は州門に倒懸してまで死をもって諫めたが、劉璋は一切聞かず、かえって各地に劉備のために供奉するよう命じ、劉備は蜀に入ること我が家に帰るがごとくであった。劉備は江州(こうしゅう)の北部に至り、垫江の水路から涪城(ふうじょう)へ向かい、成都(せいと)から三百六十里であった。その年、劉璋は歩騎三万余人を率い、車乗帳幔、精光が日に耀き、劉備と会するために赴いた。劉備の率いる将士と劉璋の部下は互いに往来し、歓飲すること百余日であった。劉璋は劉備に米二十万斛、騎兵千匹、車千乗、繒絮錦帛を資助し、張魯(ちょうろ)を討たせ、その後ようやく別れた c:607。
翌年、劉備は葭萌に至り、ただちに兵を返して南へ向かい、行く先々で皆攻め落とした。建興十九年(214年)、劉備は成都を進囲すること数十日、城中にはなお精兵三万人があり、糧草は一年支えるに足り、吏民は皆死戦を望んだ。しかし、劉璋は言った。「我が父子は益州に二十余年あったが、百姓に恩徳を施さなかった。百姓が攻戦すること三年、屍骨が野に遍く、皆我のためである。我はどうして心安んじられようか」と。そして城を開いて投降し、群臣は皆涙を流した c:608。
劉備は劉璋を南郡(なんぐん)の公安に遷し、そのすべての財物および故より佩びていた振威将軍の印綬を返した。後に孫権(そん けん)が関羽(かんう)を殺し、荊州を奪うと、劉璋を益州牧に任じ、秭帰に駐守させた。劉璋の死後、南中(なんちゅう)の豪帥雍闓(ようがい)が益郡を拠して反叛し、孫呉(そんご)に依附した。孫権はまた劉璋の子劉闡を益州刺史に任じ、交・益二州の交界に駐守させた。丞相諸葛亮(しょかつりょう)が南中を平定した後、劉闡は孫呉に帰り、御史中丞を務めた c:609。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、劉璋の形象は寛厚で仁慈だが優柔不断で、先見の明を欠く君主に造形され、その最終的な失敗はより多くその自身の性格的弱点と劉備への軽信に帰せられている c:614。小説は冒頭で劉璋の出自を説明し、彼は劉焉の子で、漢の魯恭王の後であるとし、また彼がかつて張魯の母と弟を殺害したために、張魯と仇となったことに言及する c:614。
小説において、劉璋は張松の建議に従い、張松を許都(きょと)に遣わして、曹操に張魯を攻めさせようと説得を試みた。しかし、張松は曹操のもとで冷遇を受け、転じて劉備に身を投じた c:615。帰ってから、張松は劉璋に劉備を極力推薦し、彼を「仁慈寛厚にして、長者の風あり」と称し、劉璋に劉備と同盟して曹操と張魯に対抗するよう建議した c:8309。
劉璋の幕僚黄権と王累はかつて何度も苦諫し、劉備が「寛をもって人に待し、柔よく剛に克ち、英雄敵する莫し」であり、もし蜀中に引き入れれば、「虎を門に迎える」患があるかもしれないと指摘した c:8313。王累はさらに死をもって諫め、州門に倒懸し、後にまた地に撞死して、劉璋が劉備を川に迎え入れるのを阻止しようとした c:8321。しかし、劉璋は一意孤行し、劉備は同宗の兄弟であり、自らを害することはないと考え、忠言を聞き流した c:8316。
劉備が川に入った後、小説はさらに劉璋の寛厚と遅鈍を刻んでいる。涪城で劉備と相見えた際、劉璋は劉備の仁義の表れを深く信じ、さらに自らの緑袍と黄金を張松に賜って、その「深謀遠慮」を表彰した c:8322。部下の劉璝・冷苞らの将領が劉備は「柔中に剛あり、その心測るべからず」と指摘した際にも、劉璋はなお「吾が兄にどうして二心があろうか」と堅く言い張った c:8322。
劉備が雒城(らくじょう)を攻めた際、劉璋の従事鄭度が計を献じ、堅壁清野し、百姓を涪水の西に遷し、糧草を焼いて、劉備を困死させるよう建議した。しかし、劉璋は「吾は敵を拒んで民を安んずると聞くも、民を動かして敵に備うとは聞かず」を理由にこの計策を拒み、これは史実の記載と一致するが、小説ではその「仁義」の一面をより強調している c:8328。
最終的に、馬超(ばちょう)が城下に兵を臨ませ、劉璋に投降を勧めた際、劉璋は城中になお三万余の兵力、糧草が一年支えるに足る状況に直面しながらも、「吾が父子は蜀に二十余年あったが、百姓に加うる恩徳なし。攻戦すること三年、血肉を草野に捐つるは、皆我が罪なり。我が心いずくんぞ安んぜん。投降して百姓を安んずるに如かず」を理由に、城を開いて投降することを決めた c:8331。この筋立てはさらに劉璋の「温仁」「寛柔」の性格的特徴を強化し、また彼がなぜ一定の抵抗能力を有しながら放棄を選んだのかを説明している。
主要な関係
* 劉備(betrayed_by):劉璋は張松の言を信じ、劉備を蜀に引き入れて張魯に対抗させたが、最終的に劉備に奪われた。史載では、劉璋は劉備に大量の物資と兵力を資助し、張魯を討たせたが、劉備が実は「厚く恩徳を樹て、もって衆心を収む」とは知らなかった c:610。演義では、劉璋の劉備に対する信任と仁義の挙が、最終的にその基業を奪われる根本的原因となった c:8326。
* 曹魏(serves):史実では、劉璋はかつて曹操に好を示し、使者を遣わして敬意を表し貢品を送り、曹操もかつてその官職を加封した c:607。劉備が蜀を奪った後、劉璋は公安に遷された。後に孫権が関羽を殺し荊州を取ると、劉璋を益州牧とし秭帰に駐守させ、この後劉璋は孫呉勢力の範囲内にあって、二度と曹魏(そうぎ)と直接の隷属関係を持たなかった。演義では、張松はかつて許都に赴いたが、曹操はその者を礼遇せず、張松は帰ってから劉璋に曹操との関係を断つよう勧めた c:615。
* 孫呉(serves):史実では、劉備が蜀を奪った後、劉璋は南郡の公安に遷された。孫権が関羽を殺し荊州を取った後、劉璋を益州牧に任じ秭帰に駐守させた。劉璋の死後、孫権はまたその子劉闡を益州刺史に任じた c:609。
* 劉循(りゅうじゅん)(parent_of):劉璋の長子で、かつて張任(ちょうじん)とともに雒城を守衛し、劉備に攻め破られた c:612。劉備が蜀を定めた後、劉循は奉車中郎将に任ぜられた c:609。
* 張松:劉璋の別駕従事で、史載ではその者が曹操のもとで冷遇を受け、帰ってから劉璋に曹操との関係を断つよう勧め、劉備を蜀に入れることを極力推薦した c:607。演義では、張松は外貌が醜いために才を抱きながら遇われず、最終的に劉璋を裏切って劉備に投じた謀士として描かれる c:615。
* 法正:劉璋の謀士で、史載ではその者が張松と善く、劉璋のもとで重用されなかったため、後に張松に使者として推挙されて劉備を蜀に迎え、ひそかに劉備に蜀を取る策を献じた c:8335。演義では、法正は張松とともに劉璋に劉備を迎えるよう勧め、劉備が蜀に入った後はその重要な謀士となった。
* 黄権:劉璋の主簿で、史載ではその者がかつて劉璋に利害を陳べ、劉備を蜀に引き入れることに反対した c:607。演義では、黄権は何度も劉璋を苦諫し、劉璋の衣袍を口に銜えてまで、死をもって勧めたが、劉璋は聞かなかった c:8318。
* 王累:劉璋の従事で、史載ではその者がかつて州門に倒懸してまで死をもって諫め、劉璋が劉備を蜀に引き入れることに反対した c:607。演義では、王累はさらに地に撞死して、忠誠と諫めを示した c:8321(演義独有)。
象徴的な場面
* 狼を室に引き入る:法正を遣わして劉備を蜀に迎う:これは劉璋の生涯における最も鍵となる決断である。史載では、劉璋は張松の言を信じ、劉備が宗室であり交通すべきと考え、そこで法正を遣わして劉備を蜀に迎え、ともに張魯に対抗することを期した c:607。演義では、黄権と王累ら忠臣の苦諫が、劉璋の昏庸と劉備への軽信をより際立たせ、最終的に益州の主が替わることを招いた c:8316。
* 涪城の会見、歓飲すること百日:劉璋と劉備は涪城で会見(ふじょうのかいけん)し、相見えてはなはだ歓び、歓飲すること百余日であった。劉璋は劉備に大量の物資と兵力を資助し、張魯を討たせた c:607。演義では、劉璋はこの会見において劉備の仁義を深く信じ、さらに自らの緑袍と黄金を張松に賜り、部下の疑慮を全く顧みなかった c:8322。
* 鄭度の堅壁清野の策を拒む:劉備が雒城を攻めた際、鄭度が計を献じて堅壁清野し、劉備を困死させようとした。しかし、劉璋は「吾は敵を拒んで民を安んずると聞くも、民を動かして敵を避くとは聞かず」を理由にこの計策を拒んだ c:8328。この場面は史料と演義の双方に記載があり、劉璋の仁柔だが決断を欠く性格を際立たせている。
* 城を開いて投降し、百姓の苦しむに忍びず:成都が囲まれること数十日、城中になお精兵と糧草が支えるに足る状況において、劉璋は「父子は州に二十余年あったが、百姓に加うる恩徳なし。百姓が攻戦すること三年、肌膏を草野にするは、璋のゆえなり。いずくんぞ心安んずるを得ん」を理由に、城を開いて投降した c:608。演義では、劉璋はさらに「投降して百姓を安んずるに如かず」と直言し、自らの失敗を民に恩を施せなかったことに帰し、その寛柔の一面を示した c:8331。
* 王累、州門に倒懸して諫む:演義において、王累は劉璋が劉備を川に迎えるのを阻止するため、かつて州門に倒懸し、後にまた地に撞死して、死をもって諫めた c:8321(演義独有)。この場面は劉璋の頑固さと忠言への無視を大いに強化し、またその悲劇的運命の布石ともなっている。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 劉璋(りゅう しょう)は性格が温和で仁厚、寛大で柔和であったが、威略に欠け、明察と決断が少なかった。彼は生涯にわたって気弱で、暗愚にして賢能を任用することができず、また宗族の親類を軽々しく信じた。窮地に直面した時には、自らを責め、民の安危を考えて降伏を選ぶことができた。
- 話し方
- 城を開いて降伏する際、劉璋(りゅう しょう)は民の生活の苦しみを理由として自ら罪を認めた。その言葉の風格は自責のかたちで心情を述べるものであった。
- 生涯
- 劉璋(りゅう しょう)はかつて奉車都尉を務め、後に益州(えきしゅう)刺史に推挙され、詔によって監軍使者・益州牧を領するよう拝命された。建安十六年、彼は劉備(りゅうび)を迎えて蜀(しょく)に入れたが、最終的に建安十九年に城を開いて降伏した。劉璋は後に南郡(なんぐん)公安(こうあん)に移され、孫権(そん けん)が荊州(けいしゅう)を襲い取った後、再び彼を益州牧として秭帰(しき)に駐屯させた。
- 逸話
- 劉璋(りゅう しょう)は劉焉(りゅうえん)の子で、益州(えきしゅう)牧を継ぎ、その本伝の後半部分の主人公である。彼はかつて使者を遣わして許靖(きょせい)を招いて蜀(しょく)に入れ、また曹操(そうそう)から「門を守る犬にすぎない」あるいは「狐兎」の一つと喩えられた。
人間関係
40 件の関係
名言
全 29 件の台詞 · 厳選 3 件
「吾父子在蜀二十餘年,無恩德以加百姓;攻戰三年,血肉捐於草野,皆我罪也。我心何安?不如投降以安百姓。」
この言葉は劉璋(りゅう しょう)の仁慈で、民を苦しめたくないという性格を示すもので、その降伏の重要な理由となっている。
「吾聞拒敵以安民,未聞動民以避敵也。」
この一句は正史に由来し、劉璋(りゅう しょう)の民を愛する思想を体現しており、演義における人物像と対比をなしている。
「玄德是吾宗兄,安肯害吾?再言者必斬!」
この一句は劉璋(りゅう しょう)の劉備(りゅうび)に対する盲目的な信頼を描き出しており、その最終的な失敗への鍵となる伏線である。
登場回15 回 ▸
- 史ch.8ch.31ch.32ch.35ch.37ch.38ch.43ch.45
- 演ch.59ch.60ch.61ch.62ch.63ch.64ch.65
関係の年表11 条 ▸
史 ch.31
- 劉備(りゅうび)§14
defected_to
开城出降;先主迁璋于南郡公安
- 劉循(りゅうじゅん)§15
parent_of
父子(刘循为璋长子)
史 ch.32
- 張松(ちょうしょう)§18
witnesses
听其议,遣法正迎刘备
- 張松(ちょうしょう)§19
enemy_of
收斩之
- 劉備(りゅうび)§20
fights_in
雒城破,进围成都数十日,璋出降
演 ch.59
- 張魯(ちょうろ)§23
enemy_of
曾杀张鲁母弟,结仇
演 ch.60
演 ch.62
- 劉循(りゅうじゅん)§30
parent_of
长子请缨守雒城
演 ch.65
- 劉備(りゅうび)§20
defected_to
段20亲赍印绶文籍出城投降
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 城門が開かれ、印綬と文書が引き渡され、私はついに城に立てこもって守ることをやめた。先主は私の手を握って涙を流し、「仁義を行わなかったのではない。ただ、情勢上やむを得なかったのだ」と言った。その言葉は耳に入ったが、心の中では「兄弟」という一言
- 私は劉璋(りゅう しょう)、字は季玉である。建安十六年、曹操(そうそう)が鍾繇(しょうよう)らを漢中(かんちゅう)へ遣わし、張魯(ちょうろ)を討とうとしていると遠くから聞き、心中に恐れを抱いた。張松(ちょうしょう)は、曹操が張魯の勢いを利用
- 私は劉璋(りゅう しょう)、字は季玉(きぎょく)である。父の劉焉(りゅうえん)が亡くなると、州中の人々は私を推してその位を継がせた。益州(えきしゅう)は山川が険しく守りやすい地だが、険しい地勢だからといって憂いがないわけではない。北には張魯
生涯の大事10 ▸
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