
史書の記録(Historical Record)
馬超(ばちょう)、字は孟起、右扶風茂陵の人で、伏波将軍・馬援の後裔である。その父・馬騰(ばとう)は霊帝の末年に辺章・韓遂(かんすい)らとともに西州で挙兵した。初平三年(192年)、馬騰・韓遂は衆を率いて長安(ちょうあん)へ赴いた。漢朝は韓遂を鎮西将軍に任じて金城へ帰し、馬騰を征西将軍に任じて郿県に屯営させた。後に馬騰は長安を襲撃して失敗し、涼州(りょうしゅう)へ退いた。司隷(しれい)校尉・鍾繇(しょうよう)が関中を鎮守した際、馬騰・韓遂に書を送って利害を分析し、彼らに子を朝廷へ入侍させるよう促した。建安十年(205年)、馬騰は馬超を遣わして鍾繇とともに郭援(かくえん)・高幹(こうかん)を平陽(へいよう)に討伐させ、馬超の部将・龐徳(ほうとく)が自ら郭援の首を斬った。後に馬騰は韓遂と不和となり、京畿へ戻ることを請うた。そこで朝廷は馬騰を衛尉に徴召し、馬超を偏将軍に任じて都亭侯に封じ、馬騰の部曲を統率させた。建安十六年(211年)、曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)を征討して関中を通過し、馬超らの疑念を引き起こした。馬超はそこで韓遂・楊秋(ようしゅう)・李堪・成宜らとともに叛乱を起こし、潼関(どうかん)に屯営した。曹操は自ら大軍を率いて西征し、馬超らと潼関で対峙した。曹操は賈詡(かく)の計を採り入れ、馬超と韓遂を離間させて互いに猜疑させ、最終的に馬超連合軍を大破し、成宜・李堪らを斬った。馬超らは涼州へ敗走し、楊秋は安定へ奔り、関中は平定された。曹操は安定まで追撃したが、北方に事があったため軍を引いて東へ還った。楊阜(ようふ)は曹操に進言し、馬超には呂布(りょふ)・英布のごとき勇があり、羌・胡の心を深く得ており、厳重に防備しなければ隴上の諸郡は国家のものでなくなる恐れがあると指摘した。曹操は賛同したものの、慌ただしく撤兵したため防備が行き届かなかった。馬超は果たして諸戎の渠帥を率いて隴上の郡県を攻め、各郡県は次々と呼応し、ただ冀城(きじょう)のみが固守した。馬超は隴右の衆をことごとく得て、張魯もまた大将・楊昂(ようこう)を遣わして助け、合わせて一万余人で冀城を囲攻した。冀城の守将・楊阜は軍民を率いて数か月固守したが、刺史・韋康(いこう)は最終的に城を開いて降伏した。馬超は入城後、楊阜の従弟・楊岳を拘禁し、刺史・韋康を殺害した。楊阜・姜叙(きょうじょ)・梁寬・趙衢らは謀って馬超に反撃し、楊阜・姜叙は卤城で挙兵したが、馬超はこれを攻め落とせなかった。梁寬・趙衢は冀城の城門を閉ざし、馬超を入城させなかった。馬超は進退きわまり、漢中(かんちゅう)へ奔って張魯に身を寄せた。張魯は娘を彼に嫁がせようとしたが、ある者が、馬超はその親をも愛せぬ者がどうして人を愛せようかと諫めたため、張魯はやめた。馬超は漢中で重用されず、内心は鬱屈していた。建安十九年(214年)、彼は劉備(りゅうび)が劉璋(りゅうしょう)を成都(せいと)に囲攻していると聞き、密かに書を送って降伏を請うた。劉備は益州(えきしゅう)の主となった後、馬超を「爪牙」の一人とみなした。章武元年(221年)、劉備の称帝(りゅうびのしょうてい)に伴い、馬超は驃騎将軍に任じられ、涼州牧を領し、斄郷侯に進封された。章武二年(222年)、馬超は世を去り、享年四十七であった。臨終の前、劉備に上疏し、その宗族二百余口が曹操に誅殺され尽くし、ただ従弟・馬岱(ばたい)のみが残ったので、陛下にその血食の継承を託すことを望み、ほかに言うことはないと述べた。劉備は馬超に威侯と追諡し、その子・馬承が爵位を継いだ。馬岱は位は平北将軍に至り、陳倉(ちんそう)侯に進爵した。馬超の娘は安平王・劉理(りゅうり)に嫁いだ。
演義の記述(In the Novel)
『三国演義』における馬超は、その人物像が史実をもとに大量の芸術的加工と潤色を施され、より伝奇的な色彩を帯びている。彼は第10回で初登場し、年わずか十七にして「面は冠玉のごとく、眼は流星のごとく、虎体猿臂、彪腹狼腰」で、長槍を手に駿馬にまたがり、勇猛無敵であった。彼は初陣で王方を刺殺し、李蒙(りもう)を生け捕りにし、少年英雄の並外れた武芸を示した。
演義では、馬超の挙兵して曹に反したことは、父の仇を報いる悲壮な挙として描かれている。馬騰は曹操に許都(きょと)へ召され、馬超はかつて父に「西涼の兵をことごとく起こし、父上に従って許昌(きょしょう)へ攻め入り、天下のために害を除きましょう」と進言したが、馬騰は従わず、次子の馬休・馬鉄(ばてつ)と甥の馬岱だけを連れて赴いた。後に馬騰は黄奎(こうけい)とともに曹操の刺殺を謀ったが事が漏れ、父も弟も曹操に殺され、馬岱は夜を日に継いで西涼へ逃げ帰って報せた。これにより馬超の曹操への憎しみはいっそう深まり、後の反曹に十分な動機を与えた。彼は韓遂と兵を連ねて曹操を攻め、潼関の戦いでは馬超の勇猛が極度に誇張されている。彼はかつて単騎で曹操を追撃し、曹操は「驚いて馬の鞭を落とし」、「髯を割き袍を捨てて」追撃を避けたほどであった。許褚(きょちょ)が「裸衣で馬超と闘う」場面は、馬超の武力を頂点へと押し上げ、曹操の虎痴・許褚と百余合に及んで勝負がつかず、演義における名場面となった。演義はまた、馬超が渭橋の上で曹操と単騎で会話し、許褚が目を瞋らせて馬超を睨みつけ、軽はずみな行動をとらせなかった様子を描いており、これは史書とはやや異なるが、許褚の勇猛と馬超の警戒をより際立たせている。
劉備に身を投じる前、馬超はかつて張魯に身を寄せ、張魯に遣わされて葭萌関(かぼうかん)を攻めた。この間、彼は張飛(ちょうひ)と肝を冷やすような夜戦を繰り広げ、二人は「百余合戦って勝負がつかず」、「精神はかえって倍加」し、最終的に日が暮れたため各々兵を収めた。この戦いは読者の心における馬超の地位を大いに高めた。後に諸葛亮(しょかつりょう)は李恢(りかい)を遣わして馬超を説き降ろし、李恢は「将軍の禍は遠からず」と説き、その「目下は四海に容れられがたく、一身に主なし」と指摘し、最終的に馬超は「大いに慚じ」、楊白(ようはく)を斬って劉備に帰順した。劉備に帰順した後、馬超は成都を攻め取る際、自らの威名をもって劉璋を説き降ろし、劉璋を「面は土色」にさせ、最終的に城を開いて降伏させ、生霊が塗炭に苦しむのを避けた。劉備の漢中王即位(りゅうびのかんちゅうおうそくい)の後、馬超は関羽(かんう)・張飛・趙雲(ちょううん)・黄忠(こうちゅう)とともに「五虎大将軍」に列せられ、地位は顕赫であった。演義はまた、馬超が軍営を巡視して彭羕(ほうよう)の腹心を捕らえ、彭羕の謀反を暴いた出来事を描き、馬超の忠誠と警戒をさらに際立たせている。
主要な関係
* 馬騰(parent_of):史書では馬超の父であり、かつて韓遂とともに挙兵し、後に曹操に衛尉として徴召され、最終的に曹操に殺された。演義では、馬騰は曹操に誘われて許都に入り、黄奎とともに謀反を起こそうとして事が漏れ、父子ともに斬られ、馬超の反曹の直接の原因となった。
* 韓遂(friend_of):史書では馬騰とともに西涼の軍閥であり、後に馬超とともに反曹したが、曹操の離間の計に破れた。演義では、韓遂と馬超は兄弟の契りを結び、ともに挙兵して反曹したが、曹操の離間の計のもと、馬超は彼に疑念を抱き、最終的に馬超は韓遂の片腕を斬り落とし、二人は反目して仇敵となった。
* 曹操(enemy_of):史書では馬超は曹操の張魯征討(そうそうのちょうろせいとう)を疑って挙兵し反逆し、後に曹操に撃破された。演義では、曹操は馬超の父を殺した仇敵であり、馬超は彼を骨の髄まで憎み、幾度も曹操を追撃し、「生きながら捕らえて汝の肉を食らう」と称した。
* 郭援(enemy_of):史書では馬超はかつて鍾繇に従って郭援を討伐し、部将・龐徳がその首を斬った。演義でも言及があるが、詳しくは描かれていない。
* 劉備(lord_of):史書では馬超は漢中で志を得なかった際、劉備に帰順し、劉備に「爪牙」の一人とみなされた。演義では、馬超は劉備に帰順した後、劉備の賢を礼遇する態度に感動し、「今、明主に遇い、雲霧を払って青天を見るがごとし」と称し、五虎大将軍に封じられた。
* 張魯(temporary_lord_of):史書では馬超は敗北の後にかつて張魯に身を寄せたが、重用されなかった。演義では、張魯はかつて馬超を婿に迎えようとしたが、楊白の諫言によってやめ、後にまた讒言を信じて、馬超を進退きわまらせた。
* 張飛(rival_turned_ally):演義のみ。葭萌関で、馬超は張飛と数百回合にわたり戦って勝負がつかず、二人の超凡の武芸を示し、馬超が劉備に帰順した後の地位の基礎を築いた。
* 許褚(rival):演義のみ。潼関の戦いで、許褚は「裸衣で馬超と闘い」、二人は大いに戦って勝負がつかず、演義における著名な一騎打ちの場面となった。
* 龐徳(subordinate):史書では龐徳は馬超の部将であり、かつて郭援の首を斬った。演義では、龐徳は馬超の腹心の将で、幾度も馬超に従って征戦したが、後に病のため馬超に従って蜀へ入ることができず、最終的に曹に帰した。
* 馬岱(cousin_and_subordinate):史書では馬超の従弟であり、後に馬超に従って蜀へ入り、馬超の臨終に劉備へ託された。演義では、馬岱は馬騰の遇害の後、夜を日に継いで西涼へ逃げ帰って報せ、終始馬超に従った、馬超の重要な親族かつ部将である。
象徴的な場面
* 潼関の戦い:史書では馬超は韓遂らの連合軍とともに潼関で曹操と対峙し、後に曹操の離間の計によって大敗した。演義では、この戦いは馬超が父の仇を報いる悲壮な戦いとして描かれ、馬超はこの戦いで驚くべき勇猛を示し、曹操に「髯を割き袍を捨てさせた」ほどであった。
* 渭橋の戦い:史書では曹操は渭橋で韓遂・馬超と単騎で会話し、後に離間の計を用いて馬・韓を反目させた。演義では、曹操と馬超が単騎で会話する際、許褚が目を瞋らせて馬超を睨みつけ、軽はずみな行動をとらせず、許褚の勇猛を際立たせた。
* 冀城を攻め取る:史書では馬超は潼関の敗戦の後、隴上の郡県を攻め取り、冀城を囲攻し、最終的に刺史・韋康を殺害した。演義では、馬超は冀城を攻め落とした後、韋康を殺し、かつて楊阜を殺そうとしたが、楊阜が「義を守った」ため殺さなかった。
* 葭萌関で張飛と大戦(演義のみ):馬超は葭萌関で張飛と激しい一騎打ちを繰り広げ、二人は数百回合にわたり戦って勝負がつかず、演義における名将対決となり、馬超が劉備に帰順した後の地位の基礎を築いた。
* 劉備に帰順:史書では馬超は漢中で志を得ず、密かに書を送って劉備に降伏を請うた。演義では、諸葛亮が李恢を遣わして馬超を説き降ろし、李恢はその雄弁の才をもって馬超に劉備への帰順を説き、馬超は最終的に「大いに慚じ」、楊白を斬って劉備に帰順した。
* 劉璋を説き降ろす:演義のみ。馬超は劉備に帰順した後、その威名をもって劉璋を説き降ろし、劉璋に城を開いて降伏させ、成都の民を戦火から救った。
* 五虎大将軍に列せられる(演義のみ):劉備の漢中王即位の後、馬超は関羽・張飛・趙雲・黄忠とともに「五虎大将軍」に列せられ、蜀漢政権における重要な地位を示した。
* 臨終の託孤:史書では馬超は臨終の前に劉備に上疏し、従弟・馬岱を託し、その宗族二百余口が曹操に誅殺され尽くしたと述べた。演義でも言及があるが、詳しくは展開されていない。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 顔は冠玉のごとく、眼は流星のごとく、虎の体に猿の腕、豹の腹に狼の腰。顔は白粉を施したよう、唇は朱を差したよう、腰は細く肩は広く、声は雄々しく力は猛々しい。獅子の兜に獣の帯、銀の鎧に白の袍、身支度は非凡で、人材は群を抜いていた。
- 性格
- 辺境の兵を恃んで勇を負い、英勇無敵、勇猛にして戦に長け、剛烈だが謀は乏しく猜疑に陥りやすく、自負して力に富んでいた。
- 話し方
- 臨終には悲憤に満ちていた。
- 生涯
- 馬騰(ばとう)の子で、右扶風茂陵の人である。かつて韓遂(かんすい)らとともに曹操(そうそう)に反し、後に敗走して漢中(かんちゅう)へ逃れ張魯(ちょうろ)に身を寄せ、最期には劉備(りゅうび)に帰順してその成都(せいと)包囲を助け、平西将軍・驃騎将軍に封ぜられ、涼州(りょうしゅう)牧を領し、斄郷侯となった。章武二年に病没し、時に四十七歳、威侯と追諡された。
- 武器
- 長槍と銅鎚。
- 逸話
- 西涼軍(せいりょうぐん)が敗退する際には殿を務めて死力を尽くして戦い張済(ちょうさい)を撃退した。戦に敗れて羌の地に入ること二年余り、羌の兵と誼を結び、隴西の州郡を攻め取ったが、後に楊阜(ようふ)の計にかかり、妻子や一族を殺され、みずから剣を取って姜敘母を殺し、敗走して漢中へ逃れ張魯に投じた。異郷に身を寄せて帰属してからは常に危懼を抱き、彭羕(ほうよう)の言葉を聞いて大いに驚き、黙して答えず、そのまま彼を上表して訴え出た。関羽・張飛とともに爪牙と並び称され、漢中王への勧進に名を連ねた。
人間関係
57 件の関係
親族7
君臣3
友人5
敵対10
その他30
名言
全 45 件の台詞 · 厳選 3 件
「操賊欺君罔上,罪不容誅!害我父弟,不共戴天之讎!吾當活捉生啖汝肉!」
この一句は、馬超(ばちょう)の曹操(そうそう)への深い恨みを示し、その『復讐者』としての人物像を形づくっている。
「短髯者是曹操!」
『短い髭の者が曹操だ!』は、『三国(さんごく)演義』における曹操(そうそう)が惨めに逃げ惑う名場面であり、広く伝わっている。
「今遇明主,如撥雲霧而見青天!」
この一句は、馬超(ばちょう)が劉備(りゅうび)に帰順した後の心境を表し、その人生の転機となる重要な台詞である。
登場回27 回 ▸
- 史ch.1ch.13ch.15ch.17ch.18ch.25ch.32ch.36ch.40ch.43
- 演ch.10ch.57ch.58ch.59ch.64ch.65ch.67ch.69ch.72ch.73ch.74ch.79ch.81ch.85ch.86ch.87ch.92
関係の年表25 条 ▸
史 ch.1
- 韓遂(かんすい)§77
friend_of
与韩遂等叛
史 ch.15
史 ch.25
- 韋康(いこう)§15
enemy_of
拘岳于冀,使杨昂杀刺史、太守
史 ch.36
史 ch.40
- 劉備(りゅうび)§21
advises_in
闻彭羕言大惊,具表羕辞
演 ch.10
- 馬騰(ばとう)§4
kin_of
子;本回首次登场即阵前杀敌
演 ch.57
- 馬騰(ばとう)§51
kin_of
马腾长子
演 ch.58
演 ch.59
演 ch.65
- 張魯(ちょうろ)§1
commands_in
受张鲁之命攻取葭萌关,欲生擒刘备以胁刘璋还州
- 張魯(ちょうろ)§13
betrayed_by
三遣使召超罢兵;后以三事相迫
- 楊白(ようはく)§16
enemy_of
段16一剑斩之,将首级上关献降
- 劉備(りゅうび)§16
defected_to
段16顿首谢曰「今遇明主,如撥雲霧而見青天」
- 劉璋(りゅう しょう)§18
enemy_of
段18城下以鞭指劝降,已归刘皇叔
演 ch.72
- 吳蘭§8
friend_of
马超与吴兰兩軍夾攻曹彰
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私はまもなく死ぬ。これまでの生涯を振り返って、最も心残りなのは、潼関(どうかん)で敗れたことでも、隴右を転々としたことでもない。孟徳(もうとく)に一族百余人をほぼ皆殺しにされたことだ。かつて私は韓遂(かんすい)らと兵を合わせ、潼関(どうかん
- 私は馬超(ばちょう)、字は孟起(もうき)という。この生涯で最も勢い盛んだった時といえば、渭南で挙兵し、諸戎が呼応して、西州の諸郡が風を望むように動いた頃にほかならない。父の馬騰(ばとう)が朝廷に入ると、私はひとり外に留まり、その部曲を引き継
- 私は字を孟起(Mōki)といい、扶風茂陵(Fūfū Moryō)の出身である。幼いころに見た父、馬騰(ばとう)は、武勇によって西州に名を立てていた。関中の諸将は行き来して結びつき、涼州(りょうしゅう)の兵馬も、しばしば砂塵の中を駆けていた。
生涯の大事16 ▸
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- 0211-01-01 · 華陰張既の華陰での馬超撃破(ちょうきのかいんでのばちょうげきは)· 戦死
- 0211-01-01 · 潼関(どうかん)曹操、髭を切り袍を棄てる(そうそう、ひげをきりほうをすてる)· 武将
- 0211-01-01 · 潼関(どうかん)渭南の戦い(いなんのたたかい)· 総大将
- 0211-01-01 · 潼関(どうかん)潼関の戦い(とんかんのたたかい)· 総大将
- 0211-01-01 · 潼関(どうかん)許褚の裸衣での馬超との戦い(きょちょのはだかいでのばちょうとのたたかい)· 武将
- 0211-01-01 · 潼関(どうかん)賈詡(かく)による馬超・韓遂の離間· 武将
- 0213-01-01 · 冀城(きじょう)冀城の包囲(きじょうのほうい)· 総大将
- 0213-01-01 · 鹵城楊阜の馬超討伐挙兵(ようふのばちょうとうばつきょへい)· 被害者
- 0214-01-01 · 成都(せいと)劉璋の降伏(りゅうしょうのこうふく)· 武将
- 0214-01-01 · 成都(せいと)劉璋の成都開城(りゅうしょうのせいとかいじょう)· 武将
- 0214-01-01 · 葭萌関(かぼうかん)馬超降劉備· 武将
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- 0219-01-01 · 沔陽(めんよう)劉備の漢中王即位(りゅうびのかんちゅうおうそくい)· 目撃者
- 0219-01-01 · 沔陽(めんよう)劉備の漢中王進位(りゅうびのかんちゅうおうしんい)· 目撃者
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