
史載(Historical Record)
陶謙(とうけん)は、字を恭祖といい、丹楊の人である。その父はかつて余姚の長を務めた。陶謙は幼くして孤独に育ち、不羈の名で郷里に知られた。少年のころは学問を好み、かつて諸生となり、のちに州・邵に仕え、茂才に挙げられて盧令を務めた。彼は性質が剛直で大節があり、かつて孝廉に察挙され、尚書郎を拝し、舒令に任じられた。在官中は清廉に身を持し、霊星を祠ったときに余った銭五百のために官を棄てて去ったことがある。のちに幽州(ゆうしゅう)刺史に遷り、議郎として召され、車騎将軍張温(ちょうおん)の軍事行動に参加して、西のかた韓遂(かんすい)を討った。その間、陶謙は張温の行いを軽んじ、心に不服を抱き、酒宴の席で公然と張温を辱め、あやうく辺地に流されかけたが、のちに人の勧めによって赦され、改めて張温の信任を得るに至った。
徐州(じょしゅう)で黄巾の乱(こうきんのらん)が起こると、陶謙は徐州刺史に任じられ、黄巾軍(こうきんぐん)を撃破して駆逐することに成功した。董卓の乱(とうたくのらん)の後、天下は大いに乱れ、陶謙は使者を間道より遣わして長安(ちょうあん)の朝廷に貢ぎ物を献じ、これによって安東将軍・徐州牧に任じられ、溧陽侯に封ぜられた。当時、徐州の百姓は富裕で、穀米が充足しており、多くの流民を引き寄せて帰附させた。しかし、陶謙は晩年「道に背いて情に任せ」、讒慝の小人である曹宏らに親しみ、刑政が和を失い、善良の士の多くがその害を被り、徐州はしだいに混乱に陥った。広陵(こうりょう)太守の趙昱(ちょういく)は、徐方の名士でありながら、忠直なるがゆえに陶謙に疎んじられた。下邳(かひ)の闕宣は天子を自称し、陶謙はかつてこれと共謀して寇鈔を働いたが、のちにこれを殺してその部衆を併呑した。
建安元年(196年)、曹操(そうそう)が徐州を征討すると、陶謙は北海郡(ほっかいぐん)の相孔融(こうゆう)と田楷(でんかい)に救援を求めた。劉備(りゅうび)は田楷とともに救援に向かった。陶謙は劉備に丹楊の兵四千人を贈り、劉備はそこで陶謙に帰附した。陶謙は上表して劉備を豫州(よしゅう)刺史とし、小沛(しょうはい)に駐屯させた。陶謙は病が重くなったとき、別駕の糜竺(びじく)に言った。「劉備でなければこの州を安んずることはできぬ。」陶謙が没した後、糜竺は徐州の百姓を率いて劉備を迎え立てた。劉備は最初これを受けようとしなかったが、陳登(ちんとう)・孔融らの勧めによって、ついに徐州牧を領した。
演中(In the Novel)
三国(さんごく)演義においては、陶謙の人物像は温厚純篤で、心の優しい長者として造形されている。彼が初めて登場した際、曹操と交わりを結ぶために、わざわざ境を出て曹操の父曹嵩(そうすう)を出迎え、都尉の張闓(ちょうがい)を遣わして護送させた。ところが張闓は財を貪って曹嵩を殺害し、これによって曹操が大挙して徐州に進攻する戦いが引き起こされた。
曹操の大軍が徐州を攻めたとき、陶謙は深く内疚を感じ、自らが「天に罪を獲て、徐州の民をしてこの大難を受けしめた」と考え、自らを縛って曹営に赴き、曹操の処置に任せて、徐州の百姓の命を保とうとさえした。 この筋立ては史書には明確な記載がなく、その仁厚を際立たせるために演義が行った文学的創作である。曹操の猛攻に直面し、陶謙は二度にわたって徐州を劉備に譲ろうとした。一度目は劉備が徐州を救援に来た後で、彼は劉備が漢室の宗親であり、徳才を兼ね備え、徐州を安撫しうる者であると考えた。 劉備が固辞して受けなかったため、陶謙は劉備に小沛を守らせて徐州を保たせた。二度目は彼が病が重く臨終の際で、彼は再び劉備に徐州を引き継ぐよう懇請し、自らの二人の息子は「才みな任に堪えず」とはっきり述べ、劉備が彼らを教え諭し、決して州事を掌らせないよう願った。 演義における、陶謙の劉備への信任と推崇、そして二度にわたる徐州譲りの挙は、劉備の仁徳の形象を大いに高め、劉備がのちに徐州を占拠することの正当性をも提供した。
重要な関係
* 劉備(mentor_of):史載では陶謙が病が重くなったとき、糜竺に「劉備でなければこの州を安んずることはできぬ」と明言し、最終的に徐州を劉備に託した。演義では、陶謙はさらに二度にわたって自ら徐州を劉備に譲り、臨終に孤を託し、劉備を徐州の未来を託しうる仁徳の主とみなした。
* 張温(advises_in):史載では陶謙がかつて車騎将軍張温の軍事に参加したが、張温を軽んじて公然と辱め、あやうく流されかけたが、のちに人の勧めによって赦された。
* 陶謙集団(とうけんしゅうだん)(serves):陶謙は徐州牧として、その集団の核心であった。史載では彼が晩年「道に背いて情に任せ」、讒慝の小人に親しみ、刑政が和を失い、善良が害を被り、徐州をしだいに混乱させたとある。
* 曹操(enemy_of):史載では曹操がその父曹嵩を殺されたために徐州を攻め、陶謙が劉備に救援を求めて曹操に抵抗した。演義では、曹操が陶謙を父の仇と誤解して大挙して徐州に進攻し、徐州の百姓に甚大な災難をもたらした。
* 趙昱(advises_in):史載では広陵太守の趙昱は徐方の名士であり、忠直なるがゆえに陶謙に疎んじられた。
象徴的な場面
* 張温の西征韓遂に参加:陶謙はかつて議郎として、車騎将軍張温の軍事行動に参加し、西のかた韓遂を討った。その間、彼は張温を軽んじて公然と辱め、その剛直不羈の性格を示した。
* 徐州の黄巾軍を撃破:陶謙は徐州刺史に任じられた後、徐州の黄巾軍を撃破して駆逐することに成功し、徐州の局勢を安定させた。
* 曹操が徐州を攻め、陶謙が救援を求める:曹操が父を殺されたために大挙して徐州に進攻すると、陶謙は孔融と田楷に救援を求め、劉備はこれによって助けに来た。これは劉備と陶謙が縁を結ぶ鍵となる出来事である。
* 病が重く劉備に孤を託す:陶謙は病が重く臨終の際、徐州を劉備に託し、「劉備でなければこの州を安んずることはできぬ」という遺言を残し、最終的に劉備は陳登・孔融らの勧めによって徐州を引き継いだ。
* 二度の徐州譲り(演義独自):三国演義においては、陶謙は二度にわたって自ら徐州を劉備に譲ろうと申し出た。一度目は劉備が徐州を救援した後、二度目は彼の臨終前である。この筋立ては、陶謙の仁徳と劉備の謙遜の形象を大いに造形した。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 陶謙(とうけん)は性情が剛直で大節を備えていたが、晩年には道に背いて情に任せた [c:6]。彼は温厚純篤で、禍に遭ったときには天を仰いで慟哭し「我、天に罪を獲たり」と言った [c:7]。彼は自ら年老いて無能であり、二人の子も不才であるとして、徐州(じょしゅう)を漢室の宗親に譲ろうとした [c:8]。
- 生涯
- 陶謙は丹楊の人で、若くして茂才に挙げられ、盧令・舒令を歴任し、車騎将軍の張温(ちょうおん)に従って韓遂(かんすい)を討伐するのに加わった [c:9]。徐州で黄巾の乱(こうきんのらん)が起こったとき、彼は徐州刺史に任じられ、黄巾軍(こうきんぐん)を撃破した [c:9]。董卓(とう たく)が政を乱したとき、彼は使者を遣わして貢献し、安東将軍・徐州牧に遷され、溧陽侯に封じられた [c:9]。彼は曹操(そうそう)と仇を結び、曹操の父が殺されたことは彼のせいとされ、曹軍はそのために幾度も征伐した [c:9]。興平元年、陶謙は病没し、享年六十三であった [c:9]。病が重くなったとき、彼は糜竺(びじく)に「劉備(りゅうび)でなければこの州を安んじることはできない」と告げ、死後、州の人々は劉備を迎えた [c:10]。
- 逸話
- 陶謙は字を恭祖という [c:1]。彼はかつて徐州牧であり、曹操(そうそう)に征伐された [c:14]。彼はかつて張昭(ちょうしょう)を茂才に挙げたが、張昭は応じず、そのため拘束された [c:22]。
人間関係
16 件の関係
名言
全 13 件の台詞 · 厳選 3 件
「今天下擾亂,王綱不振,公乃漢室宗親,正宜力扶社稷。老夫年邁無能,情願將徐州相讓。公勿推辭。謙當自寫表文,申奏朝廷。」
この台詞は劉備が徐州の主となる基礎を築くものであり、『三国演義』における重要な転換点である。
「請玄德公來,不為別事:止因老夫病已危篤,朝夕難保;萬望明公可憐漢家城池為重,受取徐州牌印,老夫死亦瞑目矣!」
臨終に際して後事を託し、徐州を劉備に譲ることを重ねて強調し、陶謙の忠厚な人物像を形づくっている。
「非劉備不能安此州也。」
この台詞は正史に由来し、陶謙による劉備への評価を的確に要約するもので、歴史的意義を持つ。
登場回9 回 ▸
- 史ch.1ch.8ch.13ch.18ch.32ch.56
- 演ch.10ch.11ch.12
関係の年表6 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は陶謙(とうけん)、字は恭祖(きょうそ)である。董卓の乱(とうたくのらん)により、天子は長安(ちょうあん)へと移り、州郡を結ぶ道は断たれ、各地からの貢使も往来が困難になった。私は危険を冒して間道を通り、献上品を届けさせた。その後、安東将軍
- 昔を思えば、私は陶謙(とうけん)、字は恭祖(Kyōso)。漢末に身を置き、世の中が次第に困難になっていくのを目の当たりにした。史書に記された乱世の惨状は、決して空言ではない。ある年には穀物の価格が高騰し、一斛が五十余万銭にまで達し、ついには
- 私は陶謙(とうけん)、字は恭祖、丹陽(たんよう)の人である。昔、幼いころを思い返すと、父は早くに亡くなり、私は郷里であまり身を慎まず、ついには悪ふざけで名を知られるようになった。十四歳のころには、絹をつないで幡を作り、竹馬に乗って遊んでいた
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