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諸葛瑾(しょかつきん)

孫呉(そんご) · 大将军

諸葛瑾(しょかつきん)

字 子瑜

登場回
25
台詞の記録
31
人間関係
26
内面の独白
3

史載(Historical Record)

諸葛瑾(しょかつきん)、字は子瑜、琅琊陽都の人で、東呉の重要な謀士であり将領である。彼は早くから才学と徳行をもって知られた。建安四年(199年)、孫策(そん さく)が廬江(ろこう)太守の劉勲(りゅうくん)を征討した際、諸葛瑾はすでにその左右に随侍していた。孫策が世を去った後、諸葛瑾は魯粛(ろしゅく)らとともに孫権(そん けん)の賓客となり、孫権のために俊秀を招き、山越を鎮撫し、命に従わぬ者を討伐するために謀を出した。

孫権と劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)を争奪する間、諸葛瑾は重要な役割を演じた。劉備が東のかた呉を伐った際、孫権はかつて和を求め、諸葛瑾は劉備に書を送って、軽重を権衡し、大局を以て重しとなし、関羽(かんう)の仇のために孫呉(そんご)と交わりを悪くすべきではないと勧めた。当時、ある者が諸葛瑾が密かに劉備と通じていると密報したが、孫権はこれを深く信じて、「孤と子瑜とは死生易えざるの誓いあり。子瑜の孤に負かざるは、なお孤の子瑜に負かざるがごとし」と表し、その諸葛瑾への信任ぶりを十分に示した。

黄武元年(222年)、諸葛瑾は左将軍に遷り、公安を督し、節を假され、宛陵(えんりょう)侯に封ぜられた。曹真(そうしん)・夏侯尚(かこう しょう)らが朱然(しゅぜん)を江陵(こうりょう)に囲んだ際、諸葛瑾は大軍を率いて救援に赴いた。彼は性格が弘緩で、道理を推して計画に任せ、応卒倚伏の術はなかったものの、最終的に春の水が増す折に乗じて、潘璋(はんしょう)らの部と配合し、曹真らを退かせて、軍と辺境を全うした。

嘉禾五年(236年)、孫権が北征し、陸遜(りくそん)と諸葛瑾に襄陽(じょうよう)を攻めるよう命じた。この戦役において、諸葛瑾はかつて軍情が漏洩したことから憂慮したが、陸遜は沈着に応対し、最終的に撤退に成功して、その機に乗じて江夏(こうか)・安陸などの地を襲った。

孫権の称帝(そんけんのしょうてい)の後、諸葛瑾は大将軍・左都護に拝され、豫州(よしゅう)牧を領した。彼は人となりが篤慎で、妻が世を去った後は再び娶らず、愛する妾はいたものの子を産んでも挙げなかった。その子の諸葛恪(しょかつかく)は才名が顕赫であったが、諸葛瑾はしかし常にその「家を保つの子にあらず」ことを憂慮し、一族に禍をもたらすことを予感した。赤烏四年(241年)、諸葛瑾は世を去り、享年六十八であった。彼は臨終の際、素棺・時服をもって斂葬し、一切を質素にするよう遺命した。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、諸葛瑾の人物像は史実を基礎として文学的に加工されており、とりわけ諸葛亮(しょかつりょう)の兄という身分が際立たされて、これをもって多くの筋立てが展開されている。彼が初めて登場するのは孫権が賢才を招いた時であり、魯粛が孫権に諸葛瑾を推薦し、彼を「博学多才、母に事えて至孝」と称した。

演義において、諸葛瑾は幾度も東呉の使者として蜀漢(しょくかん)に赴き、劉備あるいは関羽を説得して荊州を返還させようと試みる。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、諸葛瑾はかつて諸葛亮と会い、諸葛亮に劉備を離れて東呉に転投するよう説得しようと試みたが、諸葛亮は逆に彼に劉備に帰順するよう勧め、兄弟二人はそれぞれその主のために働き、情義と大義の衝突がここに体現されている。

劉備が関羽の仇を討つために東呉を攻めた際、諸葛瑾は再び命を奉じて蜀漢に使いした。彼は劉備に利害を陳べて、罷兵するよう説得しようと試み、劉備は漢室を匡扶することを重しとなすべきであって、私的な仇のために盟友を攻めるべきではないと指摘した。しかし、劉備は関羽の死のために怒りに燃え、勧告を聞かず、ひいては諸葛瑾を斬ると脅した。

演義はまた、諸葛瑾が関羽の荊州鎮守の間、孫権の命を奉じて縁談に赴き、孫権の子を関羽の娘に娶わせようとしたことを描いている。しかし、関羽はこれに勃然として大いに怒り、激しい言葉でこの縁組を拒み、諸葛瑾を斬ろうとして、最終的に関平(かんぺい)に制止された。

このほか、演義はまた諸葛瑾の口を通じて、その子の諸葛恪の結末を予言している。諸葛瑾はかつて諸葛恪を「この子、家を保つの主にあらざるなり」と嘆息し、諸葛恪の最終的な悲劇的運命を暗示しており、これは史書の記載と一致する。

主要な関係

* 孫権(serves):諸葛瑾は孫権の心腹の謀士であり、重要な将領であって、深く孫権に信任された。孫権はかつて「孤と子瑜とは死生易えざるの誓いあり」と言い、両者の間の深い君臣の情誼を表した。
* 諸葛亮(brother_of):諸葛瑾は諸葛亮の兄であり、兄弟二人はそれぞれその主のために働き、政治的立場においては対立したが、個人的な情誼においてはなお絆があった。演義は幾度も彼ら兄弟が相見える場面を描き、情感と理智の衝突に満ちている。
* 諸葛恪(parent_of):諸葛瑾の子の諸葛恪は才華が溢れていたが、諸葛瑾はしかしその未来に憂慮を抱き、彼を「家を保つの子にあらず」とみなした。
* 関羽(fights_in):諸葛瑾は東呉と蜀漢の荊州争奪において、かつて幾度も関羽と交渉し、彼に荊州を返還させ、あるいは縁組を促そうと試みたが、いずれも果たせず、ひいては危うく関羽に斬られそうになった。
* 司馬懿(しばい)(fights_in):演義において、諸葛瑾はかつて命を奉じて江陵を拒守し、司馬懿の進攻を防いだ(演義独自)。

象徴的な場面

* 孫権の信任の誓い:劉備が東のかた呉を伐った際、ある者が諸葛瑾が劉備と私通していると密報したが、孫権はかえって諸葛瑾の忠誠を堅く信じ、「孤と子瑜とは死生易えざるの誓いあり」という感動的な言葉を発して、君臣の間の深い信任を示した。
* 襄陽の戦いにおける沈着な応対:嘉禾五年に襄陽を攻めた際、諸葛瑾は軍情が漏洩したことから憂慮したが、陸遜はかえって尋常ならざる沈着を示し、豆を植え射戯を行うなどの方法で軍心を安定させ、最終的に撤退に成功して、諸葛瑾と陸遜の性格の違いと黙契の配合を示した。
* 兄弟の情義と大義の衝突:赤壁の戦いの前、諸葛瑾は周瑜(しゅうゆ)の命を奉じて諸葛亮に東呉に帰順するよう説得したが、諸葛亮は逆に彼に劉備に帰順するよう勧め、兄弟二人はそれぞれ大義を陳べて、最終的に相手を説得できず、乱世における個人の情義と政治的立場の板挟みを体現した。
* 関羽の拒婚:諸葛瑾は孫権の命を奉じて荊州に赴いて関羽に縁談を持ちかけ、孫権の子のために関羽の娘を娶ろうとしたが、関羽の「吾が虎女、あに犬子に嫁がしめんや」という厳しい言葉による拒絶に遭い、危うく殺されそうになった。この筋立ては関羽の傲慢と諸葛瑾の無奈を生き生きと示している。
* 劉備に罷兵を説く:劉備が関羽の仇を討つために東呉を攻めた際、諸葛瑾は使者として蜀漢に赴き、劉備に大局を以て重しとなし、私的な仇を放棄するよう説得しようと試みたが、劉備は怒りに堪えず、勧告を聞かず、ひいては諸葛瑾を斬ると脅して、劉備の復讐の決意と諸葛瑾の忠勇を際立たせた。
* 諸葛恪の結末を予言する:諸葛瑾は存命の頃から子の諸葛恪の未来に憂慮を抱き、彼を「家を保つの子にあらず」とみなしたが、この予言は最終的に諸葛恪が孫峻(そん しゅん)に誅殺された後に的中し、人物に悲劇的な色彩を添えた。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
諸葛瑾(しょかつきん)は容貌と思慮に優れ、当時の人々はその弘雅さに敬服した。面長であった。
性格
彼は寛やかな性格で、道理を推し進めて計画に任せ、突発の変事に臨機応変する術は持たなかった。人となりは慎み深く嫌疑を避け、かつて伯夷・叔齊の喩えを引いて弟を諭した。
話し方
彼は古事を引いて情を説き、温和で婉曲であった。時には家事をもって孔明(こうめい)を動かそうとし、また「軽重大小」の義理を援用して論じた。
生涯
漢末に乱を避けて江東に移り、孫策(そん さく)の没後、孫権(そん けん)の姉婿である弘咨(こうし)が彼を孫権に推挙し、魯粛(ろしゅく)らとともに賓客として遇された。彼は博学多才で、母に仕えて至孝であった。
逸話
彼は諸葛亮(しょかつりょう)の兄であり、東呉の重臣で、大将軍・左都護を歴任し、豫州(よしゅう)牧を領した。魯粛(ろしゅく)はかつて「日々先生にお会いすることを望んでいる」と言った。

人間関係

26 件の関係

名言

全 31 件の台詞 · 厳選 3 件

「夷、齊雖至餓死首陽山下,兄弟二人亦在一處。我今與你同胞共乳,乃各事其主,不能旦暮相聚,視夷、齊之為人,能無愧乎?」

演 第44回→ 諸葛亮(しょかつりょう)

この台詞は、諸葛瑾と諸葛亮の深い兄弟の情と、それぞれ別の主君に仕える身のやるせなさと矛盾した心境を示している。

「臣請以輕重大小之事,與陛下論之。陛下乃漢朝皇叔,今漢帝已被曹丕篡奪,不思剿除,卻為異姓之親,而屈萬乘之尊,是舍大義而就小義也。中原乃海內之地,兩都皆大漢創業之方,陛下不取,而但爭荊州,是棄重而取輕也。天下皆知陛下即位,必興漢室,恢復山河;今陛下置魏不問,反欲伐吳,竊為陛下不取。」

演 第82回→ 劉備(りゅうび)📍 白帝城(はくていじょう)

この台詞は、諸葛瑾が大局を重んじ、劉備に小義を捨てて大義につくよう説く、戦略的な見識を示している。

「此子非保家之主也!」

演 第108回

この台詞は、諸葛瑾による孫権の子嗣についての的確な予見であり、その人を見抜く眼識を示している。

登場回25 回 ▸
  • 史ch.3ch.17ch.35ch.47ch.51ch.52ch.53ch.54ch.58ch.64
  • 演ch.29ch.37ch.42ch.43ch.44ch.53ch.66ch.73ch.76ch.81ch.82ch.96ch.98ch.103ch.108
関係の年表19 条 ▸

史 ch.3

史 ch.35

史 ch.52

史 ch.54

史 ch.64

演 ch.29

演 ch.37

演 ch.43

演 ch.44

演 ch.53

演 ch.66

演 ch.73

演 ch.76

演 ch.82

  • advises_in

    以孙权使节身份赴白帝乞和,劝先主舍小义就大义、伐魏不伐吴

演 ch.108

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 軍事が終わり、この身を振り返って最も忘れがたいのは、一城一地の得失ではない。いざ戦場に臨んだとき、心を先に乱してはならないということだ。昔、嘉禾五年(かほごねん)、私は伯言(はくげん)とともに襄陽(じょうよう)を攻めた。韓扁(かんへん)が敵
  • 私は呉から命を受け、二国の間に身を置いた。最も難しいのは言葉を尽くすことではなく、心に守るものがありながら、情勢に迫られることだった。かつて孫策(そん さく)が没し、孫権(そんけん)の哭がまだやまぬうちに、張昭(ちょうしょう)は彼に出て軍を
  • 若き日を思い返せば、家は琅邪(ろうや)にあり、世は日ごとに乱れ、故郷も安らかではなかった。私は弟たちと同じ家に生まれ、年長・年少の順序こそあれ、それぞれの見方や考えが必ずしも同じだったわけではない。後世の人々は、私が博学多才で、母に仕えるこ
生涯の大事7 ▸