
史載(Historical Record)
現在提供されている史伝の材料によれば、糜竺(びじく)(字は子仲)に関する史載の情報は空白である。これは『三国志(さんごくし)』などの正史に、その生涯の事跡や具体的な貢献を直接記述する文章がないことを意味する。したがって、糜竺(びじく)の歴史上の人物像を考証しようとすれば、より広範な史料を参照する必要がある。本伝記の範疇においては、史伝の材料から糜竺(びじく)に関する「考証しうる事実」を抽出することはできない。
演中(In the Novel)
糜竺(びじく)は『三国演義』において、性格が鮮明で義を重んじ施しを楽しむ人物であり、その人物像は伝奇的な色彩と道徳の輝きに満ちている。彼は初登場からその富豪の家柄と高尚な品徳を示した。演義に記載されるところでは、糜竺(びじく)は洛陽(らくよう)で商いをして帰る途中、同乗を求める一人の美しい婦人に出会い、彼は車を降りて歩いて席を譲っただけでなく、同車の際にも「邪な目を向けなかった」。この婦人は実は南方の火徳星君であり、彼が礼をもって接したことに感じ入り、糜竺(びじく)の家がまもなく火の災いに遭うことを前もって告げた。これにより糜竺(びじく)は財物を運び出し、損失を免れることができた。この後、糜竺(びじく)は「広く家財を捨て、貧を済い苦を抜く」ようになり、その仁義の人物像を定着させた。
糜竺(びじく)は当初陶謙(とうけん)に仕えていた。曹操(そうそう)の大軍が徐州(じょしゅう)を包囲攻撃したとき、陶謙(とうけん)は自ら身を縛って城を献じ民を救おうとしたが、まさに糜竺(びじく)が進み出て、救援を求める計を献じた。彼は自ら進んで北海郡(ほっかいぐん)へ赴いて孔融(こうゆう)に救いを求めることを願い出、また人を青州(せいしゅう)の田楷(でんかい)のもとへ派遣して救援を求めるよう建議し、その智勇兼備の一面を示した。孔融(こうゆう)のもとで、糜竺(びじく)は曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を攻める窮状を詳しく陳述し、孔融(こうゆう)に出兵して助けるよう促した。
劉備(りゅうび)が徐州(じょしゅう)の主となる過程において、糜竺(びじく)は重要な役割を果たした。陶謙(とうけん)が病が重くなったとき、糜竺(びじく)は陳登(ちんとう)と協議し、劉備(りゅうび)こそ徐州牧を継ぐ最適の人選であると考え、劉備(りゅうび)に徐州(じょしゅう)を受け取るよう力説した。劉備(りゅうび)がたびたび辞退しても、糜竺(びじく)はなお説得を続け、「今、漢室は衰え、海宇は顛覆している。功を樹て業を立てるのは、まさにこの時である。徐州(じょしゅう)は豊かで戸口は百万、劉使君がこれを領するを、辞すべきではない」と強調した。これは彼の劉備(りゅうび)への忠誠と先見を体現するだけでなく、漢室復興への期待をも反映している。劉備(りゅうび)が最終的に徐州(じょしゅう)の事を権領した後、糜竺(びじく)は輔佐に任じられた。
劉備集団(りゅうびしゅうだん)の発展拡大の過程において、糜竺(びじく)は終始その重要な謀士であり腹心であった。彼はたびたび劉備(りゅうび)に呂布(りょふ)の「虎狼の徒」たる本性を警戒するよう注意を促し、また曹操(そうそう)の計略を察知することもあり、劉備(りゅうび)が詔を奉じて袁術(えんじゅつ)を討伐するとき、糜竺(びじく)は「これもまた曹操(そうそう)の計である」と指摘した。徐州(じょしゅう)が呂布(りょふ)に攻め取られた後、糜竺(びじく)は弟の糜芳(びほう)とともに一時難を逃れ、後に張飛(ちょうひ)と出会った。
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、糜竺(びじく)は劉備(りゅうび)の命を受けて東呉へ赴き虚実を探り、軍を犒う名目で見事に周瑜(しゅうゆ)と会見し、孔明がなお東呉にいるとの知らせを探り得た。劉備(りゅうび)が零陵(れいりょう)・武陵(ぶりょう)・桂陽郡(けいようぐん)・長沙(ちょうさ)の四郡を攻め取るとき、糜竺(びじく)は劉封(りゅうほう)とともに江陵(こうりょう)を守り、劉備(りゅうび)の彼への信任がうかがえる。孔明が川に入るとき、糜竺(びじく)はまた関羽(かんう)を輔佐して荊州(けいしゅう)を鎮守するよう任じられた。
総じて、糜竺(びじく)は演義において忠誠で仁義があり、先見の明があって富裕な士人の人物像に造形されており、彼は劉備(りゅうび)の腹心であるだけでなく、その初期の事業発展の重要な支持者であり証人でもあった。その「車を譲って婦人を座らせ邪な目を向けなかった」という典故は、彼の礼を守り身を持し、品徳の高尚なことの象徴となった。
主要な関係
* 陶謙集団(とうけんしゅうだん)(serves):糜竺(びじく)は当初陶謙(とうけん)に仕え、別駕従事を務めた。
* 陶謙(とうけん)(advises_in):曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を攻めたとき、糜竺(びじく)は陶謙(とうけん)に救援を求める計を献じ、また徐州(じょしゅう)を劉備(りゅうび)に譲るよう建議した。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(serves):糜竺(びじく)は劉備集団(りゅうびしゅうだん)の中核メンバーの一人で、長く輔佐の職を担い、たびたび重要な任務を執行した。
* 劉備(りゅうび)(advises_in):糜竺(びじく)はたびたび劉備(りゅうび)に建議を行い、徐州(じょしゅう)を受け取るよう勧めること、呂布(りょふ)を警戒すること、曹操(そうそう)の計略を見抜くことなどが含まれる。
* 孔融(こうゆう)(救援を求めた相手):糜竺(びじく)はかつて陶謙(とうけん)の命を奉じて北海郡(ほっかいぐん)へ赴き孔融(こうゆう)に救援を求めた。
* 孫乾(同僚):劉備(りゅうび)が徐州(じょしゅう)を権領した後、孫乾は糜竺(びじく)とともに劉備(りゅうび)を輔佐した。
* 陳登(ちんとう)(同僚):糜竺(びじく)はかつて陳登(ちんとう)とともに徐州(じょしゅう)の事を協議した。
* 糜芳(びほう)(兄弟):糜芳(びほう)は糜竺(びじく)の弟で、二人はかつてともに中軍を守り劉備(りゅうび)の妻子を保護した。
* 関羽(かんう)(同僚/輔佐の相手):孔明が川に入った後、糜竺(びじく)は関羽(かんう)を輔佐して荊州(けいしゅう)を鎮守した。
* 周瑜(しゅうゆ)(交渉の相手):糜竺(びじく)はかつて劉備(りゅうび)の命を奉じて東呉へ赴き周瑜(しゅうゆ)と交渉し、虚実を探った。
象徴的な場面
* 車を譲って婦人を座らせる:糜竺(びじく)は洛陽(らくよう)からの帰途、自分の車を一人の美しい婦人に譲って乗せ、自らは歩き、「邪な目を向けなかった」。この婦人は火徳星君であり、彼が礼をもって接したことに感じ入り、その家がまもなく火の災いに遭うことを予告し、糜竺(びじく)は禍を避けることができた。この出来事は糜竺(びじく)の「礼を守り身を持す」「義を重んじ施しを楽しむ」品格の基礎を定着させた(演義独自)。
* 徐州(じょしゅう)の救援要請:曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)を包囲攻撃したとき、陶謙(とうけん)が城を献じようとすると、糜竺(びじく)は進み出て計を献じ、自ら北海郡(ほっかいぐん)へ赴いて孔融(こうゆう)に救援を求め、その忠勇と智謀を示した(演義独自)。
* 劉備(りゅうび)に徐州(じょしゅう)を領するよう力説する:陶謙(とうけん)の病が重いとき、糜竺(びじく)は陳登(ちんとう)とともに劉備(りゅうび)に徐州牧の位を継ぐよう力説し、これが「天が与えるのに取らねば、悔いても追いつかぬ」機会であると強調し、最終的に劉備(りゅうび)に徐州(じょしゅう)を権領させた(演義独自)。
* 劉備(りゅうび)の妻子を保護する:呂布(りょふ)が小沛(しょうはい)を攻めたとき、糜竺(びじく)は弟の糜芳(びほう)とともに命を奉じて中軍を守り、劉備(りゅうび)の妻子を保護した(演義独自)。
* 東呉で虚実を探る:赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、糜竺(びじく)は劉備(りゅうび)の命を奉じ、軍を犒う名目で東呉へ赴き、孔明の所在と周瑜(しゅうゆ)の意図を見事に探り出し、劉備集団(りゅうびしゅうだん)の意思決定に重要な情報を提供した(演義独自)。
* 関羽(かんう)を輔佐して荊州(けいしゅう)を鎮守する:孔明が川に入った後、糜竺(びじく)は関羽(かんう)を輔佐して荊州(けいしゅう)を鎮守するよう任じられ、劉備集団(りゅうびしゅうだん)における彼の重要な地位と信任の程度を示した(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 糜竺(びじく)は礼を守って自らを律し、義を重んじ施しを好んだ。彼はかつて陶謙(とうけん)の徐州譲渡を劉備(りゅうび)に勧め、劉備を輔佐した。劉備の幕下では、彼は幾度も進言し、呂布(りょふ)を受け入れぬよう勧め、曹操(そうそう)の計をあらかじめ見抜き、張飛(ちょうひ)の約束を信じぬよう勧めるなどした。
- 話し方
- 糜竺の言葉遣いは義をもって人を動かすもので、「吾は聞く、大丈夫は人の妻子を廃せずと」というようなものであり、また率直に憚らず、「汝は我が主の城池を奪った、今まさに我が主に返すべきである」というようにも言った。
- 生涯
- 糜竺は東海朐県の人で、家は代々富豪であった。彼はかつて洛陽(らくよう)へ商いに行く途中、美しい婦人に身を託した火徳星君に出会い、その家が焼けるとの予告を受け、家に帰って財物を運び出したため難を免れた。のちに家財を広く施して貧民を救い、陶謙(とうけん)に別駕従事として招聘された。
- 逸話
- 糜竺は劉備(りゅうび)の妻の兄であり、その妹は劉備に嫁いで次妻となった。彼はかつて「一人」の身分で登場し、のちに陶謙(とうけん)に別駕従事として招聘され、また命を受けて北海郡(ほっかいぐん)へ救援を求めに赴いた。彼は水鏡先生に「白面の書生」の一例と称された。劉備の幕下では、安漢将軍などの職を務め、帝位を勧める上表(勧進)に名を連ねた。
人間関係
9 件の関係
名言
全 19 件の台詞 · 厳選 3 件
「今漢室陵遲,海宇顛覆,樹功立業,正在此時。徐州殷富,戶口百萬,劉使君領此,不可辭也。」
この言葉は劉備に徐州の領有を勧めるもので、糜竺の劉備への忠誠と先見の明を示している。
「呂布乃虎狼之徒,不可收留;收則傷人矣。」
糜竺による呂布への評価であり、呂布の変わり身の激しい末路を予示している。
「吾聞大丈夫不廢人之妻子。今與將軍爭天下者,曹公耳。玄德常念轅門射戟之恩,不敢背將軍也。今不得已而投曹公,惟將軍憐之。」
この言葉は、糜竺が劉備のために取りなすさまを示し、劉備の仁義の人物像を守っている。
登場回16 回 ▸
- 演ch.10ch.11ch.12ch.13ch.14ch.18ch.19ch.24ch.28ch.40ch.41ch.45ch.49ch.52ch.56ch.63
関係の年表10 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は糜竺(びじく)、字は子仲(Zizhong)である。乱世の中、主君に従って各地を転々とし、常々こう思っていた。身を託す相手がいるなら、力を尽くすべきだ。たとえ千里の先で勝敗を決することはできなくとも、己の分を守り、その務めを果たさねばなら
- 陶使君は手で胸を指し、そのまま息を引き取った。徐州(じょしゅう)の軍民が哀悼の意を表した後、牌印を捧げて玄徳(Xuande)に郡を治めてほしいと請うた。主公は固辞したが、民は府の前に集まって泣きながら拝礼し、引き受けてもらえなければ安心して
- 私は糜竺(びじく)、字は子仲。東海(とうかい)郡朐県の人である。昔、我が家はかなり裕福で、洛陽(らくよう)へ行き来して商いをしていた。人生で求めるものは、家業が安泰で、衣食に困らぬことに尽きると思っていた。 あるとき帰路で、婦人が同乗を求
生涯の大事7 ▸
- 0194-01-01 · 徐州(じょしゅう)劉備の徐州領有(りゅうびのじょしゅうりょうゆう)· 軍師
- 0194-01-01 · 徐州(じょしゅう)陶謙(とうけん)の三度の徐州譲渡· 軍師
- 0194-01-01 · 徐州(じょしゅう)陶謙(とうけん)の徐州譲渡· 軍師
- 0198-01-01 · 徐州(じょしゅう)陳登(ちんとう)の反間の計と布陣· 目撃者
- 0200-01-01 · 古城古城の再会(こじょうのさいかい)· 目撃者
- 0221-01-01 · 成都(せいと)劉備の即位(りゅうびのそくい)· 目撃者
- 0221-01-01 · 武擔山劉備の称帝(りゅうびのしょうてい)· 目撃者