言語
曹操(そうそう)

曹魏(そうぎ) · 丞相

曹操(そうそう)

字 孟德

登場回
102
台詞の記録
767
人間関係
310
内面の独白
3

史載(Historical Record)

曹操(そうそう)は字を孟徳といい、沛国譙の人で、漢の相国曹参の後裔である。彼の養祖父曹騰(そうとう)は漢の桓帝の時代に中常侍大長秋まで官位を昇り、費亭侯に封じられた。曹騰の養子である曹嵩(そうすう)は太尉まで官位を昇ったが、その出自は不詳で、夏侯氏の子であるという説もある c:7605。

曹操は若い頃から機敏で人並み外れ、権謀があったが、任俠で放埒、生業に励まなかったため、世間の多くは彼を重んじなかった。しかし、梁国の橋玄と南陽(なんよう)の何顒(かぎょう)は彼を別格に見ていた。橋玄はかつて曹操に「天下はまさに乱れんとしている。命世の才でなければ世を救うことはできぬ。天下を安定させられる者は、おそらくあなたであろう」と語った c:7606。許劭(きょしょう)もかつて彼を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評し、曹操はそれを聞いて大いに笑った。二十歳のとき、曹操は孝廉に挙げられて郎官となり、後に洛陽(らくよう)北部尉に任じられ、厳明な法執行で名を知られ、禁を犯した中常侍蹇碩(けんせき)の叔父をも杖殺した。京師はこのため彼を憚ったが、彼もまた頓丘令に転任させられた c:7606。

中平六年(189年)、霊帝が崩御し、大将軍何進(かしん)と袁紹(えんしょう)は宦官の誅殺を謀ったが、太后は許さなかった。何進はそこで董卓(とう たく)を京に召し、太后を脅そうとしたが、曹操はこれに賛同せず、「宦官の官は、古今いずれにもあってよいが、世の主が権寵を仮し与えて、ここに至らしめてはならぬ。その罪を治めるなら、元凶を誅すべきで、獄吏一人で足りる。なぜ騒がしく外将を召す必要があろうか」と考えた c:7608。董卓が到着する前に、何進はすでに宦官に殺されていた。董卓は入京後、少帝を廃して献帝を立て、朝政を掌握し、京都は大いに乱れた。董卓はかつて曹操を驍騎校尉に上表し、彼と共に謀ろうとしたが、曹操は董卓が最後には敗亡すると考え、姓名を変え、ひそかに東へ帰った c:7608。彼は家財を散じ尽くし、己吾で兵を挙げ、天下の義士に董卓討伐を呼びかけた c:7608。

初平元年(190年)春、袁術(えんじゅつ)・韓馥(かんふく)・孔伷(こうちゅう)・劉岱(りゅうたい)・王匡(おうきょう)・袁紹・張邈(ちょうばく)・橋瑁(きょうぼう)・袁遺(えんい)・鮑信(ほうしん)ら諸路の諸侯が同時に兵を挙げ、袁紹を盟主に推し、曹操は奮武将軍に任じられた c:7610。董卓はこれを聞くと、天子を長安(ちょうあん)に遷し、洛陽の宮室を焼いた。諸侯は董卓の兵の強さを恐れ、多くは進もうとしなかった。曹操は進兵を強く主張し、「これは天が董卓を亡ぼす時である。一戦すれば天下は定まる。失ってはならぬ」と考えた c:7611。彼はそこで兵を率いて西進し、滎陽の汴水で董卓の将徐栄(じょえい)と交戦したが、不利となり、士卒は死傷甚大で、曹操本人も流れ矢に当たったが、幸いにも従弟の曹洪(そうこう)が馬を譲ってくれたおかげで逃れることができた c:7611。

青州の黄巾軍(こうきんぐん)百万の衆が兗州(えんしゅう)に入り、任城相の鄭遂を殺害し、さらに東平に転じた。兗州刺史の劉岱はこれを撃とうとしたが、鮑信は、力で当たるべきではなく、まず固守して敵の疲弊を待つべきだと諫めた。劉岱は従わず、戦死した。陳宮(ちんきゅう)はそこで曹操に兗州牧となるよう勧めた c:7613。曹操はそこで軍を率いて寿張の東で黄巾を撃ち、鮑信は力戦して死んだが、曹操は最終的に黄巾軍を撃破し、三十余万を降し、男女百万余口を得て、その精鋭を編成して「青州兵」とした c:7613。

興平元年(194年)春、曹操は徐州(じょしゅう)から還った。これより前、その父曹嵩は董卓の乱(とうたくのらん)を避ける際に、陶謙(とうけん)の部下に害され、曹操はこのため復讐を志した。彼は再び陶謙を征討し、五城を攻め落とし、通過する所に多く殺戮があった c:7615。しかし、このとき張邈と陳宮が叛き、呂布(りょふ)を兗州に迎え入れ、郡県の多くがこれに呼応した。曹操はやむなく軍を還し、呂布と百余日にわたって対峙した。後に蝗害のため、百姓は大いに飢え、呂布も糧が尽きて、双方はそれぞれ兵を引いて去った c:7616。翌年、曹操は定陶(ていとう)を襲い、呂布を撃破し、最終的に兗州を平定した。呂布は東へ走って劉備(りゅうび)のもとへ奔り、曹操は張邈の三族を皆殺しにした c:7617。

建安元年(196年)、曹操は漢の献帝を許都(きょと)に迎え、これより「天子を挟みて諸侯に令す」こととなった。天子は曹操を大将軍に拝し、武平侯に封じ、後にまた司空に拝し、車騎将軍を行(代行)させた c:7618。彼は棗祗・韓浩(かんこう)らの進言を採用し、屯田制を実施し始め、軍糧の問題を解決し、後の北方統一の基礎を築いた c:7619。建安三年(198年)、呂布が再び劉備に背くと、曹操は自ら呂布を征し、下邳(かひ)を包囲した。荀攸(じゅん ゆう)・郭嘉(かくか)の進言により、曹操は泗水・沂水を決して城に注ぎ込み、最終的に呂布・陳宮を擒えて殺した c:7620。

建安十三年(208年)、漢朝は三公の官を罷め、丞相・御史大夫を置き、曹操は丞相に任じられた c:7621。建安二十一年(216年)夏、漢の献帝は曹操を進めて魏王に封じた c:7623。曹操は在位の間、広く賢才を納れ、屯田を推し進め、北方を平定し、魏国の建国の基礎を築いた。その子曹丕(そうひ)がその位を継ぎ、曹操を追尊して武皇帝とした c:7624。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』の曹操は、その人物像が史実を基礎としつつ文学的に加工され、より劇的で論争的である。小説は冒頭でただちに曹操の少年時代を描き、彼は「狩猟を好み、歌舞を喜ぶ。権謀があり、機変に富む」 c:7654。演義では、曹操は叔父が父に告げ口する困りごとから逃れるため、中風を装い、父が叔父の言を信じなくなるようにし、それによって「ほしいままに放蕩する」ことができた c:7654。これは史書の記す「任俠放蕩、生業を治めず」と呼応するが、具体的な情節は誇張されている。許劭の評価について、演義では曹操が自ら問い、許劭ははじめ答えず、後に曹操の追問を受けてようやく「あなたは治世の能臣、乱世の奸雄である」と言い、曹操は「それを聞いて大いに喜んだ」 c:7654。これは曹操が自身の位置づけを冷静に認識し、「奸雄」の名を受け入れていることを際立たせている。

洛陽北部尉の任にあって、演義は曹操の鉄腕の法執行を重点的に描き、彼は「五色棒十数本を県の四門に設け、禁を犯す者があれば、富豪をも避けず、皆これを責めた」、中常侍蹇碩の叔父をも杖責した c:7654。これは史書の記載とおおむね一致するが、その「威名甚だ震う」ことをより強調している。

何進が外兵を京に召して宦官を討伐しようとしたとき、演義では曹操の諫言はより直接的で鋭い。彼は「宦官の禍は、古今いずれにもある。ただ世の主が権寵を仮し与えて、ここに至らしめてはならぬ」と指摘するのみならず、「天下を乱す者は、必ず何進である」と予言した c:7656。これは曹操の遠見卓識と時局への洞察力をいっそう際立たせている。何進が殺された後、曹操は袁紹とともに関を斬って内に入り、宮中の乱を平定し、「一方では宮中の火を救い消し、何太后(かたいこう)に大事を権摂するよう請い、兵を遣わして張譲(ちょうじょう)らを追撃し、少帝を尋ね求めた」 c:7658。これは彼の果断と漢室への「忠心」を示している。

董卓暗殺の情節は演義における曹操の人物造形の見せ場である。彼は王允(おういん)から七星宝刀を借り、「ただちに董卓の首を断ち、これを都門に懸けて、天下に謝そう」と欲した c:7659。これはその胆識と国のために害を除く決意を示している。相府で、彼は呂布が立ち去り董卓が熟睡した隙に乗じ、刀を抜いて刺そうとしたが、董卓が突然目覚めたため手を下せず、最終的に刀を献じる口実で脱出した c:7661。逃亡の途上、彼は誤って呂伯奢(りょはくしゃ)一家を殺し、「われ天下の人に背くとも、天下の人をしてわれに背かしむなかれ」 c:7662 という有名な台詞を口にした。この台詞は曹操の冷酷無情で、目的のために手段を選ばぬ一面を深く明らかにし、その「奸雄」像の象徴的な脚注ともなった。史書の記載では、呂伯奢一家はその子と賓客に劫殺された、あるいは曹操が自分を図ろうとしていると疑って殺したとされ、「われ人に背くとも、人をしてわれに背かしむなかれ」の語はない c:7608。演義はここで大胆な芸術的加工を行っている。

董卓討伐連合軍の時期、曹操は諸侯の消極的な態度に不満を抱き、「小僧どもとは謀るに足らぬ」と怒鳴り c:7664、単独で兵を率いて董卓を追撃し、敗れたとはいえ栄誉を得て、その勇武と進取の精神を示した。徐州の戦いで、演義は曹操が父の仇のために徐州の百姓を屠戮し、「城池を得たならば、城中の百姓をことごとく屠戮し、父の讎を雪げ」と命じたことを強調し c:7771、その残暴な一面をいっそう強め、劉備の登場の伏線をも埋めた。陳宮が曹操に無辜の濫殺をやめるよう諫めると、曹操はかえって「昔わしを棄てて去ったのに、今どの面下げて再び会いに来たのか」と怒鳴り c:7772、復讐に固執し、最終的に陳宮を去らせ、張邈のもとへ奔らせた。

主要な関係

* 曹嵩 (parent_of):曹操の父で、太尉まで官位を昇った。『史』では、曹嵩は曹騰の養子で、その出自は不詳である c:7605。『演』では、曹嵩は本姓を夏侯氏とし、曹騰に養われたため曹姓を冒したと明確に指摘されている c:7654。曹操が父の仇のために徐州を攻めたことは、その初期の重要な軍事行動の一つである。
* 橋玄 (mentor_of):梁国の名士で、人を知ることで知られた。『史』では、橋玄は曹操が「天下を安んじられる者」だと予言した c:7606。『演』でも、橋玄は曹操に対し「天下はまさに乱れんとしている。命世の才でなければ救えぬ。これを安んじられる者は、あなたであろうか」と同様の評価を下し c:7654、曹操の才能を肯定した。
* 何顒 (friend_of):南陽の名士。『史』では、何顒は橋玄とともに曹操を重んじた c:7606。『演』では、何顒も「漢室はまさに亡びんとしている。天下を安んじる者は、必ずこの人である」と予言し c:7654、曹操の声望をいっそう高めた。
* 王芬 (rival_of):提供された材料では、王芬と曹操の競争関係は直接言及されていない。この情報は他の史料や演義の版本に由来するか、あるいは概括的な記述かもしれない。
* 許劭 (acquaintance_of):汝南の名士で、人を知ることで聞こえた。『史』では、曹操がかつて許劭に「わしはどのような人物か」と問い、許劭は「あなたは治世の能臣、乱世の奸雄である」と答えた c:7606。『演』では、この情節が保たれ、曹操が「それを聞いて大いに喜んだ」ことが強調され c:7654、彼が自身の位置づけを認めていることを体現している。
* 董卓 (rival_of):後漢末年の権臣。『史』では、曹操は董卓の乱政に不満を抱き、その任命を拒み、兵を挙げて討伐した c:7608。『演』では、曹操はさらに董卓暗殺の危険な一幕を演じ、成功はしなかったものの、その非凡な胆識と漢室への「忠心」を示した c:7659。
* 袁紹 (rival_of):董卓討伐連合軍の盟主。『史』では、袁紹はかつて曹操とともに兵を挙げたが、後に理念の不一致から嫌隙を生じ、曹操は袁紹が劉虞(りゅう ぐ)を帝に立てようとする提議を拒んだ c:7612。『演』では、曹操は董卓討伐の際の袁紹の優柔不断に不満を表し、「小僧どもとは謀るに足らぬ」と怒鳴り c:7664、後の官渡の戦い(かんとのたたかい)の伏線を埋めた。
* 陳宮 (ally_turned_rival):兗州の従事。『史』では、陳宮はかつて曹操に兗州牧となるよう勧め c:7613、後にまた曹操を裏切り、呂布を兗州に迎え入れた c:7616。『演』では、陳宮は曹操の董卓暗殺失敗の後、曹操と同行したが、曹操が誤って呂伯奢一家を殺し「われ天下の人に背くとも、天下の人をしてわれに背かしむなかれ」と言ったため曹操を棄てて去った c:7662。徐州の戦いで、陳宮は再び曹操に無辜の濫殺をやめるよう諫めたが、曹操は聞かず、最終的に陳宮は張邈のもとへ奔り、呂布とともに曹操に対抗した c:7772。
* 呂布 (rival_of):三国第一の猛将。『史』では、呂布はかつて曹操と兗州を争い、後に曹操に撃破され擒えられて殺された c:7616。『演』では、呂布の人物像はより鮮明で、彼はかつて丁原(ていげん)・董卓を裏切り、後にまた曹操と幾度も交戦し、最終的に下邳で曹操に擒えられて殺された c:7620。
* 劉備 (rival_of):蜀漢(しょくかん)の昭烈帝。『史』では、劉備はかつて曹操に身を寄せ、後にまた彼と対抗した。曹操はかつて劉備を撃破し、その部将を降した c:7620。『演』では、劉備と曹操の関係はより複雑で、短い協力もあれば長期の対抗もあり、曹操の劉備への評価「天下の英雄は、ただ使君と操のみ」は古典となった。

象徴的な場面

* 洛陽北部尉の厳明な法執行:曹操が初めて洛陽北部尉に任じられたとき、すぐに「五色棒を造り、県門の左右に各十数本を置き、禁を犯す者があれば、豪強をも避けず、皆これを棒殺した」、中常侍蹇碩の叔父をも杖殺し、「京師は身を慎み、敢えて犯す者はなかった」 c:7606。この出来事は『演義』で詳しく描かれ、曹操の鉄腕の治世の初期の体現となった c:7654。
* 董卓暗殺(演義独自):曹操は王允から七星宝刀を借り、相府に潜入し、董卓を暗殺しようとした。成功はしなかったものの、その胆識は人並み外れ、「われ天下の人に背くとも、天下の人をしてわれに背かしむなかれ」という千古の名句を残した c:7662。この情節は『三国志(さんごくし)』には記載がなく、『三国演義』による曹操の人物像の古典的造形である c:7659。
* 兵を挙げて董卓を討つ:董卓の乱政の後、曹操は「家財を散じ、義兵を合わせ、董卓を誅さんとし」、己吾で兵を挙げた c:7608。『演義』では、彼はまず矯詔を発し、各道に馳せ報じ、それから義兵を招集し、「忠義」の二字を掲げた招兵の白旗を立て c:8214、一方の諸侯としての号召力を示した。
* 滎陽汴水の戦い:董卓討伐連合軍の中で、ただ曹操のみが進兵を強く主張し、兵を率いて西進し、滎陽の汴水で董卓の将徐栄と交戦した。敗れたとはいえ、その勇気と進取の精神が体現された c:7611。
* 青州兵の収編:曹操は兗州で黄巾軍を撃破し、三十余万を降し、男女百万余口を得て、その精鋭を編成して「青州兵」とした c:7613。この軍は曹操初期の重要な軍事力となり、後の北方統一の基礎を築いた。
* 徐州復讐戦:曹操の父曹嵩が陶謙の部下に害され、曹操はこのため復讐を志し、二度徐州を征討し、通過する所に多く殺戮があった c:7615。『演義』では、この情節が曹操の残暴な一面の体現として描かれ、彼は「城池を得たならば、城中の百姓をことごとく屠戮し、わが恨みを雪げ」と命じた c:7771。
* 呂布と兗州を争う:張邈と陳宮が叛き、呂布を兗州に迎え入れ、曹操はやむなく軍を還して呂布と対峙し、最終的に呂布を撃破し、兗州を平定した c:7616。この一連の戦役は曹操の卓越した軍事的才能を示した。
* 漢の献帝を許都に迎える:曹操は漢の献帝を許都に迎え、これより「天子を挟みて諸侯に令し」、後の発展と強大化のための政治的正当性を得た c:7618。
* 屯田制の実施:曹操は棗祗・韓浩らの進言を採用し、屯田制を実施し始め、軍糧の問題を解決し、四方への征伐のための堅実な後方支援を提供した c:7619。
* 下邳で呂布を擒えて殺す:曹操は自ら呂布を征し、下邳を包囲し、最終的に泗水・沂水を決して城に注ぎ込み、呂布・陳宮を擒えて殺した c:7620。この戦役は呂布というこの強大な軍事的脅威を完全に取り除いた。
* 魏王に封じられる:建安二十一年(216年)、漢の献帝は曹操を進めて魏王に封じ c:7623、曹操の政治的地位の極めて大きな上昇を示し、曹魏が漢に取って代わる基礎をも築いた。
* 賢を招き士を納れる:曹操は兗州で賢を招き士を納れ、荀彧(じゅん いく)・荀攸・程昱(ていいく)・郭嘉・劉曄(りゅうよう)・満寵(まんちょう)・呂虔(りょけん)・毛玠(もうかい)・于禁(うきん)・典韋(てんい)ら多くの文臣武将が次々に投じてきた c:7767。これは曹操集団の強大さのための人材の基礎を築いた。典韋の勇猛と曹操への忠誠は演義で重点的に描かれている c:7769。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
曹操(そうそう)は身の丈七尺、細い目に長い鬚、白馬(はくば)に金の鞍で乗り、玉の帯に錦の衣をまとった。
性格
曹操は若くして機敏で、権謀に長け、侠を任じて放蕩し、生業に励まなかったが、みずから「天下の智力を任用し、道をもってこれを御す」と言った。彼は疑い深く、剛毅にして決断的、智巧に富んで機に応じて変化し、残忍で自負が強く、大志を抱き、しかも社稷を力の限り扶けようとする心が切であった。
話し方
曹操はみずからの弁明に機敏で、少年の頃すでに叔父の讒言から逃れることができ、許劭(きょしょう)の「奸雄」という評を聞いて大いに喜んだ。彼は慷慨激昂として、言葉で同志を鼓舞するのに巧みであり、また常に利害と形勢をもって分析し、天命の問題については「もし天命がわが身にあらば、吾は周の文王とならん」という隠忍の拒絶の辞を持していた。
生涯
曹操は沛国譙県の人で、姓は曹、諱は操、字は孟徳、漢の相国曹参の後裔、曹騰(そうとう)の養子曹嵩(そうすう)の子である。彼は二十歳で孝廉に挙げられて郎となり、洛陽(らくよう)北部尉に任ぜられ、後に済南相に遷り、中平六年に兵を起こして董卓(とう たく)を討った。彼は天子を迎えて許に都し、大将軍に任ぜられ武平侯に封ぜられ、官渡(かんと)で袁紹(えんしょう)を破ってついに河北を平定し、後に丞相・魏公・魏王となり、建安二十五年に洛陽で崩じた。享年六十六。
武器
曹操はかつて王允(おういん)から七星宝刀を借り受けた。
逸話
曹操は後漢末の権臣であり、魏国の礎を築いた者で、黄初元年に武皇帝と追尊された。彼は夏侯氏・曹氏の一族を腹心として用い、軍政の基盤を築き、また幾度も諸子の志を試し問い、才を育てることを好んだ。

人間関係

310 件の関係

名言

全 767 件の台詞 · 厳選 3 件

「寧教我負天下人,休教天下人負我。」

演 第4回→ 陳宮(ちんきゅう)

曹操(そうそう)の名言であり、その梟雄たる本性と実利主義を示している。

今天下英雄,惟使君與操耳。

演 第21回→ 劉備(りゅうび)📍 許昌(きょしょう)🗓 公孫淵の燕王自称(こうそんえんのえんおうじしょう)

青梅煮酒論英雄(せいばいしゅしゅろんえいゆう)の核心であり、曹操(そうそう)の人を見る眼と政治的野心を示している。

「諸公佳作,過譽甚矣。孤本愚陋,始舉孝廉。後值天下大亂,築精舍於譙東五十里,欲春夏讀書,秋冬射獵,以待天下清平,方出仕耳。不意朝廷徵孤為點軍校尉,遂更其意,專欲為國家討賊立功,圖死後得題墓道曰:『漢故征西將軍曹侯之墓』,平生願足矣。念自討董卓、剿黃巾以來,除袁術、破呂布、滅袁紹、定劉表,遂平天下。身為宰相,人臣之貴已極,又復何望哉?如國家無孤一人,正不知幾人稱帝,幾人稱王。或見孤權重,妄相忖度,疑孤有異心,此大謬也。孤常念孔子稱文王之至,此言耿耿在心。但欲孤委捐兵眾,歸就所封武平侯之職,實不可耳。誠恐一解兵柄,為人所害;孤敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍也。諸公必無知孤意者。」

演 第56回

曹操(そうそう)が生涯の志を自ら語り、『もし我がいなければ、幾人が帝を称したか知れぬ』という本心を吐露している。

登場回102 回 ▸
  • 史ch.1ch.2ch.3ch.5ch.6ch.7ch.9ch.10ch.11ch.12ch.13ch.14ch.15ch.16ch.17ch.18ch.19ch.20ch.22ch.23ch.25ch.26ch.27ch.29ch.30ch.32ch.34ch.35ch.36ch.37ch.38ch.46ch.47ch.49ch.53ch.54ch.57
  • 演ch.1ch.2ch.3ch.4ch.5ch.6ch.10ch.11ch.12ch.13ch.14ch.16ch.17ch.18ch.19ch.20ch.21ch.22ch.23ch.24ch.25ch.26ch.27ch.28ch.29ch.30ch.31ch.32ch.33ch.34ch.36ch.37ch.39ch.40ch.41ch.42ch.44ch.45ch.46ch.47ch.48ch.49ch.50ch.51ch.56ch.57ch.58ch.59ch.60ch.61ch.66ch.67ch.68ch.69ch.70ch.71ch.72ch.73ch.74ch.75ch.76ch.77ch.78ch.80ch.114
関係の年表137 条 ▸

史 ch.1

史 ch.2

史 ch.3

史 ch.6

史 ch.12

史 ch.16

史 ch.17

  • commands_in

    责辽"此非大将法也";自出迎引共载;柳城授麾"自以所持麾授辽";建安二十一年循行辽战处叹息

  • commands_in

    召见与语拜军司马;淯水之难称之"将军在乱能整……虽古名将何以加之";封益寿亭侯;夺朱灵营遣禁;嗟"何意临危处难反不如庞德"

  • commands_in

    得郃甚喜引微子韩信之喻;拜偏将军、都亭侯;遣使假节

  • commands_in

    授兵击卷原武贼;屡用之;功多增封;摩陂迎七里置酒大会;"徐將軍可謂有周亞夫之風"

  • commands_in

    真明主;灵留事;常恨其分朱灵营事

史 ch.29

史 ch.30

史 ch.32

史 ch.34

史 ch.36

史 ch.49

史 ch.53

演 ch.2

演 ch.3

演 ch.4

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.10

演 ch.11

演 ch.14

  • serves

    应诏起山东之兵救驾;受封司隶校尉、假节钺、录尚书事;後自封大将军武平侯

演 ch.16

演 ch.18

演 ch.19

演 ch.20

演 ch.21

演 ch.23

演 ch.24

  • enemy_of

    曹操将董承等五人并全家老小押送各门处斩,死者七百余人

  • enemy_of

    王子服等四人同被斩,后人有诗叹之

演 ch.25

  • betrayed_by

    关公以"降汉不降曹、给嫂俸严内外、知玄德去向便辞"三事约降;曹操以"汉相即吾"等三事允之

  • friend_of

    操以小宴三日大宴五日、十美女、异锦战袍、赤兔马屡赐关公;又制纱锦囊护其髯

演 ch.27

演 ch.30

演 ch.32

演 ch.33

演 ch.34

演 ch.40

演 ch.41

演 ch.44

演 ch.45

演 ch.46

  • commands_in

    密喚二人入帐、厚赏并嘱以诈降东吴为内应

  • 蔡和§49

    commands_in

    密喚二人入帐、厚赏并嘱以诈降东吴为内应

演 ch.47

  • rival_of

    看书疑为苦肉诈降,喝令推出斩之;闻辩后改容下席而谢

  • friend_of

    闻凤雏先生来亲自出帐迎入;下席称谢"非先生良谋,安能破东吴";许奏闻天子封三公

演 ch.48

演 ch.56

演 ch.58

演 ch.59

演 ch.60

演 ch.61

  • rival_of

    兴四十万兵报赤壁之雠;遥望叹生子當如孫仲謀;山上对话各责其逆顺;相持月余互有胜负

演 ch.66

演 ch.67

演 ch.69

  • 吉太§25

    enemy_of

    因衣带诏事昔曾杀吉平

演 ch.71

演 ch.73

演 ch.74

  • witnesses

    先疑令纳先锋印,后扶起抚慰;闻其抬榇出师大喜「孤何忧焉」

演 ch.75

演 ch.76

演 ch.77

演 ch.78

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は生涯、しばしば兵の力で道を切り開き、人心によって形勢を定めてきた。かつての潼関の戦い(とんかんのたたかい)では、韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)が西側を守っていた。私はまず徐晃(じょこう)に歩兵と騎兵を率いさせて蒲坂津を渡らせ、軍の先
  • 我、曹孟徳(Sō Mōtoku)が今日まで歩んでこられたのは、一時の勇気だけを頼みとしたからではなく、「天命」の二字だけで言い尽くせるものでもない。漢室は傾き危うく、州郡は分裂していた。もし名分を守るばかりで民の生死を顧みなければ、その名分
  • 私は若い頃、機転が利き、心中には常に臨機応変の策を抱いていたが、任侠を気取り、放埒でもあり、規矩に従って生業を学ぼうとはしなかった。世間の人々はそのため私を非凡とは見なさなかったが、私も他人の軽視をさほど気にしてはいなかった。昔のことを思い
生涯の大事125 ▸
  1. 何進の暗殺(かしんのあんさつ)· 目撃者
  2. 曹操の挙兵(そうそうのきょへい)· 首謀者
  3. 反董卓連合軍の討伐(はんとうたくれんごうぐんのとうばつ)· 総大将
  4. 0190-01-01 · 汜水關
    汜水関の戦い(しすいかんのたたかい)· 目撃者
  5. 曹操、青州黄巾を破る(そうそう、せいしゅうこうきんをやぶる)· 総大将
  6. 毛玠の奉天子の策(もうかいのほうてんしのさく)· 総大将
  7. 曹操の徐州征討(そうそうのじょしゅうせいとう)· 総大将
  8. 兗州における呂布の乱(えんしゅうにおけるりょふのらん)· 総大将
  9. 曹操の陶謙征討(そうそうのとうけんせいとう)· 総大将
  10. 曹操の徐州攻め(そうそうのじょしゅうぜめ)· 総大将
  11. 濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)· 総大将
  12. 兗州の戦い(えんしゅうのたたかい)· 総大将
  13. 定陶にて呂布を破る(ていとうにてりょふをやぶる)· 総大将
  14. 二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)· 首謀者
  15. 屯田制の開始(とんでんせいのかいし)· 首謀者
  16. 徐晃、曹操に帰順する(じょこう、そうそうにきじゅんする)· 総大将
  17. 曹操、天子を奉迎して許昌に遷都する(そうそう、てんしをほうげいしてきょしょうにせんとする)· 首謀者
  18. 曹操の献帝奉迎と許都遷都(そうそうのけんていほうげいときょとせんと)· 首謀者
  19. 曹操の天子奉迎(そうそうのてんしほうげい)· 首謀者
  20. 漢献帝の東帰(かんけんていのとうき)· 首謀者
  21. 遷都許昌(せんときょしょう)· 首謀者
  22. 荀彧の奉天子の策(じゅんいくのほうてんしのさく)· 総大将
  23. 0196-01-01 · 鄴(ぎょう)
    郭嘉(かくか)が袁紹を去り曹操に帰す· 総大将
  24. 宛城の戦い(えんじょうのたたかい)· 総大将
  25. 張繡の宛城夜襲(ちょうしゅうのえんじょうやしゅう)· 総大将
  26. 曹操、髪を割いて首に代える(そうそう、かみをさいてくびにかえる)· 総大将
  27. 0198-01-01 · 下邳(かひ)
    下邳の戦い(かひのたたかい)· 総大将
  28. 0198-01-01 · 下邳(かひ)
    沂水・泗水決壊による下邳水攻め(ぎすい・ししすいけっかいによるかひみずぜめ)· 総大将
  29. 段煨伍習誅李傕郭汜· 目撃者
  30. 0198-01-01 · 許都(きょと)
    禰衡の撃鼓罵曹(でいこうのげきこばそう)· 首謀者
  31. 0198-01-01 · 琅邪(ろうや)
    臧覇の太祖への帰順(ぞうはのたいそへのきじゅん)· 総大将
  32. 郭嘉(かくか)の十勝十敗論· 総大将
  33. 張繡の曹操への降伏(ちょうしゅうのそうそうへのこうふく)· 首謀者
  34. 曹操の袁術討伐(そうそうのえんじゅつとうばつ)· 総大将
  35. 0199-01-01 · 下邳(かひ)
    白門楼の審問(はくもんろうのしんもん)· 総大将
  36. 青梅煮酒論英雄(せいばいしゅしゅろんえいゆう)· 首謀者
  37. 0200-01-01 · 白馬(はくば)
    関羽の顔良斬殺(かんうのがんりょうざんさつ)· 総大将
  38. 関羽の五関突破・六将斬り(かんうのごかんとっぱ・ろくしょうぎり)· 目撃者
  39. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    関羽の曹操への降伏(かんうのそうそうへのこうふく)· 首謀者
  40. 十勝十敗論(じっしょうじっぱいろん)· 総大将
  41. 華歆の呉離脱・許入り(かきんのごりだつ・きょいり)· 首謀者
  42. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    土山の三条件(どざんのさんじょうけん)· 総大将
  43. 官渡の戦い(かんとのたたかい)· 総大将
  44. 印を掛け金を封じる(いんをかけきんをふうじる)· 目撃者
  45. 0200-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹沖、象の重さを量る(そうちゅう、ぞうのおもさをはかる)· 目撃者
  46. 0200-01-01 · 白馬(はくば)
    白馬の戦い(はくばのたたかい)· 総大将
  47. 衣帯の詔(いたいのみことのり)· 被害者
  48. 0201-01-01 · 倉亭
    倉亭の戦い(そうていのたたかい)· 総大将
  49. 衛覬の塩官策(えいきのえんかんさく)· 首謀者
  50. 0201-01-01 · 穰山
    穰山の戦い(じょうざんのたたかい)· 総大将
  51. 于禁の昌豨誅殺(うきんのしょうきちゅうさつ)· 首謀者
  52. 0203-01-01 · 呉県(ごけん)
    孫権、子の入朝を拒否(そんけん、このにゅうちょうをきょひ)
  53. 黎陽之戰· 総大将
  54. 0204-01-01 · 鄴(ぎょう)
    鄴の戦い(ぎょうのたたかい)· 総大将
  55. 0205-01-01 · 南皮(なんぴ)
    南皮の戦い(なんぴのたたかい)· 総大将
  56. 平原にて袁譚を斬る(へいげんにてえんたんをきる)· 総大将
  57. 0205-01-01 · 真定
    張燕と黒山軍(ちょうえんとこくざんぐん)· 首謀者
  58. 0206-01-01 · 壺口關
    壺口關之戰· 総大将
  59. 高幹幷州叛亂· 総大将
  60. 烏桓征伐(うがんせいばつ)· 総大将
  61. 0207-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操の河北平定(そうそうのかほくへいてい)· 総大将
  62. 0207-01-01 · 易州
    曹操による袁氏の平定(そうそうによるえんしのへいてい)· 総大将
  63. 曹操の烏桓征討(そうそうのうかんせいとう)· 総大将
  64. 白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)· 総大将
  65. 程昱の詐書による徐庶の招致(ていいくのさしょによるじょしょのしょうち)· 総大将
  66. 0207-01-01 · 易州
    郭嘉(かくか)の死· 目撃者
  67. 郭嘉(かくか)の早世· 目撃者
  68. 劉琮の降伏(りゅうそうのこうふく)· 首謀者
  69. 華容道(かようどう)· 総大将
  70. 孔融の処刑(こうゆうのしょけい)· 首謀者
  71. 曹操の荊州南征(そうそうのけいしゅうなんせい)· 総大将
  72. 曹操、三公を廃して自ら丞相となる(そうそう、さんこうをはいしてみずからじょうしょうとなる)· 首謀者
  73. 曹操、華佗を獄死させる(そうそう、かだをごくししさせる)· 首謀者
  74. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
  75. 苦肉計(くにくけい)· 被害者
  76. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
  77. 鍾繇(しょうよう)の関中督戦· 首謀者
  78. 長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)· 総大将
  79. 曹操、銅雀台を築く(そうそう、どうじゃくだいをきずく)· 首謀者
  80. 0210-01-01 · 鄴(ぎょう)
    銅雀台(どうじゃくだい)落成大会· 首謀者
  81. 0211-01-01 · 華陰
    張既の華陰での馬超撃破(ちょうきのかいんでのばちょうげきは)· 総大将
  82. 0211-01-01 · 成都(せいと)
    張松の地図献上と蜀謀略(ちょうしょうのちずけんじょうとしょくぼうりゃく)· 目撃者
  83. 曹操、髭を切り袍を棄てる(そうそう、ひげをきりほうをすてる)· 総大将
  84. 渭南の戦い(いなんのたたかい)· 総大将
  85. 潼関の戦い(とんかんのたたかい)· 総大将
  86. 賈詡(かく)による馬超・韓遂の離間· 総大将
  87. 荀彧の死(じゅんいくのし)· 首謀者
  88. 0212-01-01 · 鄴(ぎょう)
    議建五等爵· 首謀者
  89. 馬騰被誅· 首謀者
  90. 0213-01-01 · 鄴(ぎょう)
    崔琰の露板による曹丕立嗣支持(さいえんのろばんによるそうひりっしさいし)· 目撃者
  91. 0213-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操、魏公に封ぜられる(そうそう、ぎこうにほうぜられる)· 首謀者
  92. 曹操の魏公就任(そうそうのぎこうしゅうにん)· 首謀者
  93. 濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)· 総大将
  94. 甘寧の百騎魏営夜襲(かんねいのひゃっきぎえいやしゅう)· 総大将
  95. 伏皇后の死(ふくこうごうのし)· 首謀者
  96. 伏皇后の死(ふくこうごうのし)· 首謀者
  97. 伏皇后の廃殺(ふくこうごうのはいさつ)· 首謀者
  98. 張魯、曹操に降伏する(ちょうろ、そうそうにこうふくする)· 総大将
  99. 曹操の張魯征討(そうそうのちょうろせいとう)· 総大将
  100. 曹操の漢中征討(そうそうのかんちゅうせいとう)· 総大将
  101. 甘寧の百騎夜襲(かんねいのひゃっきやしゅう)· 総大将
  102. 陽平関の戦い(ようへいかんのたたかい)· 総大将
  103. 陸遜(りくそん)の費棧討伐· 首謀者
  104. 0216-01-01 · 鄴(ぎょう)
    魏国の建国(ぎこくのけんこく)· 首謀者
  105. 0216-01-01 · 鄴(ぎょう)
    崔琰の死(さいえんのし)· 首謀者
  106. 0216-01-01 · 鄴(ぎょう)
    崔琰事件(さいえんじけん)· 首謀者
  107. 0216-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操、魏王に封ぜられる(そうそう、ぎおうにほうぜられる)· 首謀者
  108. 0216-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操の魏王就任(そうそうのぎおうしゅうにん)· 首謀者
  109. 0217-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹植の司馬門事件(そうしょくのしばもんじけん)· 首謀者
  110. 0217-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹丕の世子冊立(そうひのせいしさくりつ)· 首謀者
  111. 濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)· 総大将
  112. 曹彰、代郡の烏桓を北征する(そうしょう、だいぐんのうかんをほくせいする)
  113. 0218-01-01 · 許都(きょと)
    耿紀・韋晃の許都の乱(こうき・いこうのきょとのらん)· 被害者
  114. 楊修の死(ようしゅうのし)· 首謀者
  115. 0219-01-01 · 鄴(ぎょう)
    楊修の誅殺(ようしゅうのちゅうさつ)· 首謀者
  116. 漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)· 総大将
  117. 漢水の戦い(かんすいのたたかい)· 総大将
  118. 0219-01-01 · 鄴(ぎょう)
    魏諷謀反案· 総大将
  119. 華佗の死(かだのし)· 首謀者
  120. 太祖崩御、賈逵が喪事を統括(たいそほうぎょ、かくいがそうじをとうかつ)· 被害者
  121. 0220-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹丕と曹植の後嗣争い(そうひとそうしょくのこうしあらそい)· 首謀者
  122. 曹操の死(そうそうのし)· 被害者
  123. 0220-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操の崩御と魏の文帝の即位(そうそうのほうぎょとぎのぶんていのそくい)
  124. 高陵への埋葬(こうりょうへのまいそう)· 被害者
  125. 高柔典刑· 目撃者