背景
戦略の観点から見れば、建安十五年(210年)の「假途滅虢(仮道滅虢)」は、孫呉(そんご)の「荊州の借用(けいしゅうのしゃくよう)」という構図が崩壊する直前の最後のあがきであった。 孫呉は赤壁(せきへき)後に南郡(なんぐん)を劉備(りゅうび)に貸し与えたが、本来の意図は劉備に長江北岸で曹軍の圧力を吸収させることにあった。 しかし劉備が足場を固め、劉璋(りゅう しょう)側と通好し、独自の戦略的意図を示し始めると、 孫呉はたちまち自分が貸し出したのは一つの城ではなく戦略的縦深全体だったことに気づいた。 周瑜(しゅうゆ)の真の焦りは荊州(けいしゅう)が呉のものかどうかにあるのではなく、 劉備集団(りゅうびしゅうだん)が荊州を足掛かりとして益州(えきしゅう)を独占するかどうかにあった。 それが実現すれば天下の均衡は完全に崩れ、孫呉は三足鼎立の中で最弱の一極に成り下がる。 この懸念は理にかなっていた。 しかし彼が選んだ解法――「蜀を代わりに取る」という名目で実際には劉備を奇襲・抹殺する――は、 戦略上あまりにも複雑であり、盟友への猜疑心をさらけ出すものでもあった [c:16510]。
主要人物
周瑜この役では計画者と実行者を一身に担った。 魯粛(ろしゅく)への打ち明け話は極めて率直なものだった。「私はこれを口実にしているだけで、本当は荊州を奪いに行くのだ」[c:16510]―― このように戦略的意図を第三者に全部話してしまうやり方は、 自分の謀略への高い自信を示すと同時に、魯粛の実行能力への不安も示している。 諸葛亮(しょかつりょう)の役割は、受け身の側の能動的な反応であった。 魯粛の二度の往来を通じて彼はたちまち計略を見破り、 「表面上は承諾しながら、内々に布石を敷く」形で音もなく反制した [c:16511]。 魯粛はこの事件において双方から利用された仲介者であった。 孫劉連合の継続を真に望んでいたにもかかわらず、 周瑜には伝言に使われ、孔明(諸葛亮)には歩み寄りで矛先を消されて、 最終的に双方の駆け引きの伝声管となってしまった。 城楼の上での趙雲(ちょううん)の「孔明軍師はすでに都督の『假途滅虢』の計を知っておられます」[c:16513] という一言が周瑜の偽装を正面から突き破り、この反制の頂点となった。
核心議題
本事件は漢末・三国(さんごく)の核心的な問いに触れる。 三方が角逐する構図のなかで、盟友間の猜疑はどのように戦略的協力と共存しうるのか。 周瑜の論理は「先手必勝」だった。 劉備がまだ本当に大きくなっていない今、同盟の絆がまだ解けていない今のうちに、 巧みに包んだ奇襲で潜在的脅威を根絶する。 諸葛亮の論理は「表面を維持しながら内を固める」だった。 同盟を壊さず、かといって同盟に縛られず、 四方面の兵力配置によって劉備側がいかなる奇襲にも備えていることを証明する。 どちらの論理にも合理性はある。 しかし実行の結果は周瑜の側の大敗であった。 荊州を取り返せなかっただけでなく、孫呉の劉備への本音の敵意を露呈させ、 孫劉連合はここから「互いに警戒し合う」脆弱な段階に入った。
政治的帰結
最も直接的な結果は、周瑜自身の箭傷が再発して落馬・重傷を負ったことであり、 それが直接、巴丘(はきゅう)への道中での病死につながった [c:16513]。 この身体的な結果は戦略的な結果とほぼ同時に起きた。 孫呉は最も進取の心旺盛な統帥を失い、 後を継いだ魯粛の路線は明確に「劉備と協同して曹操(そうそう)に対抗する」という守勢へと転じた。 孫呉の荊州への執念は約九年間抑圧され、 呂蒙(りょもう)の白衣渡江(りょもうのはくいとこう)によってはじめて爆発的に解放された。 劉備側にとって、この役は荊州を守っただけでなく、入蜀への決定的な時間的窓を得たことも意味する。 わずか一年後の211年、劉備は劉璋の招きに応じて蜀に入り、 西取益州の戦略的推進を開始した。 より長い時間軸で見れば、周瑜の「假途滅虢」は失敗したが、 孫呉の荊州への潜在的敵意を早期にさらし過ぎ、 蜀漢(しょくかん)の孫呉への警戒心をその後根深く定着させた。
反事実推演
もし周瑜の計略が諸葛亮に見破られていなかったとしたら、どうなっていただろうか。 最も可能性が高い展開はこうだ。呉軍が荊州内に入った後、城下で劉備の暗殺を試みて失敗し、双方が公開対立の状態に陥る。孫劉両家はただちに交戦状態に入り、曹操が北方から漁夫の利を得る。 この観点から見れば、諸葛亮の反制は劉備を救っただけでなく、間接的に三国格局の安定をも守ったといえる。 逆に、周瑜がこの計画を提案せず、魯粛の路線を受け入れて荊州を引き続き劉備に貸し与えていたならば、 孫呉はより早く荊州を失っていたであろうか。 歴史が示す答えは否である。 魯粛路線の下の孫呉は、むしろ209年から219年にかけて内外の相対的な均衡を保ち続けた。 この事例は、戦略上「問題を急いで解決しようとすること」が「しばらく問題に耐えること」より代償が高くつくことがあることを示している。 周瑜の覇気と機智は、この一件においては却って致命的な欠陥となった。
