言語
呂蒙(りょもう)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

呂蒙(りょもう)

字 子明

登場回
23
台詞の記録
36
人間関係
20
内面の独白
3

史載(Historical Record)

呂蒙(りょもう)、字は子明、汝南富陂の人。少年の頃、姉婿の鄧当に従って南渡したが、鄧当は孫策(そん さく)の部将で、常に山越を討伐していた。呂蒙(りょもう)はわずか十五、六歳で、私かに鄧当に従って賊を撃ち、鄧当は発見して大いに驚き、呵斥して制止しようとしたが止められなかった。家に帰って呂蒙(りょもう)の母に告げ、母は彼を責罰しようとしたが、呂蒙(りょもう)は言った。「貧賤では立つことが難しい。もし幸いにも功を立てれば、富貴が期せられる。虎穴に入らずんば、いずくんぞ虎子を得んや」と。その母は憐愛して止めた。当時、ある官吏が呂蒙(りょもう)の年幼を理由に彼を軽んじ、言葉で侮辱すると、呂蒙(りょもう)は大いに怒り、刀を抜いて吏を殺して逃げ、後に校尉の袁雄を経て自首し、孫策(そん さく)は召見した後彼を器重し、左右に引いた c:918。

鄧当が没した後、張昭(ちょうしょう)は呂蒙(りょもう)にその職を継がせることを推薦し、別部司馬に拝された。孫権(そん けん)が事を統べた後、兵少なく将弱い小将の部隊を合併しようとすると、呂蒙(りょもう)は暗かに物資を賒購し、士兵のために絳衣行滕を作った。検閲の日、部隊は陳列が整斉で、士兵は訓練が行き届き、孫権(そん けん)は大いに悦び、その兵力を増した。呂蒙(りょもう)は随軍して丹楊を討伐し、たびたび戦功を立て、平北都尉に拝され、広徳長を領した。後に黄祖(こうそ)を征するに随い、呂蒙(りょもう)は前鋒を率い、自ら黄祖(こうそ)の都督である陳就(ちんしゅう)の首を斬り、将士は勝ちに乗じて城を攻め、黄祖(こうそ)はこれを聞いて城を棄てて逃げた。孫権(そん けん)は称賛した。「戦事が克てたのは、すべて陳就(ちんしゅう)が先に擒えられたからだ」と。呂蒙(りょもう)を横野中郎将に任じ、銭千万を賜った c:918。

魯粛(ろしゅく)が周瑜(しゅうゆ)に代わって陸口を鎮守した際、初めはなお呂蒙(りょもう)を軽んじた。ある人が魯粛(ろしゅく)に勧めた。「呂将軍の功名は日に顕れており、もはや旧い眼で見てはなりません」と。魯粛(ろしゅく)はそこで呂蒙(りょもう)を訪ねた。酒酣の際、呂蒙(りょもう)は魯粛(ろしゅく)に関羽(かんう)と隣となる潜在的脅威にいかに備えるか尋ねたが、魯粛(ろしゅく)は何気なく「臨時に宜しきを施す」と答えた。呂蒙(りょもう)はそこで五策を詳しく分析し、魯粛(ろしゅく)はこれを聞いて大いに折服し、呂蒙(りょもう)の背を撫でて言った。「吾、卿の才略の及ぶところがここまでとは知らなかった」と。そして呂蒙(りょもう)の母に拝見し、好友を結んだ c:919。孫権(そん けん)はかつて呂蒙(りょもう)と蔣欽(しょうきん)に好学を勧めたが、呂蒙(りょもう)は初め軍務多忙を理由に推辞し、孫権(そん けん)はそこで自分と曹操(そうそう)を例として、彼らに読書を励ました。呂蒙(りょもう)はこれより学び始め、勤奮にして倦まず、学識の広博さは老儒さえも超えがたいほどであった。魯粛(ろしゅく)は周瑜(しゅうゆ)に代わった後、呂蒙(りょもう)と談論し、常に自ら及ばないと思った。魯粛(ろしゅく)はかつて呂蒙(りょもう)の背を撫でて言った。「吾、大弟はただ武略があるのみと謂っていたが、今に至っては、学識が英博で、もはや呉下の阿蒙ではない」と。呂蒙(りょもう)はそこで応じた。「士、別れて三日なれば、すなわち更に刮目して相待つべし」と。そして魯粛(ろしゅく)のために密かに三策を陳べた c:919。

建安二十年、孫権(そん けん)は劉備(りゅうび)がすでに益州(えきしゅう)を得たため、使者を派遣して荊州(けいしゅう)の返還を要求した。劉備(りゅうび)は「涼州(りょうしゅう)を得たならば、荊州(けいしゅう)を与えよう」と称した。孫権(そん けん)は大いに怒り、呂蒙(りょもう)を派遣して長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を襲い奪った c:915。廖立(りょうりつ)、字は公淵、武陵(ぶりょう)臨沅の人で、先主が荊州(けいしゅう)牧を領した際、辟されて従事となり、後に長沙(ちょうさ)太守に擢された。建安二十年、孫権(そん けん)が呂蒙(りょもう)を遣わして南三郡を奄襲すると、廖立(りょうりつ)は身を脱して逃げ、先主に帰附した c:916。

魯粛(ろしゅく)が没した後、呂蒙(りょもう)は西のかた陸口に屯し、魯粛(ろしゅく)の部隊万余人はことごとく呂蒙(りょもう)の統領に帰した。呂蒙(りょもう)は漢昌太守に任じられ、下隽・劉陽・漢昌・州陵を食んだ。彼は関羽(かんう)が骁勇で、併兼の心があり、かつ長江の上流を占め、その勢いが長く続きにくいことを深く知っていた。呂蒙(りょもう)はかつて孫権(そん けん)に計策を密陳し、関羽(かんう)に依拠すべきではなく、その強壮なときに乗じて図るべきだと考えた。彼はまた孫権(そん けん)に徐州(じょしゅう)を攻め取る念を放棄するよう勧め、まず関羽(かんう)を取り、長江を全据し、勢力を拡大したほうがよいと考えた c:920。

呂蒙(りょもう)は病と称して建業(けんぎょう)へ赴き、陸遜(りくそん)が訪ねて、なぜ遠く下るのか、関羽(かんう)が虚に乗じて入るのを恐れないのか尋ねた。呂蒙(りょもう)は自分が病重だと言った。陸遜(りくそん)は分析した。関羽(かんう)は自ら骁勇を恃み、他人を軽んじ、かつ大功を立てたばかりで、意気が驕縦し、ただ北進のみを顧み、東呉を防がず、もし呂蒙(りょもう)が病重と聞けば、必ずいっそう無備となり、このとき不意を突けば、関羽(かんう)を擒制できると。呂蒙(りょもう)は初めなお関羽(かんう)は図りがたいと考えた。呂蒙(りょもう)が都城に至ると、孫権(そん けん)は誰が彼に代われるか尋ね、呂蒙(りょもう)は陸遜(りくそん)を推薦し、彼は思慮が深遠で、才が重任に堪え、かつ名声が顕れず、関羽(かんう)に忌憚されないと考えた。孫権(そん けん)はそこで陸遜(りくそん)を召し、偏将軍右部督に拝し、呂蒙(りょもう)に代えて陸口を守らせた c:922。

呂蒙(りょもう)が荊州(けいしゅう)を襲い取った後、病重となった。孫権(そん けん)は彼に誰が代われるか尋ね、呂蒙(りょもう)は朱然(しゅぜん)を推薦した。呂蒙(りょもう)が没した後、孫権(そん けん)は朱然(しゅぜん)に節を仮し、江陵(こうりょう)を鎮守させた c:921。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、呂蒙(りょもう)の形象は史実を基礎に文学的加工と強化が行われている。彼は第三十八回に初めて登場し、孫権(そん けん)が招攬した良将の一人として列せられる c:4918。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、呂蒙(りょもう)は東呉の将領として、太史慈(たいし じ)とともに周瑜(しゅうゆ)によって第四隊に任じられ、水陸並進の軍事配置に参与した c:4919。

南郡(なんぐん)を攻める戦役において、甘寧(かんねい)が彝陵に囲まれ、周瑜(しゅうゆ)が自ら救援に行こうとすると、呂蒙(りょもう)は阻止し、凌統(りょうとう)に暫く周瑜(しゅうゆ)の職を代えさせ、自分は前駆とする計を献じた。彼はさらに周瑜(しゅうゆ)に兵を派遣して彝陵南の僻地の小路の樹木を伐り、曹軍の敗退の路を阻断し、これによって戦馬を得るよう建議した c:923。

濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)の前、呂蒙(りょもう)は孫権(そん けん)に濡須(じゅしゅ)の水口に塢を築いて曹操(そうそう)を拒むよう建議し、塢を築く必要性を説明し、孫権(そん けん)はその建議を採納して、彼を称賛した。「人に遠慮なければ、必ず近憂あり。子明の見は甚だ遠し」と c:925。

魯粛(ろしゅく)が関羽(かんう)に荊州(けいしゅう)を索めようとした際、呂蒙(りょもう)は甘寧(かんねい)と商議し、魯粛(ろしゅく)に宴を設けて関羽(かんう)を款待し、もし関羽(かんう)が兵を帯びて来れば、伏兵で厮殺し、もし兵がなければ、刀斧手を筵間に設けて彼を殺害するよう建議した。しかし、関羽(かんう)は単刀赴会(たんとうふかい)し、魯粛(ろしゅく)は手を動かす勇気がなく、呂蒙(りょもう)の計策は成功しなかった c:9080。

皖城を攻める際、呂蒙(りょもう)は速攻を力主し、「この法は皆、日月を費やして成る。合淝の救軍が一たび至れば、図るべからず。今、我が軍は到着したばかりで、士気がまさに鋭い。まさにこの鋭気に乗じ、力を奮って攻撃すべし。来日平明に進兵すれば、午未の時には城を破るべし」と考えた c:9083。慶功の宴で、凌統(りょうとう)が甘寧(かんねい)を殺して父の仇を報じようとすると、呂蒙(りょもう)は刀牌を舞って二人を分け、衝突を化解した c:927。

荊州(けいしゅう)を襲い取ることは呂蒙(りょもう)の演義における高光の時刻である。孫権(そん けん)が北のかた徐州(じょしゅう)を取ろうとすると、呂蒙(りょもう)はまず荊州(けいしゅう)を取り、長江を全据するよう勧めた。孫権(そん けん)が荊州(けいしゅう)の沿江に烽火台の防備があると知ると、呂蒙(りょもう)は病を患ったと偽称し、陸遜(りくそん)はその詐病を看破し、「白衣渡江(はくいとこう)」の計を献じた。陸遜(りくそん)は呂蒙(りょもう)に辞職させ、名声の顕れない自分に代えさせ、関羽(かんう)に対して卑辞で賛美し、その心を驕らせ、彼に兵を撤いて北上させ、しかる後に虚に乗じて荊州(けいしゅう)を襲い取るよう建議した c:9088。呂蒙(りょもう)はこの計を採納し、孫権(そん けん)に陸遜(りくそん)を推薦した。孫権(そん けん)は呂蒙(りょもう)を大都督に拝し、呂蒙(りょもう)は三万の精兵を率い、商人に扮し、白衣渡江(はくいとこう)し、夜に乗じて襲撃し、荊州(けいしゅう)を奪取することに成功した。彼は軍紀を厳明にし、「もし妄りに一人を殺し、妄りに民間の一物を取る者あれば、必ず軍法に按ず」とした c:9095。一人の郷人が民間の箬笠を取って官鎧を遮蓋したために彼を斬首し、三軍を震懾しさえした c:9096。彼はまた士仁(しじん)を利用して糜芳(びほう)を招降し、さらに荊州(けいしゅう)への支配を強固にした c:9098。

関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)の失守を知った後、呂蒙(りょもう)は関羽(かんう)の使者に、かつての結好は私情であり、今日の事は命を奉じての行いだと表し、使者に関羽(かんう)の将士へ家中が安好であることを伝えさせ、将士たちの戦心を失わせた c:929。関羽(かんう)が敗れて麦城(ばくじょう)へ走った後、呂蒙(りょもう)は孫権(そん けん)に計を献じ、麦城(ばくじょう)北面の小路と臨沮に伏を設け、最終的に関羽(かんう)を擒えた c:9101。

しかし、慶功の宴で、呂蒙(りょもう)はにわかに杯を擲ち、孫権(そん けん)を揪み、厲声で罵り、自ら関羽(かんう)の魂魄だと称し、続いて七窍から血を流して死んだ。この情節は史書には記載がなく、演義が関羽(かんう)の神威を際立たせるために虚構した「関羽顕聖」の一節である c:4921。

重要な関係

* 孫権集団(そんけんしゅうだん)(serves):呂蒙(りょもう)は孫権(そん けん)麾下の重要な将領で、孫権(そん けん)に深く器重された。彼は孫権(そん けん)のために謀を出し策を画し、たびたび戦功を立て、特に荊州(けいしゅう)を襲い取る一事において、卓越した軍事的才能と戦略的眼光を示した c:920。孫権(そん けん)はかつて彼を称賛した。「人が長じて進益すること、呂蒙(りょもう)・蔣欽(しょうきん)のごときは、けだし及ぶべからず。富貴栄顕しても、なお節を折って学を好み、書伝を耽悦し、財を軽んじ義を尚び、行うところ跡すべく、ともに国士となる。また休からずや」と c:919。
* 劉備(りゅうび)(fights_in):呂蒙(りょもう)と劉備集団(りゅうびしゅうだん)は敵対関係である。彼はかつて長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を襲い取る作戦に参与し、劉備(りゅうび)と荊州(けいしゅう)を争った c:915。最終的に、彼はさらに計を設けて関羽(かんう)を擒殺し、徹底的に荊州(けいしゅう)を奪取し、劉備集団(りゅうびしゅうだん)に沈重な打撃を与えた。
* 廖立(りょうりつ)(enemy_of):廖立(りょうりつ)はかつて劉備(りゅうび)麾下の長沙(ちょうさ)太守で、呂蒙(りょもう)が南三郡を襲い取った際、廖立(りょうりつ)は身を脱して逃げ、劉備(りゅうび)に帰附した c:916。
* 孫権(そん けん)(advises_in):呂蒙(りょもう)はたびたび孫権(そん けん)に進言して策を献じた。例えば、孫権(そん けん)に徐州(じょしゅう)を攻め取るのを放棄してまず荊州(けいしゅう)を取るよう勧め c:920、また濡須口(じゅしゅこう)に塢を築いて敵を拒むよう勧めた c:925(演義独自)。孫権(そん けん)はその言を聞き従い、その「子明の見は甚だ遠し」と称賛した c:925(演義独自)。
* 魯粛(ろしゅく)(friend_of):呂蒙(りょもう)と魯粛(ろしゅく)の関係は軽んじられた状態から敬佩される状態への転変を経験した。魯粛(ろしゅく)は初め呂蒙(りょもう)を軽んじたが、呂蒙(りょもう)が卓越した才略と学識を示した後、魯粛(ろしゅく)は彼に刮目して相待し、好友を結んだ c:919。
* 陸遜(りくそん)(advises_in):呂蒙(りょもう)は病重のとき、孫権(そん けん)に陸遜(りくそん)を自分に代えるよう推薦し、陸遜(りくそん)は「意思深長、才、重きを負うに堪う」とし、かつ名声が顕れず、関羽(かんう)に忌憚されないと考えた c:922。演義では、陸遜(りくそん)はさらに呂蒙(りょもう)の「白衣渡江(はくいとこう)」の計の献策者である c:9088。
* 関羽(かんう)(fights_in):呂蒙(りょもう)と関羽(かんう)は宿敵である。呂蒙(りょもう)は関羽(かんう)の脅威を深く知り、最終的に計を設けて荊州(けいしゅう)を襲い取り、関羽(かんう)を擒殺し、東呉の戦略目標を完成した c:920。演義では、呂蒙(りょもう)が死ぬ前に関羽(かんう)に「附体」される情節が、さらに二人の恩怨を高潮へ推し進めた c:4921(演義独自)。
* 甘寧(かんねい)(friend_of):呂蒙(りょもう)と甘寧(かんねい)は同じく東呉の将領で、皖城を攻めた後、呂蒙(りょもう)は慶功の宴で凌統(りょうとう)と甘寧(かんねい)の衝突を化解した c:927(演義独自)。

象徴的な場面

* 「士、別れて三日なれば、すなわち更に刮目して相待つべし」:呂蒙(りょもう)は孫権(そん けん)の説得のもと発奮して読書し、学識が大いに増した。魯粛(ろしゅく)が再び彼に会ったとき、その才略に驚嘆し、呂蒙(りょもう)はそこで「士、別れて三日なれば、すなわち更に刮目して相待つべし」というこの名言を口にし、彼の好学上進、絶えず進歩する性格を示した c:919。
* 荊州を襲い取る:呂蒙(りょもう)は孫権(そん けん)に計を献じ、関羽(かんう)が北上して樊城(はんじょう)を攻める機を利用し、病重を装い、陸遜(りくそん)を自分に代えるよう推薦し、さらに陸遜(りくそん)に関羽(かんう)を麻痹させ、最終的に軍を率いて「白衣渡江(はくいとこう)」し、不意に荊州(けいしゅう)を襲い取り、関羽(かんう)を擒殺し、東呉が長江を全据する戦略目標を実現した c:920。演義では、この過程はより曲折で劇的に描かれ、陸遜(りくそん)の献策、呂蒙(りょもう)の詐病、厳格な軍紀などの細部を含む c:9088, c:9095, c:9096。
* 郷人を斬殺して軍紀を明らかにする:演義では、呂蒙(りょもう)は荊州(けいしゅう)を襲い取った後、軍紀を厳明にするため、民間の箬笠を取って官鎧を遮蓋した一人の郷人を斬殺することも厭わず、三軍を震懾した c:9096(演義独自)。この情節は呂蒙(りょもう)の治軍が厳謹で、私情に徇わない特徴を際立たせている。
* 「関羽顕聖」:演義では、呂蒙(りょもう)は慶功の宴でにわかに「関羽に附体され」、孫権(そん けん)を大いに罵り、七窍から血を流して死んだ c:4921(演義独自)。この極めて伝奇的色彩のある場面は、史には明らかな記載がないものの、関羽(かんう)の悲劇的英雄の色彩を大いに増強し、また呂蒙(りょもう)の結末に宿命のような意味を加えた。

肖像アーカイブ

人物像

性格
呂蒙(りょもう)は若い頃には軽率で無闇に人を殺したが、後に節を改めて学問を好み、国士の器量を備えた [c:4]。彼は謀が多く機略が深く、賞罰は厳明で、かつて軍法を執行して掟を犯した同郷の兵を斬り殺して軍紀を粛正した [c:5]。呂蒙の機謀は深遠で、かつて白衣渡江(はくいとこう)、月ごとの糧米の支給、出征兵の家族を手厚く遇するなどの計略を用いて蜀の人心を乱した [c:6]。
話し方
呂蒙は口ずから述べて上申の文書とし、大事を陳べるには方略をもってするのに長けていた [c:40]。彼はかつて周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)がともに督した故事を引いて諫言した [c:39]。
生涯
呂蒙は汝南富陂の人である [c:9]。彼はかつて孫権(そん けん)に遣わされて長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を襲い奪った [c:8]。呂蒙は四十二歳のとき内殿で卒し、官は南郡(なんぐん)太守に至った [c:9]。
逸話
趙咨(ちょうし)はかつて孫権(そん けん)を「呂蒙を行陣の中から抜擢したのは、その明察である」と讃えた [c:1]。呂蒙はかつて命を受けて三千の兵を率い烏林へ赴き、甘寧(かんねい)が曹操(そうそう)の寨柵を焼き討ちするのを援護した [c:2]。彼はかつて陸遜(りくそん)とともに関羽(かんう)を襲う謀をめぐらし、病と称して建業(けんぎょう)へ帰り、孫権に自分の代わりとして陸遜を推挙した [c:19]。

人間関係

20 件の関係

名言

全 36 件の台詞 · 厳選 3 件

「雲長倚恃英雄,自料無敵,所慮者惟將軍耳。將軍乘此機會,託疾辭職,以陸口之任讓之他人,使他人卑辭讚美關公,以驕其心,彼必盡撤荊州之兵,以向樊城;若荊州無備,用一旅之師,別出奇計以襲之,則荊州在掌握之中矣。」

演 第75回

この計略は呂蒙(りょもう)の智謀を示すもので、その「白衣渡江(はくいとこう)」の計の核心である。

「碧眼小兒!紫髯鼠輩,還識我否?」

演 第77回

関羽(かんう)が死の間際に呂蒙(りょもう)を怒罵する場面であり、極めて劇的で文化的な識別性が高い。

「陸遜意思深長,才堪負重,觀其規慮,終可大任。而未有遠名,非羽所忌,無復是過。若用之,當令外自韜隱,內察形便,然後可克。」

史 第58回→ 孫権(そん けん)

この言葉は呂蒙(りょもう)の人を知り善く用いる戦略眼を体現するもので、陸遜(りくそん)を極めて高く評価している。

登場回23 回 ▸
  • 史ch.32ch.40ch.47ch.51ch.52ch.54ch.55ch.56ch.57ch.58ch.62
  • 演ch.38ch.44ch.49ch.51ch.56ch.61ch.66ch.67ch.75ch.76ch.77ch.103
関係の年表15 条 ▸

史 ch.32

史 ch.40

史 ch.51

史 ch.54

史 ch.56

史 ch.58

演 ch.51

演 ch.56

演 ch.61

演 ch.66

演 ch.67

演 ch.75

演 ch.76

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 魯子敬(ろしけい)が亡くなると、私は命を受けて陸口(りくこう)に駐屯し、配下の兵馬をすべて引き継いだ。関羽(かんう)とは領土を分けて境を接しており、昔からの親交だけを頼りに接するわけにはいかなかった。かつて子敬が健在だったころ、曹操(そうそ
  • 陸口(りくこう)には川面から風が吹いてくる。私は軍中に身を置いていたが、心に思うのは兵の鋒先だけではなかった。関羽(かんう)は荊州(けいしゅう)を守り、近くにあって強硬だった。私は魯粛(ろしゅく)にどう備えるべきか尋ねた。彼は初め「その場に
  • 私は呂蒙(りょもう)、字は子明(しめい)という。若い頃を思い返すと、家の暮らし向きも世の中の情勢も、私にゆっくりと書を読む機会を与えてはくれなかった。私はまず軍に従って行動し、次第に勇力と胆力をもって頭角を現した。呉中には人材が次々と現れ、
生涯の大事16 ▸
  1. 0208-01-01 · 江夏(こうか)
    江夏の戦い(こうかのたたかい)· 武将
  2. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 軍師
  3. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 軍師
  4. 甘寧の夷陵守備(かんねいのいりょうしゅび)· 軍師
  5. 濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)· 軍師
  6. 0214-01-01 · 皖城
    皖城の戦い(かんじょうのたたかい)· 軍師
  7. 合肥の戦い(ごうひのたたかい)· 武将
  8. 逍遥津の戦い(しょうようしんのたたかい)· 武将
  9. 孫呉の荊州三郡奪取(そんごのけいしゅうさんぐんだっしゅ)· 総大将
  10. 益陽の単刀会(えきようのたんとうかい)· 武将
  11. 合肥の戦い(がっぴのたたかい)· 武将
  12. 濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)· 武将
  13. 関羽の北伐(かんうのほくばつ)· 首謀者
  14. 呂蒙の白衣渡江(りょもうのはくいとこう)· 総大将
  15. 白衣渡江(はくいとこう)· 首謀者
  16. 麦城への敗走(ばくじょうへのはいそう)· 首謀者