
史載(Historical Record)
曹洪(そうこう)は字を子廉といい、曹操(そうそう)の従弟である。『魏書』の記載によれば、その伯父曹鼎はかつて尚書令を務め、曹洪を蘄春長に任じた c:2303。後漢末年、曹操が兵を挙げて董卓(とう たく)を討伐し、滎陽の汴水で董卓の部将徐栄(じょえい)と交戦したとき、曹操は敗れ、流れ矢に当たり、乗っていた馬も負傷した。危急の際、曹洪は自分の馬を曹操に譲り、夜通しの逃走を可能にした。曹操が辞退すると、曹洪は「天下に洪はなくともよいが、君(あなた)はなくてはならぬ」と言った。続いて曹洪は徒歩で曹操に従って汴水に至ったが、水が深くて渡れず、曹洪は水沿いに船を見つけ、曹操とともに河を渡り、譙県に帰った c:2302。
その後、曹洪は揚州刺史の陳温のもとへ赴いて募兵し、廬江(ろこう)の上甲二千人を得て、さらに丹楊で数千人を募り、曹操と龍亢で合流した c:2303。曹操が徐州(じょしゅう)を征討する間、張邈(ちょうばく)が叛き、呂布(りょふ)を迎え入れた。当時はちょうど大飢饉で、曹洪は兵を率いて先行し、東平・范県を占拠し、糧草を集めて軍に供給した。曹操が張邈と呂布を濮陽(ぼくよう)で討伐し、呂布が敗走した後、曹洪はまた東阿を占拠し、済陰・山陽・中牟・陽武・京・密など十余県を転戦し、いずれも攻略した。前後の戦功により、曹洪は鷹揚校尉に拝され、後に揚武中郎将に遷った。漢の献帝が許県に遷都した後、曹洪は諫議大夫に任じられた。彼はかつて軍に従って劉表(りゅう ひょう)を征討し、舞陽・陰葉・堵陽・博望などの地で劉表の別将を撃破し、功により厲鋒将軍に遷り、国明亭侯に封じられた。曹洪は幾度も軍に従って征伐し、最終的に都護将軍に拝された c:2303。
曹丕(そうひ)が即位した後、曹洪は衛将軍に任じられ、後に驃騎将軍に遷り、野王侯に進封され、食邑千戸を加えられ、以前と合わせて二千一百戸となり、特進の列に位した。後にまた都陽侯に改封された。曹洪は家が裕福だが生まれつき吝嗇で、曹丕は若い頃かつて彼に金を借りようとして得られず、このため恨みを抱いた。曹丕は即位後、曹洪が客を泊めて法を犯したことを口実に彼を下獄させ、死刑に処そうとした。群臣は多方に救おうとしたが、効を奏さなかった。卞太后はこれを知ると、郭皇后(かくこうごう)に「もし曹洪が今日死ねば、わたしは明日にも皇帝に勅して、お前を廃させるであろう」と言った。卞太后が幾度も泣いて請うたため、曹洪はようやく死を免れたが、免官削爵され、財産を没収された。卞太后が再び出て初めて、曹洪の財産は返還された c:2304。明帝が即位した後、曹洪は後将軍に拝され、楽城侯に改封され、食邑千戸、特進の列に位し、再び驃騎将軍に拝された。太和六年(232年)、曹洪は世を去り、諡を恭侯とした。その子曹馥が侯を嗣いだ c:2304。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では、曹洪の人物像がさらに造形され、とりわけその忠勇と武芸が際立っている。彼は初登場ですぐに曹仁(そうじん)とともに曹操を助けに来て、「兵馬に熟達し、武芸に精通する」と描写される c:2305。滎陽の戦いで、曹操は徐栄に敗れ、矢傷を負い、馬は槍に当たって倒れた。曹洪は馬を飛ばして駆けつけ、刀を振るって追っ手を斬り殺し、曹操を救い起こした。曹操が彼に先行するよう言うと、曹洪は「天下に洪はなくともよいが、公(あなた)はなくてはならぬ」というこの名言を口にし、衣甲を脱ぎ、刀を引いて徒歩で曹操を護送した。河を渡る際には、さらに曹操を背負って水を渡り、危地から脱せしめた c:2306。この情節は曹洪の曹操への忠誠と命を捨てて顧みない精神を大いに強めており、曹操を背負って河を渡った細部は史に明確な記載がない。
曹洪は演義で幾度も重要な戦役に参加する。曹操が漢の献帝を洛陽(らくよう)に迎え還す際、曹洪は夏侯惇(かこう とん)と兵を分けて李傕(りかく)・郭汜(かくし)を迎撃し、敵軍を大破した c:2308。曹操が中原を平定した後、曹洪は将軍に封じられた c:5600。官渡の戦い(かんとのたたかい)の前夜、曹洪は命を受けて官渡(かんと)を鎮守した c:5602。袁譚(えんたん)が曹操を攻めたとき、曹洪は奮い立って陣を突き、手ずから袁譚を斬り殺した c:2310。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、曹洪は水陸路の都接応使に任じられた c:5605。赤壁の戦いの後、曹洪は曹仁の命を受けて彝陵に駐屯し、周瑜(しゅうゆ)に備えた c:5606。潼関の戦い(とんかんのたたかい)で、曹洪は敵を侮って軽率に進んだために潼関(どうかん)を失い、後に馬超(ばちょう)に追撃され、馬超と四五十合戦い、最終的に夏侯淵(かこう えん)が駆けつけたおかげでようやく脱出できた c:12048。曹操が東呉を征伐する際、曹洪は三万の鉄甲馬軍を率いて江辺まで哨戒した c:2312。
演義はまた曹洪の吝嗇な性格を描き、それを曹丕との恩讐に結びつけている。曹丕は東宮にいたときかつて曹洪に絹百匹を借りようとしたが、曹洪は応じなかった。曹丕は即位後、曹洪が客を泊めて法を犯したことを口実に彼を下獄させ、処刑しようとした。最終的に卞太后と曹真(そうしん)の嘆願のもと、曹洪はようやく死を免れたが、削官奪爵された c:2304。この情節は史書の記載とおおむね一致するが、演義は具体的な絹を借りる出来事を通して、曹洪の吝嗇な像をより鮮明にしている。曹操の臨終の前、曹洪は託孤の大臣の一人として、曹操に榻前に召されて後事を嘱された c:5613。曹丕が漢を簒奪する際、曹洪は曹休(そうきゅう)とともに剣を帯びて殿に入り、漢の献帝に禅位を迫り c:2313、玉璽を渡そうとしない符宝郎の祖弼を斬り殺し c:2314、曹魏(そうぎ)政権の建立過程における重要な役割を示した。
主要な関係
* 曹操(kin_of):曹洪は曹操の従弟で、両者の関係は親密である。曹操の危難の際、曹洪はかつて命を捨てて救い、「天下に洪はなくともよいが、君はなくてはならぬ」という忠義の言を口にした c:2306。
* 曹魏(serves):曹洪は曹魏政権の開国の功臣であり、長く曹操に従って征戦し、曹魏の建立と強化のために汗馬の功を立て、官は驃騎将軍に至った c:2303。
* 曹丕(rival_of):曹洪と曹丕の間にはわだかまりがある。曹洪は吝嗇ゆえにかつて曹丕の借貸の請いを拒み、曹丕が即位後に彼に報復し、下獄させて処刑しようとし、後に卞太后の嘆願を経てようやく免官削爵で済んだ c:2304。
* 何曼(fights_in):史料には曹洪と何曼の交戦は直接言及されていないが、演義では曹洪が汝南で黄巾の余党劉闢・龔都と交戦して不利となり、かつて曹操に急を告げた c:5601(演義独自)。
* 徐栄(fights_in):滎陽の戦いで、曹洪は曹操とともに董卓の部将徐栄に敗れ、曹洪はこの戦いで曹操を救った c:2302。
* 袁譚(fights_in):袁譚を攻める戦役で、曹洪は奮い立って陣を突き、手ずから袁譚を斬り殺した c:2310(演義独自)。
* 馬超(fights_in):潼関の戦いで、曹洪はかつて馬超と交戦し、馬超に追撃され、後に夏侯淵が駆けつけたおかげでようやく脱出できた c:12048(演義独自)。
* 卞太后(kin_of):卞太后は曹洪が曹丕に下獄させられた際、幾度も出て曹洪のために嘆願し、彼を一命から救い、財産を返還させた c:2304。
象徴的な場面
* 滎陽で主を救う:曹操は滎陽で徐栄に敗れ、重傷を負い、馬は倒れた。曹洪は自分の馬を曹操に譲り、徒歩で護送し、「天下に洪はなくともよいが、公はなくてはならぬ」という忠義の言を口にし、最終的に曹操を背負って河を渡り危地から脱した c:2306。この場面は曹洪の忠勇の像の古典的な体現である。
* 袁譚を斬る:曹操と袁譚の戦役で、曹洪は奮い立って陣を突き、手ずから袁譚を斬り殺し、曹操の河北平定のために戦功を立てた c:2310(演義独自)。
* 潼関を失い馬超と戦う:曹洪は潼関の戦いで敵を侮ったために関隘を失い、後に馬超に追撃された。曹洪は馬超と四五十合戦い、最終的に夏侯淵の救援のもとでようやく脱出できた c:12048(演義独自)。
* 曹丕に下獄させられる:曹洪は早年の吝嗇により曹丕の借貸を拒み、曹丕が即位した後、客を泊めて法を犯したことを口実に下獄させられ、死刑に処された。最終的に卞太后の力ある擁護のもとでようやく死を免れたが、削官奪爵された c:2304。この出来事は曹洪の性格の欠陥と曹丕との複雑な関係を明らかにしている。
* 献帝に禅位を迫る:曹丕が漢を簒奪する際、曹洪は曹休と剣を持って殿に入り、漢の献帝に禅位を迫り、玉璽を渡そうとしない符宝郎の祖弼を斬り殺し、曹魏政権の建立における強硬な立場を示した c:2314(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 曹洪(そうこう)は兵馬に熟達し、武芸に精通していた。彼はかつて身を捨てて主を守り、「天下に洪なくとも可なり、公なくして可ならず」と言った。曹洪は気性が短気で、曹仁(そうじん)はかつて彼を「洪は性急なり、まことに事を誤らんことを恐る」と評した。
- 生涯
- 曹洪(そうこう)は曹操(そうそう)の従弟で、早年に兵を募って曹操と合流した。彼はしばしば従軍して征伐し、鷹揚校尉を拝し、揚武中郎将に遷り、のちに驃騎将軍にまで至った。曹洪は家が富裕でありながら生来吝嗇で、かつて食客が法を犯したために下獄され、のちに免官され爵を削られた。明帝が即位した後、曹洪は再び驃騎将軍を拝し、太和六年に世を去った。諡は恭侯である。
- 武器
- 刀
- 逸話
- 曹洪(そうこう)は曹操(そうそう)の従弟で、滎陽の敗のときに馬を譲って曹操を救った。彼はかつて官渡(かんと)を守り、張郃(ちょうこう)の降を受けた際、初めはこれを疑った。曹洪は宗室の親貴であり、その賓客が法を犯した際、満寵(まんちょう)に収治されたことがある。
人間関係
18 件の関係
名言
全 17 件の台詞 · 厳選 3 件
「勿傷吾主!曹洪在此!」
この一句は曹洪(そうこう)が忠勇をもって主君を守る姿を示し、その人物像の典型的な描写となっている。
「袁熙、袁尚兵敗將亡,勢窮力盡。遠投沙漠。我今引兵西擊,倘劉備、劉表乘虛襲許都,我救應不及,為禍不淺矣。請回師勿進為上。」
この言葉は曹洪(そうこう)の戦略的見識を表し、曹操(そうそう)の決断に重要な影響を与えている。
「巴西守將張飛,非比等閒,不可輕敵。」
この一句で曹洪(そうこう)は張郃(ちょうこう)に敵を侮らぬよう戒めており、敵将に対する冷静な認識を示している。
登場回29 回 ▸
- 史ch.1ch.9ch.15ch.17ch.25
- 演ch.5ch.6ch.12ch.14ch.17ch.22ch.24ch.26ch.32ch.33ch.40ch.41ch.48ch.50ch.51ch.56ch.57ch.58ch.61ch.69ch.70ch.71ch.78ch.80
関係の年表13 条 ▸
史 ch.1
- 曹操(そうそう)§7
kin_of
从弟以马与太祖
史 ch.9
演 ch.5
- 曹操(そうそう)§4
kin_of
曹氏从弟,引兵千余来助
演 ch.6
- 曹操(そうそう)§8
commands_in
救起伤主曹操,让马护行渡水
演 ch.12
- 何曼§15
fights_in
用拖刀背砍计斩何曼于马下
演 ch.14
- 曹操(そうそう)§13
kin_of
称曹操为「臣兄」;引李典、乐进倍道而来助驾
演 ch.22
- 曹操(そうそう)§20
witnesses
报陈琳檄文出处
演 ch.33
- 袁譚(えんたん)§18
fights_in
奋威突阵,正迎袁谭,举刀乱砍,谭被杀于阵中
演 ch.58
- 馬超(ばちょう)§19
fights_in
山坡边出,攔住马超四五十合救曹操得脱
演 ch.61
- 曹操(そうそう)§43
commands_in
先差领三万铁甲马军哨至江边
演 ch.80
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は曹洪(そうこう)、字は子廉である。晩年を迎えた今、これまでの生涯を振り返ると、若い頃は短気で吝嗇だったことをよく思い出す。絹一匹のことで、兄の曹丕(そうひ)に恨まれることになったのだ。その後、客人が法を犯したために私まで死罪の牢獄に身を
- 私は曹洪(そうこう)、字は子廉(しれん)といい、太祖(たいそ)の従弟である。昔、滎陽(けいよう)で兵が敗れ、追手の騎兵が迫り、太祖が馬を失ったことを思い出す。私は馬を下りて差し出したが、太祖は辞退された。私はただ、「天下に私、洪がいなくても
- 私は字を子廉(Zilian)といい、代々譙県(Qiao Xian)に住んでいた。幼い頃に耳にしたのは、漢家の礼法と宗族の名分ばかりだった。当時、天下は乱れようとしており、朝廷の綱紀は次第に緩み、郷里の人々は不安におののいていた。後にどのよう
生涯の大事9 ▸
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