
史載(Historical Record)
太史慈(たいし じ)、字は子義、東莱黄県の人である。その若年期の事績の記載は多くないが、その忠義の名は広く伝わっている。彼はかつて北海郡(ほっかいぐん)の相である孔融(こうゆう)が彼の母を手厚く遇したことから、断固として黄巾賊の管亥(かんがい)に囲まれた孔融を救援に赴いた。当時、孔融は都昌に囲まれ、情勢は危急であった。太史慈は遼東から帰ってきたところで、その母は孔融の恩義に感じ、彼に救援に赴くよう勧めた。太史慈は単身単騎、夜陰に乗じて城内に潜入し、孔融に面会して出城して救援を求めることを願い出た。孔融は当初ためらったが、太史慈は「府君が老母に意を傾けてくださり、老母は恩遇に感じ入り、この慈を府君の急に赴かせました」 という理由で孔融を説得した。彼は一連の大胆な行動をとった。毎朝、彼は二騎を連れ、それぞれ的を持ち、城門を開けて真っ直ぐ出て、城下の壕の中で的を立てて矢を射、射終わると真っ直ぐ城に戻った。これを数日繰り返すと、城を囲む賊の群れは次第に警戒を緩めたので、太史慈はその隙に乗じて包囲を突破し、無事に平原(へいげん)に到達して、劉備(りゅうび)に救援を求めた。彼は劉備に孔融の窮状を陳述し、その言葉は誠意にあふれ、劉備はこれを聞いて「孔北海はこの世に劉備がいることを知っていたのか!」 と感慨を述べ、ただちに精兵三千を太史慈に随行させて派遣した。賊の群れは援兵が到来すると聞いて、包囲を解いて散り去った。孔融はこのため太史慈をいっそう重んじ、彼を「卿は吾が少友なり」 と称した。
その後、太史慈は同郡の揚州刺史である劉繇(りゅう よう)と出会った。孫策(そん さく)が長江を渡って曲阿を攻めた際、劉繇はかつて太史慈を大将とすることを考えたが、最終的に許子将の見方を顧慮して取りやめ、太史慈にはただ敵情の偵察をさせるにとどめた。ある偵察の際、太史慈はわずか一名の騎卒を連れていただけだったが、思いがけず孫策とその十三騎に遭遇した。その中には韓当(かんとう)、宋謙(そうけん)、黄蓋(こうがい)などの名将がいた。太史慈は少しも恐れず、孫策と一騎打ちをし、二人は互いに斬り合い、孫策は太史慈の馬を刺してその首にかけた手戟を奪い取り、太史慈は孫策の兜を奪い取った。後に双方の援兵が駆けつけたため、それぞれ手を引いた。
劉繇が敗れた後、太史慈は一時芜湖の山中に逃げ込み、自ら丹楊太守を称した。孫策が宣城(せんじょう)以東を平定した後、涇県を攻め、太史慈を捕らえた。孫策は自ら太史慈の縄を解き、彼と語り合い、招き入れる意を表した。太史慈は最終的に孫策に帰順し、門下督に任じられ、後に折衝中郎将を授けられた。劉繇が死去した後、その部衆一万余人が帰属するところがなくなり、孫策は太史慈に赴いて慰撫させた。左右の将領の多くが、太史慈は北へ去って帰ってこないかもしれないと疑念を抱いたが、孫策はその忠義を固く信じ、彼と帰る期日を約束した。太史慈は果たして期日通りに帰り、孫策に豫章郡(よしょうぐん)の情勢を報告し、孫策が最終的に豫章を平定する基礎を築いた。
孫策は劉表(りゅう ひょう)の従子である劉磐が艾、西安などの県を侵すのを防ぐため、海昏、建昌など六県を区切り出し、太史慈を建昌都尉に任じて海昏に駐屯させ、諸将を督して敵を防がせた。太史慈が着任すると、劉磐の侵略は絶えた。
演中(In the Novel)
『三国演義』においては、太史慈の像はさらに造形され、その忠義勇武の性格がいっそう際立っている。小説は冒頭に太史慈が北海郡の囲みを解いた壮挙を描いている。史実とやや異なるのは、演義では太史慈が城下で「門を開けよ!」と大声で叫んだが、孔融は初めその人を知らず、門を開けるのをためらい、後に太史慈が数人を突き刺し、賊の群れが退いて、孔融はようやく門を開けて迎え入れた点である。太史慈は孔融に身分を表明し、母の命を受けて恩に報いに来たことを述べた。孔融は大いに喜び、衣甲と鞍馬を贈り、太史慈は兵を借りて出城して賊を討つことを願い出たが、孔融は賊勢が甚だ盛んで、軽々しく出るべきではないと考えた。太史慈はそこで自ら平原の劉備のもとへ救援を求めに赴くことを願い出た。彼は「甲を着けて馬に乗り、腰に弓矢を帯び、手に鉄槍を持ち、飽くまで食べて装いを整え、城門が開いたところで、一騎が飛び出した」。途中で管亥の追撃に遭うと、彼は「弓を取り矢をつがえ、八方に射ると、弦に応じて落馬しない者はなかった」、無事に脱出した。劉備に面会した際、太史慈の陳述は史実とほぼ一致しており、劉備もまた「孔北海はこの世に劉備がいることを知っていたのか?」 と嘆息し、兵を出して救援した。
囲みを解いた後、演義では太史慈が孔融に別れを告げる筋が加えられている。彼は揚州刺史の劉繇から書状が来て呼ばれたため、長くとどまることができないと述べ、孔融の金帛による礼を婉曲に辞退した。
小説は太史慈と孫策の神亭嶺での遭遇戦をいっそう生き生きと描いている。劉繇の配下の将領である張英は自ら牛渚を守れると自負し、太史慈は自ら進んで前部の先鋒となることを願い出たが、劉繇は彼が「年なお若く、いまだ大将とすべからず」 という理由で拒んだ。孫策は劉繇の陣営を探りたいと思い、諸将は皆不可と考えたが、孫策は従わなかった。太史慈はこれを見て、劉繇の命令を待たず、「そのまま自ら甲を着けて馬に乗り、槍を取って営を出て、大声で叫んで言った。『胆力のある者は、皆我に従え!』」、わずかに一人の小将が随行した。神亭嶺で、太史慈と孫策は激しい一騎打ちを繰り広げ、五十合戦って勝負がつかなかった。演義ではさらに太史慈が偽って敗走し、孫策を誘って追わせ、二人が最終的に「皆馬から転がり落ち」、互いに兵器を奪い合い、つかみ合って殴り合う筋が加えられ、劇的性を大いに増している。その後、程普(ていふ)も出陣して太史慈と交戦したが、劉繇は周瑜(しゅうゆ)が曲阿を奇襲して奪ったため、鉦を鳴らして兵を収めた。
太史慈が孫策に帰順した後、演義では孫策が彼を信任する描写もいっそう細やかである。太史慈が劉繇の残党を収拾しに赴くことを願い出ると、諸将は皆「この度去れば必ず戻るまい」 と疑ったが、孫策は「子義は信義の士であり、必ず我に背くまい」 と固く信じた。太史慈は呉城を攻める際、かつて一矢で城上の裨将の左手を射抜き、その神射の技を示した(史に明記なし)。
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)では、太史慈は第四隊の将領に任じられ、呂蒙(りょもう)とともに水陸並進した。周瑜は宴席上で佩剣を解いて太史慈に渡して監酒とし、「今日の宴飲は、ただ友人の交情を語るのみ。もし曹操(そうそう)と東呉の軍旅の事を持ち出す者があれば、即座にこれを斬る!」 と明言し、太史慈の東呉の将領の中での地位と周瑜の彼への信任をさらに際立たせた。
合肥の戦い(ごうひのたたかい)では、太史慈は張遼(ちょうりょう)と交戦し、「七、八十合戦って、勝負がつかなかった」。後に太史慈は宋謙の仇を討つため、軽々しく戈定の言を信じ、内応外合して張遼を刺殺しようとしたが、結果として計略にかかり、身に数本の矢を受けた。最終的に、太史慈は傷が重すぎたため、「大丈夫は乱世に生まれては、まさに三尺の剣を帯びて不世の功を立てるべし。今、志いまだ遂げず、いかんぞ死せんや!」 と大声で叫んで死んだ。年は四十一歳であった。その臨終の遺言は、演義における彼の「志は節を尽くすにあり」という性格の最良の解釈である。
重要な関係
* 孔融(friend_of):太史慈と孔融の友誼は、その忠義の性格の表れである。孔融がその母を扶養し恤んだ恩は、太史慈に身の危険を顧みず、単騎で囲みを解き、そのために救援を求めさせた。孔融もこのため太史慈を「卿は吾が少友なり」と称した。
* 太史慈母(kin_of):太史慈の母は、その行動の重要な推進者である。彼女は孔融の恩義に感じ、太史慈に救援に赴くよう説き、太史慈が無事に囲みを解いて帰った後、喜んで「私はお前が孔北海に報いることができたことを喜ぶ」 と言った。
* 劉備(friend_of):太史慈は孔融のために救援を求め、劉備に利害を陳述し、劉備に兵を出して救援させ、北海郡の囲みを解いた。劉備もまた太史慈の言葉によって、孔融がこの世に劉備がいることを知っていたと感慨した。
* 劉繇(friend_of):太史慈は劉繇と同郡で、かつて短期間その麾下にいた。劉繇はかつて太史慈を重用することを考えたが、最終的に実現しなかった。演義では、太史慈はかつて自ら進んで劉繇の前部の先鋒となることを願い出たが、拒絶された。
* 孫策(friend_of):太史慈と孫策は、当初の敵対(神亭嶺の一騎打ち) から後の君臣の睦み合いへと至り、その人生の重要な転機となった。孫策の太史慈への信任と重用が、太史慈の東呉における功業を成就させた。孫策はかつて自ら太史慈の縄を解き、その信義を固く信じた。
* 周瑜(colleague_of):演義では、周瑜がかつて佩剣を解いて太史慈に渡して監酒とし、二人の東呉陣営における協力関係と周瑜の太史慈への信任を示した(演義独自)。
* 張遼(rival_of):演義の合肥の戦いでは、太史慈と張遼は何度も交戦し、互いに譲らず、最終的に太史慈は張遼の計略にかかって負傷して死んだ(演義独自)。
象徴的な場面
* 単騎で北海郡の囲みを解く:太史慈は孔融の恩に報いるため、身の危険を顧みず、単身単騎で黄巾賊に囲まれた都昌城に飛び込み、無事に包囲を突破して劉備に救援を求め、最終的に孔融の囲みを解いた。この出来事は、その「信義篤烈」の性格を十分に示している。
* 神亭嶺で孫策と一騎打ち:太史慈はわずか一騎を連れて、孫策とその十三騎に挑む勇気を持ち、孫策と互角に戦い、互いに斬り合った。この場面は太史慈の勇武を示すだけでなく、彼が後に孫策に帰順して重用される伏線をも敷いた。演義ではさらにこの一騎打ちを息をのむほどに描き、二人は馬を下りてつかみ合いまでした(演義独自)。
* 劉繇の旧部を慰撫する:孫策は太史慈を信任し、彼を劉繇の旧部の慰撫に派遣した。太史慈は託を裏切らず、期日通りに帰り、孫策が豫章を平定するための重要な情報を提供し、その忠誠と能力を示した。
* 赤壁の宴での監酒:演義では、周瑜が赤壁の戦いの前の宴席で、佩剣を太史慈に授けて監酒とし、軍中の規律を明言し、太史慈の東呉の将領の中での重要な地位と周瑜の彼への信任を際立たせた(演義独自)。
* 合肥での戦死:演義の合肥の戦いでは、太史慈は宋謙の仇を討つため、軽々しく奸計を信じ、伏兵にかかって負傷し、最終的に志を遂げられぬまま死んだ。その臨終の遺言「大丈夫は乱世に生まれては、まさに三尺の剣を帯びて不世の功を立てるべし。今、志いまだ遂げず、いかんぞ死せんや!」 は、その「志は節を尽くすにあり」という最良の注脚となり、この勇将の伝奇的な生涯に悲壮な終止符を打った(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 身の丈七尺七寸、美しい髯をたくわえ、猿のような長い腕で弓射に巧みで、弦を引けば的を外すことがなかった。槍をしごき馬を躍らせ、左に突き右に衝いて、無人の境を行くがごとくであった。
- 性格
- 信義に篤く烈しく、志は節を尽くすことにあった。至孝で勇武、信義と気概において意気投合した。勇猛で信義に厚く、孫策(そん さく)は彼を「信義の士」と称した。
- 話し方
- 率直で慷慨し、臨終に「丈夫たる者この世に生を享けたからには、七尺の剣を帯びて天子の階に昇るべきだ」と嘆じた。みずからを「鄙人」と称し、孝を説き信を説いて、筋道は明快であった。
- 生涯
- 二十一歳のとき郡のために州の上奏文を截ち毀ち、名を顕わして遼東に難を避けた。遼東から還り、難を冒して都昌に至り、単騎で往復して孔融(こうゆう)のために劉備(りゅうび)に救いを求め、三千の精兵を借りて囲みを解いた。のちに孫策(そん さく)と神亭で遭遇し、ただ一騎の卒を伴うのみで孫策(そん さく)に出会い、進み出て斗い、まさに策と渡り合った。策が彼の馬を刺すと、慈は策の項の手戟を奪い取り、慈もまた策の兜を得て、両家の兵騎が駆けつけて別れ散った。のちに孫策(そん さく)に帰し、策は海昏・建昌の左右六県を分けて慈を建昌都尉とし、海昏を治めて諸将を督して劉磐を防がせ、磐は跡を絶って二度と寇をなさなかった。
- 武器
- 弓矢・手戟・鉄槍・短戟。
- 逸話
- 東莱黄県の人で、かつて郡の奏曹史を務めた。建安八年に海昏を領し、のちに程普(ていふ)が代わって海昏を備えた。かつて命を受けて三千の兵を率いて黄州の地界に直行し、曹操(そうそう)の合淝への応援の兵を断った。かつて群英会の監酒官を務め、周瑜(しゅうゆ)の剣を佩き、「もし曹操(そうそう)と東呉の軍旅の事を持ち出す者があれば、ただちにこれを斬れ」との令を奉じた。
人間関係
21 件の関係
名言
全 23 件の台詞 · 厳選 3 件
「某太史慈,東海之鄙人也。與孔融親非骨肉,比非鄉黨,特以氣誼相投,有分憂共患之意。今管亥暴亂,北海被圍,孤窮無告,危在旦夕。聞君仁義素著,能救人危急,故特令某冒鋒突圍,前來求救。」
この一句は、太史慈(たいし じ)が情義を重んじ人の急難を救う品格を示し、その人物像を映す名場面である。
「我便是東萊太史慈也,特來捉孫策!」
この一句は、太史慈(たいし じ)が名乗りを上げる場面で、その勇武と自信を際立たせ、代表的な姿の一つとなっている。
「大丈夫生於亂世,當帶三尺劍立不世之功;今所志未遂,奈何死乎!」
この一句は、太史慈(たいし じ)の臨終の遺言で、志半ばの無念を表し、深い悲劇性を帯びている。
登場回8 回 ▸
- 史ch.49
- 演ch.11ch.15ch.44ch.45ch.49ch.50ch.53
関係の年表17 条 ▸
史 ch.49
演 ch.11
演 ch.15
- 劉繇(りゅう よう)§12
serves
自解北海之围后投刘繇,留于帐下;自请前部先锋不允
- 孫策(そん さく)§17
enemy_of
神亭独斗五十合不分胜负;后被生擒,策亲解其缚以锦袍衣之,慈请降;约日中归还、果率千余众至
- 孫策(そん さく)§29
serves
请降;策约「明日日中,望公来还」、慈应诺率众而来
演 ch.50
- 陸遜(りくそん)§11
fights_in
见陆逊举火,與其合兵一處衝殺
演 ch.53
- 張遼(ちょうりょう)§22
rival_of
出阵迎张辽,鬥七八十合不分胜负;后入合淝中伏
- 戈定§25
commands_in
鄉人;荐为内应混入合淝纵火刺张辽
- 孫権(そん けん)§25
serves
请引兵五千为戈定外应;坚执要行;中伏受重伤;临终言壮志而亡
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 息は次第に荒くなり、傷口は火のように痛む。幕舎の中の声も、遠く近く入り交じって聞き分けがたい。私は生涯、戦場を駆け回ってきたが、ついには病身ゆえに歩みを止めることになろうとは。そう思うと、心に残る無念は死ぬことではなく、志を果たせぬことだ。
- 江風が神亭を吹き抜け、旌旗をはためかせる。私は一騎で先を進み、遠くに孫策(そん さく)が十三騎を従えているのを見た。心に退く気はなく、ただ敵の勢いを探り、自分の務めを果たそうと思っていた。交戦のさなか、彼は馬を刺して私を討とうとし、私も手を
- 私は太史慈(たいし じ)、東莱の片田舎の者である。かつて遼東から帰ってきたとき、母は孔融(こうゆう)の恩義について私に話してくれた。私が遠出した後、孔融はたびたび人を遣わして母を見舞い、衣服や食糧も届けてくれたという。母は、孔融とは一度も会
生涯の大事5 ▸
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