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荀彧(じゅん いく)

曹魏(そうぎ) · 参謀

荀彧(じゅん いく)

字 文若

登場回
31
台詞の記録
46
人間関係
26
内面の独白
3

史載(Historical Record)

荀彧(じゅん いく)、字は文若、潁川(えいせん)潁陰の人で、後漢末の名門の出身である。その祖父・荀淑は「八龍」として知られ、父・荀緄はかつて済南の相を務め、叔父の荀爽(じゅん そう)に至っては司空の位にまで上った c:3064。少年のころより荀彧は人並み外れた才を示し、南陽(なんよう)の何顒(かぎょう)から「王佐の才なり」と評された c:3066。後漢の献帝の永漢元年(189年)、荀彧は孝廉に挙げられ、守宮令に任じられた。董卓の乱(とうたくのらん)の後、彼は潁川が四方から攻められる地となることを予見し、郷里の人々に速やかに離れるよう勧めたが、多くの者は決断をためらった。結局、荀彧は単身で一族を率いて冀州(きしゅう)へ赴き、同郡の韓馥(かんふく)を頼った。しかし、冀州牧の韓馥の地位はほどなく袁紹(えんしょう)に取って代わられた。荀彧は袁紹の幕下にあったとき、袁紹が「ついに大事を成すことはできない」と鋭く見抜き、初平二年(191年)に袁紹を捨てて当時東郡にあった曹操(そうそう)のもとへ身を投じた。曹操は荀彧を見て大いに喜び、彼を「吾が子房なり」と称し、司馬に任じた c:3066。

曹操の創業初期の段階において、荀彧はきわめて重要な役割を果たした。興平元年(194年)、曹操が東のかた陶謙(とうけん)を征討したとき、荀彧を残して鄄城(けんじょう)を守らせた。このとき、張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)が叛き、呂布(りょふ)を迎えて兗州(えんしゅう)に入れた。兗州の諸城が次々と呂布に呼応する中、荀彧は冷静に対応し、速やかに東郡太守の夏侯惇(かこう とん)を召集し、謀反を企てる者を誅殺して、軍心を安定させた。豫州(よしゅう)刺史の郭貢が数万の大軍を率いて城下に迫り、諸将は皆恐れたが、荀彧は自ら赴いて説得し、郭貢に兵を退かせた。彼はまた程昱(ていいく)と謀り、鄄城・范・東阿の三城を保全して、曹操のために根拠地を温存した c:3066。

建安元年(196年)、献帝が河東より洛陽(らくよう)に還ると、曹操は天子を奉迎して許に都を遷そうとした。人々の疑念に対し、荀彧は衆議を退け、天子を奉迎することは「大順・大略・大徳」の挙であり、曹操が天下を匡すのに資すると説いた。曹操はその進言を採り、天子を許都(きょと)に迎え、これによって大将軍に拝せられた。荀彧は漢の侍中・守尚書令に任じられ、常に中枢にあって重きをなし、曹操のために軍国の大事を画策した c:3071。彼は戦略面で曹操のために謀をめぐらせただけでなく、人材の推挙においても卓越した貢献をなし、相次いで荀攸(じゅん ゆう)・鍾繇(しょうよう)・戯志才・郭嘉(かくか)ら多くの賢才を推挙した c:3071。建安八年(203年)、曹操は荀彧の功勲を上奏し、彼を万歳亭侯に封じ、のちにさらに邑を二千戸にまで増やした c:6107c:3075。

しかし、荀彧と曹操の君臣関係は後期に亀裂を生じた。建安十七年(212年)、董昭(とうしょう)らが曹操に国公への進爵と九錫の加賜を提議した。荀彧は、曹操が義兵を起こしたのは漢室を匡すためであり、忠貞退譲の実を守るべきで、このようなことはふさわしくないと考えた。曹操はこれによって荀彧に不満を抱いた c:3076。同年、曹操は孫権(そん けん)を征討するにあたり、荀彧に上表して譙で軍を労うよう請うたが、彼を寿春(じゅしゅん)に留め置いた。荀彧はついに憂鬱のうちに世を去り、ときに年五十であった。翌年、曹操はすなわち魏公に封ぜられた c:3076。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、荀彧の人物像はさらに曹操の筆頭謀士にして忠貞の臣として造形され、その「王佐の才」という特徴が幾度も強調されている。彼は第十回に初登場し、甥の荀攸とともに曹操のもとへ身を投じ、曹操は彼を「吾が子房なり」と称し、行軍司馬に任じた c:3082。小説中、荀彧は自ら遠見を備えていただけでなく、人材の推挙にも長け、程昱・郭嘉・劉曄(りゅうよう)・満寵(まんちょう)・呂虔(りょけん)・毛玠(もうかい)らは皆、彼または彼の推挙した者を通じて曹操に紹介され、曹操集団のために堅固な人材の基礎を築いた c:3082。

『演義』は、曹操が苦境に立たされたときの荀彧の鍵となる役割を重点的に描いている。たとえば、呂布が兗州を襲取し、曹操が帰る家を失ったとき、荀彧は程昱と計って鄄城・東阿・范県の三城を死守し、曹操のために立脚の地を保った c:6111。曹操が陶謙の死を機に徐州(じょしゅう)を攻めようとしたとき、荀彧は力をこめて諫め、「もし徐州を得られなければ、明公はいずこに帰されるのか」と指摘し、曹操にまず兗州を安定させるよう勧め、東のかた陳の地を略取し、黄巾の余党の糧秣で軍を養うよう進言した。この策は軍糧の問題を解決すると同時に、民心にも順応するものであった c:3084。

天子の奉迎の面でも、『演義』の荀彧は同様に鍵となる役割を演じた。彼は曹操に「天子を奉じて衆望に従うは、不世の略なり」と勧め、曹操に献帝を許都へ迎えさせ、こうして「これより大権は皆曹操に帰した」 c:3085c:6112。小説はさらに、荀彧と王立・劉艾らによる「漢に代わる者は土なり」という讖緯の議論を虚構として加え、曹操が許都へ遷都する正当性、ならびに荀彧の曹操の覇業に対する深い理解をいっそう強めている c:13171。

『演義』において、荀彧の謀略はまた敵の分断・瓦解にも表れている。彼はかつて曹操に「二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)」と「驅虎呑狼の計」を献じ、劉備(りゅうび)の手を借りて呂布を除こうとし、あるいは袁術(えんじゅつ)の手を借りて劉備を弱めようとし、その深謀遠慮の一面を示した c:13172c:13173。官渡の戦い(かんとのたたかい)の前、孔融(こうゆう)が袁紹の勢力の強大さを憂えたとき、荀彧は「十勝十敗」の説(この説は史実では郭嘉の言であるが、演義では荀彧の口を借りて語らせており、あるいは融合であろう)をもって駁し、袁紹集団(えんしょうしゅうだん)内部の矛盾と将領の弱点を指摘して、曹操の自信を固めた c:3091。

荀彧の結末について、『演義』と史実とは異なるが、いずれもその漢に忠なる立場を強調している。小説中、曹操が魏公に進爵しようとしたとき、荀彧は「もとは義兵を起こし、朝廷を匡し国を寧んずるため」との言で諫め、曹操を怒らせた。ついに曹操は人を遣わして荀彧に空の食盒を送り届け、荀彧はその意を悟って毒を仰いで自尽した c:3076。この一節は史書には明記がないものの、荀彧の「忠貞退譲」の性格を大いに強め、彼を悲劇的な忠臣の像たらしめている。

主要な関係

* 曹操(君臣):荀彧は曹操の最も重要な謀士の一人であり、曹操から「吾が子房なり」と讃えられた c:3066。彼は曹操のために戦略を立て、人材を推挙し、後方を安定させ、曹操の覇業の確立に至大の功があった。しかし、曹操が後期に漢の簒奪を企図したとき、荀彧は漢室の忠臣としての立場を堅持したために曹操との間に隙を生じ、ついに憂鬱のうちに没した(史実)、あるいは毒を仰いで自尽した(演義) c:3076。
* 荀攸(親族/同僚):荀彧の甥で、同じく曹操の重要な謀士であった。荀彧はかつて曹操に荀攸を推挙し、彼が自らに代わって曹操のために謀をめぐらせることができると述べた c:3071。二人は曹操の幕下で共に補佐し、密接な関係にあった。
* 袁紹(旧主/敵手):荀彧はかつて短期間袁紹に仕えたが、ほどなく袁紹が「ついに大事を成すことはできない」と見抜き、曹操へ転じた c:3066。曹操と袁紹が対峙したとき、荀彧の袁紹に対する分析と曹操への確固たる支持は、曹操が最終的に勝利を収めた鍵となる要因の一つであった c:3075c:3091。
* 程昱(同僚/戦友):曹操が東のかた陶謙を征討し、兗州が叛乱したとき、荀彧は程昱と力を合わせ、共に鄄城・范・東阿の三城を保全し、曹操のために根拠地を守り抜いた c:3066。
* 郭嘉(同僚/被推挙者):戯志才が世を去った後、荀彧は曹操に郭嘉を推挙し、曹操はこれによって荀彧を「人を知る」と讃えた c:3071。郭嘉もまた曹操の重要な謀士となり、荀彧とともに曹操のために謀をめぐらせた。
* 献帝(忠誠の対象):荀彧は生涯、漢に忠なる信念を抱き、献帝の奉迎を力説し、漢室を匡すことを己が任とした c:3071。彼が曹操の国公への進爵と九錫の加賜に反対したのは、まさに漢室への忠誠ゆえであった c:3076。
* 何顒(知己):少年のころ、何顒は「王佐の才なり」と荀彧を評しており、その人を見る明があったことがうかがえる c:3066。
* 禰衡(被評価者):禰衡はかつて荀彧に対し「文若は顔を借りて弔いに行かせるべし」という侮蔑の評を下し、荀彧には外見ばかりで真の才がないと考えた c:3071。しかし、これはむしろ禰衡の傲慢を反映するものであって、荀彧の真の能力を映すものではない。

象徴的な場面

* 袁紹を捨てて曹操に投じ、曹操が「子房」と称す:荀彧は袁紹の幕下にあったとき、袁紹が「ついに大事を成すことはできない」と見抜き、決然としてこれを捨て曹操のもとへ身を投じた。曹操は荀彧を見て大いに喜び、彼を「吾が子房なり」と称した。この場面は荀彧の曹操集団における重要な地位を定めた c:3066。
* 三城を死守し、兗州を保全す:曹操が東のかた陶謙を征討し、呂布がその隙に乗じて入り込み、兗州の大半が叛いた危急の時、荀彧は程昱と謀り、鄄城・范・東阿の三城を死守して曹操のために根拠地を温存し、徐州で敗れた後も帰る所があるようにした c:3066c:6111。
* 衆議を退け、天子を奉迎す:曹操が献帝を奉迎すべきか躊躇したとき、荀彧は利害を力説し、この挙が「大順・大略・大徳」であると指摘して、曹操に天子を奉迎し許に都を遷させ、こうして「天子を挟みて諸侯に令す」ることになり、曹操の覇業のために政治的基礎を築いた c:3071c:3085。
* 賢才を推挙し、人を知り善く任ず:荀彧は自身の才能が卓越していただけでなく、その人を見る明によって、相次いで荀攸・鍾繇・戯志才・郭嘉ら多くの一流の人材を推挙し、曹操集団の壮大のために絶え間ない新鮮な血を供給した。曹操はかつて荀彧を「人を知る」と讃え、「二荀令の人を論ずるは、久しくしていよいよ信ず、吾は世を没するまで忘れず」と述べた c:3071c:3079。
* 官渡の戦い前の袁紹集団への分析:官渡の戦いの前、曹操と袁紹の実力が懸絶していたとき、荀彧(演義中。史実では郭嘉)は袁紹集団の内部の矛盾と将領の特徴を的確に分析し、「兵多くして整わず」「必ず内変を生ず」と指摘して、曹操が弱きをもって強きに勝つ自信を固めた c:3091。
* 空盒の死(演義独自):曹操が魏公に進爵しようとしたとき、荀彧は漢室の忠臣としての立場を堅持して諫め、曹操を怒らせた。曹操は人を遣わして荀彧に空の食盒を送り届け、荀彧はその意を悟って毒を仰いで自尽した。この一節は史書には明記がないものの、『演義』における荀彧の忠貞不屈、死をもって志を明らかにする象徴的な場面となっている c:3076。
* 曹操の徐州攻めを諫め、転じて東のかた陳の地を略取す:『演義』において、曹操が陶謙の死を機に徐州を攻めようとしたとき、荀彧は力をこめて諫め、徐州を攻めれば兗州が空虚になり、しかも徐州の民心はすでに劉備に帰していると指摘した。彼は曹操に転じて東のかた陳の地を略取し、黄巾の余党の糧秣で軍を養うよう進言し、この計は軍糧の問題を解決すると同時に、劉備との早すぎる衝突を避けるものであった c:3084。
* 「二虎競食」と「驅虎呑狼」の計(演義独自):荀彧は曹操に計を献じ、劉備と呂布との間の矛盾を利用し、あるいは袁術と劉備の矛盾を利用して、劉備を弱めるか除く目的を達しようとし、その高度な政治謀略を示した c:13172c:13173。
* 「死柩の中を行く、いかにして哭せざらんや」:禰衡は曹操の面前で傲岸不羈にふるまい、衆人の前で曹操とその謀士を辱めた。荀彧らが禰衡を見送る際、わざと端座して立たずにいると、禰衡は声をあげて大いに哭し、「死柩の中を行く、いかにして哭せざらんや」と述べて、曹操とその手下を「死屍」になぞらえて暗に風刺した。この一節は禰衡の狂言ではあるが、側面から荀彧らの曹操集団における地位と曹操への忠誠を映し出している c:13188。

肖像アーカイブ

人物像

性格
荀彧(じゅん いく)は王佐の才を備え、忠貞にして謙譲、深く思慮して遠謀をめぐらし、身を折って士人にへりくだり、私情に流されず、心を公平に保った。彼は謀慮周到で、利害を剖析するのに長け、慎重に思慮をめぐらした。
話し方
荀彧(じゅん いく)は事を論ずるに利害を条理立てて分析し、多く古今の成敗を喩えに用い、四勝の論を重んじた。彼は人物を精しく評して事を論じ、言葉は簡潔にして決断的であり、また長句の策論や慎重な諫言にも長けていた。
生涯
荀彧(じゅん いく)の祖父は荀淑(じゅんしゅく)、父は荀緄、叔父は荀爽(じゅん そう)である。彼は若くして孝廉に挙げられ、後に曹操(そうそう)に帰順し、曹操から「吾が子房なり」と称された。彼はかつて曹操に天子を奉迎して許(きょ)に都するよう勧め、また官渡(かんと)を固守すべきと力説し、董昭(とうしょう)らが曹操を国公とし九錫を加えようとする議に反対し、最終的に病により寿春(じゅしゅん)で世を去った。
逸話
荀彧(じゅん いく)は曹操(そうそう)の筆頭謀臣であり、たびたび鄄城(けんじょう)や許下(きょか)を留守した。彼は侍中・尚書令に封ぜられ、また野戦の労に対する表封を固辞したことがある。

人間関係

26 件の関係

名言

全 46 件の台詞 · 厳選 3 件

「昔晉文公納周襄王,而諸侯服從;漢高祖為義帝發喪,而天下歸心;今天子蒙塵,將軍誠因此時首倡義兵,奉天子以從眾望,不世之略也。若不早圖,人將先我而為之矣。」

演 第14回→ 曹操(そうそう)

この計略は曹操(そうそう)が天子を奉じて諸侯に号令するという戦略的基盤を築いたもので、その影響は深く大きい。

「將軍勇則勇矣,不知用謀。今許都新定,未可造次用兵。彧有一計,名曰:『二虎競食之計』。今劉備雖領徐州,未得詔命。明公可奏請詔命實授備為徐州牧,因密與一書,教殺呂布。事成則備無猛士為輔,亦漸可圖;事不成,則呂布必殺備矣;此乃『二虎競食之計』也。」

演 第14回→ 曹操(そうそう)📍 許昌(きょしょう)

「二虎競食」の計であり、荀彧(じゅん いく)の卓越した政治的謀略を体現している。

「不可。丞相本興義兵,匡扶漢室,當秉忠貞之志,守謙退之節。君子愛人以德,不宜如此。」

演 第61回→ 曹操(そうそう)

荀彧(じゅん いく)が漢室に忠誠を尽くすという政治的立場は、その人生の悲劇への伏線である。

登場回31 回 ▸
  • 史ch.10ch.11ch.13ch.14ch.16ch.23ch.26ch.29
  • 演ch.10ch.11ch.12ch.14ch.16ch.17ch.18ch.19ch.20ch.21ch.22ch.23ch.24ch.25ch.26ch.30ch.31ch.34ch.37ch.39ch.40ch.60ch.61
関係の年表35 条 ▸

史 ch.10

史 ch.11

史 ch.14

史 ch.29

演 ch.10

演 ch.12

演 ch.14

演 ch.18

演 ch.19

演 ch.20

演 ch.21

演 ch.22

演 ch.24

演 ch.25

演 ch.26

演 ch.31

演 ch.40

  • advises_in

    为脂习求情称其义人,操遂止杀

演 ch.60

演 ch.61

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • ここに至って、私が守るものは、もはや一城一郡の安危ではなく、漢室の名分がなお保たれているか否かである。かつて曹公(Sō Kō)が天子を迎えて許都(きょと)に都を置いたとき、厳(Gen)は欽(Kin)に、曹公は時運に応じて世に現れた鎮東将軍で
  • 私が生涯守ってきたのは、漢王室がなお存続する以上、名分と礼制を軽々しく捨ててはならないという思いにほかならない。曹操(そう そう)が初めて兵を挙げたとき、その志は朝廷を正し、国を安んじることにあった。私は彼が賢者を任用し、有能な者を働かせ、
  • 私は文若(ぶんじゃく)と字した。潁川(えいせん)の潁陰(えいいん)の人である。祖父の荀淑(じゅん しゅく)は字を季和(きわ)といい、かつて朗陵(ろうりょう)の県令を務め、その名は当世に聞こえていた。父の荀緄(じゅん こん)は済南(さいなん)
生涯の大事22 ▸
  1. 曹操の挙兵(そうそうのきょへい)· 軍師
  2. 曹操の徐州征討(そうそうのじょしゅうせいとう)· 軍師
  3. 兗州における呂布の乱(えんしゅうにおけるりょふのらん)· 軍師
  4. 曹操の陶謙征討(そうそうのとうけんせいとう)· 軍師
  5. 程昱の三城防衛・陳宮を阻む(ていいくのさんじょうぼうえい・ちんきゅうをはばむ)· 軍師
  6. 兗州の戦い(えんしゅうのたたかい)· 軍師
  7. 二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)· 軍師
  8. 曹操、天子を奉迎して許昌に遷都する(そうそう、てんしをほうげいしてきょしょうにせんとする)· 軍師
  9. 荀彧の奉天子の策(じゅんいくのほうてんしのさく)· 軍師
  10. 0196-01-01 · 鄴(ぎょう)
    郭嘉(かくか)が袁紹を去り曹操に帰す· 軍師
  11. 0198-01-01 · 下邳(かひ)
    沂水・泗水決壊による下邳水攻め(ぎすい・ししすいけっかいによるかひみずぜめ)· 軍師
  12. 0198-01-01 · 許都(きょと)
    禰衡の撃鼓罵曹(でいこうのげきこばそう)· 目撃者
  13. 郭嘉(かくか)の十勝十敗論· 軍師
  14. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    関羽の曹操への降伏(かんうのそうそうへのこうふく)· 軍師
  15. 十勝十敗論(じっしょうじっぱいろん)· 軍師
  16. 衛覬の塩官策(えいきのえんかんさく)· 軍師
  17. 程昱の詐書による徐庶の招致(ていいくのさしょによるじょしょのしょうち)· 目撃者
  18. 孔融の処刑(こうゆうのしょけい)· 軍師
  19. 曹操、華佗を獄死させる(そうそう、かだをごくししさせる)· 軍師
  20. 0211-01-01 · 成都(せいと)
    張松の地図献上と蜀謀略(ちょうしょうのちずけんじょうとしょくぼうりゃく)· 目撃者
  21. 荀彧の死(じゅんいくのし)· 被害者
  22. 曹操の魏公就任(そうそうのぎこうしゅうにん)· 軍師