言語
呂

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

呂範(りょはん)

登場回
11
台詞の記録
11
人間関係
18
内面の独白
3

史載(Historical Record)

呂範(りょはん)、字は子衡、汝南細陽の人。早年はかつて県吏を務め、その仪表が出衆であったため、当地の富戸である劉氏に青睞され、最終的にその娘を娶って妻とすることができた c:900。漢末の大乱の際、呂範(りょはん)は乱を避けて寿春(じゅしゅん)に至り、ここで孫策(そん さく)と知り合った。孫策(そん さく)は彼を頗る器重し、呂範(りょはん)はそこで百余の私客を率いて孫策(そん さく)に帰附した。当時、孫策(そん さく)の母である太妃は江都にあり、孫策(そん さく)は呂範(りょはん)を派遣して迎えに行かせた。しかし、徐州(じょしゅう)牧の陶謙(とうけん)は呂範(りょはん)を袁術(えんじゅつ)の派遣した間者と誤認し、彼を盤査しようと意図したが、幸いにも呂範(りょはん)の親信の健児が間に合って救援し、ようやく脱险した c:900。

呂範(りょはん)は孫策(そん さく)麾下で、孫河(そん か)らとともに長年孫策(そん さく)に従って征戦し、艱险を避けず、孫策(そん さく)に深く信任され、親戚と見なされさえし、常に太妃の前で孫策(そん さく)とともに飲宴した c:900。彼はかつて孫策(そん さく)に従って廬江(ろこう)を攻め破り、後にまたともに長江を東渡し、横江・当利を攻克し、長英・于麋を撃破し、小丹楊・湖孰を攻め下し、湖孰相に任じられた。孫策(そん さく)が秣陵・曲阿を平定し、笮融(さくゆう)・劉繇(りゅう よう)の残部を収編した後、呂範(りょはん)の兵力は拡充され、歩兵二千、騎兵五十に増えた。この後、彼は宛陵(えんりょう)令に任じられ、丹楊地域の賊寇を平定することに成功し、呉の地に帰った後、都督に昇任した c:900。

孫策(そん さく)が在位の期間、呂範(りょはん)はかつて徐逸とともに吴郡太守を自称する陳瑀を攻め、その大将の陳牧を斬殺した c:903。彼はまた祖郎(そろう)を陵陽で、太史慈(たいし じ)を勇里で攻める戦役に参与し、孫策(そん さく)のために七県を平定する汗馬の功を立て、征虜中郎将に拝された。後にまた随軍して江夏(こうか)を征討し、鄱陽を平定した c:903。

建安五年(200年)、孫策(そん さく)が没し、呂範(りょはん)は呉の地で奔喪した。孫権(そん けん)が継位した後、呂範(りょはん)は引き続き効力した。曹操(そうそう)の大軍が境を圧して赤壁(せきへき)に至ると、呂範(りょはん)は周瑜(しゅうゆ)らとともに抵抗し、曹軍を撃破することに成功し、これによって裨将軍に拝され、彭澤太守を領し、彭澤・柴桑(さいそう)・歷陽をその奉邑とした c:903。劉備(りゅうび)が京口(けいこう)に赴いて孫権(そん けん)に拝見した際、呂範(りょはん)はかつて密かに孫権(そん けん)に劉備(りゅうび)を扣留するよう建議した c:903。

この後、呂範(りょはん)は平南将軍に遷り、柴桑(さいそう)に屯兵した。孫権(そん けん)が関羽(かんう)を討伐する際、かつて呂範(りょはん)の館舍を過ぎり、呂範(りょはん)に言った。「もし早くお前の言葉を聞いていれば、今日のような労はなかっただろう。今、私は関羽(かんう)を攻め取りに行く。お前は私のために建業(けんぎょう)を守れ」と。孫権(そん けん)は関羽(かんう)を撃破して武昌(ぶしょう)へ班師した後、呂範(りょはん)を建威将軍に拝し、宛陵侯に封じ、丹楊太守を領させ、治所を建業(けんぎょう)に設け、扶州以下から海に至る区域を督察させ、また溧陽・懐安・寧国をその奉邑とした c:906。

曹休(そうきゅう)・張遼(ちょうりょう)・臧覇(ぞう は)らが東呉を攻めた際、呂範(りょはん)は徐盛(じょせい)・全琮(ぜんそう)・孫韶(そん しょう)らの将を督率し、水師を率いて洞口で曹休(そうきゅう)らを抵御した c:906。この戦役において、大風に遭遇し、船が傾覆し、死者は数千であった。戦後、呂範(りょはん)は前将軍に遷り、節を仮され、南昌侯に改封され、楊州牧に拝された c:906。呂範(りょはん)の子の呂拠(りょきょ)、字は世議、父の蔭によって郎官となり、後に呂範(りょはん)が病重のとき副軍校尉に拝され、軍事の処理を補佐した c:893。呂範(りょはん)が没した後、呂拠(りょきょ)は安軍中郎将に遷り、たびたび山賊を討伐し、功勲が卓著であった c:893。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、呂範(りょはん)の形象はさらに文学化され、特に孫策(そん さく)の創業初期と孫劉同盟の肝心な時刻に、彼はより積極的な役割を演じた。彼は初登場でただちに孫策(そん さく)に策を献じ、孫策(そん さく)に伝国の玉璽で袁術(えんじゅつ)から兵を借り、兵馬と引き換えに、孫策(そん さく)が大業を成すのを助けるよう建議した c:908。この情節は史実には明確な記載がないが、しかし呂範(りょはん)の智謀と孫策(そん さく)への忠誠を際立たせている。

演義では、呂範(りょはん)の性格の特徴も豊かにされている。例えば、孫策(そん さく)が于吉(うきつ)を殺そうとした際、呂範(りょはん)はかつて孫策(そん さく)に于吉(うきつ)に雨を祈らせて罪を贖わせるよう建議し、彼の神異の事への態度を示し、また側面から当時の社会の道士への見方を反映した c:909。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夕、呂範(りょはん)は「四方巡警使」に任じられ、各隊の官軍を催督し、水陸並進して、戦役の順調な進行を確保する責を負った c:4913。

劉備(りゅうび)が東呉に招親に赴く情節において、呂範(りょはん)は孫権(そん けん)の使者として、荊州へ赴いて劉備(りゅうび)に提親した。彼は劉備(りゅうび)に孫権(そん けん)の妹の賢徳と呉侯の意図を詳しく説明しただけでなく、劉備(りゅうび)の年齢差への顧慮を巧みに化解し、この政治的聯姻を促成した c:910。しかし、劉備(りゅうび)が東呉に至った後、呂範(りょはん)はまた孫権(そん けん)に計を献じ、甘露寺に伏を設け、もし国太が劉備(りゅうび)を喜ばなければ、彼を擒えることができると建議した c:911。この情節は呂範(りょはん)が孫権(そん けん)の心腹として、東呉の利益を維持するために手段を選ばない一面を示し、史実において彼がかつて劉備(りゅうび)を扣留するよう建議した記載と異曲同工の妙がある。

関羽(かんう)が敗れて麦城(ばくじょう)へ走った際、呂範(りょはん)は再びその占卜の術を示した。彼は孫権(そん けん)の命を受けて関羽(かんう)の去向を卜算し、卦象は「地水師卦」を示し、敵人が遠奔し、さらに玄武が臨応することを主とした c:912。後に、呂範(りょはん)は再び卦を卜し、関羽(かんう)が西北へ走り、亥の時に擒えられることを予言した c:913。これらの情節は史実には記載がないが、しかし演義における呂範(りょはん)の神秘的色彩と智謀の形象を大いに増強した。

最後に、曹丕(そうひ)が三路で呉を伐した際、演義では曹休(そうきゅう)が呂範(りょはん)に撃破されたと記載されている [c:85回]。これは史実において呂範(りょはん)が洞口で曹休(そうきゅう)を抵御した記載と呼応するが、演義はそれをより直接的かつ劇的に描き、呂範(りょはん)の軍事上の勝利を強調している。

重要な関係

* 孫呉(そんご)(serves):呂範(りょはん)は孫呉(そんご)政権の重要な奠基者であり股肱の臣で、孫策(そん さく)の創業初期から左右に従い、孫権(そん けん)の時期に至ってもなお核心の将領であった c:4911。
* 孫策(そん さく)(serves):呂範(りょはん)は孫策(そん さく)の親信で、孫策(そん さく)に親戚と見なされ、常に孫策(そん さく)とともに飲宴した。彼は孫策(そん さく)に従って南征北戦し、孫策(そん さく)のために江東を平定する赫々たる戦功を立てた c:900。
* 孫権(そん けん)(serves):孫策(そん さく)が没した後、呂範(りょはん)は引き続き忠心に孫権(そん けん)を輔佐し、孫権(そん けん)の重要な謀士であり将領であった。孫権(そん けん)はかつて呂範(りょはん)の言を聞き従い、その関羽(かんう)討伐の際に重任を委ね、建業(けんぎょう)を鎮守するよう命じた c:906。
* 太妃(serves):呂範(りょはん)はかつて孫策(そん さく)の命を受けて太妃を迎え返し、常に太妃の前で孫策(そん さく)とともに飲宴し、その孫氏家族における地位と受けた信任を窺うことができる c:900。
* 陶謙(とうけん)(enemy_of):陶謙(とうけん)はかつて呂範(りょはん)を袁術(えんじゅつ)の間者と誤認し、彼を盤査しようと意図し、危うく呂範(りょはん)の危機を造りかけた c:900。
* 劉備(りゅうび)(扣留を建議):呂範(りょはん)はかつて密かに孫権(そん けん)に劉備(りゅうび)を扣留して後患を絶つよう建議した c:903。演義では、呂範(りょはん)は提親の使者として、また孫権(そん けん)に伏を設けて劉備(りゅうび)を擒えるよう建議した(演義独自) c:911。
* 袁術(えんじゅつ)(かつてその謀士):演義では、呂範(りょはん)は初登場の際に袁術(えんじゅつ)の謀士として描写され、後に孫策(そん さく)に帰附した(演義独自) c:908。
* 曹休(そうきゅう)(撃破):演義では、呂範(りょはん)はかつて曹休(そうきゅう)の軍を撃破した(演義独自) [c:85回]。

象徴的な場面

* 私客を率いて孫策に帰附:呂範(りょはん)は寿春(じゅしゅん)で孫策(そん さく)に遇った後、その常人と異なることを深く感じ、そこで百余の私客を率いて孫策(そん さく)に帰附し、彼が孫呉(そんご)のために効力する生涯を開いた c:900。
* 太妃を迎えて脱险:孫策(そん さく)は呂範(りょはん)を派遣して江都へ太妃を迎えに行かせたが、途中で陶謙(とうけん)に袁術(えんじゅつ)の間者と誤認され、幸いにも親信の健児に救われ、ようやく脱险した c:900。
* 玉璽を献じて兵を借りる(演義独自):演義では、呂範(りょはん)は孫策(そん さく)に計を献じ、伝国の玉璽で袁術(えんじゅつ)から兵を借りるよう建議し、孫策(そん さく)の創業に肝心な助力を提供した c:908。
* 劉備の扣留を建議:劉備(りゅうび)が京口(けいこう)に赴いて孫権(そん けん)に拝見した際、呂範(りょはん)はかつて密かに孫権(そん けん)に彼を扣留して、後日禍患となるのを防ぐよう建議した c:903。
* 東呉招親の使者(演義独自):演義では、呂範(りょはん)は孫権(そん けん)の使者として、荊州へ赴いて劉備(りゅうび)に提親し、孫劉聯姻を促成し、劉備(りゅうび)が東呉に至った後、かつて孫権(そん けん)に伏を設けて劉備(りゅうび)を擒えるよう建議した c:910, c:911。
* 洞口で曹休を抵御:呂範(りょはん)はかつて徐盛(じょせい)・全琮(ぜんそう)・孫韶(そん しょう)らの将を督率し、水師を率いて洞口で曹休(そうきゅう)らの進攻を抵御することに成功した c:906。
* 関羽の去向を卜算(演義独自):演義では、呂範(りょはん)は二度孫権(そん けん)のために関羽(かんう)の去向を卜算し、関羽(かんう)の敗亡を正確に予言し、その占卜の術を示した c:912, c:913。

人間関係

18 件の関係

名言

全 11 件の台詞 · 厳選 3 件

「人若無妻,如屋無梁,豈可中道而廢人倫?吾主吳侯有一妹,美而賢,堪奉箕帚。若兩家共結秦晉之好,則曹賊不敢正視東南也。此事家國兩便,請皇叔勿疑。但我國太吳夫人甚愛幼女,不肯遠嫁,必求皇叔到東吳就婚。」

演 第54回→ 劉備(りゅうび)📍 荊州(けいしゅう)

この一言は孫劉の縁組を説く際の名台詞であり、呂範(りょはん)の謀略と弁舌を体現している。

「吳侯之妹,身雖女子,志勝男兒。常言:『若非天下英雄,吾不事之。』今皇叔名聞四海,正所謂淑女配君子,豈以年齒上下相嫌乎?」

演 第54回→ 劉備(りゅうび)📍 荊州(けいしゅう)

この一言は孫尚香の女ながら男に劣らぬ気概を称え、その独特な人物像を造形している。

「何不令賈華部領三百刀斧手,伏於兩廊?若國太不喜時,一聲號舉,兩邊齊出,將他拏下。」

演 第54回→ 孫権(そん けん)

この一言は孫権(そん けん)のために策を巡らす呂範(りょはん)の手厳しい一面を示し、筋書きの進展を促している。

登場回11 回 ▸
  • 史ch.17ch.28ch.47ch.56
  • 演ch.15ch.29ch.44ch.54ch.76ch.77ch.85
関係の年表16 条 ▸

史 ch.56

演 ch.15

演 ch.29

演 ch.54

演 ch.76

演 ch.77

演 ch.85

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は呂範(りょはん)。江東に身を置き、生涯で見てきたことのうち、最も忘れがたいのは旗の数ではなく、主君が大事に臨んだとき、耳に痛い言葉に耳を傾ける気があるかどうかである。関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を占めていたころ、孫権(そん けん)
  • 私は呂範(りょはん)、字は子衡(しこう)、汝南(じょなん)細陽(さいよう)の人である。若い頃は県の役人を務め、乱を避けて寿春(じゅしゅん)へ行き、孫策(そん さく)と出会った。その頃、彼は私を見て、なかなかの人物だと思った。そこで私は身を彼
  • 私はもと汝南郡細陽県の人で、姓は呂、名は範、字は子衡である。漢末の世は乱れ、士人たちは故郷を離れて各地に身を寄せていた。求めるところは、仕えるに足る主君を選び、身を落ち着けて生きることにほかならなかった。私の若い頃の家柄や読書、行跡について
生涯の大事2 ▸