言語
楽

曹魏(そうぎ) · 校尉

楽進(がくしん)

字 文謙

登場回
15
台詞の記録
4
人間関係
20
内面の独白
3

史実(Historical Record)

楽進(がくしん)は、字を文謙といい、陽平衛国の人で、容貌は短小であったが胆烈は人並み外れていた。彼は最初、帳下吏の身分で曹操(そうそう)に従い、後に本郡に派遣されて兵員を募集し、千余人を募ることに成功して、それによって軍仮司馬・陥陳都尉に任じられた c:47。

楽進(がくしん)の軍事的生涯は、その「先登陥陣」の勇猛で知られる。彼はかつて曹操(そうそう)に従って濮陽(ぼくよう)で呂布(りょふ)を、雍丘で張超(ちょうちょう)を、苦で橋曨を征討し、いずれの戦闘でも先頭に立って戦功を立て、それによって広昌亭侯に封じられた。その後も曹操(そうそう)に従って四方に転戦し、安衆で張繡(ちょうしゅう)を征し、下邳(かひ)で呂布(りょふ)を囲み、射犬で眭固を撃ち、沛で劉備(りゅうび)を攻めるなど、いずれも勝利を収め、討寇校尉に任じられた c:47。

官渡の戦い(かんとのたたかい)において、楽進(がくしん)は勇敢に働き、力戦して袁紹(えんしょう)の将領淳于瓊(じゅんうけい)を斬殺した。続いて、彼は黎陽(れいよう)で譚尚を破り、その大将厳敬を斬殺し、遊撃将軍に任じられた。楽進(がくしん)はまた単独で兵を率いて黄巾軍(こうきんぐん)を征討してこれを大いに破り、楽安郡を平定した。鄴(ぎょう)を囲み、南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を攻める戦役において、楽進(がくしん)は再び先登し、袁譚(えんたん)の東門に攻め入った。袁譚(えんたん)が敗れた後、楽進(がくしん)はまた雍奴を攻め破った c:47。

建安十一年、曹操(そうそう)は漢の献帝に上表し、楽進(がくしん)が于禁(うきん)・張遼(ちょうりょう)らとともに「武力すでに弘く、計略周備し、質忠にして性一、節義を守り執り、毎に戦攻に臨んでは、常に督率となり、強を奮い固を突き、堅として陥れざるなく、自ら枹鼓を援り、手は倦むを知らず」と称賛した。そのため、楽進(がくしん)は折衝将軍に任じられた c:47。

楽進(がくしん)はまた別に高幹(こうかん)を征し、北道から上党に入り、後方から包囲した。高幹(こうかん)は壺関(ここかん)に退いて守り、楽進(がくしん)はこれと連戦して首を斬った。高幹(こうかん)は堅守して落ちず、曹操(そうそう)が自ら征して初めてこれを攻め落とした。楽進(がくしん)はまた李典(りてん)とともに管承を破り、海浜を平定した。荊州(けいしゅう)がいまだ平定されない前には、彼は陽翟を駐守した。後に、彼は曹操(そうそう)に従って荊州(けいしゅう)を平定し、襄陽(じょうよう)に留守して、関羽(かんう)・蘇非らを撃退し、南郡(なんぐん)の蛮夷をこぞって帰降させた。彼はまた劉備(りゅうび)の臨沮長杜普と旌陽長梁大を討伐し、いずれもこれを大いに破った c:55。

孫権(そん けん)を征討した後、曹操(そうそう)は楽進(がくしん)を張遼(ちょうりょう)・李典(りてん)とともに合肥(がっぴ/ごうひ)に屯守させた。楽進(がくしん)は度々戦功を立てたため、五百戸を増邑され、以前の分と合わせて計千二百戸となり、そのうち五百戸を分けて、その一子を列侯に封じた。楽進(がくしん)自身は右将軍に昇進した。建安二十三年、楽進(がくしん)は没し、威侯と諡された。その子楽綝が爵位を継ぎ、楽綝もまた父の風があり、官位は揚州刺史に至った c:55。

演義(In the Novel)

『三国演義』において、楽進(がくしん)の形象も同様に勇猛善戦の将領として造形されているが、その登場と一部の事績の細部は史実と異なり、また多くの文学的色彩が加えられている。

楽進(がくしん)が初めて登場するのは第五回で、李典(りてん)とともに曹操(そうそう)のもとへ身を投じ、帳前吏に任じられる c:57。この情節は史書に詳しい記載がなく、演義の文学的創作に属する。第六回において、董卓(とう たく)が洛陽(らくよう)を焼き、天子を劫迫して遷した後、曹操(そうそう)は諸侯に追撃を呼びかけたが、皆ためらった。曹操(そうそう)は大いに怒り、自ら兵を率いて追撃し、楽進(がくしん)は夏侯惇(かこう とん)・夏侯淵(かこう えん)・曹仁(そうじん)・曹洪(そうこう)・李典(りてん)らの将とともに随行した c:58。これは楽進(がくしん)が曹操(そうそう)の初期の中核将領としての身分を一層強めている。

演義の中では、楽進(がくしん)の戦場における英勇な働きが幾度も描かれている。例えば、第十二回において、典韋(てんい)が濮陽(ぼくよう)城中で曹操(そうそう)を探していたとき、楽進(がくしん)と出会った。二人はともに城中に斬り込んで主を救おうとし、城上から火砲が転がり落ちて楽進(がくしん)の馬は入れなかったものの、典韋(てんい)はなお煙を冒し火を突いて斬り込んだ c:6958。これは典韋(てんい)の際立った働きではあるが、楽進(がくしん)の忠勇をも側面から示している。

第十四回において、曹洪(そうこう)・李典(りてん)・楽進(がくしん)が護衛に来て、曹洪(そうこう)が漢の献帝に奏上し、曹操(そうそう)が賊兵の来襲を知り、夏侯惇(かこう とん)一人では力が及ばぬのを恐れて、彼らを協力に遣わしたと述べた c:59。これは楽進(がくしん)が曹操(そうそう)の重要な将領としての地位を体現している。

演義ではまた、合肥の戦い(ごうひのたたかい)における楽進(がくしん)の役割が特に強調されている。第五十回において、曹操(そうそう)は張遼(ちょうりょう)を主将とし、楽進(がくしん)・李典(りてん)を副将として、ともに合肥(がっぴ/ごうひ)を鎮守させた c:4489。第六十七回において、孫権(そん けん)が十万の大軍を率いて合肥(がっぴ/ごうひ)を囲んだとき、曹操(そうそう)が残しておいた錦囊の妙計は「もし孫権(そん けん)が至れば、張・李二将軍は出戦し、楽将軍は城を守れ」と指示していた c:6960。しかし、張遼(ちょうりょう)は出戦を強く主張し、楽進(がくしん)は最初「敵は衆く我は寡なし、迎え撃つは難しい、堅守するに如かず」と考えたが、最終的に張遼(ちょうりょう)の強い主張のもと、李典(りてん)が慨然として指揮に従うと表明し、楽進(がくしん)もそれに従って出戦の計画に参加した c:6961。この情節は史実における曹操(そうそう)の密教とは幾分食い違っているが(史実では「張・李将軍は出戦し、楽将軍は護軍を守り、戦うを得ざれ」 c:46)、なお合肥(がっぴ/ごうひ)防衛における楽進(がくしん)の重要性を際立たせている。

さらに、演義では楽進(がくしん)と孫権(そん けん)との直接の交戦も描かれている。第五十三回において、楽進(がくしん)はかつて「一騎の馬、一口の刀で、斜めから径ちに孫権(そん けん)を取り、一道の電光のごとく、飛んで面前に至り、手を起こし刀を落とし」、宋謙(そうけん)・賈華の画戟を斬り断ち、あわや孫権(そん けん)を生け捕りにするところであった c:60。この細部は史書には記載がなく、演義が楽進(がくしん)の勇猛を際立たせるために行った芸術的加工である。

主要な関係

* 曹魏(そうぎ)(Serves):楽進(がくしん)は終始一貫して曹操(そうそう)およびその建てた曹魏(そうぎ)政権に忠誠を尽くして仕えた。彼は曹操(そうそう)の帳下吏から始まり、その胆烈と戦功によって、徐々に折衝将軍・右将軍へと昇進し、曹操(そうそう)麾下の重要な五子良将の一人であった c:47。演義においても、彼は曹操(そうそう)が初期に募った将領の一人であり、幾度も曹操(そうそう)に従って出征した c:57。
* 孫権(そん けん)(Enemy of):楽進(がくしん)は孫権(そん けん)およびその東呉軍と幾度も交戦した。史実では、彼は張遼(ちょうりょう)・李典(りてん)とともに合肥(がっぴ/ごうひ)を鎮守し、孫権(そん けん)の進攻を首尾よく防いだ c:46。演義では、楽進(がくしん)は単騎で孫権(そん けん)に突進し、あわや彼を生け捕りにするところであった c:60(演義独自)。
* 呂布(りょふ)(Enemy of):楽進(がくしん)はかつて曹操(そうそう)に従って濮陽(ぼくよう)と下邳(かひ)で呂布(りょふ)を征討し、戦功を立てた c:47。
* 張超(ちょうちょう)(Enemy of):楽進(がくしん)は曹操(そうそう)が雍丘で張超(ちょうちょう)を征討した際にも、先登の功を立てた c:47。
* 袁紹(えんしょう)(Enemy of):官渡の戦い(かんとのたたかい)において、楽進(がくしん)は力戦して袁紹(えんしょう)の将領淳于瓊(じゅんうけい)を斬殺した c:47。
* 関羽(かんう)(Enemy of):楽進(がくしん)はかつて襄陽(じょうよう)に留屯し、関羽(かんう)を撃退した c:55。
* 張遼(ちょうりょう)・李典(りてん)(Comrades):楽進(がくしん)は張遼(ちょうりょう)・李典(りてん)と史実でしばしばともに戦い、とりわけ合肥の戦い(ごうひのたたかい)において、三人はともに合肥(がっぴ/ごうひ)を鎮守し、孫権(そん けん)の大軍を防いだ c:46。演義でも三人の連携が強調されており、出戦の策略をめぐって対立があったものの、最終的には協同して戦うことができた c:6961。

象徴的な場面

* 先登陥陣、度々戦功を立てる:楽進(がくしん)の軍事的生涯における最も顕著な特徴は、その「先登陥陣」の勇猛である。濮陽(ぼくよう)で呂布(りょふ)を撃ち、雍丘で張超(ちょうちょう)を撃ち、南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を攻めるなど、彼はいずれも先頭に立って突撃し、度々率先して敵陣に攻め入り、それによって広昌亭侯に封じられた c:47。これは彼の「胆烈」な性格の直接の体現である。
* 官渡で淳于瓊(じゅんうけい)を斬る:曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)の官渡の戦い(かんとのたたかい)において、楽進(がくしん)は力戦して袁紹(えんしょう)の将領淳于瓊(じゅんうけい)を斬殺した c:47。この戦果は、彼が曹操(そうそう)麾下の猛将としての地位を一層固めた。
* 合肥の戦い(ごうひのたたかい)、城池を堅守する:楽進(がくしん)は張遼(ちょうりょう)・李典(りてん)とともに合肥(がっぴ/ごうひ)を鎮守し、孫権(そん けん)の十万の大軍の囲攻を首尾よく防いだ。曹操(そうそう)の密教は楽進(がくしん)に「護軍を守り、戦うを得ざれ」と指示していたが、張遼(ちょうりょう)の強い主張のもと、最終的に三人は協同して戦い、孫権(そん けん)は城を攻めること十余日にして抜くことができず、ついに退いた c:46。この戦役は、楽進(がくしん)が守将としての堅靭さと、同僚との阿吽の連携を示している。
* 単騎で孫権(そん けん)に突進する:演義において、楽進(がくしん)はある戦闘で「一騎の馬、一口の刀で、斜めから径ちに孫権(そん けん)を取り」、あわや彼を生け捕りにするところであった c:60(演義独自)。この場面は楽進(がくしん)の個人の武勇を大いに渲染し、その「胆烈」な性格を一層深く人々の心に刻み込んでいる。
* 曹操(そうそう)に「五子良将」の一人として表彰される:建安十一年、曹操(そうそう)は漢の献帝に上表し、楽進(がくしん)が于禁(うきん)・張遼(ちょうりょう)らとともに「武力すでに弘く、計略周備し、質忠にして性一、節義を守り執り、毎に戦攻に臨んでは、常に督率となり、強を奮い固を突き、堅として陥れざるなし」と称賛し、それによって折衝将軍に任じられた c:47。これは彼の軍事的才能と忠誠に対する公的な承認であり、彼の「五子良将」の地位を定めるものとなった。

人間関係

20 件の関係

名言

全 4 件の台詞 · 厳選 3 件

「主公何在?」

演 第12回→ 典韋(てんい)

この一句は楽進(がくしん)の曹操(そうそう)への忠誠を示すもので、その人物の核心的な特質である。

「同殺入去救主!」

演 第12回→ 典韋(てんい)

この一句は楽進(がくしん)が勇猛果敢で、困難や危険を恐れないさまを体現し、その武将としての姿を映し出している。

「賊眾我寡,難以迎敵,不如堅守。」

演 第67回→ 張遼(ちょうりょう)

この一句は楽進(がくしん)の軍事における慎重さと実務的な姿勢を反映しており、張遼(ちょうりょう)と対比をなしている。

登場回15 回 ▸
  • 史ch.17ch.18
  • 演ch.5ch.6ch.12ch.14ch.26ch.33ch.42ch.48ch.50ch.53ch.67ch.68ch.111
関係の年表16 条 ▸

史 ch.17

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.14

演 ch.53

演 ch.111

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は楽進(がくしん)、字は文謙(ぶんけん)という。ここまで振り返れば、軍陣でのことは勝敗をことごとく語る必要はない。重んじるべきは、命を受けて赴き、事に臨んで退かないことだ。かつて北道から上党(じょうとう)に入り、高幹(こうかん)の背後へ回
  • 私の名は楽進(がくしん)、字は文謙(ぶんけん)、陽平郡衛国県(ようへいぐんえいこくけん)の人である。生まれつき小柄で、初め太祖に従ったときは、帳下の小吏にすぎなかった。命を受けて故郷に戻り兵を募ると、千余人を集め、再び軍に戻って軍仮司馬、陥
  • 私は楽進(がくしん)、字は文謙(ぶんけん)という。太祖に帰順した頃を思い返せば、求めたのは己の力を示し、身をもって務めを果たすことだけだった。幕下の吏という地位は高くなかったが、戦乱が始まれば、軍中にあって命令を聞き、皆とともに危険に赴くこ
生涯の大事12 ▸