
史載(Historical Record)
郭嘉(かくか)、字は奉孝、潁川(えいせん)陽翟の人である。彼は少年の頃から遠大な見識を備え、漢末の天下大乱の際には、ひそかに英傑と交わり、世俗に同調して染まることがなかった。そのため当時の多くの人は彼を理解せず、ごく少数の識見ある者だけが彼を非凡と認めていた。わずか二十七歳のとき、司徒府に召し出された c:3886。
郭嘉はかつて北上して袁紹(えんしょう)に拝謁し、袁紹の謀臣である辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)に対して率直にこう指摘した。「智者は慎重に主君を選んでこそ、あらゆる挙動が万全となり、功名を成し遂げられるのだ。袁公はいたずらに周公の賢者を礼遇する姿を真似るだけで、人を用いる道を知らない。思慮は多いが要点をつかめず、謀を好むが優柔不断である。彼とともに天下の大難を救い、覇王の業を成そうとしても、おそらく難しいだろう」。こうして郭嘉は袁紹のもとを去った c:3886。
曹操(そうそう)は戯志才が亡くなった後、荀彧(じゅん いく)に誰がその後を継げるかを尋ねた。荀彧は郭嘉を推薦した。曹操は郭嘉を召見し、ともに天下の大事を論じた後、大いに喜び、こう称賛した。「私に大業を成し遂げさせられる者は、必ずやこの人物だ」。郭嘉も退出した後、喜んで言った。「これこそ私の真の主君だ」。その後、郭嘉は司空軍祭酒に任じられた c:6505。
曹操が袁紹と対峙したとき、郭嘉は有名な「十勝十敗」論を唱えた。彼は曹操を智略で勝った漢の高祖になぞらえ、袁紹を強くとも最後には捕らえられた項羽になぞらえた。郭嘉は袁紹に「十敗」があると分析した。すなわち、礼を繁くし儀を多くすること、逆をもって動くこと、寛をもって寛を済すこと、外は寛だが内は猜疑深いこと、謀は多いが決断が少ないこと、もっぱら名誉を収めること、近きを恤れみ遠きを忽せにすること、大臣が権を争うこと、是非が知り得ないこと、好んで虚勢を張ること。一方、曹操には「十勝」があるとした。すなわち、自然に任せること、順を奉じて天下を率いること、猛をもって糾すこと、外は簡易だが内は機略明らかなこと、策を得れば直ちに行うこと、至誠をもって人に接すること、恩を加えるところは皆その望みを超えること、道をもって下を御すること、是とするところは礼をもって進め非とするところは法をもって正すこと、用兵が神のごとくであること。郭嘉は、袁紹は兵が強くとも何もなし得まいと断言した c:3887。
呂布(りょふ)を征討した際、曹操軍は三戦三勝し、呂布は退いて守りに入った。当時、兵卒は疲れており、曹操は一度は撤退しようとしたが、郭嘉は曹操に急攻を勧め、ついに呂布を捕らえた c:3888。孫策(そん さく)が江東で急速に台頭し、北上して許都(きょと)を襲おうと意図したとき、諸将は皆恐れた。だが郭嘉はこう見抜いた。「孫策は新たに江東を併呑したが、誅殺した相手は皆、人に死力を尽くさせられる英豪だった。しかし孫策は軽率で備えがなく、百万の軍勢を有していても、ただ一人で中原を行くようなものだ。もし刺客の伏撃があれば、彼は一人の敵にすぎぬ。私の見るところ、彼は必ず匹夫の手にかかって死ぬだろう」。果たして孫策は、渡江する前に許貢(きょこう)の食客に殺された c:3889。
曹操が袁紹を破った後、勝ちに乗じて袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を追撃しようとした。だが郭嘉はこう進言した。「袁紹はこの二人の子を愛し、明確に後継を立てませんでした。郭図・逢紀(ほうき)といった謀臣がいる以上、兄弟の間では必ず互いに争うでしょう。急いで攻めれば彼らは結束し、攻勢を緩めれば争いの心が生じます。むしろ南へ向かって荊州(けいしゅう)に進み、劉表(りゅう ひょう)を征討するふりをして、兄弟に変事が起こるのを待ちましょう。変事が起こった後に攻めれば、一挙に平定できます」。曹操はその計を採り、南して劉表を征した。袁譚・袁尚は果たして冀州(きしゅう)を争い、曹操はその隙に河北を平定した c:3890。
烏桓を征討した際、諸将は劉表・劉備(りゅうび)が虚を突いて侵入するのを恐れ、曹操に退兵を勧めた。だが郭嘉は衆議を排してこう指摘した。「公は天下に威を震わせていますが、胡人はその僻遠を頼んで、必ず備えを設けないでしょう。その無備に乗じて突如襲えば、これを滅ぼせます。また袁紹は民や夷狄に恩があり、袁尚兄弟もなお生きています。今、四州の民はいたずらに威勢ゆえに帰服しているにすぎず、徳政はいまだ施されていません。彼らを捨てて南征すれば、袁尚は烏桓の援助を頼って旧部を集め、胡人がひとたび動けば民や夷狄も呼応し、蹋頓(とうとん)が野心を生じ、おそらく青・冀の二州は我が物でなくなりましょう。劉表に至っては、ただ坐して談ずる客にすぎません。彼は自らの才が劉備を御するに足りぬと知っており、劉備を重く用いれば制御できぬのを恐れ、軽く用いれば劉備は彼のために働きません。たとえ我らが国を空にして遠征しても、公は憂える必要はありません」。曹操は郭嘉の進言を採用した。行軍して易県(えきけん)に至ったとき、郭嘉はさらに「兵は神速を貴ぶ」と説き、軽兵で道を兼ね、不意を突くよう勧め、ついに烏桓を大いに破り、蹋頓を斬った c:14951。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では、郭嘉の登場は荀彧・程昱(ていいく)らの謀臣と密接に結びついている。荀彧は曹操に程昱を推薦し、程昱はさらに荀彧に郭嘉を推薦して、彼を「当今の賢士」と称えた c:6507。これは史載で荀彧が直接郭嘉を推薦したのとはやや異なるが、いずれも郭嘉の才能が曹操陣営に認められたことを際立たせている。
演義における郭嘉の造形は、その先見の明と深謀遠慮に重点を置く。たとえば、曹操が徐州(じょしゅう)を攻めたとき、劉備が救援に来た。郭嘉は曹操に「丁重に答えて劉備の心を緩ませ」、そのまま攻城を続けるよう勧めた c:11。曹操が呂布を攻めたとき、郭嘉は幾度も計を献じた。曹操が濮陽(ぼくよう)で呂布の計にはまり、火攻めを受けた後、郭嘉はさらに「将計就計」の策を献じ、曹操がすでに死んだと偽って呂布を誘い出し、馬陵山に伏兵を設けて、呂布を大敗させた c:3893。
演義では、郭嘉は曹操の劉備に対する態度においても重要な役割を演じた。荀彧が劉備を殺すよう勧めたとき、郭嘉は天下の賢士を招く観点から、曹操に劉備を殺してはならぬと勧め、「もし彼を殺せば、それは賢者を害することになります。天下の智謀の士はこれを聞いて自ら疑い、足を止めて前に進まなくなるでしょう。主公は誰とともに天下を定めるのですか」と説いた c:6509。後に劉備が徐州へ出兵したとき、郭嘉と程昱は再び急ぎ曹操を諫め、「これは龍を海に放ち、虎を山に帰すようなものです」と指摘したが、曹操は間に合わず連れ戻せなかった c:3896。これは史載の『傅子』や『魏書』における劉備の去就の記述とは異なっており、演義は郭嘉の劉備に対する潜在的脅威の予見性を際立たせる傾向がある。
曹操が袁紹を征討する前、郭嘉は再び「十勝十敗」の説で曹操の自信を固めた。その論述は史載とほぼ一致するが、演義ではこれに対する荀彧の賛同や、郭嘉がさらに先に呂布を取り、その後で袁紹を図るという戦略を提示したことが加えられている c:14935。烏桓を征する際にも、郭嘉の分析は史載と類似し、「兵は神速を貴ぶ」ことと劉表は憂うるに足らぬという観点を強調した c:3900。演義はさらに、郭嘉が烏桓征討の途上で重病となり、曹操が彼を手厚く気遣う場面を描き、人物の悲劇的色彩を一層添えている c:14945。
キーとなる関係
* 曹操(advises_in):郭嘉は曹操が最も頼りにした謀臣の一人で、曹操から「わが子房」と見なされた c:6507(演義独自)。彼は曹操の軍事行動と戦略決定に多くの重要な助言を提供した。「十勝十敗」論 c:3887、呂布を攻める策 c:3888、孫策への予見 c:3889、河北平定後の袁氏兄弟への策略 c:3890、烏桓征討の進言 c:3900 などである。曹操の郭嘉への信頼と重用は言葉に表れており、彼を「私に大業を成し遂げさせる者は必ずやこの人物だ」と称えた c:6505。
* 袁紹(rival_of):郭嘉はかつて北上して袁紹に会ったが、その「多端寡要、謀を好み決なし」という性格に不満を抱いて去った c:3886。後に彼は曹操陣営で袁紹に対抗する鍵となる人物となり、その「十勝十敗」論は袁紹の弱点を深く暴き出し、曹操が袁紹に勝つ理論的基礎を提供した c:3887。
* 曹魏(そうぎ)(serves):郭嘉は曹操の軍祭酒として、曹魏政権の樹立と強固化に多大な功を立てた。その智謀は曹操が北方を統一する数々の重要な戦役を貫いており、曹魏集団に欠かせない知恵袋であった c:6508(演義独自)。
* 呂布(enemy_of):曹操が呂布を征討する戦役で、郭嘉は急攻を強く主張し、ついに曹操に呂布を捕らえさせた c:3888。演義では、郭嘉はさらに下邳(かひ)を水攻めにする計を献じ、呂布の滅亡を早めた c:3895(演義独自)。
* 劉備(advises_in / enemy_of):郭嘉の劉備に対する見方は複雑で深い。彼はかつて、劉備が困窮して身を寄せてきたからといって殺してはならぬと曹操に勧め、「賢者を害する」ことを避けようとした c:6509(演義独自)。だが同時に、劉備の雄才と潜在的脅威も鋭く察知し、「一日敵を放てば、万世の患いとなる」と述べて、曹操に劉備を去らせてはならぬと勧めた c:3896(演義独自)。
象徴的な場面
* 「十勝十敗」論:これは郭嘉の最も称賛される智謀の発揮である。曹操と袁紹が対峙する重要な局面で、郭嘉は曹操の十の優位と袁紹の十の劣勢を詳細に分析し、曹操が袁紹に勝つ自信と決意を大いに強めた c:3887。この場面は史実でも演義でも十分に表現され、郭嘉の知恵が集約されている。
* 曹操に呂布への急攻を勧める:呂布を征討した際、曹操軍は疲弊し、曹操は一度は退く意を生じた。郭嘉は衆議を排して、呂布はすでに強弩の末であり、勝ちに乗じて追撃すれば必ず捕らえられると指摘した。曹操はその進言を採用し、ついに呂布を捕らえて斬り、虎を養って患いとなることを避けた c:3888。演義では、郭嘉はさらに下邳を水攻めにする計を献じ、呂布の滅亡を早めた c:3895(演義独自)。
* 孫策の死を予言する:孫策が江東で勢力を大いに振るい、北上して許都を襲おうと意図したとき、皆が恐れた。だが郭嘉は冷静に分析し、孫策が「軽率で備えがなく、必ず匹夫の手にかかって死ぬ」と予言した c:3889。この予言の的中は、郭嘉が人情と時局を見通す非凡な能力を十分に示している。
* 巧計で河北を平定する:袁紹を破った後、郭嘉は曹操に袁譚・袁尚への攻撃を緩め、転じて南して劉表を征し、袁氏兄弟の内紛が起こるのを待つよう勧めた。この「緩めれば争いの心を生じる」という策略は、ついに袁氏兄弟の同士討ちを促し、曹操はわずかな労力もかけずに河北を平定した c:3890。
* 烏桓征討を強く主張する:烏桓征討への諸将の疑念に対し、郭嘉は独自の見識で、烏桓の虚実と劉表・劉備が憂うるに足らぬことを分析し、曹操の烏桓征討の決意を固めた。行軍の途上では、さらに「兵は神速を貴ぶ」との進言を提示し、曹操がついに烏桓を大いに破る基礎を築いた c:3900、c:14951。
* 曹操に劉備を殺すなと勧める:演義では、郭嘉はかつて曹操に劉備を殺すなと勧め、それは曹操が賢士を招く名声を損なうと考えた。後に劉備はついに大きな患いとなったが、この場面は郭嘉の政治的考慮における深遠な眼力と、「信義」への重視を示している c:6509(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 郭嘉(かくか)は性格が闊達で、物事の機微に通じ、行いの検束にこだわらなかった [c:4]。彼は事を論ずるに筋道立て、類を挙げて比べ、大局を決するに長け、謀は遠く決断は速かった [c:5, c:6]。
- 話し方
- 郭嘉(かくか)の言葉の風格は整然と対句を並べ、十の句を対にして挙げるのに長けていた。たとえば道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武である [c:29]。
- 生涯
- 郭嘉(かくか)は潁川(えいせん)陽翟(ようてき)の人で、先に袁紹(えんしょう)に会ったが去り、後に荀彧(じゅん いく)の推薦によって曹操(そうそう)に仕え、司空軍祭酒を拝した [c:7, c:10, c:13]。彼は呂布(りょふ)征伐に従い、河北(かほく)を平定し、烏丸(うがん)を平らげ、柳城(りゅうじょう)からの帰途で病が篤くなり、わずか三十八歳で世を去った [c:7, c:8]。
- 逸話
- 郭嘉(かくか)は曹操(そうそう)の筆頭謀士であり、曹操はかつて「ただ奉孝のみが孤の意を知ることができる」と称し、また荊州(けいしゅう)で疫病に遭った時に「郭奉孝が在れば、孤をこの境地に至らせなかったであろう」と嘆いた [c:1, c:26]。彼は多くの奇功を立て、洧陽亭侯に封ぜられ、諡は貞侯であった [c:7, c:8, c:27]。
人間関係
11 件の関係
名言
全 26 件の台詞 · 厳選 3 件
「劉項之不敵,公所知也。高祖惟智勝,項羽雖強,終為所擒。今紹有十敗,公有十勝;紹兵雖盛,不足懼也。紹繁禮多儀,公體任自然,此道勝也;紹以逆動,公以順率,此義勝也;桓、靈以來,政失於寬,紹以寬濟,公以猛糾,此治勝也;紹外寬內忌,所任多親戚,公外簡內明,用人惟才,此度勝也;紹多謀少決,公得策輒行,此謀勝也;紹專收名譽,公以至誠待人,此德勝也;紹恤近忽遠,公慮無不周,此仁勝也;紹聽讒惑亂,公浸潤不行,此明勝也;紹是非混淆,公法度嚴明,此文勝也;紹好為虛勢,不知兵要,公以少克眾,用兵如神,此武勝也。公有此十勝,於以敗紹無難矣。」
郭嘉(かくか)の「十勝十敗」論であり、曹操(そうそう)が北方を統一する基礎を築いた、極めて戦略的な意義を持つもの。
「策新並江東,所誅皆英豪雄傑,能得人死力者也。然策輕而無備,雖有百萬之眾,無異於獨行中原也。若刺客伏起,一人之敵耳。以吾觀之,必死於匹夫之手。」
孫策の死(そんさくのし)を的確に予言したもので、郭嘉(かくか)が人の性を見抜く非凡な能力を示している。
「夫智者審於量主,故百舉百全而功名可立也。袁公徒欲效周公之下士,而未知用人之機。多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣!」
郭嘉(かくか)が袁紹(えんしょう)を「多端寡要、好謀無決」と評したもので、その失敗の根源を深く明らかにしている。
登場回15 回 ▸
- 史ch.10ch.14ch.25
- 演ch.10ch.11ch.12ch.14ch.16ch.17ch.18ch.19ch.21ch.24ch.32ch.33
関係の年表15 条 ▸
史 ch.14
演 ch.11
- 曹操(そうそう)§12
advises_in
郭嘉先后献「先礼后兵」「卖人情与刘备退兵复兗州」之策
演 ch.12
- 曹操(そうそう)§8
advises_in
赞曹操将计就计诈死之策为良策
演 ch.18
- 曹操(そうそう)§12
advises_in
进「十勝十敗」之论;劝先取吕布再图袁绍
演 ch.19
- 曹操(そうそう)§30
advises_in
进决沂泗水灌下邳之计
演 ch.21
- 曹操(そうそう)§18
力谏勿纵(政治进谏)
演 ch.24
- 曹操(そうそう)§16
advises_in
郭嘉判定袁绍迟疑、刘备新整、可一战定徐州
演 ch.32
- 曹操(そうそう)§11
advises_in
进议先南向荆州以候袁氏之变
演 ch.33
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は郭嘉(かくか)、字は奉孝(ほうこう)という。勢いを得るとは、一時の兵の多寡によるのではなく、人心と機を見極めることにある。昔、袁紹(えんしょう)と明公について論じた際、私は劉邦と項羽を引き合いに出した。項羽は武力を頼み、ついには漢の高祖
- 私は郭嘉(かくか)、字は奉孝(ほうこう)という。今、病を得て車中に臥している。北方の砂塵が車の帷を隔てても、なお顔に吹きつけるようだ。丞相は軍を引き返すべきかと私に尋ねた。この遠征が険しいことも、自分が病にかかり丞相に心配をかけていることも
- 私は郭嘉(かくか)、字は奉孝(Hōkō)、潁川(えいせん)の陽翟(Yōteki)の出身である。漢末、天下は乱れようとし、綱紀は次第に緩み、英雄たちが次々と立ち上がった。思えば、弱冠の頃から私は姓名や足取りを隠し、ひそかに英傑たちと交わり、俗
生涯の大事13 ▸
- 0189-01-01 · 陳留(ちんりゅう)曹操の挙兵(そうそうのきょへい)· 軍師
- 0193-01-01 · 徐州(じょしゅう)曹操の徐州征討(そうそうのじょしゅうせいとう)· 軍師
- 0196-01-01 · 鄴(ぎょう)郭嘉(かくか)が袁紹を去り曹操に帰す· 軍師
- 0197-01-01 · 潁川(えいせん)曹操、髪を割いて首に代える(そうそう、かみをさいてくびにかえる)· 軍師
- 0198-01-01 · 下邳(かひ)下邳の戦い(かひのたたかい)· 軍師
- 0198-01-01 · 下邳(かひ)沂水・泗水決壊による下邳水攻め(ぎすい・ししすいけっかいによるかひみずぜめ)· 軍師
- 0198-01-01 · 許昌(きょしょう)郭嘉(かくか)の十勝十敗論· 軍師
- 0200-01-01 · 許昌(きょしょう)十勝十敗論(じっしょうじっぱいろん)· 軍師
- 0207-01-01 · 襄平(じょうへい)公孫康による二袁誅殺(こうそんこうによるにえんちゅうさつ)· 軍師
- 0207-01-01 · 鄴(ぎょう)曹操の河北平定(そうそうのかほくへいてい)· 軍師
- 0207-01-01 · 白狼山(はくろうざん)曹操の烏桓征討(そうそうのうかんせいとう)· 軍師
- 0207-01-01 · 易州郭嘉(かくか)の死· 戦死
- 0207-01-01 · 易県(えきけん)郭嘉(かくか)の早世· 戦死