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親歴 · 11章 · 6つの選択

劉備の生涯

字玄德161 – 223

「人は、あなたは戦うたびに敗れ、逃げ回るばかりだと言う。あの幾度かの分かれ道で、あなたならどう選ぶ?」

どんな人物か

劉備(りゅうび)は蜀漢(しょくかん)の主となり、演義では仁義と桃園の誓い(とうえんのちかい)が強調される。

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一章ごとに一場面、あなたが彼になります。下線の文は原典からの引用です(緑:三国志、金:演義)。押すと出典が開きます。下線のない文は、場面をつなぐ地の文や想像です。分かれ道ではまずあなたが選び、それから彼がどうしたかを見ます。

黄 河渭 水淮 水長 江漢 水并 州司 隷冀 州兗 州徐 州豫 州荊 州益 州揚 州涼 州交 州許都鄴安喜涿縣白帝城赤壁下邳新野公安夏口徐州成都定軍山涪城葭萌関京口小沛長坂当陽漢中沔陽平原猇亭広陵隆中襄陽
足跡中山 · 安喜 → 永安 · 白帝城
後漢末 · 略図
印綬 · 想像による場面図 · 史料ではない
第1章霊帝末年 · 185中山 · 安喜

印綬

あなたは涿郡涿県の人で、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔。少年のころ父を亡くし、母とともに履を売り、むしろを織って生計を立てる。屋敷の東南の隅の垣根に、高さ五丈余りの桑の木が生え、遠くから見ると、枝葉は車の蓋のように広がっている。幼いころ、族中の子どもたちと木の下で遊び、「いつか必ず、あの羽葆の車に乗る」と言う。叔父はたしなめる。「みだりなことを言うな。一族を滅ぼすぞ!」

身長は七尺五寸、手を垂らせば膝を越え、振り返れば自分の耳が見える。口数は少なく、人にへりくだり、喜怒を顔に出さない。中山の大商人、張世平と蘇双が馬を売りに涿郡へ来て、あなたを見て並ならぬ人物と感じ、多くの金品を与える。これを機に、人馬を集める。関羽は逃亡して涿郡に来る。あなたが郷里で人々を集めると、関羽と張飛はあなたに代わって外からの襲撃を防ぐ。『三国志演義』では、三人は桃園で香を焚いて再拝し、誓う。「同年同月同日に生まれることは求めず、ただ同年同月同日に死ぬことを願う」

黄巾の乱が起こると、手勢を率いて校尉の鄒靖に従い、賊の討伐で功を立て、安喜県尉となる。

県に着いて、まだ四か月も経たない。州郡に詔書が届き、軍功によって長吏となった者は皆、選別して退けることになり、自分もその対象ではないかと疑う。

督郵が県に来る。退けられるのはほかならぬあなただと、とうに分かっている。

『三国志演義』では、あなたは城外へ出て迎える。督郵は馬上から鞭でわずかに指し示すだけで、それを返礼とする。宿駅に着くと、督郵は南向きに高座し、あなたは階下に控える。督郵が問う。「劉県尉は何の出身か」あなたは答える。「備は中山靖王の後裔。涿郡から黄巾賊を討ち、大小三十余戦、いささか功を立てたので、今の職に任じられました」督郵は大喝する。「お前は皇族だと偽り、功績をでっち上げた!」

県の役人が言う。「督郵が威張るのは、賄賂を求めているだけです」あなたは答える。「民には少しも害を与えていない。どうして渡す財物があろうか」

督郵は伝舎に泊まる。あなたが面会を求めると、病気だと言って会おうとしない。

伝舎の門は閉ざされ、中には灯りがともっている。門の外に立ち、桑の木の下で口にした言葉を思い出す。叔父の「一族を滅ぼすぞ」も。三十余りの戦いで手に入れたのは、一介の県尉の職。今、その職さえ、閉ざされた門の外で失おうとしている。

督郵を憎む。

県に戻り、役人と兵卒を連れて再び伝舎へ向かい、門を押し破って入る。「府君の密命で、督郵を捕らえに来た」

寝台の上で督郵を縛り、県境の外へ連れ出す。自分の印綬を解いて首に結びつけ、木に縛りつけて、百回余りも鞭打ち、殺そうとする。督郵が哀願したので、ようやく放す。

本伝の記述は簡潔だ。督郵が公務で県に来る。先主が面会を求めるが、取り次がれない。そこで、督郵のもとへ押し入り、縛り上げて杖で二百回打ち、印綬を解いて首に結び、馬をつなぐ杭につないで、官を捨てて逃亡する。

印綬を他人の首に掛け、馬に乗って去る。この県尉を務めたのは、ほんのわずかな間だ。

両書の違い · 『三国志』では、督郵を打つのはあなた自身だ。督郵のもとへ押し入り、縛り上げて杖で二百回打つ。伝舎への押し入り、「府君の密命」、木に縛りつけるくだりは、裴松之の注が引く『典略』にある。『三国志演義』は、この殴打を張飛の役にしている。あなたは急いで張飛に手を止めさせ、印綬を取り、督郵の首に掛け、こう言う。「お前が民を害したことを思えば、本来は殺すべきだ。だが今は命を助けてやる。印綬はお返しする。これにて去る!」督郵の尋問と「皇族だと偽った」という非難も、『三国志演義』にだけある。桃園の誓いも『三国志演義』にしかない。『三国志』が記すのは、あなたが関羽、張飛と寝るときは床を同じくし、恩愛は兄弟のようだったということだ。
天与うるを取らざれば · 想像による場面図 · 史料ではない
第2章興平元年 · 194徐州

天与うるを取らざれば

霊帝末年、あなたは都にいた。その後、曹操とともに沛国へ戻って兵を募る。霊帝が崩御し、天下が乱れると、あなたも董卓討伐に立ち上がる。賊に敗れた後、あなたは公孫瓚を頼る。二人はかつてともに盧植の門下にいた。公孫瓚は年長で、あなたは兄として仕える。公孫瓚はあなたを別部司馬に推挙し、田楷に従って袁紹を防がせる。その後、あなたは平原相となる。その数年は飢饉が続く。外では賊の侵入を防ぎ、内では惜しみなく財を施す。身分の低い士人とも、席を同じくし、同じ器で食べる。

曹操の徐州征討に際し、徐州牧の陶謙が田楷に救援を求める。あなたは田楷に従って救援に向かう。陶謙は丹陽兵四千をあなたに与える。あなたは田楷のもとを離れ、陶謙に帰属する。陶謙はあなたを豫州刺史に推挙し、小沛に駐屯させる。

陶謙は病が重くなると、別駕の糜竺に言う。「劉備でなければ、この州を安んじられない」

『三国志演義』では、陶謙はあなたを寝室に招く。「明公には、漢家の城池を重んじ、徐州の牌印をお受けくださるよう、伏して願います。老夫は死しても、目を閉じられましょう!」あなたは問う。「君には二人の子がいる。なぜ跡を継がせないのか」陶謙は二人の息子には、州を任せる才がないと言う。あなたは結局辞退する。陶謙は手で胸を指して息を引き取る。

陶謙が亡くなると、糜竺は徐州の人々を率いてあなたを迎えに来る。あなたはあえて引き受けようとしない。

下邳の陳登が言う。「いま漢室は衰え、天下は覆ろうとしております。功を立て、事を成すのは今日です。あの州は豊かで、戸数は百万。使君に州の政務をお任せしたいのです」

あなたは言う。「袁公路は近く寿春にいる。あの方は四世にわたって五公を輩出し、天下の帰するところだ。君は州をあの方に譲るとよい」

陳登は言う。「公路は驕り高ぶり、乱を治める主ではありません。いま使君のために歩兵と騎兵十万を集め、上は主君を正し民を救い、五覇の業を成すことも、下は領地を割いて境を守り、功績を竹帛に記すこともできます。もし使君が承知なさらないなら、私もまた使君の言葉には従いません」

北海相の孔融もそこにいる。「袁公路は国を憂えて家を忘れるような者だろうか。墓の中の枯骨に、どうして心を留める必要がある。今日のことは、民が有能な者を推しているのです。天が与えるものを取らなければ、悔いても取り返しがつきません」

『三国志演義』では、翌日、徐州の民が府の前に押し寄せ、泣いて拝礼する。「劉使君がこの郡を治めてくださらなければ、私たちは誰一人、安心して暮らせません!」

州の印は机に置かれ、一枚の布がかけられている。府の外の泣き声は、ひときわ高くなったり、低くなったりする。あなたは三十三歳。涿県を出てから十年が経つ。務めた官職は、どれも他人の推挙によるものだ。まだ一州を自分のものにしたことはない。

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

州の印は机の上にある。受け取るか?

あなたは徐州を治める。

陳登らは使者を袁紹のもとへ遣わし、州の長が亡くなり、民に主がいないため、皆で旧平原相の劉備を宗主に推戴したと伝える。袁紹は返答する。「劉玄徳は度量が広く、信義を備えている。いま徐州の人々が喜んで戴いているのは、まことに望みどおりだ」

『三国志演義』では、鄄城にいた曹操はそれを聞いて激怒する。「わが恨みはいまだ晴れていないのに、汝は矢一本も費やさず、座したまま徐州を得た!」

州の印を箱にしまう。箱は小さい。それでも手にすると、重い。

両書の違い · 「三譲徐州」は『三国志演義』の描写:『三国志演義』では、陶謙は生前すでに二度、劉玄徳に位を譲ろうとし、臨終に再び譲る。あなたはなお辞退し、民が泣いて拝礼し、関羽と張飛が勧めてから、ようやく徐州の政務を代行することを承諾する。『三国志』では臨終の一度だけだ。陶謙があの言葉を述べ、あなたはあえて引き受けず、陳登と孔融に勧められると、受け入れる。袁術に譲るというあなたの言葉と、陳登・孔融の説得は、どちらも『先主伝』本文にある。袁紹の返答は、裴松之の注が引く『献帝春秋』に見える。
布の弟 · 想像による場面図 · 史料ではない
第3章建安元年 · 196小沛

布の弟

呂布は曹操に敗れ、東へ来てあなたを頼る。あなたに会うと、彼は深く敬意を示す。あなたを幕舎に招き、妻の寝台に座らせ、妻にあなたへ礼をさせ、酒を酌み交わし、あなたを弟と呼ぶ。言葉に定まりがないのを見て、口では応じながら、心中では不快に思う。

袁術が攻めてくる。盱眙、淮陰でこれを防ぐ。袁術と一か月対峙するあいだに、呂布が隙を突いて下邳を襲う。下邳の守将、曹豹が寝返り、城門を開いて迎え入れる。彼はあなたの妻子をさらう。

広陵にいる兵は飢え、疲れ果て、大小の役人や兵士が互いを食らう。やむなく役人を遣わし、呂布に降伏を願い出る。彼はあなたの妻子を返す。そして小沛に駐屯させる。

袁術は紀霊らに歩兵と騎兵三万を率いさせ、あなたを攻めさせる。『三国志演義』では、県内の兵は五千余り。城外の紀霊の陣は、昼は旌旗を連ねて山川を覆い、夜は火と太鼓で天地を揺るがす。

呂布に救援を求める。書状にはこう記す。「今、袁術が私怨を晴らそうと、紀霊に兵を率いさせて県まで来させました。滅亡は目前です。将軍でなければ救えません。」

書状を送り、城壁の上で待つ。彼は一度あなたを襲い、あなたは一度彼に降伏を願い出た。彼の陣の者たちがどう勧めるか、察しはつく。

彼が来る。歩兵千人、騎兵二百人を率い、沛城の西南一里に陣を敷く。紀霊は到着を聞くと兵を引き、もはや攻めようとしない。

『三国志演義』では、彼は使者を遣わし、あなたと紀霊を宴席に招く。関羽と張飛が言う。「兄上、行ってはなりません。呂布には必ず二心があります。」あなたは答える。「彼を粗略に扱ったことはない。きっと害はなさぬ。」

彼の陣に入り、席を勧められる。紀霊が着いたとの報告を受け、ひどく驚き、身を隠そうとする。彼は中央に座り、紀霊を左、あなたを右に座らせる。

彼は言う。「玄徳は布の弟だ。弟が諸君に苦しめられているゆえ、救いに来た。布は争いをけしかけるのは好まぬ。争いを収めるのが好きなだけだ。」

『三国志演義』では、紀霊は不満を募らせ、張飛は戦いを求める。彼は左右に命じ、画戟を持ってこさせ、陣門の外に遠く立てさせる。陣門は中軍から百五十歩離れている。『三国志』で彼が言うのはこうだ。「諸君、布が戟の小枝を射るのを見よ。一矢で当たれば、諸君は解兵して去るべし。当たらなければ、ここに留まり決着をつけよ。」

その戟を見つめる。遠く、細い線にしか見えない。心のうちで祈る。「ただ、あの男が当ててくれればいい!」

弓弦が鳴る。矢は画戟の小枝に命中する。諸将はみな驚き、「将軍の威は天のごとし!」と叫ぶ。

彼はからからと大笑いし、弓を地に投げ、紀霊とあなたの手を握る。紀霊が先に去ると、あなたに言う。「私がいなければ、公は危うかった。」あなたは礼を述べる。

彼の手は熱く、握る力は強い。あなたを弟と呼ぶ。この日を心に刻む。彼もまた、刻んでいる。

両書の違い · 『三国志』が記すのは、呂布が鈴下を遣わして紀霊らを宴席に招いたことだけで、あなたがその場にいたとは記さない。あなたが招かれ、紀霊と同席し、心中で祈る場面は、いずれも『三国志演義』にある。「百五十歩」も同じだ。呂布があなたを妻の寝台に座らせ、弟と呼んだことは、裴松之の注が引く『英雄記』にある。そこでは、あなたは表向きは受け入れながら、心中では喜ばなかったと記す。広陵での飢えと困窮、呂布に降伏を願い出たことも、『英雄記』にある。

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匕箸を落とす · 想像による場面図 · 史料ではない
第4章建安四年 · 199許都

匕箸を落とす

呂布はあなたがまた兵を集めたのを嫌い、自ら兵を率いて攻めてくる。あなたは敗走し、曹操のもとに身を寄せる。曹操はあなたを厚遇し、豫州牧に任じる。兵糧を与え、沛に戻って散兵を集めさせる。建安三年九月、呂布の軍が沛城を破り、あなたは単身で逃げる。妻子はまた捕らえられる。曹操が自ら呂布を討つと、あなたも東征に従う。下邳で呂布を包囲し、生け捕りにする。

白門楼で、縛られた呂布があなたに向き直る。「玄徳、卿は座客、私は虜囚だ。一言、口添えしてくれぬか」曹操は少しためらう。あなたは言う。「明公は、呂布が丁建陽と董太師にどう仕えたか、ご覧にならなかったのですか!」呂布はあなたを指さす。「この小僧こそ、最も信用ならぬ者だ」『三国志演義』では、楼から引き立てられるとき、振り返って罵る。「大耳め!轅門射戟のときのことを忘れたか!」

妻子を取り戻し、曹操に従って許都へ戻る。曹操はあなたを左将軍に推挙し、ますます厚遇する。外出には同じ車に乗り、座るときは同じ席に着く。

国舅の董承は、天子が衣帯に隠した密詔を受け取り、曹操を誅殺せよと命じられたと話す。

『三国志演義』では、彼はある深夜、詔書を携えてやって来る。あなたは彼を小閣に招いて座らせ、関羽と張飛がそばに控える。彼は言う。「先日、狩り場で雲長は曹操を殺そうとしたのに、将軍は目配せし、首を振って退かせた。なぜですか」

曹操が彼を遣わし、あなたを探っているのではと恐れ、偽って言う。「曹丞相は国を治めています。なぜ天下が太平にならぬと心配なさるのです?」

彼は顔色を変えて立ち上がる。「公は漢朝の皇叔であられる。だからこそ肝胆を開いてお話ししたのに、なぜ偽るのですか」

彼は衣帯の詔を取り出して見せる。あなたは悲憤に堪えない。彼はさらに義状を広げる。そこにはすでに六人の名がある。

灯心がぱちりと鳴る。義状のそばに筆が置かれている。白門楼で聞いた「この小僧こそ、最も信用ならぬ者だ」という言葉がよみがえる。

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

義状にはすでに六人の名がある。筆は手元にある。署名するか、しないか。

「左将軍劉備」と書き、花押を記して董承に渡す。言う。「くれぐれも慎重に進め、軽々しく漏らしてはなりません」

住まいの裏庭で菜を育て、自ら水をやる。関羽と張飛が、なぜ小人のすることを学ぶのかと尋ねる。言う。「これは弟たちには分からぬことだ」

ある日、許褚と張遼が数十人を連れて園に入ってくる。「丞相の命です。使君、すぐお越しください」あなたはやむなく彼らに従い、丞相府へ入る。曹操は笑う。「家で大仕事をしておられるな!」恐ろしさに、あなたの顔は土気色になる。彼はあなたの手を取り、裏庭まで歩いていく。「玄徳、菜園仕事も楽ではないな」

盆には青梅、酒樽には煮酒が置かれている。酒が半ば進むころ、空には暗雲が広がり、にわか雨が迫る。曹操は当世の英雄を挙げるよう求める。あなたは袁術、袁紹、劉表、孫策、劉璋を挙げるが、曹操は一人も認めない。あなたは言う。「この者たちを除けば、備には分かりません」

曹操はあなたを見る。「今、天下の英雄は、使君と操だけだ。本初の類など、数えるに足りぬ」

食べている最中、匕と箸を地に落とす。ちょうどそのとき、雷鳴が轟く。言う。「聖人は『迅雷風烈には必ず変ず』とおっしゃった。まことに理由のあることです。ひとたびの雷の威が、これほどとは!」

『三国志演義』では、あなたは落ち着いて身をかがめ、箸を拾う。曹操は笑う。「丈夫も雷を恐れるのか」それ以来、曹操はあなたを疑わなくなる。

袁術は徐州を経て北上し、袁紹を頼ろうとする。曹操はあなたに朱霊、路招を率いて行く手を阻むよう命じる。『三国志演義』では、許都を出ると、関羽と張飛に言う。「私は籠の鳥、網の魚だ。このたびの出陣は、魚が大海に入り、鳥が青空へ舞い上がるようなもの。籠や網の束縛を受けずにすむ」

下邳に着くと、徐州刺史の車冑を殺す。その後、事が露見し、董承らはことごとく誅殺される。その時、あなたはすでに許都にいない。

両書の違い · 董承が来た時、『三国志』が記すのは先主はまだ動かなかったということだけだ。「今、天下の英雄は、ただ使君と操のみ」との言葉と、箸を落としたことは、『三国志』の『先主伝』本文にある。雷鳴と、あなたの「聖人云く」という言葉は、裴松之の注が引く『華陽国志』に見える。『三国志』の順序では、曹操が先にその言葉を口にし、あなたはその後で董承および長水校尉の種輯、将軍の呉子蘭、王子服らと共謀した。『三国志演義』は署名を先に置き、さらに裏庭で菜を育てる場面、青梅を肴に煮酒を酌み交わす場面、そして「丈夫も雷を恐れるのか?」を加えている。裴松之の注が引く『呉歴』によれば、あなたは門を閉ざし、人に蕪菁を植えさせた。曹操が疑いを抱いたのを見て、夜のうちに出奔したという。裴松之はこれに反論する。あなたは命を受けて袁術を迎え撃ちに行ったのであり、菜を植えて逃げたのではない。

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髀肉 · 想像による場面図 · 史料ではない
第5章建安十一年 · 206襄陽

髀肉

建安五年、曹操が東へ遠征し、あなたは大敗する。曹操は袁紹と対峙していて東へは来ないと思っていた。斥候が曹操本人の到着を急報すると、ひどく驚き、なお信じられず、数十騎を連れて様子を見に出る。その旗印を見ると、部下を捨てて逃げる。妻子もさらわれ、関羽も捕らえられる。

青州へ逃れる。袁紹は鄴を出て、二百里先まで迎えに来る。関羽があなたのもとへ戻る。袁紹のもとを去る機会をひそかにうかがい、南で劉表と結ぶよう勧める。袁紹はあなたに直属の兵を率いさせ、再び汝南へ向かわせる。曹操は袁紹を破り、自ら南下してあなたを攻める。

糜竺、孫乾を劉表のもとへ遣わす。劉表は自ら郊外まで迎えに来て、上賓の礼をもって遇し、新野に駐屯させる。荊州の豪傑たちは日ごとに多くあなたのもとへ集まり、劉表は疑いを抱き、ひそかに警戒する。

『三国志演義』では、劉表が宴を開いてあなたを招いたことがある。酒が進むと、彼は突然涙を流し、二人の息子について語る。長男の琦は柔弱で、次男の琮は聡明だという。長子を廃して年少の子を立てたいが、礼法に背くのを恐れている。あなたは言う。「昔から、長子を廃して年少の子を立てるのは、乱を招く道です」屏風の向こうで蔡夫人が聞き、心中あなたを恨む。

席を立って厠へ向かうと、自分の腿に髀肉がまたついているのに気づき、思わず涙を流す。

腿の肉は柔らかい。涿県を出て二十余年、鞍に削り取られていたものが、新野で過ごすこの数年、少しずつ戻ってきた。広間から、管弦の音が聞こえる。

席に戻ると、劉表は不思議に思い、どうしたのかと尋ねる。答える。「私はいつも馬上を離れず、髀肉はすっかり消えていました。今は馬に乗らず、腿に肉がついてきました。月日は駆けるように過ぎ、老いが近づくのに、功業を立てられない。それが悲しいのです」

『三国志演義』では、劉表があなたを慰める。聞けば、あなたは許昌で曹操と青梅を肴に煮酒を酌み交わし、共に英雄を論じたという。曹操は「天下の英雄は、ただ使君と操のみ」と言った。

酒の勢いに乗り、うっかり口を滑らせる。「私に根拠地さえあれば、天下の凡庸な者たちは、まったく恐れるに足りません」

劉表は聞いて黙り込む。口を滑らせたと悟り、酔ったふりをして席を立つ。

両書の違い · 髀肉が再びついた話は、裴松之の注が引く『九州春秋』にある。長子を廃して年少の子を立てる相談、屏風の陰から蔡夫人が盗み聞きする場面、「私に根拠地さえあれば」という失言は、いずれも『三国志演義』のものだ。新野に駐屯していた時の博望での戦いは、『三国志』ではあなたが伏兵を設け、自ら陣営に火を放って退却を装い、夏侯惇を破る。『三国志演義』では、博望坡の焼き討ちは、諸葛亮が世に出てからの初陣として描かれる。
三顧 · 想像による場面図 · 史料ではない
第6章建安十二年 · 207隆中

三顧

『世語』には、もう一つの話がある。劉表があなたを宴に招き、蒯越と蔡瑁は機に乗じてあなたを捕らえようとする。あなたはそれに気づき、厠へ行くふりをして、そっと逃げ出す。的盧に乗って走り、襄陽城の西にある檀渓の水に落ち、抜け出せなくなる。切羽詰まって叫ぶ。「的盧よ、今日は危ういぞ。力を尽くせ!」的盧は三丈も跳び、渓を越える。

司馬徳操を訪ね、世の情勢を尋ねると、彼は言う。「儒生や俗士に、どうして時勢がわかろう。時勢を知るのは俊傑だ。この地には伏龍と鳳雛がいる」誰かと問うと、彼は答える。「諸葛孔明と龐士元だ」徐庶が訪ねてきて、あなたは彼を重んじる。彼は言う。「諸葛孔明は臥龍です。将軍は会いたいと思われますか」あなたは答える。「君が連れてきてくれ」彼は言う。「この人は訪ねて会うべきで、こちらから招き寄せることはできません。将軍が自ら足を運ばれるのがよいでしょう」

『三国志演義』では、二度目に訪ねたとき、ちょうど真冬で、寒さは厳しく、赤黒い雲が厚く垂れこめる。数里も行かぬうちに、北風が激しく吹き、瑞雪がしきりに舞う。張飛が言う。「天地も凍る寒さです。まだ兵を用いることもないのに、どうして遠くまで、益もない人に会いに行くのです。新野に戻って風雪を避けるほうがよいでしょう」あなたは言う。「孔明に、私の懇ろな思いを知らせたいのだ」

草庵には弟の諸葛均しかいない。凍えた筆に息を吹きかけ、便箋を広げて手紙を書く。「備は久しく高名を慕い、二度お目にかかろうと参りましたが、会えずに空しく帰りました。どれほど残念なことでしょう」帰り道は風雪がいっそう激しく、あなたは臥龍岡を振り返り、心晴れぬまま帰る。

新野に戻ると、またたく間に新春となる。あなたは占い師に蓍を数えて吉日を選ばせ、三日間斎戒し、身を清めて衣を改める。

関羽が諫める。「兄上は二度も自ら訪ねて拝礼されました。礼を尽くしすぎです。諸葛亮は名ばかりで実学がないので、避けて会おうとしないのでしょう。兄上は、どうしてこの者にそこまで惑わされるのですか」

張飛が言う。「この村の男が、どうして大賢者に値しましょう。今度は兄上が行く必要はありません。来なければ、麻縄一本で縛って連れてきます」

今年、四十六歳。腿の髀肉はまだそのままだ。新野は小さな城で、兵も少ない。北では曹操がすでに河北を平定している。

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

二人の弟がこちらを見ている。三度目、行くか、行かないか?

三人で馬に乗り、隆中へ向かう。草庵まで半里のところで、あなたは馬を下りて歩く。

童子は、先生は草堂で眠っていて、まだ目覚めないと言う。あなたは言う。「そうであれば、知らせずにおきなさい」あなたは拱手して階下に立つ。先生は寝返りを打ち、起きるそぶりを見せるが、また壁のほうを向いて眠る。あなたはさらに一刻立ち続ける。

三度訪ねて、ようやく彼に会う。側近たちを退出させる。あなたは言う。「漢室は傾き、奸臣が帝命を盗み、主上は都を離れておられる。私は自らの徳も力も顧みず、天下に大義を広めようとしたが、知略は浅く、ついには敗れ、今日に至った。それでも志はいまだ尽きない。君は、これからどのような策を立てるべきだと思うか」

曹操はまことに争うことのできぬ相手、孫権は味方とすべきで、図ってはならないと言う。荊州はその主には守れない、益州は沃野千里、天府の地だと言う。最後にこう述べる。「もし荊州・益州を併せ持ち、その険阻な地勢を保ち、西では諸戎と和し、南では夷越を慰撫し、外では孫権と友好を結び、内では政治を整えます。天下に変事が起これば、一人の上将に荊州の軍を率いさせて宛・洛へ向かわせ、将軍自らは益州の軍勢を率いて秦川へ出るのです。民の中に、箪食壺漿して将軍を迎えぬ者がおりましょうか。まことにこのとおりになれば、覇業は成し遂げられ、漢室は再興できましょう。」

あなたは言う。「よし!」。『三国志演義』では、さらにこう尋ねる。「だが、荊州の劉表、益州の劉璋は、どちらも漢室の宗親だ。備がどうして奪うに忍びようか?」

それからあなたと彼の仲は、日に日に親密になる。関羽と張飛は不満に思う。二人にこう言う。「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。諸君、もう何も言わないでほしい。」

両書の違い · 三顧については、諸葛亮自身が『出師表』にこう記している。三たび臣を草廬の中に顧みる。だが、裴松之の注が引く『魏略』では、諸葛亮が先に樊城へ行き、あなたに会ったという。あなたは初め、一介の書生として彼に接し、その最中、まさに自分で毦を結んでいた。裴松之は『出師表』に基づいてこれに反論する。司馬徳操が伏龍・鳳雛と言ったという話は、裴松之の注が引く『襄陽記』に見える。風雪の中の二度目の訪問、書き置き、草堂での昼寝、関羽と張飛の諫言、「どうして奪うに忍びようか」という言葉は、すべて『三国志演義』のものだ。躍馬檀渓は、裴松之の注が引く『世語』に見えるが、孫盛はこれらは世間に流布する妄説にすぎず、事実ではないと言う。

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人を以て本と為す · 想像による場面図 · 史料ではない
第7章建安十三年 · 208当陽 · 長坂

人を以て本と為す

建安十二年、曹操は烏桓征伐に向かう。あなたは劉表に機を見て許を襲うよう勧めるが、用いられない。曹操が柳城から戻る。劉表はあなたに言う。「君の言葉を用いず、この大きな機会を逃してしまった」あなたは言う。「今、天下は分裂し、日ごとに戦乱が続いている。機会が訪れるのに、終わりがあるだろうか。後に機会に応じられるなら、これで悔やむには及ばない」

裴松之の注が引く『魏書』によれば、劉表は病が重くなり、荊州をあなたに託す。「我が子は器でなく、諸将も次々と世を去った。私が死んだ後、卿が荊州を治めてくれ」あなたは言う。「ご子息たちはそれぞれ賢明です。どうかご自身の病だけをお案じください」ある者が彼の言葉に従うよう勧める。あなたは言う。「この人は私を厚く遇してくれた。今、その言葉に従えば、人々は私を薄情者と思う。それは忍びない」

劉表が死ぬ。息子の劉琮が跡を継ぎ、曹操に使者を送って降伏を申し出る。あなたは樊城に駐屯しており、曹操が突然到着したことを知らない。彼が宛城に着いて、ようやく知らせを聞く。『漢魏春秋』によれば、劉琮の使者、宋忠が到着する。あなたは刀を抜き、忠に向ける。「今、お前の首を斬っても怒りは晴れない。大丈夫たる者が別れ際にお前たちを殺すのも、恥ずべきことだ」

人々を連れて南へ向かう。襄陽を通る際、諸葛亮は劉琮を攻めれば荊州を得られると勧める。あなたは言う。「忍びない」城の下で馬を止め、劉琮に呼びかける。彼は恐れ、身を起こせない。劉琮の側近と荊州の人々の多くが、あなたに従う。

『三国志演義』では、劉表の墓の前を通ると、諸将を率いて墓前で拝礼する。泣いて言う。「不肖の弟、備は徳も才もなく、兄から託された重責に背きました。罪は備一人にあり、民には何の関わりもありません。どうか兄上の霊よ、荊襄の民をお救いください」

当陽に着くころ、従う者はすでに十余万人、荷車は数千台に及び、一日に進めるのは十数里だけ。別に関羽を遣わし、数百艘の船で水路を進ませ、江陵での合流を約す。

車輪が泥にはまり、一台また一台と動かなくなる。荷を担ぐ者、老人を背負う者、子を抱く者が、馬前から見えない先まで続く。北からの知らせは、日に日に近づく。

ある者が言う。「急いで江陵を確保すべきです。今は大軍を擁しているとはいえ、甲冑を着けた者は少ない。曹公の兵が来れば、何をもって防ぎましょう」。『三国志演義』では、諸将も言う。「いったん民を捨て、先に進むのが上策です」

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

背後には十余万人。どうする?

曹操は輜重を捨て、少数の軍で襄陽へ急ぐ。あなたがすでに通り過ぎたと聞くと、自ら精鋭の騎兵五千を率いて急追する。一昼夜に三百余里を進み、当陽長坂であなたに追いつく。

『三国志演義』では、それは秋の終わりから冬の初め。涼風が骨身にしみ、暮れ方には泣き声が野に満ちる。四更、北西から地を揺るがす喊声が迫る。

妻子を置き去りにし、諸葛亮、張飛、趙雲ら数十騎と逃げる。曹操はあなたの民衆と輜重を大いに得る。

『三国志演義』では、夜明けにあなたは大声で泣く。「十数万の民は、皆、私を慕ったためにこの大難に遭った。諸将も老人も子供も、生きているのかさえ分からない。土や木でできた者でさえ、悲しまぬはずがあろうか」

趙雲は北へ去ったと聞き、手戟を投げつける。「子龍は私を見捨てて去る者ではない」しばらくして、趙雲が到着する。彼は懐にあなたの息子を抱き、子の母である甘夫人を守り、二人とも難を免れる。

『三国志演義』では、阿斗を受け取り、地面に投げ落とす。「お前のような小僧のために、危うく大将を一人失うところだった」。

斜めに漢津へ向かうと、折よく関羽の船に出会う。沔水を渡り、さらに劉表の長男、劉琦と合流して、共に夏口へ着く。

両書の違い · 「以人為本」は両書に見える。『三国志演義』では「大事を挙げる者は必ず人を本とする。今、人々が私に帰しているのに、どうして見捨てられようか」とある。劉表が許を襲わなかったことを悔やんだ話と、「事会の来たる」というあなたの言葉は、裴松之の注が引く『漢晋春秋』に見える。劉表が荊州をあなたに託した話は、裴松之の注が引く『魏書』に見える。裴松之は、劉表はもともと劉琮を愛していたのだから、臨終に荊州をあなたへ託すはずがないとし、これもまた事実に反する言葉であると述べる。『先主伝』は、趙雲をあなたとともに南へ向かった数十騎の中に数える。一方、『雲別伝』では趙雲はしばらくしてから到着したとされ、両者は食い違う。阿斗を投げるのは『三国志演義』の話だ。『三国志』で投げたのは手戟で、趙雲が北へ去ったと言う者に向けて投げた。習鑿歯はこの行程について、こう評する。先主は困難と危険に見舞われても、信義はいよいよ明らかであり、形勢が逼迫し事態が危うくなっても、言葉は道理を失わなかった。劉表の墓に詣でたことについては、裴松之の注が引く『典略』にも、劉表の墓前で別れを告げ、涙を流して去ったとの一文がある。墓前で泣いて語りかける場面は『三国志演義』のものである。

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三つの計 · 想像による場面図 · 史料ではない
第8章建安十七年 · 212葭萌

三つの計

孫権と力を合わせ、赤壁で曹操軍を大破し、その船を焼く。さらに南へ四郡を征し、武陵・長沙・桂陽・零陵の太守は皆降る。孫権は次第にあなたを恐れ、縁を結ぶため妹を嫁がせる。京口で彼に会う。帰ると、側近に言う。「孫車騎は上が長く下が短い。下に立つのは難しい。もう会うわけにはいかぬ」こうして昼夜兼行で帰る。

益州別駕の張松が劉璋に言う。「劉豫州は、使君の同族であり、曹操の深い仇敵です。兵を巧みに用います。彼に張魯を討たせれば、張魯は必ず破れましょう」劉璋は法正に四千人を率いさせ、あなたを迎えに行かせる。龐統――司馬徳操が鳳雛と呼んだ男は、今やあなたの幕下にいる――は蜀を取るよう勧める。あなたは言う。「今、私を水火の敵とする者は曹操だ。曹操は苛酷、私は寛容。曹操は暴虐、私は仁愛。曹操は狡猾、私は誠実。常に曹操と逆を行ってこそ、事は成る。今、わずかなことのために天下への信義を失うのは、私の望むところではない」。彼は言う。「逆に取って順に守り、義をもって報いる。事が定まった後、大国に封じれば、どうして信義に背くことになりましょう。今取らなければ、最後には他人の利となります」こうしてあなたは出立する。

涪城に着くと、劉璋は自ら出迎え、会って大いに歓ぶ。張松は法正に進言させ、龐統もまた会見の席で劉璋を襲うよう勧める。あなたは言う。「これは大事だ。軽々しく決めるべきではない」。『龐統伝』では、あなたの返答は別の言葉だ。「他国に入ったばかりで、恩信はまだ広まっていない。これはできぬ」

劉璋は兵を増やして張魯を討たせ、さらに白水軍の指揮をあなたに任せる。北の葭萌へ進むが、すぐには張魯を攻めず、厚く恩徳を施して人心を集める。

翌年、曹操が孫権を征討すると、孫権はあなたに救援を求める。東へ向かうため、劉璋に兵一万と物資を求める。劉璋が与えるのは兵四千のみ、ほかの物資も半分だけだ。

『魏書』は、これを機に人々を激昂させたと記す。「私は益州のために強敵を討ち、兵も将も苦労を重ね、安らかに居る暇もない。いま財物を蓄えながら、功ある者への賞を惜しみ、士大夫に命を懸けて戦えと望んでも、それがかなうだろうか!」

龐統が訪ねてくる。こう言う。「精兵をひそかに選び、昼夜を問わず道を急ぎ、まっすぐ成都を襲う。劉璋は武勇に乏しく、もとより備えもない。大軍が突然到着すれば、一挙に定まる。これが上策です」

「楊懐と高沛は、劉璋の名将です。それぞれ強兵を率い、関所を守っています。たびたび書簡を送り、劉璋に将軍を荊州へ帰すよう進言したと聞きます。将軍がまだ到着しないうちに使者を送り、荊州に急事があり、帰って救援したいと伝え、出立の支度をさせて、表向きは帰還する様子を装います。この二人は将軍の英名に心服し、将軍が去るのを喜んでいるので、きっと軽騎で会いに来るでしょう。その機に捕らえ、兵を取り上げて成都へ進む。これが中策です」

「退いて白帝に戻り、荊州と連絡を保ち、ゆっくり機を見て再び図る。これが下策です。ためらって去らなければ、大きな困難を招くことになり、長くは持ちません」

葭萌の夜は静かだ。関の外には山が連なる。かつて口にした四文字を思い起こす。「毎与操反」――常に曹操と逆を行く。

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

三つの道が目の前にある。どれを選ぶ?

中策を選ぶ。

張松はあなたと法正に手紙を書く。「今、大事はほとんど成ろうとしているのに、どうしてここを捨てて去るのか!」張松の兄、張粛は自分に累が及ぶのを恐れ、彼を告発する。劉璋は張松を捕らえて斬り、ここから溝が生じる。

激怒し、劉璋の白水軍督・楊懐を呼び、無礼を責めて斬る。『三国志演義』では、楊懐と高沛はそれぞれ懐に短刀を隠して見送りに来るが、刀を見つけられ、あなたはなお決断をためらう。龐統が刀斧手に一喝し、二人を斬らせる。

兵を返して成都へ向かい、通るところをすべて攻略する。涪城で大宴会を開き、酒を飲んで楽しむ。龐統に「今日の宴は、まことに楽しい」と言う彼は言う。「人の国を討って、それを喜びとするのは、仁者の兵ではありません」

酔って怒る。「武王は紂を討ったとき、前では歌い、後ろでは舞った。それでも仁者ではないのか。卿の言葉は不当だ。すぐに立ち去れ!」

彼は退いていく。すぐに後悔し、呼び戻す。彼は席に戻るが、詫びることもなく、いつもどおり飲み食いする。問う。「先ほどの議論では、どちらに非があったのか」彼は言う。「君臣ともに非がありました」大笑いし、宴は元どおりに続く。

両書の違い · 三計と涪城での酒宴は、『三国志』の『龐統伝』に出てくる。三計は『三国志演義』もほぼそのまま写しているが、涪城での酒宴は、『三国志演義』ではあなたが酔いから覚めた翌日に龐統へ詫びる展開に変わる。『龐統伝』では三計がより早く、あなたが劉璋に兵を求める前に置かれている。ここでは『三国志演義』の順序に従った。『三国志演義』では楊懐と高沛は刀を隠し持ち、暗殺を企てていたが、『三国志』が記すのは、あなたが無礼をとがめて斬ったことだけだ。「毎与操反」という言葉は、裴松之の注が引く『九州春秋』に由来する。裴松之は、その夜に非があったのはあなただけだと考える。この件では劉備に非があり、龐統に過失はない。「君臣ともに非があった」というのは、龐統があなたのために非難を分かち合った言葉だ。
孝直、矢を避ける · 想像による場面図 · 史料ではない
第9章建安二十四年 · 219漢中 · 沔陽

孝直、矢を避ける

龐統は兵を率いて雒城を攻め、流れ矢に当たって死ぬ。享年三十六。その死を惜しみ、名を口にするたび涙を流す。成都を数十日包囲し、劉璋の降伏を受ける。諸葛亮を股肱とし、法正を謀主とし、関羽・張飛・馬超を爪牙とする。

曹操は張魯を降し、漢中を定め、夏侯淵と張郃を残して守らせる。法正が言う。「これは天が与えてくださったもの。時機を逃してはなりません」。あなたは諸将を率いて漢中へ進軍する。

建安二十四年春、陽平から南へ沔水を渡り、山沿いに少し進んで、定軍山に陣を置く。夏侯淵は兵を率いてこの地を争いに来る。法正が言う。「今こそ撃てます」あなたは黄忠に高所から太鼓を鳴らして攻めさせ、淵の軍を大破し、夏侯淵を斬る。

曹操は長安から大軍を率いて南下する。遠くから曹操の出方を量る。「曹公が来ても、なすすべはない。漢川は必ず我がものとなる」道中で法正の策を聞いた曹操が言う。「玄徳にはこんなことを成し遂げる力はないと知っていた。必ず誰かに教えられたのだ」

曹操の大軍が陣前に迫る。曹操と争って形勢は不利。本来なら退くべきところで、あなたは激怒して退こうとせず、誰も諫められない。

矢が雨のように降る。矢柄が足元の土に突き刺さる。一本、また一本。立ったまま動かない。

法正が進み出て、あなたの前に立ちはだかる。

言う。「孝直、矢を避けよ」

彼は振り返らない。「明公みずから矢石に当たっておられる。まして、私ごときがどうして避けましょう」

その背中を見る。さらに矢の一斉射が降ってくる。

「孝直、おまえとともに退こう」と言い、退く。

その後、兵馬をまとめ、要害を拠り所として守り、最後まで曹操と交戦しない。

月が過ぎても攻め落とせず、逃亡者は日ごとに増える。夏、曹操は果たして兵を退き、漢中を得る。

秋、群臣はあなたを漢中王に推戴する。『三国志演義』では、まず承知しない。「そなたたちは私を王に尊びたいと言うが、天子の詔がなければ僭越である」

沔陽に壇を設け、兵を整列させ、群臣が陪席する。奏表を読み終え、王冠をあなたの頭に戴かせる。漢帝に奉った上表にはこう記す。「臣はかつて車騎将軍董承と曹操討伐を謀りましたが、計画が漏れ、董承は陥れられました。臣は流浪して拠り所を失い、忠義を成し遂げられませんでした」

二十年前、許都のあの夜。あの筆、あの義状。名簿に載った者はみな死に、残るのはこの冠を戴くあなた一人。

両書の違い · 「孝直、矢を避けよ」は『法正伝』の裴松之注に見え、『三国志演義』にはない。『三国志演義』の漢中の戦いは別の様相で、「鶏肋」があり、魏延が曹操に矢を当てる。『三国志演義』では諸葛亮が王位を勧め、あなたは再三辞退しきれず、やむなく承知する。『三国志』は群臣の上表を記すだけだ。曹操の「必ず誰かに教えられた」という言葉について、裴松之は恥と憤りから出た言葉と考える。
盛怒して許さず · 想像による場面図 · 史料ではない
第10章章武元年 · 221成都 · 猇亭

盛怒して許さず

関羽は曹仁を攻め、樊城で于禁を捕らえる。突如、孫権が関羽を襲って殺し、荊州を奪う。

曹丕が皇帝を称し、黄初と改元する。漢帝が殺害されたとの知らせが届き、喪を発して喪服を着る。諸葛亮は皇帝の尊号を称するよう勧め、耿純の言葉を引く。「天下の英雄は首を長くして、望みがかなうことを待ち望んでいます。もしこの議に従わなければ、士大夫はそれぞれ主を求めて去り、公に従う者はいなくなるでしょう」成都の武担山の南で皇帝に即位する。

涿県の垣根のそばに立つ桑の木の下で、いつか羽葆の車に乗る、と語った。今や天子だ。叔父が、そんなことを言えば一族を滅ぼすと戒めたのは、もう何十年も前のこと。

孫権が関羽を襲って殺したことを恨み、東征を望む。『三国志演義』では、朝廷で詔を下す。「朕は桃園で関羽、張飛と義を結び、生死を共にすると誓った。不幸にも、二弟の雲長は東呉の孫権に殺された。仇を討たなければ、盟約に背くことになる」

趙雲が諫める。「国賊は曹操であり、孫権ではありません。まず魏を滅ぼせば、呉はおのずから服します」「魏を措いて先に呉と戦うべきではありません。兵勢がぶつかれば、たちまち戦を終えることはできません」

黄権が諫める。「呉の者たちは勇猛で、しかも水軍は流れに乗るため、進むのは容易でも退くのは困難です。先鋒となって敵に当たりたいと存じます。陛下は後方をお守りください」

『三国志演義』では、学士の秦宓も諫める。「陛下は万乗の身を捨て、小さな義に従おうとしておられます。これは古人の選ばなかったことです」

六月、車騎将軍の張飛が側近に殺される。張飛の陣営の都督が上奏文を送ってくる。都督の上奏だと聞くと、「ああ、飛が死んだ」と言う

寝るときは床を同じくした二人が、二年のうちにともにいなくなる。

秋七月、諸軍を自ら率いて呉を討つ。大軍は成都を発ち、長江を下って東へ向かう。孫権が使者を遣わし、書簡を届けて和睦を求める。

分かれ道 · 想像による場面図 · 史料ではない

孫権の和睦の書簡が軍中まで追いかけてくる。どう返す?

呉班、馮習が巫から攻めて李異らを破り、大軍は秭帰に駐屯する。

翌年二月、秭帰から諸将を率いて進軍し、山沿いに峰を押さえ、夷道の猇亭に陣を敷く。『三国志演義』では、陣営は猇亭から川口まで連なり、七百里にわたり、前後四十の陣営が続く。

呉将の陸遜は守りを固め、出てこない。そのまま幾月も過ぎる。兵士一人ひとりに茅を一束ずつ持たせ、火攻めをかける。張南と馮習を斬り、四十余りの陣営を破る。あなたは馬鞍山に登り、兵を周りに並べて身を守る。呉軍が四方から包囲し、軍は土崩瓦解し、死者は万を超える。夜陰に乗じて逃れる。駅夫が自ら銅鑼と鎧を担いで燃やし、追っ手を断ったので、ようやく白帝城に入る。

ひどく恥じ、憤って言う。「私が陸遜ごときに辱められるとは、天命でなくて何であろう!」

黄権は江北にいて帰路を断たれ、部隊を率いて魏に降るほかない。有司が黄権の妻子を捕らえるよう求める。あなたは言う。「私が黄権に背いたのであって、黄権が私に背いたのではない」

その後、魚復県を永安と改める。

両書の違い · 趙雲の諫言は裴松之の注が引く『雲別伝』に、黄権の諫言は『黄権伝』に、火攻め、馬鞍山、「天命でなくて何であろう」は『陸遜伝』に見える。『三国志演義』では、七十五万の兵を起こし、張飛が喪服をまとう話、秦宓が投獄される話を加えている。兵数は『三国志』には記されない。七百里に及ぶ連営については、『文帝紀』で曹丕がこう語っている。「劉備は兵法を知らない。七百里にも連なる陣営で敵を防げるはずがあろうか!」『三国志演義』では、趙雲が江州から駆けつけて救援する。『雲別伝』に記されるのは、趙雲が永安まで兵を進めたが、そのときには呉軍はすでに退いていたということだけだ。「私が黄権に背いた」という言葉は両書にある。

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君、自ら取るべし · 想像による場面図 · 史料ではない
第11章章武三年 · 223永安 · 白帝城

君、自ら取るべし

孫権はあなたが白帝城にいると聞いて恐れ、使者を遣わして和を求める。あなたはこれを許す。冬十二月、漢嘉太守の黄元はあなたの病を聞き、兵を挙げて背く。

『三国志演義』では、関羽と張飛の二人の弟を思って泣き、病はますます重くなり、目もかすむ。ある夜、にわかに陰風が起こり、灯火が吹かれて揺れ、消えてはまたともる。灯影の下に二人が立っている。上座には雲長、下座には翼徳がいる。雲長が言う。「兄上と弟たちが再会する日は遠くありません」二人をつかんで泣き叫ぶと、はっと目が覚める。弟二人の姿はない。

章武三年春、永安で病が重くなり、成都から諸葛亮を召す。二月、諸葛亮が永安に着く。三月、黄元は敗れ、捕らえられて成都へ送られ、斬られる。

太子に遺詔を書く。「朕は初め、病はただ下痢だけであったが、その後ほかの病も加わり、もはや自ら立ち直れぬと思う。人は五十歳で夭折とは言わぬ。朕はすでに六十余歳、何をさらに恨もう。自らを傷むことはない。ただ、お前たち兄弟のことを案じている」さらに書く。「小さな悪だからといって行ってはならず、小さな善だからといって行わないのもいけない。賢と徳だけが人を心服させる。お前の父は徳が薄かった。手本にしてはならぬ」

諸葛亮に言う。「馬謖は言葉が実際を上回る。大任を任せてはならぬ。よく見極めてほしい」

劉表を思い出す。十五年前、襄陽で病床にあった彼は言った。「我が子は器でなく、諸将も次々と世を去った。私が死んだ後、卿が荊州を治めてくれ」あのとき、あなたは応じなかった。

丞相に後事を託し、尚書令の李厳を副とする。その手を握る。「君の才は曹丕の十倍だ。必ず国を安んじ、大事を成し遂げられる。後継ぎが補佐するに足るなら補佐せよ。才がないなら、君が自ら取るがよい」

彼は涙を流す。「臣はあえて股肱の力を尽くし、忠貞の節を捧げ、死をもってお応えいたします」

さらに太子に詔を下す。「お前は丞相と事にあたり、父に仕えるように仕えよ」臨終には魯王の劉永を呼ぶ。「私が死んだ後、お前たち兄弟は丞相を父として仕えよ。お前は丞相と共に事にあたるだけでよい」

『三国志演義』では、さらに趙雲にも言い残す。「朕と卿は患難の中から、今日まで共に歩んできた。まさかこの地で別れるとは思わなかった」

城下で江水が響く。目を閉じる。涿県の桑の木、安喜の督郵、徐州のあの箱、隆中の階下で立ち尽くしたあの一刻、長坂の十数万人。道中、城も、妻子も、兵馬も、幾度となく置き去りにしてきた。このたびは、最後に残ったものをすべて託す。

夏四月癸巳、永安宮で崩御する。享年六十三。五月、柩は永安から成都へ戻り、昭烈皇帝と諡される。

両書の違い · 「君、自ら取るべし」を、『三国志演義』は「君、自ら成都の主となるべし」とする。諸葛亮はこれを聞き、全身に汗を流し、手足も定まらなかった。灯下に関羽と張飛が現れる場面、趙雲への言葉は、いずれも『三国志演義』にある。馬謖への言葉は、『三国志』の『馬良伝』に付された馬謖の記事に記される。孫盛はこの後事の託し方を評し、劉備が諸葛亮に命じたことほど、乱れたものはないとする。一方、陳寿は、あなたが国を挙げて諸葛亮に後事を託し、心に二心なく、まことに君臣の至公であり、古今の盛んな規範であると述べる。劉表が荊州を託したという話は、裴松之の注が引く『魏書』に見える。裴松之は、これもまた事実に反する言葉であると考える。

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終章 · 史家と講釈師

劉備の最期

先主は弘毅にして寛厚、人を見抜き、士を待遇すること、まさに高祖の風格を備え、英雄の器量があった。

武侯祠の屋は長く隣り合い、<br>君臣一体となって共に祭られる。

劉備の生涯を生きた。