
史載(Historical Record)
許靖(きょせい)、字は文休、汝南郡平輿の人である。彼は若年の頃から従弟の許劭(きょしょう)と名声を等しくし、二人ともに人物評をもって知られたが、私的な交わりは睦まじくなかった。許劭はかつて許靖を排斥し、仕官できないようにしたため、許靖は一時、麦を挽いて自活した。後に潁川(えいせん)太守の劉翊の推挙を受け、許靖は計吏・孝廉となり、尚書郎に任ぜられて選挙の事務を担当した c:3392。
霊帝が崩御した後、董卓(とう たく)が権力を専らにした。許靖は吏部尚書の周毖(しゅうひ)とともに謀り、天下の賢士を選抜し、汚濁な者を淘汰し、隠逸の士を登用した。彼らは荀爽(じゅん そう)・韓融・陳紀らを公卿郡守に推挙し、韓馥(かんふく)を冀州(きしゅう)牧、劉岱(りゅうたい)を兗州(えんしゅう)刺史などに任命した。許靖自身は巴郡(はぐん)太守に任命されたが、就任せず、後に御史中丞を補任された c:3392。韓馥らが着任すると、各自が兵を挙げて董卓に反したため、董卓は激怒して周毖を斬殺した。許靖は従兄の陳玚と謀ったことから、誅殺されることを恐れ、豫州(よしゅう)刺史の孔伷(こうちゅう)のもとに身を寄せた。孔伷が死去すると、許靖はまた揚州刺史の陳禕に依った。陳禕が死ぬと、許靖は旧交のあった呉郡都尉の許貢(きょこう)と会稽(かいけい)太守の王朗(おうろう)を頼って赴いた。この間、許靖は親友を恤み、慷慨して資を援け、その仁厚な一面を示した c:3392。
孫策(そん さく)が江を渡った後、許靖は戦乱を避けて交州(こうしゅう)へ逃れた。彼は崖辺に身を据え、まず随従の者と疎遠な親族を去らせ、自らは最後にようやく立ち去ったため、その場に居合わせた者で嘆息しない者はいなかった。交阯に到着すると、交阯太守の士燮は彼を手厚く遇した。当時、交州に寄寓していた袁徽は、かつて尚書令の荀彧(じゅん いく)に書を送り、許靖を「英才偉士、智略は事を計るに足る」と称え、また流離の中で急難に遭うたびに常に人を先にし己を後にし、親友と苦楽を共にし、その仁恕惻隠の事は枚挙にいとまがないと述べた c:3395。
後に、劉璋(りゅう しょう)が使者を遣わして許靖を招き、許靖はそこで蜀に入り、巴郡・広漢太守に任命された。建安十六年、彼は蜀郡太守に転じた c:6278。建安十九年、劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を攻略し、劉璋が降伏した。劉備は許靖を左将軍長史に任命し、後に劉備が漢中王を称した際には、許靖は太傅に任命された c:6278。劉備が帝位に即くと、許靖は司徒に任命され、劉備は彼に「敬みて五教を敷き、寛に在れ」と策命し、また「徳を秉り怠ることなかれ」と励ました c:6276。許靖は七十を過ぎてもなお人物と交わることを好み、後進を引き立て、清談を倦まなかった。丞相の諸葛亮(しょかつりょう)もまた彼に弟子の礼をとった。章武二年、許靖は死去した c:3396。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、許靖の人物像は史実とやや異なっており、とりわけ劉備の入蜀という肝要な局面においてそうである。彼が初めて登場するのは第六十五回であり、劉備が成都(せいと)を包囲した際、許靖は城が陥落する前に「城を越えて出降」した蜀郡太守として描かれている c:3400。この筋立ては史書には明確な記載がなく、史実はただ劉璋が許靖を招いて蜀に入れ、巴郡・広漢太守に任命し、後に蜀郡太守に転じさせたとのみ述べている c:6278。演義では、劉備が益州の主となった後、許靖は左将軍長史に任命されており、これは史実と一致する c:6280。
劉備が漢中王を称した際、演義第七十三回には、許靖が法正(ほうせい)とともに劉備に壇に登るよう請い、冠冕璽綬を奉り、劉備が拝を受けた後、許靖を太傅に封じたと記される c:6281。この筋立ては、史実において劉備が漢中王を称した後に許靖を太傅に任命したという記載と一致する c:6278。
演義では、許靖はさらに劉備が帝位に即く勧進の過程にも関与している。第八十回において、孔明と許靖はともに文武の官員を率いて上表し、劉備に皇帝の位に即くよう請う。劉備が当初は辞退すると、許靖は進言して言った、「今、漢の天子はすでに曹丕(そうひ)に弑され、王上が帝位に即かず、師を率いて逆を討たねば、忠義たり得ません。今、天下に王上が君となることを欲せぬ者はなく、孝愍皇帝のために恨みを雪がんとしております。もし臣らの議に従われなければ、これは民の望みを失うことになります」と c:3402。最終的に、人々の勧めによって劉備はようやく帝位を受け、許靖を司徒に封じた c:6282。この筋立ては史実にも対応があり、劉備は帝位に即いた後、確かに許靖を司徒に任命している c:6276。
このほか、演義第七十七回において、許靖はかつて孔明に関羽(かんう)が遇害したとの知らせを密かに報じたが、孔明はすでに夜に天象を観てそれを予知していたと告げる c:3401。この筋立ては、演義が孔明の神機妙算の人物像を造形するために加えたものであり、史実にはこの記載はない。
主要な関係
* 許劭(kin_of):許靖の従弟であり、二人ともに人物評をもって知られたが、私交は睦まじくなく、許劭はかつて許靖を排斥した c:3392。
* 劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)(serves):許靖はかつて劉璋に招かれて蜀に入り、巴郡・広漢太守を務め、後に蜀郡太守に転じた c:6278。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(defected_to):劉備が益州を攻略した後、許靖は劉備に帰順し、左将軍長史・太傅に任命された c:6278。演義では「城を越えて出降」したと描かれている c:3400。
* 蜀漢(しょくかん)(serves):劉備が帝位に即いた後、許靖は司徒に任命され、蜀漢の重臣となった c:6276。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(colleague):許靖は諸葛亮とともに蜀漢の重臣であり、諸葛亮は許靖に弟子の礼をとった c:3396。演義では、二人はかつてともに劉備の帝位への勧進を行った c:3402。
* 士燮(benefactor):許靖が交州に流亡した際、交阯太守の士燮は彼を手厚く遇した c:3395。
* 王朗(おうろう)(friend):許靖は王朗と旧交があり、流亡の際にはかつて王朗を頼った c:3392。王朗は魏初に許靖に書を送り、旧好を述べた c:3396。
象徴的な場面
* 流離して人を先にし己を後にする:許靖は交州に流亡した際、崖辺に身を据え、まず随従の者と疎遠な親族を去らせ、自らは最後にようやく立ち去り、その仁厚にして己を後にし人を先にする品格を示した c:3395。
* 董卓が政を秉り、ともに選挙を謀る:霊帝崩御の後、許靖は周毖とともに謀り、天下の賢士を選抜し、汚濁を淘汰し、隠逸を登用して、乱世にあって国のために人材を挙げる抱負を示した c:3392。
* 劉備の入蜀、新主に帰順する:劉備が益州を攻略した後、許靖は劉備に帰順し、重任を委ねられた。演義では、城が陥落する前に「城を越えて出降」したと描かれており c:3400、この筋立ては乱世にあって時勢を見極める選択を際立たせている。
* 劉備の帝位への勧進:劉備が帝位に即く前、許靖は諸葛亮らとともに勧進し、最終的に劉備の即位を促し、蜀漢の開国の元勲の一人となった c:3402。
* 古希を過ぎてなお人物を愛する:許靖は七十を過ぎてもなお人物と交わることを好み、後進を引き立て、清談を倦まず、諸葛亮も彼に弟子の礼をとり、その高尚な人格の魅力と後輩への配慮を示した c:3396。
* 関羽が遇害したと密かに報じる(演義独自):演義において、許靖はかつて孔明に関羽が遇害したとの知らせを密かに報じ、孔明はすでに知っていたと告げたものの、この筋立ては許靖が朝廷の重臣として国家の大事に関心を寄せていたことを体現している c:3401。
* 王朗が書を送り、旧好を述べる:魏初、王朗はかつて許靖に書を送り、旧好を述べ、その情義はこまやかであった。これは許靖と同時代の名士との深い情誼を体現するだけでなく、彼が乱世においてもった声望と影響力を側面から反映している c:3396。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 許靖(きょせい)は篤実で人物を愛し、後進を導き受け入れ、清談に飽くことがなかった。流離の際にはつねに人を先にして己を後にし、仁恕と憐憫の心に厚かった。若き頃には従弟の許劭(きょしょう)とともに名を知られ、人物を批評する評判で並び称された。
- 話し方
- 許靖は清談と人物批評に長け、曹公に宛てた書簡は言葉に真心がこもり、文才は典雅であった。かつて「今、漢の天子はすでに曹丕(そうひ)に弑せられました。王上が即位して軍を興し逆賊を討たれなければ、忠義とはなりませぬ」と言った。
- 生涯
- 許靖は汝南平輿の人で、漢の霊帝の時に潁川(えいせん)の劉翊によって計吏に挙げられ、孝廉に察挙されて尚書郎に任ぜられ、選挙(官吏登用)を司った。董卓(とう たく)が政を握ると周毖(しゅうひ)とともに天下の士の進退を謀議したが、後に周毖が誅されたため各地を流離し、ついに蜀に入って劉璋(りゅう しょう)に身を寄せた。劉備(りゅうび)が蜀を平定すると、左将軍長史に任ぜられ、劉備の漢中王即位(りゅうびのかんちゅうおうそくい)の後には太傅を務め、帝を称した後には司徒に任ぜられた。章武二年に没し、年は七十を超えていた。
- 逸話
- 許靖は蜀漢(しょくかん)の名士で、蜀に入った後、張裔(ちょうえい)を評して「才幹に優れ理事に敏捷、中夏の鍾元常の類である」と述べた。かつて劉璋の下で蜀郡太守を務め、後に劉備に帰順した。
人間関係
17 件の関係
名言
全 3 件の台詞 · 厳選 2 件
「某適聞外人傳說,東吳呂蒙已襲荊州,關公已遇害,故特來密報軍師。」
この一句は関羽の死を明かすもので、『三国演義』における重要な転換点であり、影響は深遠である。
「今漢天子已被曹丕所弒,王上不即帝位,與師討逆,不得為忠義也。今天下無不欲王上為君,為孝愍皇帝雪恨。若不從臣等所議,是失民望矣。」
この一句は劉備に称帝を勧めるもので、蜀漢建国の鍵となる瞬間であり、許靖の政治的主張を体現している。
登場回8 回 ▸
- 史ch.32ch.37ch.38ch.39
- 演ch.65ch.73ch.77ch.80
関係の年表11 条 ▸
史 ch.38
演 ch.65
- 劉璋(りゅう しょう)§19
defected_from
段19踰城出降
演 ch.77
- 諸葛亮(しょかつりょう)§29
advises_in
密报东吴呂蒙袭荆州、关公遇害
演 ch.80
- 劉備(りゅうび)§25
advises_in
与孔明同主劝进
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は許靖(きょせい)、字は文休(ぶんきゅう)という。若い頃、潁川(えいせん)の陳紀(ちんき)とは兄弟のように交わり、袁渙(えんかん)、華歆(かきん)、王朗(おうろう)らとも親しく付き合った。世の移り変わりのなかで旧友は各地に散り、後年には千
- 我が名は靖(Sei)、字は文休(Bunkyū)、汝南郡平輿県の出身である。若い頃、従弟の許劭(きょしょう)とともに名声があり、世人は人物を評することをもって我らを称えた。しかし、私情は結局折り合わなかった。かつて許劭に退けられ、郡中の序列に
- 昔、劉璋(りゅう しょう)が蜀を守っていた頃、私は蜀郡に身を置き、天下に多くの変事が起きるのを目の当たりにしていた。益州(えきしゅう)は豊かに栄えていると称されていたものの、城中の人心が必ずしも安定していたわけではない。兵事が起これば、禍福
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