言語
程

程畿(ていき)

登場回
2
台詞の記録
3
人間関係
2
内面の独白
1

史載(Historical Record)

程畿(ていき)、字は季然、巴西郡閬中(ろうちゅう)県の人である。劉璋(りゅう しょう)が益州(えきしゅう)を統治していた時期、彼はかつて汉昌県令を務めた。当時、汉昌県内には剛猛な賨人の部落が住んでおり、彼らはかつて高祖が関中を平定するのを助けたことがあった。巴西太守の龐羲(ほうぎ)は天下が動乱しているのに鑑み、郡内に一支の武装力量が必要であると考え、そこで自らの部曲を募って組織した。ある者が劉璋に讒言を進め、龐羲が謀反を意図していると称し、劉璋に龐羲への疑いを抱かせた。龐羲はこのことを知ると、内心甚だ恐れ、自保を計り、そこで程畿の子の程郁を遣わして意図を伝え、程畿に自衛のための兵力を提供するよう請うた。程畿はこれに対し明確に答えて言った。「郡中で部曲を募ったのは、本意は謀反ではない。たとえ間で挑発する者がいても、肝要なのは忠誠を保つことである。もし恐れだけのために異志を抱くなら、これは私程畿の認め得るところではない」と。彼は同時に子の程郁に戒めて言った。「私程畿は州牧の恩恵を受けており、当に州牧のために忠を尽くすべきである。お前は郡吏として、太守のために力を尽くすべきであり、決して私のために異志を生じてはならぬ」と。龐羲は人を遣わして程畿に告げた。「お前の子は郡中にいる。もし太守の命に従わぬなら、お前の家族は禍を受けるぞ」と。程畿は断固として答えた。「昔、楽羊は将となり、その子の羹を飲んだが、これは父子に情がないのではなく、大義のしからしむるところである。今、たとえ私に再びわが子の羹を飲ませようとも、私は必ずこれを飲む」と。龐羲は程畿が己のために用いられぬことを深く知り、そこで劉璋に誠を尽くして謝罪し、もって災いを避けた。劉璋はこのことを聞き、程畿を江陽太守に昇進させた c:2951。

劉備(りゅうび)が益州牧を領した後、程畿を従事祭酒に徴召した。後に、程畿は劉備に従って東呉を征伐した。夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において、蜀漢(しょくかん)の大軍は惨敗に遭い、程畿は軍に従って江に沿って上流へ撤退した。ある者が彼に建議した。「追兵がすでに至っております。船を解いて軽装で逃げれば、難を免れることができましょう」と。程畿は毅然として答えた。「私程畿は軍中において、いまだかつて敵のために逃げたことはない。まして天子に従って出征し、危難に臨んでいる時においてをや」と。追兵はほどなく程畿の船に追いつき、程畿は自ら長戟を手に敵軍と搏戦し、敵船が撃沈されることさえあった。しかし、呉軍は数が多く、蜂のように殺到して、ともに程畿を囲み攻め、ついに程畿は力戦して死んだ c:2951。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、程畿の形象は主に夷陵の戦いの後期に集中し、彼は忠勇不屈、死すとも降らぬ蜀漢の官員として造形されている。劉備の大敗の際、程畿は祭酒として、なお劉備のそばに付き従っていた。小説には、劉備が御営の中で破呉の計を思案していた際、忽ち帳前の中軍の旗幟が風もないのに倒れるのを見つけ、程畿にこれが何の兆しかを問う一段がある。程畿は呉兵が営を劫かしに来るかもしれぬと推測し、劉備は呉兵はすでに殺し尽くされ、敢えて再び来ることはないと考えた。程畿はさらに、これは陸遜(りくそん)の試探かもしれぬと提起した c:12988。この一段の対話は、史料には記載がないものの、程畿が小説中で謀士として戦局に対し判断を下しうる形象を示している。

劉備の大軍が潰敗した際、程畿の結末は史実とは異なるが、その剛烈な節義の性格はさらに描き込まれている。小説中、程畿は単騎で江辺に駆けつけ、水軍を召集して敵兵を防ごうとしたが、水軍は四散して逃げ去った。呉兵が続いて追って来ると、程畿の部将は彼に速やかに撤離するよう勧めた。程畿は怒鳴って言った。「吾は主上に従って出軍してより、いまだかつて敵に赴いて逃げたことはない」と。言葉が終わらぬうちに、呉兵がすでに至り、四面から敵を受け、逃げ道のない程畿はついに剣を抜いて自刎して死んだ c:6039。この情節は史実における程畿が戟を執って力戦して死んだという描写とは食い違いがあるが、同様に彼が敵のために逃げぬ忠義の精神を強調し、自刎というより悲壮な方法で、その忠烈の形象を強化している。

関鍵關係

* 劉璋: 程畿は劉璋の統治期に汉昌県令を務め、後にその忠誠と剛正不阿によって、劉璋に江陽太守へ抜擢された c:2951。
* 龐羲: 龐羲は程畿の政敵であり、またその剛烈な性格の試金石でもあった。龐羲はかつて程畿を抱き込もうとしたが、程畿は断固として拒絶し、大義を重んじて龐羲のために用いられなかった c:2951。
* 劉備: 程畿は劉備麾下の重要な官員であり、従事祭酒を務め、劉備に従って東呉を征伐した。最終的に、彼は劉備と蜀漢のために、夷陵の戦いにおいて力戦して死んだ c:2951。
* 蜀漢: 程畿は蜀漢の忠臣であり、その生命を最終的に蜀漢政権に捧げ、夷陵の戦いの潰敗において、国家と存亡を共にすることを選んだ c:2951。

標誌性場景

* 龐羲の募りを拒む: 龐羲は劉璋の猜忌を恐れて自保しようとし、程畿の子の程郁を遣わして程畿に援けを求め、程畿が兵力を提供することを望んだ。程畿は厳しい言葉で拒絶し、子に私情のために大義を捨ててはならぬと戒め、「今、たとえ再びわが子の羹を出されようとも、吾は必ずこれを飲む」とまで述べ、私情に動かされぬ剛烈な品格を表明した c:2951。この場面は程畿の忠誠と原則性を十分に示している。
* 夷陵の戦いにて力戦して死す: 夷陵の戦いで蜀漢の大軍が潰敗した際、程畿は追兵に直面して「船を解いて軽く去る」という建議を拒絶し、「吾は軍にありて、いまだかつて敵のために逃げず、まして天子に従いて危を見るにおいてをや」と断言した。彼は自ら戟を執って敵軍と搏戦し、力尽きて死ぬまで戦った c:2951。この場面は程畿の剛烈な節義の性格の集中的な体現であり、その人生において最も悲壮な色彩を帯びた一幕である。
* 夷陵の戦いにて自刎し国に殉ず(演義独自): 『三国演義』において、程畿は夷陵の戦いの潰敗の際、呉兵の追撃に直面し、水軍が四散すると、彼に逃げるよう勧める部将の言を怒鳴りつけ、最終的に剣を抜いて自刎し、身をもって国に殉じた c:6039。史実における力戦して死んだのとは異なるが、同様に彼の死すとも屈せぬ忠烈の形象を造形し、小説中で悲壮な雰囲気を描き出す重要な一筆となっている。

人間関係

2 件の関係

名言

全 3 件の台詞 · 厳選 2 件

「倘是陸遜試敵,奈何?」

演 第84回

この一句は程畿(ていき)の敵情に対する鋭い洞察力を体現し、陸遜(りくそん)の計略を予示している。

「吾自從主上出軍,未嘗赴敵而逃!」

演 第84回

この一句は程畿(ていき)の忠勇にして屈しない武将の気節を示し、その人物の核心的な特質となっている。

登場回2 回 ▸
  • 史ch.45
  • 演ch.84
関係の年表2 条 ▸

史 ch.45

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私の名は畿(き)。字は史書に記されておらず、巴西(はせい)の閬中(ろうちゅう)の人である。かつて漢昌(かんしょう)の県令を務めた。県内の賨人(そうじん)は剛猛で、郡守の龐羲(ほうぎ)は彼らを招き集めて部曲とした。もとは乱に備えて自衛するため