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孫堅(そん けん)

孫呉(そんご) · 君主

孫堅(そん けん)

字 文臺

登場回
16
台詞の記録
3
人間関係
45
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

孫堅(そん けん)、字は文臺、呉郡富春の人。その祖父と父はいずれもかつて州郡を歴典し、その父孫胜はさらに尚書の職をもって南方に著名であった c:1232。中平三年(186年)、辺章、韓遂(かんすい)が涼州(りょうしゅう)で乱を起こし、朝廷は司空の張温(ちょうおん)を遣わして車騎将軍の職を行い西討させた。張温(ちょうおん)は表して孫堅(そん けん)を参軍事とするよう請い、長安(ちょうあん)に屯した。董卓(とう たく)が召見された際に態度が傲慢で、孫堅(そん けん)は座にあって、かつて張温(ちょうおん)に耳語し、軍法をもってこれを斬るよう提案したが、張温(ちょうおん)は採用しなかった c:1233。

この後、孫堅(そん けん)はその董卓(とう たく)に対する直言不諱によって議郎の官職を得た。当時、長沙(ちょうさ)の賊区星(おう せい)が自ら将軍と称し、万余人を集めて城邑を攻め囲んだため、朝廷はそこで孫堅(そん けん)を長沙(ちょうさ)太守に任じた。孫堅(そん けん)は赴任後、自ら将士を率い、方略を施し、わずか旬月の間に区星(おう せい)を撃破した。さらに、周朝、郭石らもまた零陵(れいりょう)、桂陽郡(けいようぐん)で蜂起したが、孫堅(そん けん)は境を越えて討伐し、三郡を粛然とさせた。漢朝はその前後の功績によって、孫堅(そん けん)を乌程侯に封じた c:1233。

霊帝が崩御した後、董卓(とう たく)は朝政を専擅し、京城で横行した。各州郡は次々と義兵を興して董卓(とう たく)を討伐し、孫堅(そん けん)もまた兵を挙げて呼応した。南陽(なんよう)へ向かう途中、孫堅(そん けん)は荊州(けいしゅう)刺史の王睿がかつて彼に無礼であったため、そこで彼を殺害した。南陽(なんよう)に至ると、南陽(なんよう)太守の張諮が軍糧を与えず、孫堅(そん けん)はそこで牛酒をもって張諮を礼待し、翌日張諮が答礼に訪れた。酒酣の際、孫堅(そん けん)は主簿に命じて軍資不備を理由に張諮を斬殺し、郡中は震慑し、孫堅(そん けん)の求めるものに応じないものはなかった c:1235。

孫堅(そん けん)は鲁阳で袁術(えんじゅつ)と会見し、袁術(えんじゅつ)は表奏して孫堅(そん けん)を行破虜将軍、領豫州(よしゅう)刺史とした。孫堅(そん けん)は鲁阳城で兵を整え、董卓(とう たく)への進討を準備した。董卓(とう たく)はかつて数万の歩騎を遣わして孫堅(そん けん)を逆襲したが、孫堅(そん けん)は酒を行い談笑する間に、部曲を指揮して陣列を整え、従容として入城し、董卓(とう たく)軍をして軽挙妄動させなかった c:1237。後に、孫堅(そん けん)は阳人の一戦で董卓(とう たく)軍を大破し、その都督華雄(かゆう)らを斬殺した。その間、袁術(えんじゅつ)はかつて讒言を信じて孫堅(そん けん)を疑い、軍糧を発しなかった。孫堅(そん けん)は夜を徹して馳せて袁術(えんじゅつ)に会い、慷慨して陳詞し、袁術(えんじゅつ)はようやく慚愧して軍糧を調発した。董卓(とう たく)は孫堅(そん けん)の勇猛を畏れ、かつて李傕(りかく)らを遣わして和親を求め、子弟を刺史、郡守に任じようとしたが、孫堅(そん けん)は厳しく拒絶し、董卓(とう たく)の三族を夷にしなければ、死すとも瞑目せぬと表した c:1237。

初平三年(192年)、袁術(えんじゅつ)は孫堅(そん けん)を遣わして荊州(けいしゅう)を征討し、劉表(りゅう ひょう)を攻撃させた。劉表(りゅう ひょう)は黄祖(こうそ)を遣わして樊鄧の間で迎え撃たせた。孫堅(そん けん)は黄祖(こうそ)を撃破し、追って漢水(かんすい)を渡り、襄陽(じょうよう)を囲攻した。単騎で峴山(けんざん)を巡視していたとき、孫堅(そん けん)は黄祖(こうそ)軍の軍士に射殺され、時に三十七歳であった c:1239。孫堅(そん けん)の兄子の孫賁は将士を率いて袁術(えんじゅつ)に投じ、袁術(えんじゅつ)は再び表して孫賁を豫州(よしゅう)刺史とした。孫堅(そん けん)には四子があり、策、権、翊、匡である。孫権(そん けん)が帝を称した後、孫堅(そん けん)を武烈皇帝と追諡した c:1240。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』において、孫堅(そん けん)の姿はさらに神化され英雄化されている。彼は初登場からして人に勝る勇武と胆識を示す。年わずか十七歳のとき、孫堅(そん けん)は銭塘江のほとりで海賊が略奪するのを見て、奮って刀を提げて岸に上がり、声を張り上げて大いに叫び、東西を指揮し、賊衆を脅して退け一賊を斬殺し、これによって郡県に名を知られ、校尉に推挙された c:1245。これは史書における彼の若年期の事績の記載とは異なり、演義は彼の少年英雄の姿を重点的に描いている。

黄巾の乱のとき、孫堅(そん けん)は郷中の少年および商旅、ならびに淮泗の精兵一千五百余人を集め、朱儁を接応しに来た。宛城(えんじょう)を攻めた際、孫堅(そん けん)は率先して城に登り、賊二十余人を斬り、趙弘(ちょうこう)の槊を奪い、弘を刺して馬から落とし、その馬に乗って賊を殺し、超凡の個人武力を示した c:1246。演義では、孫堅(そん けん)は董卓(とう たく)討伐の十八路諸侯の会盟において、自ら進んで前部先鋒を担い、敢えて人に先んじる豪邁な気概を示した c:9728。

演義はまた孫堅(そん けん)が洛陽(らくよう)の宮中で伝国玉璽を発見する筋立てを加えている。董卓(とう たく)が洛陽(らくよう)を焼いた後、孫堅(そん けん)が宮に入ると、井戸の中で一人の宮女の屍体を見つけ、その首に錦囊が懸かっており、中に伝国玉璽が蔵されていた。程普(ていふ)が孫堅(そん けん)に速やかに江東へ帰り、別に大事を図るよう勧め、孫堅(そん けん)は深くこれをもっともと思い、病と称して辞して帰った c:1249。この筋立ては史書には明確な記載がなく、孫堅(そん けん)の後日の基業の建立のために演義が加えた伝奇的色彩であり、その称帝の野心をも暗示しているが、史実では孫権(そん けん)こそが父を帝と追諡したのである。

劉表(りゅう ひょう)との衝突において、演義は孫堅(そん けん)が劉表(りゅう ひょう)に囲まれ、程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)の三将の死を賭した救援のおかげでようやく脱身でき、兵の大半を失い、兵を引いて江東に帰り、これより劉表(りゅう ひょう)と恨みを結んだと描いている c:1250。これは史書における孫堅(そん けん)が峴山(けんざん)で射殺される筋立てとは異なり、演義はその部将の忠勇と孫堅(そん けん)の危地をより強調している。

主要な関係

* 袁術(えんじゅつ):史書では、袁術(えんじゅつ)は南陽(なんよう)にいたとき孫堅(そん けん)と謀り、劉表(りゅう ひょう)の州を襲い奪おうとし、孫堅(そん けん)を遣わして劉表(りゅう ひょう)を攻めさせた c:1231。しかし、袁術(えんじゅつ)はまた讒言を信じて孫堅(そん けん)を疑い、軍糧を発さず、孫堅(そん けん)を一度困境に陥らせた。孫堅(そん けん)は夜を徹して馳せて袁術(えんじゅつ)に会い、慷慨して陳詞し、ようやく袁術(えんじゅつ)を慚愧させ軍糧を調発させた c:1237。演義でも、袁術(えんじゅつ)は同じく讒言を信じて糧草を扣留し、孫堅(そん けん)が面と向かって叱責すると、袁術(えんじゅつ)は惶恐して言葉なく、讒言した者を斬って孫堅(そん けん)に謝るよう命じた c:1247。
* 劉表(りゅう ひょう):史書では、劉表(りゅう ひょう)は孫堅(そん けん)の敵である。袁術(えんじゅつ)はかつて孫堅(そん けん)を遣わして劉表(りゅう ひょう)を攻めさせ、最終的に孫堅(そん けん)は劉表(りゅう ひょう)との交戦で黄祖(こうそ)軍の軍士に射殺された c:1239。演義では、孫堅(そん けん)は劉表(りゅう ひょう)と恨みを結び、一度の交戦で劉表(りゅう ひょう)に囲まれ、幸い部将の救援を得てようやく脱身できた c:1250。
* 朱儁:史書では、朱儁はかつて孫堅(そん けん)と共に黄巾賊を討伐したが、具体的な指揮関係は詳らかでない。演義では、朱儁は孫堅(そん けん)の指揮者で、黄巾賊討伐の際、朱儁は大いに喜び、孫堅(そん けん)に南門を攻めるよう命じ、最終的に孫堅(そん けん)は首功を立てた c:1246。
* 張温(ちょうおん):史書では、張温(ちょうおん)はかつて車騎将軍の職を行い辺章、韓遂(かんすい)を西討し、表して孫堅(そん けん)を参軍事とするよう請うた。孫堅(そん けん)はかつて張温(ちょうおん)に董卓(とう たく)を斬るよう提案したが、張温(ちょうおん)は採用しなかった c:1233。この関係は演義では言及されていない。
* 董卓(とう たく):史書では、孫堅(そん けん)は董卓(とう たく)討伐の先鋒である。彼はかつて張温(ちょうおん)に董卓(とう たく)を斬るよう提案し、後にまた阳人の一戦で董卓(とう たく)軍を大破し、董卓(とう たく)の和親の提議を厳しく拒絶した c:1237。演義では、孫堅(そん けん)はさらに十八路諸侯の董卓(とう たく)討伐の先鋒であり、董卓(とう たく)の縁組の要請を拒絶し、董卓(とう たく)への深い憎悪を示した c:1247。
* 程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、祖茂(そも):これらは孫堅(そん けん)の親近の将領である。史書では、祖茂(そも)はかつて孫堅(そん けん)が董卓(とう たく)軍に追撃された際、孫堅(そん けん)の赤罽幘を脱がせて被り追兵を引き付け、孫堅(そん けん)を脱険させた c:1237。演義では、この四人は孫堅(そん けん)の四人の主要な将領で、しばしば孫堅(そん けん)に従って征戦し、特に孫堅(そん けん)が劉表(りゅう ひょう)に囲まれたとき、程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)が死を賭して救援して脱した c:1250。

象徴的な場面

* 少年が賊を擒える:『三国演義』において、孫堅(そん けん)は少年のとき銭塘江のほとりで、海賊の略奪に直面し、奮って刀を提げて岸に上がり、声を張り上げて大いに叫び、賊衆を脅して退け一賊を斬殺し、これによって郡県に名を知られた c:1245。(演義独自)
* 宛城(えんじょう)の首功:黄巾賊討伐の際、孫堅(そん けん)は朱儁の指揮の下、率先して宛城(えんじょう)に攻め入り、賊将趙弘(ちょうこう)を斬殺し、首功を立てた c:1246。
* 董卓(とう たく)を斬るよう提案:中平三年、孫堅(そん けん)は張温(ちょうおん)の帳中で、董卓(とう たく)の傲慢に直面し、張温(ちょうおん)に耳語して軍法をもってこれを斬るよう提案し、その剛毅果断な性格を示した c:1233。
* 張諮を斬殺:孫堅(そん けん)は董卓(とう たく)討伐の途中、南陽(なんよう)太守の張諮が軍糧を与えなかった。孫堅(そん けん)はまず牛酒で礼待し、後に酒宴で軍資不備を理由に張諮を斬殺し、郡中を震慑させた c:1235。
* 阳人で董卓(とう たく)を破る:孫堅(そん けん)は阳人の一戦で董卓(とう たく)軍を大破し、その都督華雄(かゆう)らを斬殺し、その卓越した軍事的才能を示した c:1237。
* 和親を拒絶:董卓(とう たく)はかつて李傕(りかく)らを遣わして和親を求め、子弟を刺史、郡守に任じようとしたが、孫堅(そん けん)は厳しく拒絶し、董卓(とう たく)の三族を夷にしなければ死すとも瞑目せぬと表した c:1237。
* 峴山(けんざん)で害に遭う:初平三年、孫堅(そん けん)は荊州(けいしゅう)を征討し襄陽(じょうよう)を囲攻する際、単騎で峴山(けんざん)を巡視し、黄祖(こうそ)軍の軍士に射殺された c:1239。
* 伝国玉璽を得る:『三国演義』において、孫堅(そん けん)は洛陽(らくよう)の宮中で伝国玉璽を発見し、程普(ていふ)の提案に従い、病と称して辞して江東に帰り、後日の基業の建立の伏線を埋めた c:1249。(演義独自)

肖像アーカイブ

人物像

容貌
孫堅(そん けん)は額が広く顔が大きく、虎のような体躯に熊のような腰つきで、常に爛銀の鎧をまとい、赤い帻を巻き、花鬃の馬に乗った。
性格
彼は勇敢で誠実、剛毅であり、あえて諫めて直言し、孤微な身から立身したが忠壮をもって知られ、江東の猛虎と称えられた。時には剛烈で率直でもあり、復讐の念が強く、さらには伝国璽を得たのちに異心を起こし、天を指して誓いながら約を破った。
生涯
孫堅は呉郡富春の人で、自ら孫武の後裔と称した。彼は年少のとき海賊を討伐して名を顕し、のちに三県を歴仕し、黄巾を討ち、辺章を撃ち、長沙(ちょうさ)を平定し、烏程侯に封じられた。彼は袁術(えんじゅつ)とともに義兵を挙げて董卓(とう たく)を討ち、華雄(かゆう)を破り、洛陽に入って陵墓を修復し、最終的に初平三年に劉表(りゅう ひょう)を攻めたとき襄陽(じょうよう)の峴山(けんざん)で戦死した。
武器
孫堅の武器は古錠刀である。
逸話
孫堅は孫呉(そんご)の礎を築いた者であり、孫権(そん けん)の父で、黄龍元年に武烈皇帝と追尊され、卒年は三十七であった。

人間関係

45 件の関係

名言

全 3 件の台詞 · 厳選 2 件

「此賊可擒也。」

演 第2回

孫堅が初めてその才鋒を現した際の胆力と判断力を示している。

「堅願為前部。」

演 第5回→ 袁紹(えんしょう)🗓 三顧の礼(さんこのれい)

董卓討伐連合軍の先鋒としての孫堅の勇猛さと責任感を示している。

登場回16 回 ▸
  • 史ch.6ch.22ch.46ch.47ch.50ch.51ch.55ch.56
  • 演ch.2ch.5ch.6ch.7ch.8ch.15ch.38ch.98
関係の年表23 条 ▸

史 ch.6

史 ch.22

史 ch.46

史 ch.47

史 ch.50

演 ch.2

演 ch.6

演 ch.7

演 ch.38

演 ch.98

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は孫堅(そん けん)、字は文台(Bundai)という。没後、幾年も経ってから、息子の仲謀(Nakamō)が江東の基業を継ぎ、後にはついに帝号を称し、私に武烈皇帝の諡号を追贈した。さらに、私の廟を始祖廟と尊び、墓を高陵と呼んだと聞く。人は死
  • 私、孫文台(そんぶんだい)が兵を起こしたとき、目にしていたのは自らの栄辱ではなかった。天子が崩御した後、董卓(とう たく)が京師で横暴の限りを尽くし、王室は傾き、各州郡が義兵を挙げて賊を討っていた。かつて、張公(ちょうこう)が早くから私の言
  • 私は孫堅(そん けん)、字は文台(ぶんたい)、呉郡富春の人である。若い頃のことを思い出す。父に従って銭塘へ行った折、海賊が商人の財物を奪うのを見た。もし彼らが分け前を取って立ち去るのを放っておけば、民はただ被害を受けるばかりだと分かった。私
生涯の大事7 ▸