言語
徐晃(じょこう)

曹魏(そうぎ) · 校尉

徐晃(じょこう)

字 公明

登場回
25
台詞の記録
28
人間関係
48
内面の独白
3

史載(Historical Record)

徐晃(じょこう)、字は公明、河東楊の人である。最初は郡吏であったが、後に車騎将軍の楊奉(ようほう)に従って賊を討って功があり、騎都尉に任じられた c:1968。李傕(りかく)、郭汜(かくし)が長安(ちょうあん)を乱したとき、徐晃は楊奉に進言し、天子を護送して洛陽(らくよう)に帰すよう勧め、楊奉はその建議を採った。天子が河を渡って安邑に至った後、徐晃は都亭侯に封じられた。洛陽に至ると、韓暹(かんせん)、董承(とうしょう)の間で日ごとに争いが起こり、徐晃は再び楊奉に曹操(そうそう)へ帰服するよう勧めた。楊奉は一度はその気になったが、後に翻意した。曹操が梁の地で楊奉を討伐したとき、徐晃はそこで曹操に帰順した c:1968。

曹に帰した後、曹操(そうそう)は徐晃(じょこう)に兵権を授け、巻・原武の賊寇を攻めさせ、敵を破ることに成功し、裨将軍に拝された。彼は曹操に従って呂布(りょふ)を征討し、呂布の部将である趙庶、李鄒らを招降した。河内において、徐晃は史渙(しかん)とともに眭固を斬った。彼は劉備(りゅうび)を撃破する戦役に参加し、また軍に従って顔良(がんりょう)を破り、白馬(はくば)を抜き、延津に進んで文醜(ぶんしゅう)を破り、偏将軍に任じられた。徐晃は曹洪(そうこう)とともに㶏強の賊である祝臂を破り、また史渙とともに袁紹(えんしょう)の故市における運糧の車隊を破り、功績著しく、都亭侯に封じられた c:1969。

曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)を囲攻していた間、邯鄲を破った後、易陽令の韓範は降ると偽りながらまた拒守した。曹操は徐晃(じょこう)を派遣して攻めさせ、徐晃は到着すると、城中に矢を射込んで利害を陳べた。韓範は悔悟し、徐晃はそのまま降伏を受け入れた。事後、徐晃は曹操に進言した。「二袁はまだ撃破されておらず、まだ落とされていない諸城は皆耳を傾けて聞いております。今、もし易陽を滅ぼせば、明日には他の城が皆死守し、河北は平定しがたくなることを恐れます。どうか易陽の降を赦し、それを他の城に示せば、望風して帰順しない者はないでしょう。」曹操はその建議を採った。その後、徐晃はまた単独で毛城を討伐し、伏兵を設けて急襲し、三つの営寨を破った。彼は軍に従って袁譚(えんたん)を南皮(なんぴ)に破り、平原(へいげん)の叛賊を討平してこれを克した。蹋頓(とうとん)を征討する戦役においては、横野将軍に任じられた。荊州(けいしゅう)を征討する曹操に従ったとき、徐晃は樊城(はんじょう)に派遣されて駐屯し、中盧、臨沮、宜城などの地の賊寇を討伐した。彼はまた満寵(まんちょう)とともに漢津で関羽(かんう)を討伐し、曹仁(そうじん)とともに江陵(こうりょう)で周瑜(しゅうゆ)を破った c:1969。

建安十五年(210年)、徐晃(じょこう)は太原の叛乱者を討伐し、大陵を囲んで克し、賊首の商曜を斬った。韓遂(かんすい)、馬超(ばちょう)らが関右で叛乱したとき、徐晃は汾陰に派遣されて駐屯し、河東の地を安撫した。曹操(そうそう)は彼に牛酒を賜い、先人の墓に詣でることを許した。曹操が潼関(どうかん)に至り、河を渡れぬことを憂えて徐晃を召して対策を問うた。徐晃は進言した。「公はここに重兵を集めておられますが、賊は別に兵を派して蒲阪を守らせておりません。彼らに謀略のないことがわかります。今、臣に精兵四千を仮し(ここは史料に誤りがあり、徐晃は当時まだ臣を称していない)蒲阪津を渡らせ、先鋒部隊として賊の後路を断てば、賊は擒えられましょう。」曹操は善しとし、そこで徐晃に歩騎四千を率いて津を渡らせた。工事がまだ完成しないうちに、賊将の梁興(りょうこう)が歩騎五千余を率いて夜に徐晃を襲ったが、徐晃はこれを退け、曹操の大軍は河を渡ることができた。続いて馬超らを破り、徐晃はまた夏侯淵(かこう えん)とともに隃麋、汧の地の氐を平定し、曹操と安定で会した。曹操が鄴(ぎょう)に戻った後、徐晃と夏侯淵を派遣して鄜、夏陽の余賊を平定させ、梁興を斬り、三千余戸を招降した。彼は軍に従って張魯(ちょうろ)を征討し、また攻櫝、仇夷などの山地の氐を討伐するよう派遣され、皆これを降した。徐晃は平寇将軍に昇進し、囲まれた張順将軍を救った。彼は賊寇の陳福ら三十余の営寨を破った c:1969。

曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に戻った後、徐晃(じょこう)と夏侯淵(かこう えん)を阳平に留めて劉備(りゅうび)を防がせた。劉備は陳式(ちんしょく)ら十余営の部隊を派遣して馬鳴閣道を断たせたが、徐晃は単独で出征してこれを破り、賊兵は自ら山谷に身を投げ、死傷が惨憺たるものであった。曹操はこれを聞いて大いに喜び、徐晃に符節を授け、令を下して称賛した。「この閣道は漢中(かんちゅう)の険要なる咽喉である。劉備は内外の連絡を断ち、漢中を奪おうとした。将軍の一挙が賊の計を克ち奪った。善の中の善というべきものだ。」曹操はそこで自ら阳平に至り、漢中の諸軍を引き出した。その後また徐晃を派遣して曹仁(そうじん)を助けて関羽(かんう)を討伐させ、宛城(えんじょう)に駐屯した。当時、漢水(かんすい)が暴れ漲り、于禁(うきん)らの部は水没した。関羽は曹仁を樊城(はんじょう)に囲み、また将軍の呂常(りょじょう)を襄陽(じょうよう)に囲んだ。徐晃の率いる兵は多くが新兵で、関羽と鋒を争いがたいと考え、まず阳陵陂に至って駐屯した。曹操が再び戻り、将軍の徐商、呂建らを徐晃のもとへ派遣し、令を下した。「兵馬が集結し終わってから、はじめて一同で前進せよ。」賊兵は偃城に駐屯していた。徐晃は到着すると、詭計を用い、都塹を築いて外にその後路を断つさまを示し、賊兵はそこで営を焼いて逃げ去った。徐晃は偃城を奪った後、両面に営を連ね、徐々に推し進め、賊寇の囲みの陣から約三丈の距離に迫った。まだ攻撃を発しないうちに、曹操は前後して殷署、朱蓋ら合わせて十二営の部隊を徐晃のもとへ派遣した。賊寇は囲頭に営があり、また別に四冢の営があった。徐晃は囲頭の営を攻めると言い触らしながら、ひそかに四冢を攻めた。関羽は四冢が破られんとするのを見て、自ら歩騎五千を率いて出戦し、徐晃はこれを退け、追撃して敵陣に陥り入り、ともに囲みの陣に攻め入ってこれを破り、一部の敵兵は自ら沔水に身を投げて死んだ c:1984。

曹操(そうそう)は令を下して称賛した。「賊寇の囲みの陣は鹿角十重であったが、将軍は戦って全勝を致し、ついに賊の囲みを陥れ、斬首と俘虜は多数であった。私は用兵三十余年、ならびに聞き及ぶ古の善く兵を用いる者にも、長駆して敵の囲みに直入した者はなかった。しかも樊・襄陽の囲まれた危急の程度は莒・即墨を超え、将軍の功は孫武、穰苴を超えるものだ。」徐晃(じょこう)は摩陂に凱旋し、曹操は自ら七里出迎え、宴を設けて大いに会した。曹操は杯を挙げて徐晃に酒を勧め、慰労して言った。「樊・襄陽を全うしたのは、将軍の功である。」当時、諸軍はすでに集結しており、曹操が諸営を巡視すると、士卒たちは皆列を離れて見物したが、徐晃の軍営は整然とし、将士は陣を守って微動だにしなかった。曹操は感嘆した。「徐将軍は周亜夫の風があるというべきだ。」 c:1984

文帝曹丕(そうひ)が王位に即くと、徐晃(じょこう)を右将軍に任じ、逯郷侯に進封した。曹丕が帝を称すると、楊侯に進封した。徐晃は夏侯尚(かこう しょう)とともに上庸(じょうよう)で劉備(りゅうび)を討伐し、これを破った。徐晃は阳平を鎮守し、阳平侯に改封された。明帝曹叡(そうえい)が即位した後、徐晃は襄陽(じょうよう)で呉将の諸葛瑾(しょかつきん)を防いだ。彼は邑二百戸を増され、前後合わせて三千一百戸となった。病が重くなると、彼は遺言を残し、時服をもって殮葬するよう求めた。太和元年(227年)に逝去し、諡を壮侯という。その子の徐蓋が爵を嗣いだ。徐蓋の死後、その子の徐霸が爵を嗣いだ。明帝は徐晃の食邑を分け、徐晃の他の二人の子孫を列侯に封じた c:1986。

徐晃(じょこう)は性質が倹約で慎み深く、将軍として、常に遠くに斥候を派し、まず不敗の地に立ってから戦った。敵を追い利を争うときには、士卒は食事をとる暇もないほどであった。彼は常に嘆じた。「古人は明主に遇わぬことを憂えた。今、私は幸いにこれに遇うことができた。常に功をもって自ら効すべきであり、なんぞ個人の声誉を求める必要があろうか。」彼は終生広く友を交えることはなかった。 c:1987

演中(In the Novel)

『三国演義』においては、徐晃(じょこう)の登場はすこぶる劇的である。彼は最初、楊奉(ようほう)の部将であり、李傕(りかく)、郭汜(かくし)の乱の中で、楊奉が天子を護衛したとき、李傕の部将の崔勇(さいゆう)が出陣して罵った。楊奉が「公明はいずこにあるか」と問うと、徐晃は大斧を執って飛馬して出で、わずか一合で崔勇を馬下に斬り、その過人の武勇を示した c:1988。この後、彼はまた箕関で一合のうちに李楽(りがく)を斬り、再びその勇猛を際立たせた c:1989。

徐晃(じょこう)が曹操(そうそう)に帰順する筋は、演義においていっそう詳しく伝奇的に描かれている。曹操が天子を護衛して許都(きょと)に遷したとき、楊奉(ようほう)、韓暹(かんせん)が兵を率いて道を遮り、徐晃が先頭に立って大叫した。「曹操は駕を劫して何処へ行くか。」 c:10925 このとき、曹操の従事である満寵(まんちょう)が夜に徐晃の営帳を探り、「暗を棄て明に投じ、ともに大業を成さん」と勧めた c:10926。徐晃は楊奉、韓暹が事を成す人でないと知りつつも、旧情を思い、背き棄てるに忍びなかった。満寵が「良禽は木を択んで棲み、賢臣は主を択んで事う」と説き、徐晃はついに説き伏せられた。しかし彼は、満寵の「奉、暹を殺して進見の礼となせ」という建議を拒み、「臣をもって主を弑するは、大いに不義なり」と考え、その忠義の性格を体現した c:10927。徐晃はそこで数十騎を率いて夜を徹して曹操のもとへ身を投じ、曹操は大いに喜び、これを厚遇した c:1990。この筋は史書ではただ簡略に「晃はそこで太祖に帰した」と記されるにとどまるが c:1968、演義は満寵の説得と徐晃の決断を通して、人物の形象を豊かにしている。

曹に帰した後、徐晃(じょこう)は演義において数多くの重要な戦役に参加した。曹操(そうそう)が呂布(りょふ)を攻めたとき、陳宮(ちんきゅう)は徐晃に捕らえられた c:1991。関羽(かんう)の「五関を過ぎ六将を斬る」の前に、徐晃はかつて許褚(きょちょ)とともに関羽を迎え撃ち、関羽は奮力して二人を退けた c:5455。官渡の戦い(かんとのたたかい)においては、徐晃は張遼(ちょうりょう)とともに文醜(ぶんしゅう)を追撃し、文醜が張遼の戦馬を射傷すると、徐晃は軍を催して袁紹(えんしょう)の糧草輜重を焼いた c:1992 c:1994。南皮(なんぴ)を攻めたときには、徐晃は出馬し、数合のうちに袁譚(えんたん)の部将の彭安を斬った c:1995。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、曹操はかつて徐晃と張遼らの将領を派遣して弓弩軍を率いて江辺に至り射撃を助けさせた c:5457。曹操が華容道(かようどう)に敗走したとき、徐晃はかつて軍を率いて接応に来た c:10931。

演義はまた、徐晃(じょこう)と許褚(きょちょ)が錦袍を争う逸話を描き、将領間の豪気と曹操(そうそう)の人材を惜しむ心を示している c:5459。潼関の戦い(とんかんのたたかい)においては、徐晃は曹洪(そうこう)とともに関を守り、徐晃は曹洪に軽々しく出てはならぬと力説したが、曹洪は聞き入れず、潼関の失陥を招き、徐晃はこれを無念に思った c:1996 c:10937。後に、徐晃は曹操に計を献じ、ひそかに蒲阪津を渡って馬超(ばちょう)の帰路を断ち、曹操はその建議を採った c:1997。

漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)のとき、徐晃(じょこう)は先鋒として、王平(おうへい)とともに漢水(かんすい)を渡った。徐晃は韓信の「背水の陣」に倣い、王平の諫めを聞かず、その結果大敗した。王平はこれによって劉備(りゅうび)のもとへ身を投じた c:10939 c:10941。この筋は史書には記載がなく、王平の智謀を造形するために演義が虚構したものである。

樊城(はんじょう)の戦いにおいて、徐晃(じょこう)と関羽(かんう)の交戦は演義の見せ場の一つである。曹操(そうそう)は徐晃に精兵五万を率いて救援に赴かせた c:5462。徐晃は関平(かんぺい)と交戦し、計を用いて偃城を攻め落とした c:10943。続いて、徐晃は関羽と相まみえた。二人はかつて旧交であり、徐晃ははじめ関羽と旧情を語ったが、すぐに厳しく令を下した。「雲長の首級を取った者あらば、千金を重賞す。」関羽は徐晃の変わりように驚いたが、徐晃は「今日は国家の事である。某は私をもって公を廃するをあえてせず」と表した c:1999。最終的に、徐晃は関羽を破り、樊城の囲みを解き、曹操はその「真に胆識兼ね優れたる者なり」と称賛し、「周亜夫の風」をもってその治軍の厳整を讃えた c:5463。これらの筋は史書にも記載があるが、演義は対話と細部の描写を通して、人物の形象をいっそう鮮明にしている。

関鍵関係

* 曹魏(そうぎ)(defected_to):徐晃(じょこう)は楊奉(ようほう)のもとにいたとき、楊奉に曹操(そうそう)へ帰服するよう建議し、後に楊奉が翻意すると、徐晃はそこで曹に帰した c:1968。曹に帰した後、徐晃は曹操麾下の重要な将領となり、信任と重用を受け、たびたび戦功を立て、曹操はその評価を極めて高くし、「周亜夫の風」があると称した c:1984。
* 楊奉(ようほう)(betrayed_by):徐晃(じょこう)は最初、楊奉の部将であり、楊奉に天子を護衛し、曹操(そうそう)へ帰服するよう勧めた。しかし楊奉が翻意した後、徐晃は楊奉のもとを去り、曹操のもとへ身を投じることを選んだ c:1968。演義では、徐晃は満寵(まんちょう)の楊奉を殺して進見の礼となせという建議を拒み、その「臣をもって主を弑せず」という義気を体現した c:10927(演義独自)。
* 呂布(りょふ)(enemy_of):徐晃(じょこう)はかつて曹操(そうそう)に従って呂布を征討し、呂布の部将を招降した c:1969。演義では、陳宮(ちんきゅう)が呂布の敗亡の際に徐晃に捕らえられた c:1991(演義独自)。
* 眭固(enemy_of):徐晃(じょこう)は史渙(しかん)とともに河内で眭固を斬った c:1969。
* 関羽(かんう)(enemy_of):徐晃(じょこう)はかつて満寵(まんちょう)とともに漢津で関羽を討伐し、曹仁(そうじん)とともに江陵(こうりょう)で周瑜(しゅうゆ)を破った c:1969。樊城(はんじょう)の戦いにおいては、徐晃はさらに関羽を破り、樊城の囲みを解き、曹操(そうそう)に大いに称賛された c:1984。演義では、徐晃と関羽はかつて旧交であったが、戦場においては、徐晃は「国家の事、私をもって公を廃せず」の原則を守り、関羽と交戦した c:1999(演義独自)。
* 馬超(ばちょう)(enemy_of):徐晃(じょこう)は潼関の戦い(とんかんのたたかい)において、かつて曹操(そうそう)に計を献じ、ひそかに蒲阪津を渡って馬超の帰路を断った c:1997。
* 王平(おうへい)(betrayed_by):漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)において、徐晃(じょこう)は王平の諫めを聞かず、韓信に倣って背水の陣を布き、その結果大敗した。王平はこれによって劉備(りゅうび)のもとへ身を投じた c:10939 c:10941(演義独自)。

標志性場景

* 曹に帰する挙:李傕(りかく)、郭汜(かくし)の乱の後、徐晃(じょこう)は楊奉(ようほう)に天子を護衛し、曹操(そうそう)へ帰服するよう勧めた。楊奉が翻意した後、徐晃は毅然として曹操のもとへ身を投じ、その時務を識る心と忠誠を示した c:1968。演義では、満寵(まんちょう)が夜に徐晃を訪れ、曹に帰すよう勧め、徐晃は旧情を思いつつも、最終的に説き伏せられ、主を殺して栄を求める建議を拒み、その義士の形象を造形した c:10926 c:10927。
* 樊城の囲みを解く:徐晃(じょこう)は軍を率いて関羽(かんう)に囲まれた樊城(はんじょう)を救援し、関羽の強大な攻勢に対して、まず詭計で敵営を焼き、後に囲頭の屯を佯攻して実は四冢を攻め、最終的に関羽を破り、樊城の囲みを解いた。曹操(そうそう)はこの戦役を極めて高く評価し、その功が孫武、穰苴を超えると称し、「周亜夫の風」があると讃えた c:1984。演義では、徐晃と関羽の戦場における対話が、「国家の大事、私をもって公を廃せず」の原則を余すところなく示している c:1999(演義独自)。
* 治軍の厳整:曹操(そうそう)は樊城(はんじょう)の戦いの後に諸営を巡視し、徐晃(じょこう)の軍営が整然とし、将士が陣を守って微動だにしないのを見て、「徐将軍は周亜夫の風があるというべきだ」と感嘆した c:1984。この細部は徐晃の厳明な治軍の風格を際立たせ、彼の重要な個人的標識ともなった。
* 潼関での献策:潼関の戦い(とんかんのたたかい)において、曹操(そうそう)が馬超(ばちょう)のために窮地に陥ったとき、徐晃(じょこう)はひそかに蒲阪津を渡って馬超の帰路を断つ計を献じ、曹操が戦局を転換する鍵となる策略を提供した c:1997。
* 錦袍の争い:ある射箭の試合において、徐晃(じょこう)は許褚(きょちょ)と錦袍を争い、最終的に錦袍は裂かれた。曹操(そうそう)はこの機会を借りて諸将に蜀錦を賜い、その豪気と人材を惜しむ心を示すとともに、徐晃の勇武と性情を側面から反映した c:5459(演義独自)。
* 漢水の敗:漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)において、徐晃(じょこう)は王平(おうへい)の諫めを聞かず、韓信に倣って背水の陣を布き、その結果大敗し、王平を劉備(りゅうび)のもとへ身を投じさせた c:10939 c:10941(演義独自)。この筋は演義における徐晃の軍事判断の誤りの描写であり、史書における常勝将軍の形象とはいささか異なる。

徐晃(じょこう)は生涯「性は倹約にして畏慎、常に斥候を遠くし、まず勝つべからざるをなし、然る後に戦い、奔を追い利を争い、士は食らうに暇あらず」であった c:1987。彼は常に功をもって自ら効し、私誉を求めず、終に広く援を交えず、その務実・謹慎・職守に忠なる性格を体現した。史書に記された赫々たる戦功であれ、演義における豊かな人物造形であれ、いずれも徐晃を三国(さんごく)の時代の無視できない傑出した将領たらしめている。

肖像アーカイブ

人物像

性格
徐晃(じょこう)は性格が倹約で謹慎、軍を治めるに厳正で、私交を好まず、常に功労をもってみずから尽くした。智略を兼ね備え、国事の前では旧情を捨てることができた。
話し方
徐晃(じょこう)の言葉づかいは思慮周密で、計を論じることに長け、古人の言論を引いて喩えとすることができた。
生涯
徐晃(じょこう)は河東楊の人で、かつて郡の吏となり、のちに楊奉(ようほう)に従って賊を討ち、奉に天子を洛陽(らくよう)に還すよう勧めた。曹操(そうそう)に帰順するとたびたび戦功を立て、呂布(りょふ)・袁紹(えんしょう)・劉備(りゅうび)・関羽(かんう)らの征伐に従い、右将軍にまで至り、陽平侯に封ぜられ、壮侯と諡された。
武器
徐晃(じょこう)は主に大斧と刀を兵器とし、また騎射にも長けた。
逸話
徐晃(じょこう)は字を公明といい、曹操(そうそう)が新たに得た良将である。かつて孫権(そん けん)の書を囲みの中に射込み、樊城(はんじょう)の戦いで囲みを解き、曹操(そうそう)から「周亜夫の風あり」と讃えられた。

人間関係

48 件の関係

名言

全 28 件の台詞 · 厳選 3 件

「今日乃國家之事,某不敢以私廢公。」

演 第76回→ 関羽(かんう)

この一句は、徐晃(じょこう)が国家に忠実で公明正大な品格を示し、その人物像を映す名場面である。

「古人患不遭明君,今幸遇之,常以功自效,何用私譽爲!」

史 第17回

この一句は、徐晃(じょこう)が私的な名誉を求めず忠誠をもって国に報いる度量を示し、その歴史的人物像の精髄である。

「以臣弒主,大不義也,吾決不為。」

演 第14回→ 満寵(まんちょう)

この一句は、徐晃(じょこう)が義を重んじ利を軽んじ旧主に背かない道徳的節操を際立たせ、その曹操への帰順の基礎を築いた。

登場回25 回 ▸
  • 史ch.17
  • 演ch.13ch.14ch.19ch.25ch.26ch.27ch.30ch.31ch.32ch.33ch.46ch.48ch.50ch.56ch.57ch.58ch.59ch.71ch.72ch.75ch.76ch.79ch.86ch.94
関係の年表32 条 ▸

史 ch.17

演 ch.13

演 ch.14

演 ch.19

演 ch.26

演 ch.27

演 ch.30

演 ch.33

  • 彭安§16

    fights_in

    出马接战不数合,斩彭安于马下

演 ch.58

演 ch.59

演 ch.76

演 ch.86

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私が生涯守ってきたのは、軍令と節度にほかならない。文帝が王位に就かれると、私は右将軍に任じられ、陛下が帝位に即かれると、楊侯に封ぜられた。その後、陽平を鎮守し、さらに命を受けて襄陽(じょうよう)で呉の将を防いだ。爵位も封戸も、すべて朝廷から
  • 私は徐晃(じょこう)、字は公明(Kōmei)。今は戦況が切迫しており、軍中で問われるのは進退、敵味方が争うのは紙一重の差だ。私が思うのは、将兵をなるべく危険にさらさず、主帥の策を実行に移すにはどうすればよいか、ということだ。 昔、太祖(T
  • 私は字を公明といい、河東郡楊県の人である。若い頃を思い返せば、郷里ではまだ戦乱が収まらず、郡吏として官府の間を行き来していた。当時目にしたのは、政令の乱れと盗賊の蜂起であり、民が求めていたのは、ただ安んじて暮らせることにすぎなかった。史書に
生涯の大事12 ▸