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張郃(ちょうこう)

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 将軍

張郃(ちょうこう)

字 儁乂

登場回
31
台詞の記録
38
人間関係
53
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

張郃(ちょうこう)は、字を儁乂といい、河間鄚の人である。漢末に募に応じて黄巾を討ち、軍司馬となり、後に韓馥(かんふく)に属した。韓馥が敗れると、張郃は兵を率いて袁紹(えんしょう)に帰附した。袁紹は張郃を校尉とし、公孫瓚(こうそんさん)を拒ませ、公孫瓚が破れた後、張郃は功により寧国中郎将に遷った。

官渡の戦い(かんとのたたかい)の期間、袁紹は淳于瓊(じゅんうけい)らを遣わして烏巣の屯を督運させ、曹操(そうそう)は自ら精兵を率いて急襲した。張郃は袁紹に進言した。「曹公の兵は精、往かば必ず瓊らを破らん。瓊ら破れなば、将軍の事去らん。よろしく急ぎ兵を引きてこれを救うべし」。しかし郭図(かくと)は異議を持ち、曹操の本営を攻めるよう建議した。袁紹は張郃の計を採らず、ただ軽騎を遣わして瓊を救い、重兵で曹操の営寨を攻めたが、攻め落とせなかった。曹操は果たして淳于瓊らを大破し、袁紹軍は潰敗した。この危急の関頭において、張郃は高覽とともに衆を率いて曹操に降った。

曹操は張郃を得て大いに喜び、彼を微子が殷を去り、韓信が漢に帰したことになぞらえ、偏将軍に拝し、都亭侯に封じた。これより、張郃はしばしば戦功を立て、曹操に従って鄴(ぎょう)を攻め、袁譚(えんたん)を渤海に撃ち、雍奴を囲んでこれを大破した。柳城(りゅうじょう)討伐の役では、張郃は張遼(ちょうりょう)とともに軍鋒となり、功により平狄将軍に遷った。彼はまた別に東莱を征して管承を討ち、張遼とともに陳蘭・梅成らを討ち、いずれもこれを破った。渭南の戦い(いなんのたたかい)では、張郃は曹操に従って馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)を大破し、安定を囲んで楊秋(ようしゅう)を降した。

曹操が張魯(ちょうろ)を征した際、張郃は先に諸軍を督して興和の氐王・竇茂を討ち、後にまた歩卒五千を督して曹操のために道を開いた。張魯が降った後、張郃は夏侯淵(かこう えん)らとともに漢中(かんちゅう)に留守し、劉備(りゅうび)を拒んだ。張郃はかつて別に諸軍を督して巴東・巴西の二郡を降し、その民を漢中に遷した。後に宕渠に進軍したが、劉備の将・張飛(ちょうひ)に拒まれ、南鄭(なんてい)に引き還し、荡寇将軍に拝された。

劉備が陽平に屯し、張郃は広石に屯した。劉備はかつて精卒万余を、十部に分けて夜に張郃を襲ったが、張郃は親兵を率いて搏戦し、劉備は克つことができなかった。夏侯淵が陣亡した後、三軍はみな色を失い、夏侯淵の司馬・郭淮(かくわい)は張郃を推して軍主とし、張郃は出て、兵を勒して陣を安んじ、諸将はみなその節度を受け、衆心はようやく定まった。曹操はこれを聞き、使を遣わして張郃に節を仮し、自ら漢中に至ったが、劉備は高山を保って戦おうとせず、曹操はそこで漢中の諸軍を引き出し、張郃は陳倉(ちんそう)に還り屯した。

魏の文帝・曹丕(そうひ)が王位に即くと、張郃を左将軍とし、都郷侯に進爵した。践阼すると、鄚侯に進封した。張郃はかつて曹真(そうしん)とともに安定の盧水胡および東羌を討ち、また夏侯尚(かこう しょう)とともに江陵(こうりょう)を撃ち、別に諸軍を督して江を渡り、洲上の屯坞を取った。明帝・曹叡(そうえい)が即位すると、張郃は南のかた荊州(けいしゅう)に屯し、司馬宣王(司馬懿(しばい))とともに孫権(そん けん)の別将・劉阿らを撃ち、祁口まで追い、これを大破した。

諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に出た際、張郃は位を特進に加えられ、諸軍を督して遣わされ、亮の将・馬謖(ばしょく)を街亭(がいてい)に拒んだ。馬謖は南山に阻り依り、下って城に拠らず、張郃はその汲道を断ち、これを大破した。南安・天水・安定の三郡が亮によって叛いたが、張郃はみなこれを破り平らげた。曹叡は詔して張郃の功を嘉し、邑千戸を益し、前とあわせて四千三百戸とした。

司馬宣王が荊州で水軍を治め、呉を伐とうとし、張郃に詔して関中の諸軍を督して往き節度を受けさせた。荊州に至ると、ちょうど冬で水が浅く、大船が行けなかったため、方城に還り屯した。諸葛亮が再び出て、急ぎ陳倉を攻めると、曹叡は駅馬で張郃を京都に召し、酒を設けて送行し、南北の軍士三万および武衛・虎賁を遣わして張郃を衛らせた。張郃は亮の県軍に穀なく、久しく攻められぬと料り、亮は必ずすでに退き走ったと言った。果たしてそのとおりで、張郃が晨夜に進んで南鄭に至った時、亮はすでに兵を退いていた。

諸葛亮が再び祁山に出ると、張郃は諸将を督して西のかた略陽に至り、亮は還って祁山を保ち、張郃は木門まで追い、亮軍と交戦したが、飛矢が右膝に中たって薨じた。壮侯と諡された。その子・張雄が嗣いだ。張郃は前後の征伐に功があり、明帝はその戸を分けて、その四子を列侯に封じ、末子に関内侯の爵を賜った。

演義における姿(In the Novel)

『三国演義』において、張郃の姿は史実を基礎にさらに文学化されており、とりわけその曹操への帰降と、蜀漢(しょくかん)の将との交鋒において、多くの劇的な色彩が加えられている。

官渡の戦いの際、張郃は袁紹麾下の大将として、高覽とともに出戦し、かつて張遼・許褚(きょちょ)・高覽らの将と捉対で厮殺し、曹操はこれを見て密かに称奇した。烏巣が襲われた後、郭図は袁紹に曹操の本営を攻めるよう建議し、張郃は烏巣の救援を力説し、「曹操は多謀、外出すれば必ず内に備えをなし、もって不虞に防ぐ。今もし操の営を攻めて抜けず、瓊ら獲らるれば、吾が属みな擒にせられん」と考えた。袁紹は張郃の言を聞かず、かえって郭図の計を採り、張郃・高覽を遣わして曹営を攻め、蔣奇(しょうき)を遣わして烏巣を救わせた。結果、蔣奇は兵敗し、烏巣は失われた。郭図は自らの過失を覆い隠すため、かえって張郃・高覽を「主公の兵敗を見て、心中必ず喜ぶ」と誣い、二人は「素より曹に降るの意あり、今寨を撃たしむるに、故意に力を用いず、もって士卒を損折せしむ」と言った。袁紹は大いに怒り、二人を殺そうとした。高覽はこれを聞き、剣を抜いて来使を斬り、張郃に曹操へともに降るよう勧めた。張郃もまたこの心があり、そこで二人は本部の兵馬を率いて曹操に降った。曹操は二人の降伏を歓迎し、その「微子が殷を去り、韓信が漢に帰するがごとし」と称し、張郃を偏将軍・都亭侯に封じた。この筋立ては、史書の記載における張郃が淳于瓊の破られたことによって降ったのとは異なり、演義では郭図の讒言と、張郃・高覽が自ら進んで降伏する詳細が加えられ、人物像をより鮮明にしている。

長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)において、趙雲(ちょううん)が乱軍の中で阿斗を救った際、張郃はかつて趙雲と十余合交戦し、趙雲は戦いに恋々とせず活路を奪って走った。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、曹操は水軍の中軍帳で将を点じ、張郃は前軍の紅旗に任じられた。

張飛との交鋒についても、演義は多く描いている。漢中争奪戦において、張郃はかつて曹洪(そうこう)に大言を吐いた。「人は皆張飛を怕るるも、吾はこれを視ること小児のごとし。この行き必ずこれを擒にせん」。結果、宕渠の戦いで、張郃は張飛の計に中たり、兵を損ね将を折り、三寨ことごとく失い、狼狽して瓦口関に退き守った。曹洪は張郃を斬ろうとしたが、郭淮(かくわい)に諫め止められた。続いて、張郃はまた葭萌関(かぼうかん)で老将・黄忠(こうちゅう)・厳顔(げんがん)と交戦し、たびたび失利し、黄忠に夏侯尚を生け捕りにされすらした(演義独自、史書には明記なし)。

諸葛亮の北伐(諸葛亮)の際、司馬懿(しばい)は魏の明帝に召し還され、張郃を先鋒に推挙した。司馬懿は張郃に諸葛亮の用兵の特徴を分析し、街亭が漢中の咽喉であり、その糧道を断とうとしていることを指摘した。張郃は拝服し、「都督の神算なり」と称した。最終的に、張郃は木門道で蜀軍を追撃した際、伏に中たって身を喪い、史書の記載とおおむね一致する。

重要な関係

* 曹操(そうそう)(defected_to):張郃は官渡の戦いの後、袁紹がその言を容れず、かつ郭図の讒言に陥れられたため、部を率いて曹操に降った。曹操は彼を甚だ重んじ、「微子が殷を去り、韓信が漢に帰するがごとし」と称し、重任を委ね、張郃も曹魏(そうぎ)のために赫々たる戦功を立てた。
* 曹魏(そうぎ)(fights_in):張郃は曹魏政権の重要な将であり、曹操の北方統一、劉備との漢中争奪、および曹魏の諸葛亮の北伐への抵御など一連の重大な軍事行動に参加した。彼は忠心耿々として、しばしば奇功を立て、曹魏後期の重要な軍事的支柱であった。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(fights_in):張郃は諸葛亮の北伐期間、たびたび蜀漢軍と交鋒した。とりわけ街亭の戦い(がいていのたたかい)において、張郃は馬謖を大破し、諸葛亮の最初の北伐を無功に終わらせ、その卓越した軍事的才能を示した。最終的に、張郃もまた諸葛亮を追撃した際に伏に中たって身を喪った。
* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(serves):張郃は早年、袁紹に仕え、かつて袁紹のために公孫瓚を征討して戦功を立てた。しかし官渡の戦いにおいて、袁紹がその良言を聞かず、かつ内部の謀士・郭図の讒言により、最終的に袁紹を離れて曹操に身を投じる道を選んだ。
* 張飛(ちょうひ)(fights_in):漢中争奪戦において、張郃は張飛とたびたび交手した。演義では、張郃はかつて張飛を軽視し、結果、宕渠の戦いで張飛に伏を設けられて敗れ、兵を損ね将を折った。史実では、張郃は宕渠で張飛に拒まれ、南鄭に引き還した。
* 夏侯淵(かこう えん)(colleague):張郃は夏侯淵とともに漢中を鎮守し、ともに劉備を抵御した。夏侯淵が陣亡した後、張郃は郭淮に推挙されて軍主となり、軍心を安定させた。
* 司馬懿(しばい)(commander):諸葛亮の北伐後期、張郃は司馬懿の節制を受け、先鋒を務めた。司馬懿は張郃の軍事的才能を甚だ倚重し、かつて彼に諸葛亮の用兵の策略を分析した。

象徴的な場面

* 官渡の帰降:官渡の戦いにおいて、袁紹は張郃の烏巣救援の建議を聞かず、かえって郭図の讒言を信じ、張郃・高覽を問罪される境地に陥らせた。最終的に、張郃は高覽とともに部を率いて曹操に降り、曹操は大いに喜び、その「微子が殷を去り、韓信が漢に帰するがごとし」と称した。この事件は張郃の軍事的経歴の転機を示すとともに、曹操が最終的に袁紹を破る重要な基礎を据えた。
* 街亭で馬謖を大破する:諸葛亮の最初の北伐期間、馬謖を遣わして街亭を守らせた。張郃は命を受けて迎え撃ちに赴き、馬謖が山に依って営を構える誤りを見破り、その汲道を断ち、最終的に馬謖を大破し、諸葛亮の北伐を失利させ、三郡を再び平らげた。この戦いは張郃の「戦勢と地形を料る」軍事的才能を十分に示した。
* 宕渠の失利(演義独自):漢中争奪戦において、張郃は張飛を軽視し、「吾はこれを視ること小児のごとし」と大言した。結果、宕渠の戦いで、張郃は張飛の設けた空寨の計に中たり、損失は惨重で、三寨ことごとく失い、狼狽して逃げ還った。この筋立ては演義の虚構ではあるが、張郃が智勇兼備の対手を前にした際、時に敵を軽んじて失利することもある姿を生き生きと描き出している。
* 木門道で伏に中たる:諸葛亮の第四次北伐(だいよんじほくはつ)の際、張郃は命を受けて撤退する蜀軍を追撃した。木門道において、張郃は諸葛亮の設けた伏兵に中たり、乱箭が右膝に中たって亡くなった。この結末は、彼が沙場の老将としての宿命であるとともに、諸葛亮の智謀を側面から際立たせている。司馬懿はかつて張郃の追撃を諫め止めたが、張郃は聞かず、最終的に身を喪った(『魏略』の記載、正史にあらず)。
* 夏侯淵の陣亡後に軍心を安定させる:漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)において、夏侯淵が陣亡し、曹魏の三軍は震恐した。夏侯淵の司馬・郭淮は当機立断、張郃を推して軍主とした。張郃が出て兵を勒して陣を安んじると、諸将はみなその節度を受け、迅速に軍心を安定させ、より大きな潰敗を避けた。これは張郃の軍中における威望と、危に臨んで乱れぬ統率能力を体現している。

肖像アーカイブ

人物像

性格
張郃(ちょうこう)は変化を見抜き、営陣の処置に長け、戦の勢いや地形を推し量り、武将でありながら儒士を愛し好み、敵を計ることに明審であった。勇猛で果敢に戦い、剛烈で屈せず、時勢を見極めて明主に鞍替えすることもできた。しかし、ときには気が急いて好戦的で剛愎であり、性急で自らの忠義を恃むこともあった。
話し方
張郃(ちょうこう)の言葉は歯切れよく、しばしば「公の兵は精し」「曹公の営は固し」「国家の名将」といった判断から議に切り込み、「必ず」の字を多用して推断した。演義では、ときに大いに怒って罵り、「甘んじて軍令を受ける」と自ら出戦を請い、またときには慎重で堅実に、堅守を主張した。
生涯
張郃(ちょうこう)は河間鄚の人で、後漢末に募に応じて黄巾を討ち、のちに袁紹(えんしょう)に帰した。官渡の戦い(かんとのたたかい)のとき、郭図(かくと)の讒言を恐れて曹操(そうそう)に降った。曹操(そうそう)に従って長年戦い、たびたび戦功を立て、征西車騎将軍にまで至り、鄚侯に封ぜられた。ついに諸葛亮(しょかつりょう)の北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう))のとき、木門道で伏せられた弩によって死んだ。
武器
張郃(ちょうこう)が用いた兵器は槍である。
逸話
陳寿(ちんじゅ)は張郃(ちょうこう)を「巧みな変化をもって称せられる」と評した。官渡の戦い(かんとのたたかい)で高覽とともに兵を率いて曹に降り、のちに曹魏(そうぎ)の名将となり、左将軍・右将軍などの職を歴任した。

人間関係

53 件の関係

名言

全 38 件の台詞 · 厳選 3 件

「人皆怕張飛,吾視之如小兒耳!此去必擒之!」

演 第69回→ 曹洪(そうこう)

この一句は張郃(ちょうこう)の傲岸さと自信を示すもので、その人物の性格を描く典型的な写しである。

「今將軍當於何處進兵?」

演 第95回→ 司馬懿(しばい)🗓 李傕・郭汜の争乱(りかく・かくしのそうらん)

街亭の戦い(がいていのたたかい)の前、張郃(ちょうこう)のこの問いはその軍事的洞察力を際立たせ、戦役の鍵となる伏線となっている。

「比臣未到,亮已走矣;屈指計亮糧不至十日。」

史 第17回→ 曹叡(そうえい)

正史に記載され、この言葉は諸葛亮(しょかつりょう)が兵糧尽きて退兵することを的確に予見するもので、その戦略眼を体現している。

登場回31 回 ▸
  • 史ch.1ch.2ch.3ch.6ch.17ch.26ch.32ch.33ch.35ch.36ch.39ch.43ch.56
  • 演ch.30ch.31ch.41ch.42ch.48ch.56ch.58ch.67ch.69ch.70ch.71ch.94ch.95ch.96ch.97ch.98ch.99ch.101
関係の年表32 条 ▸

史 ch.1

史 ch.3

史 ch.17

史 ch.35

演 ch.30

演 ch.41

演 ch.58

演 ch.67

演 ch.70

  • serves

    三万军已折二万遣人求救,被曹洪怒拒;溃归被欲斩,从郭淮谏得免,又领五千兵改取葭萌

  • serves

    郭淮言"张郃乃魏王所深爱者也"——故不可便诛

演 ch.71

演 ch.95

演 ch.97

演 ch.99

演 ch.101

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は張郃(ちょうこう)、字は儁乂(しゅんがい)。命を受けて諸将を率い、西へ向かって略陽(りゃくよう)を攻略していたところ、諸葛亮(しょかつりょう)が再び祁山(きざん)に出たと聞き、隴右(ろうゆう)がまた騒然となると悟った。軍中で勝敗を論じる
  • 烏巣に火の手が上がると、袁氏の軍心はすでに揺らいでいた。私は曹公の兵が精鋭であることを早くから知っていた。もし曹公に淳于瓊(Jun'u Kei)を撃破させれば、河北の大事は成らなくなる。そこで袁紹(Enshō)、すなわち本初(Honsho)
  • 私は字を儁乂(しゅんがい)といい、河間(かかん)の人である。幼い頃にはすでに天下が乱れ、州郡の間で戦乱が次第に起こり始めていた。私が若い頃にどのように学問をし、軍に入ったのかについては、史書に詳しい記載がないため、みだりに語ることはできない
生涯の大事18 ▸
  1. 官渡の戦い(かんとのたたかい)· 武将
  2. 201年 · 倉亭
    倉亭の戦い(そうていのたたかい)· 武将
  3. 201年 · 穰山
    穰山の戦い(じょうざんのたたかい)· 武将
  4. 210年 · 天柱山
    天柱山之戰· 武将
  5. 銅雀台(どうじゃくだい)落成大会· 武将
  6. 214年 · 枹罕
    夏侯淵の枹罕討伐(かこうえんのほうかんとうばつ)· 武将
  7. 巴西の戦い(はせいのたたかい)· 総大将
  8. 曹操の張魯征討(そうそうのちょうろせいとう)· 武将
  9. 陽平関の戦い(ようへいかんのたたかい)· 武将
  10. 定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)· 武将
  11. 漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)· 武将
  12. 漢水の戦い(かんすいのたたかい)· 武将
  13. 第一次北伐(だいいちじほくばつ)· 武将
  14. 街亭の戦い(がいていのたたかい)· 総大将
  15. 陳倉攻防戦(ちんそうこうぼうせん)· 武将
  16. 231年 · 木門道
    木門道での張郃射殺(もくもんどうでのちょうこうしゃさつ)· 戦死
  17. 第四次北伐(だいよんじほくはつ)· 戦死
  18. 北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう))· 総大将