言語
朱

孫呉(そんご) · 左大司马

朱然(しゅぜん)

登場回
7
台詞の記録
4
人間関係
16
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

朱然(しゅぜん)、字は義封、本姓は施で、朱治(しゅち)の姉の子である。朱治(しゅち)に子がなかった時、朱然(しゅぜん)はわずか十三歳で、朱治(しゅち)が孫策(そん さく)に請うて嗣子とした。孫策(そん さく)はこの事を重く見て、特に丹楊郡に命じて羊酒をもって朱然(しゅぜん)を召見させ、丁重な礼をもって祝った。朱然(しゅぜん)はかつて孫権(そん けん)と共に学び、二人はこれにより深い情誼を結んだ。孫権(そん けん)が大権を執ると、十九歳の朱然(しゅぜん)を余姚長に任じ、後にまた山陰令に昇進させ、折衝校尉を加え、五県を督させた。孫権(そん けん)はその才能を重んじ、丹楊郡を分けて臨川郡を設け、朱然(しゅぜん)を太守に任じ、二千の兵力を割き与えた。当時、山賊が猖獗をきわめたが、朱然(しゅぜん)はわずか一月で叛乱を平定した。

建安年間、曹操(そうそう)が濡須(じゅしゅ)に出兵すると、朱然(しゅぜん)は大坞および三関屯の防衛を担い、偏将軍に任じられた。建安二十四年、朱然(しゅぜん)は軍に従って関羽(かんう)を討伐し、潘璋(はんしょう)と共に臨沮で関羽(かんう)を擒え、これにより昭武将軍に昇進し、西安郷侯に封じられた。呂蒙(りょもう)が病重くなった時、孫権(そん けん)が誰が後を継げるか尋ねると、呂蒙(りょもう)は朱然(しゅぜん)を推薦し、「胆守に余りあり、愚かながら任ずべしと思う」と述べた。呂蒙(りょもう)が世を去ると、孫権(そん けん)は朱然(しゅぜん)に假節を授け、江陵(こうりょう)を鎮守させた。黄武元年、劉備(りゅうび)が大挙して宜都に進攻すると、朱然(しゅぜん)は五千人を率いて陸遜(りくそん)と力を合わせて抵抗した。朱然(しゅぜん)は単独で劉備(りゅうび)の前鋒を破り、その後路を断ったので、劉備(りゅうび)は大敗して逃れた。朱然(しゅぜん)はこれにより征北将軍を拝し、永安(えいあん)侯に封じられた。

魏は曹真(そうしん)・夏侯尚(かこう しょう)・張郃(ちょうこう)らの大軍を遣わして江陵(こうりょう)を囲み、魏の文帝曹丕(そうひ)は自ら宛城(えんじょう)に駐して後援とした。孫権(そん けん)は孫盛を遣わして一万人を率いて州上に駐屯させ、囲坞を築いて朱然(しゅぜん)を支援させた。張郃(ちょうこう)が河を渡って孫盛を攻めると、孫盛は敵わず撤退しようとし、張郃(ちょうこう)は州上の囲守を占拠して、朱然(しゅぜん)は内外を断たれた。潘璋(はんしょう)・楊粲らの将が囲みを解こうと来たが、成功しなかった。当時、江陵(こうりょう)城内の朱然(しゅぜん)の部隊には腫病を患う者が多く、戦える者はわずか五千であった。曹真(そうしん)らは土山を築き、地道を掘り、楼櫓を建て、矢が雨のように城内に射込まれ、将士は皆恐れの色を浮かべたが、ひとり朱然(しゅぜん)は神色自若として恐れの色なく、かえって将士を激励し、機を伺って魏軍の二つの営寨を破った。魏軍は朱然(しゅぜん)を六か月にわたって囲攻したがなお陥落させられなかった。江陵(こうりょう)令姚泰は外敵の勢いが盛んで、城中の兵が少なく糧が尽きるのを見て、敵軍と通じて内応を企てた。事が発覚すると、朱然(しゅぜん)は姚泰を処刑した。夏侯尚(かこう しょう)らはついに江陵(こうりょう)を攻め落とせず、撤兵するほかなかった。この一戦を経て、朱然(しゅぜん)の名は敵国に轟き、当陽(とうよう)侯に改封された。

黄龍元年、朱然(しゅぜん)は車騎将軍・右護軍・領兗州(えんしゅう)牧に任じられた。後に兗州(えんしゅう)が蜀の境内にあったため、朱然(しゅぜん)は牧職を解かれた。嘉禾三年、孫権(そん けん)は蜀と大挙して進攻する約束を交わし、孫権(そん けん)は自ら大軍を率いて新城を攻め、朱然(しゅぜん)は全琮(ぜんそう)と共に左右の督を命じられた。しかし軍中に疾病が流行したため、城を攻めずに撤退した。赤烏五年、朱然(しゅぜん)は柤中を征討し、魏将蒲忠・胡質(こ しつ)がそれぞれ数千人を率い、蒲忠は要害で朱然(しゅぜん)の後路を断とうとし、胡質(こ しつ)は援軍となった。当時、朱然(しゅぜん)の部隊の兵将はすでに先に四方へ出ており、収拾が間に合わなかったので、帳下の八百人を率いて迎え撃った。蒲忠は戦い利あらず、胡質(こ しつ)らは皆退いた。九年後、朱然(しゅぜん)は再び柤中を征討し、魏将李興らは朱然(しゅぜん)が深く入ったのを知り、歩騎六千人を率いてその後路を断ったが、朱然(しゅぜん)は夜間に出撃して迎え戦い、ついに勝利した。孫権(そん けん)はかつて馬茂の叛変に深く憤慨しており、朱然(しゅぜん)は出征前に上疏して「舟を方べて江を塞ぎ、見るに足るほどにして、上下の憤りを解く」つもりだと表明した。朱然(しゅぜん)が捷報を献じると、孫権(そん けん)は群臣が祝う際に朱然(しゅぜん)の奏表を示し、その「事を見るに明らかなり」と讃えた。続いて、朱然(しゅぜん)は左大司馬・右軍師を拝した。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、朱然(しゅぜん)の人物像は主にその軍事行動を中心に展開され、とりわけ関羽(かんう)の死と夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において重要な役割を演じている。関羽(かんう)を擒えた出来事では、朱然(しゅぜん)は潘璋(はんしょう)と共に呂蒙(りょもう)の命を受け、麦城(ばくじょう)の北二十里に伏せて関羽(かんう)を迎え撃った。関羽(かんう)が残兵敗将を率いて囲みを破ってここに至ると、朱然(しゅぜん)は軍を率いて現れ、関羽(かんう)と交戦し、わざと敗走して関羽(かんう)を伏撃の圏内へ深く誘い込んだ。続いて、潘璋(はんしょう)が現れ、最終的にその部将馬忠(ばちゅう)が関羽(かんう)を生け捕りにした。この筋立ては戦略的配置における朱然(しゅぜん)の実行力を際立たせており、その武力の表現は関羽(かんう)には及ばないものの、関羽(かんう)を包囲する計策において鍵となる役割を果たした。

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)では、朱然(しゅぜん)は孫桓(そん かん)と共に孫権(そん けん)によって左右の都督に任じられ、五万の水陸の大軍を率いて劉備(りゅうび)の進攻に抵抗した。彼は孫桓(そん かん)と共に宜都を鎮守し、来勢猛々しい蜀漢(しょくかん)の大軍に対抗した。演義では、朱然(しゅぜん)は孫桓(そん かん)が兵を損ない将を折ったと知って、まさに救援に赴こうとした時、馮習(ふうしゅう)の偽りの降伏の計に惑わされた。部将崔禹(さいう)が代わって出陣したが、結果として崔禹(さいう)は関興(かんこう)に斬られた。劉備(りゅうび)が大敗して逃亡する際、朱然(しゅぜん)は軍を率いて追撃したが、趙雲(ちょううん)に遭遇した。趙雲(ちょううん)は「一槍にして朱然(しゅぜん)を馬下に刺し」、劉備(りゅうび)を救い出した。この筋立ては史実とは著しく異なり、史実では朱然(しゅぜん)は夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の後も長く活躍し、しばしば戦功を立て、赤烏十二年になってようやく世を去った。演義におけるこの描写は、明らかに趙雲(ちょううん)の勇猛と劉備(りゅうび)の危地を際立たせるために、史実における朱然(しゅぜん)の真の結末を犠牲にしたものである。

主要な関係

* 朱治(しゅち):朱然(しゅぜん)の母方の伯父であり、また養父でもある。朱然(しゅぜん)は本姓を施といい、朱治(しゅち)に子がなかったため朱治(しゅち)の養子となり、姓を朱に改めた。
* 孫権(そん けん):朱然(しゅぜん)の同窓にして友であり、孫権(そん けん)はその才能を大いに重んじ、たびたび重任を委ね、その「事を見るに明らかなり」と讃えた。
* 呂蒙(りょもう):臨終の際に孫権(そん けん)に朱然(しゅぜん)を後継に推薦し、朱然(しゅぜん)を「胆守に余りあり」と評した。
* 胡質(こ しつ):魏将であり、かつて蒲忠と共に柤中で朱然(しゅぜん)と交戦し、最終的に朱然(しゅぜん)に撃退された。
* 潘璋(はんしょう):関羽(かんう)を擒える行動で朱然(しゅぜん)と共に伏せ、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)でも、朱然(しゅぜん)は潘璋(はんしょう)と共に江陵(こうりょう)の囲みを解いた(演義独自)。
* 孫桓(そん かん):夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で、朱然(しゅぜん)と共に左右の都督に任じられ、共に劉備(りゅうび)を防いだ(演義独自)。
* 趙雲(ちょううん):夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の後期、趙雲(ちょううん)が「一槍にして朱然(しゅぜん)を馬下に刺し」、劉備(りゅうび)を救い出した(演義独自)。

象徴的な場面

* 臨沮で関羽(かんう)を擒える:朱然(しゅぜん)は潘璋(はんしょう)と共に臨沮に伏せ、首尾よく関羽(かんう)を擒え、孫呉(そんご)のために大功を立て、朱然(しゅぜん)はこれにより昭武将軍に昇進し、西安郷侯に封じられた。演義では、朱然(しゅぜん)はさらに自ら出馬し、関羽(かんう)と矛を交え、わざと敗走して、潘璋(はんしょう)が関羽(かんう)を擒える条件を作り出した。
* 江陵(こうりょう)防衛戦:曹真(そうしん)・夏侯尚(かこう しょう)らの魏の大軍の囲攻を前に、朱然(しゅぜん)は城中の兵力不足、将士に病多き状況の中、沈着冷静に士卒を激励し、六か月にわたって堅守し、ついに魏軍を撤退に追い込んだ。この戦いにより朱然(しゅぜん)の名は敵国に轟き、当陽(とうよう)侯に改封された。この場面は朱然(しゅぜん)の「急に臨んで胆定まる」性格的特徴を十分に示している。
* 柤中を征討する:朱然(しゅぜん)はたびたび軍を率いて魏の柤中地域を征討し、しばしば魏将蒲忠・胡質(こ しつ)・李興らを撃退し、その卓越した軍事的才能と対魏作戦への積極性を示した。
* 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)(演義独自):演義では、朱然(しゅぜん)は孫呉(そんご)の大将として、孫桓(そん かん)と共に劉備(りゅうび)の進攻に抵抗した。史実では朱然(しゅぜん)はこの戦いで出色の活躍を見せたが、演義では最終的に趙雲(ちょううん)に刺殺され、趙雲(ちょううん)の勇猛の引き立て役となった。
* 呂蒙(りょもう)が才を推薦する:呂蒙(りょもう)が病重くなった時、孫権(そん けん)に朱然(しゅぜん)を後継に推薦し、その「胆守に余りあり」と讃え、東呉の将における朱然(しゅぜん)の重要な地位と能力を体現した。

人間関係

16 件の関係

名言

全 4 件の台詞 · 厳選 3 件

「雲長休走!趁早投降,免得一死!」

演 第77回

この一句は、朱然(しゅぜん)が演義で関羽(かんう)を追撃する著名な場面を示し、識別性が高い。

「臣願與小將軍同擒劉備。」

演 第82回→ 孫権(そん けん)

この一句は、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)を前にした朱然(しゅぜん)の孫権(そん けん)への忠誠と決意を体現し、人物像を描き出している。

「馬茂小子,敢負恩養。臣今奉天威,事蒙克捷,欲令所獲,震耀遠近,方舟塞江,使足可觀,以解上下之忿。惟陛下識臣先言,責臣後效。」

史 第56回→ 孫権(そん けん)

この一句は正史に載り、朱然(しゅぜん)が叛乱を平定した後の豪快さと孫権(そん けん)への忠心を示し、歴史的意義が大きい。

登場回7 回 ▸
  • 史ch.3ch.27ch.47ch.56
  • 演ch.77ch.82ch.84
関係の年表12 条 ▸

史 ch.3

史 ch.56

演 ch.77

  • enemy_of

    阵前诱诈——'雲長休走!趁早投降,免得一死!';伏兵掩杀

演 ch.84

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 江陵(こうりょう)の包囲は日ごとに厳しさを増し、数えてみれば、すでに六月を超えていた。城外には土山が迫り、地下道がひそかに通じ、高楼や櫓が高く築かれ、矢や石が雨のように降り注いだ。城内の将兵の多くは腫れ病にかかり、武器を取れる者は五千人にも
  • 私は朱然(しゅぜん)、もとの姓は施(し)、字は義封(ぎほう)である。幼い頃、姉の夫である朱治(しゅち)に養われ、十三歳のとき、孫策(そん さく)に願い出て、その後継となることを望んだ。孫策は丹陽郡(たんようぐん)に命じ、羊と酒を持たせて私を
  • 私は字を義封(Gihō)といい、丹楊(Tanyō)の故鄣(Koshō)の人である。幼い頃、母とともに県城に住み、県長の施績(Shiseki)とは同い年だったため、母は私に彼と一緒に学ばせた。当時の私はまだ幼く、机上の書簡を一字ずつ読み習うべ