背景
建安十三年(208年)の夏秋にかけて、曹操(そうそう)は大軍を率いて南下し、劉表(りゅう ひょう)が病死し、少子の劉琮(りゅうそう)は蔡瑁(さいぼう)らの勧めで荊州(けいしゅう)を挙げて曹操に降伏した。北方の諸侯はことごとく散り、劉備(りゅうび)は新野(しんや)・樊城(はんじょう)・当陽(とうよう)の一線で次々に南撤して、ほぼすべての根拠地を失った。江東にとって、曹操が荊州を吞み込むことは長江上流の屏障の崩壊を意味し、水軍がいったん流れに乗って下れば建業(けんぎょう)には守るべき险がなくなる。魯粛(ろしゅく)は劉表の死の報を聞いた時点で、すでに孫権(そん けん)に対して荊州に先手を打って人を派遣して虚実を探り、必要なら劉備と連合して曹操に抗するよう建議していた [c:18060]。この判断は突発的な思いつきではなく、魯粛が以前の「榻上の策」において長江上下流の全体的な格局を推演した基礎の上に立つものであった。荊州を奪取してさらに天下を図るというのは、江東集団が戦略的青写真にすでに書き込んでいた主線であった。
主要人物
会見の三人の核心的な人物はいずれも普通の使者ではなかった。魯粛は当時、孫権が最も信頼する戦略的謀士であり、江東を代表して意思表示できるとともに、現場で決定を下す授権も持っていた。劉備は当陽長坂(とうようちょうはん)の惨敗を経たばかりであったが、依然として名義上の左将軍・漢室の宗親であり、江東が頼りにしなければならない政治的看板であった。諸葛亮(しょかつりょう)は劉備陣営に加わったばかりの謀士であったが、魯粛はその場で彼に「私はあなたの兄君の諸葛瑾(しょかつきん)の友人だ」と言い、ただちに私的な交情を確立した [c:18060]。これによって一度の外交的会見が同時に両家の知恵者レベルでの連携の場ともなった。この「高層の授権+謀士による後押し」という二重構造によって、同盟の意向は会場で完成し、使者が往来を繰り返すのを待つ必要がなかった。
核心的な論点
表面上の論点は「江東を信頼するに値するか」であるが、実質は「劉備が南渡を諦めて東に向かい孫権と共闘できるか」にある。魯粛がもたらした情報には二つの層があった。一つは孫権が江東に使える兵と安定した後方を持ち、信頼できる盟友として機能できるということ。もう一つは、もし劉備が蒼梧(そうご)に南渡するか孫堅(そん けん)旧来の部下である吳巨のもとへ西に投ずれば、力が分散するのみならず、主戦場から遠ざかって中原の局勢の主導から完全に退くことになるということであった [c:18060]。魯粛の提案は巧みにも劉備を追跡される難民から、抗曹同盟の旗手として再定義した。これは劉備の政治的価値の再評価であった。会見の後、劉備は東の夏口(かこう)へと向かい、劉琦(りゅうき)の江夏(こうか)部曲と合流し、ただちに諸葛亮を魯粛に随行させて孫権に面会させた。この一連の行動は、会見が戦略的方向において当場で効力を発したことを示している [c:18060]。
政治的結果
当陽での同盟の意向確立後も、江東内部では周瑜(しゅうゆ)・張昭(ちょうしょう)両派の激しい論議を経てようやく最終的に落ち着くことになったが、魯粛の会見は主戦派に「劉備がわれわれとともに事にあたろうとしている」という現実的な根拠を与えた。劉備にとってこの会見は、彼を「逃亡者」から「牌桌上のプレイヤー」へと再び引き戻し、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の後には荊州の大部分を占有して後の蜀入りの足がかりとなった。孫権にとって、同盟によって江東の防衛線を長江から夏口・樊口の一線へと前進させ、江東が単独で曹軍の圧力を受ける事態を避けることができた。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)が実現できたのは、当陽でのこの一度の対面会談が孫・劉双方を同じ船に乗せたことが前提となっていると言える [c:18060]。
反事実的推論
もし魯粛が数日遅れ、劉備がすでに南渡して蒼梧に遠く投じていたならば、孫劉同盟は成立する基盤がなかった。劉備は江東と接合する地理的条件を失い、孫権もまた曹操の百万の衆に単独で対応することは難しかっただろう。もし魯粛がその場で諸葛亮に「私は子瑜(諸葛瑾)の友人だ」と言わず、江東が諸葛亮個人に対して受け入れを示す可視的な姿勢を示さなかったならば、諸葛亮がその後、柴桑(さいそう)に赴いて孫権に面会した際に短時間で局面を打開できたかどうかは定かでない [c:18060]。三国志(さんごくし)はここでも注目すべき細部を残している。魯粛伝と蜀書の諸葛亮伝では同盟の議への功績の帰属が異なっており、前者は主謀を魯粛に帰し、後者は「連横の略」を諸葛亮に帰している。裴松之はすでにこの点について批判を提起していた。しかし二つの記述は必ずしも矛盾しない。魯粛が当陽で「提案」を完成させ、諸葛亮が柴桑で「成立させ」た。どちらが欠けても、孫劉の連合軍は形をなさなかっただろう。
