背景
「走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ)」は『三国(さんごく)演義』において最も劇的な緊張感を持つ人物交代の場面の一つであり、その叙事機能は通常の推薦をはるかに超えて、劉備(りゅうび)・徐庶(じょしょ)・諸葛亮(しょかつりょう)三人の運命を連接する重要な結節点となっている。建安十二年(207年)の劉備(りゅうび)は、汝南と新野(しんや)での連敗の後、新野(しんや)の小県に退守しており、唯一の智謀の軍師であった徐庶(じょしょ)が母を曹操(そうそう)に囚われたために仕方なく北帰しようとしていた。これは劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)に入って以来最も困難な時であった。徐庶(じょしょ)の去就はほぼ、劉備(りゅうび)が曹操(そうそう)・孫権(そんけん)・劉表(りゅうひょう)の三方と渡り合う上での全ての知的支援を失うことを意味した。「他家に身を寄せ、謀主が一日もいない」という状況が、諸葛亮(しょかつりょう)が出山するための全ての前提を生み出した。この回の叙事の重心は徐庶(じょしょ)北帰の悲情にあるのではなく、徐庶(じょしょ)が別れの際に劉備(りゅうび)のために自分を完全に代替し得るより高いレベルの人材を引荐するという点にある。これは中国古典小説における最も純粋な「賢者に道を譲る」叙事である。
主要人物
徐庶(じょしょ)、字は元直、潁川(えいせん)の人で、先に単福という名で劉備(りゅうび)と相見し、新野(しんや)において曹仁(そうじん)と樊城(はんじょう)の二陣を連破した。劉備(りゅうび)が黄河を南渡して以来、初めて全幅の信頼を置かれた謀主であった。徐母が囚われた後、彼は「方寸乱れて」北帰せざるを得なくなった。演義において最も早く「忠と孝の両立の困難」という文学的テーマを完全に描いた場面である。劉備(りゅうび)、字は玄徳、当時四十六歳で、すでに半生を流浪して一城も自力で守ったことがなかった。徐庶(じょしょ)の去就は演義で「馬を駆って追いかけ、その去るを惜しんで聞くに堪えない」と描写される。この人情の極みとも言える依恋が、「走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ)」において最も重い感情の底流となっている。諸葛亮(しょかつりょう)、字は孔明、当時二十六歳で、隆中(りゅうちゅう)の臥龍崗に居し、司馬徽(しばき)・龐徳公(ほうとくこう)ら襄陽(じょうよう)の名士圏と交遊しながら、まだ仕官していなかった。徐庶(じょしょ)が「先生の才徳と比べてどうか」と問うた場面で、諸葛亮(しょかつりょう)のイメージは演義において初めて正式に「駑馬と麒麟を並べる」ほどの高みに引き上げられた。
核心議題
この回の核心的議題は三つある。第一は「賢者に道を譲る」という政治倫理である。徐庶(じょしょ)は別れの際に劉備(りゅうび)に自分を完全に代替し得る人材を推薦した [c:17868]。このような主体的な道譲りは中国の政治文化において最高位の同僚としての義とみなされる。それは旧主への責任を果たすのみならず、推薦者自身に「嫉妬しない」という名声を残すものでもある。演義はこの倫理的層位を極限まで拡大している。徐庶(じょしょ)は劉備(りゅうび)に「この人は呼びつけてはなりません、主君自ら訪ねていくべきです」と告げるだけでなく、自ら隆中(りゅうちゅう)へ赴いて諸葛亮(しょかつりょう)に推薦を辞退しないよう頼んでいる [c:17869]。双方向の布石の下、劉備(りゅうび)と諸葛亮(しょかつりょう)の「君臣の出会い」は二重の正当性を獲得した。劉備(りゅうび)の主体的な人材招聘と、諸葛亮(しょかつりょう)が旧友から重く托された責任感の双方が機能したのである。第二は「忠と孝の両立の困難」という文学的テーマである。徐庶(じょしょ)の北帰それ自体は孝が忠を凌いだものだが、北帰の後に「身は曹営にあれど心は漢にあり」として生涯曹操(そうそう)に一つの計略も献じなかったという文学的符号は、中国文化において深く影響を与え、「身体は強制されても志は揺らがない」という標準的な範式となった。第三は諸葛亮(しょかつりょう)出山の叙事的正当性である。演義の構造において、諸葛亮(しょかつりょう)の出山は唐突な手配ではなく、徐庶(じょしょ)という既に立場を持つ人物の背書によって完成された。この「仲介者による背書」という叙事モデルにより、諸葛亮(しょかつりょう)は最初から「天下の名士」として位置付けられ、「失敗者に投じた人物」ではなくなったのである。
政治後果
走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ)の直接的な後果は、翌年(208年)春の「三顧の礼(さんこのれい)」と「隆中対(りゅうちゅうたい)」であった。この回の布石がなければ、劉備(りゅうび)は隆中(りゅうちゅう)に諸葛亮(しょかつりょう)という人物がいることを確実に知ることはなく、たとえ知っていても三顧という最上の礼をもって招こうとはしなかったかもしれない。より長期的に見れば、この場面は劉備(りゅうび)と諸葛亮(しょかつりょう)の関係の「初期の記憶」を構成した。赤壁(せきへき)の後、益州入りの後、夷陵(いりょう)の後でさえ、劉備(りゅうび)は常に諸葛亮(しょかつりょう)に対して「最初に徐庶(じょしょ)が許した」高い信頼を保ち続けた。この信頼は白帝城(はくていじょう)の托孤において頂点に達した(「君の才は曹丕(そうひ)の十倍、必ずや国を安んじ大事を定め得るであろう。もし嗣子が補佐に値するならば補佐してほしい。その才がなければ、君が自ら取ってよい」)。徐庶(じょしょ)の一言の推薦は、諸葛亮(しょかつりょう)が一生劉備(りゅうび)の猜疑を受けることのない安全な空間を間接的に与えた。これは君臣関係史において極めて稀な「初対面で基調が定まった」成功事例である。
反事実推演
反事実の推演は両端から可能である。もし徐庶(じょしょ)が北帰の際に走馬回告という行動をとらなかったなら、劉備(りゅうび)は新野(しんや)在陣中に諸葛亮(しょかつりょう)という人物を知るに至らなかったかもしれず、司馬徽(しばき)の口から出た「臥龍鳳雛のうち一人を得れば天下を安んじ得る」という示唆も具体的な方向なしでは聞き流されていたかもしれない。さらに言えば、たとえ劉備(りゅうび)が最終的に別の経路(司馬徽(しばき)・龐徳公(ほうとくこう)経由など)で諸葛亮(しょかつりょう)の存在を知ったとしても、徐庶(じょしょ)の内密の頼みがなければ、諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)の招きに応じて出山しようとしなかったかもしれない。諸葛亮(しょかつりょう)の自己位置付けは「耕作に身を置き、聞達を求めない」というものであったから、徐庶(じょしょ)のような親しい友人の認可なしには、管寧(かんねい)のように生涯仕官しないという選択をしていた可能性も十分あった。もう一端の反事実として、もし徐母が曹操(そうそう)に囚われることなく、徐庶(じょしょ)が赤壁の戦い(せきへきのたたかい)まで劉備(りゅうび)に仕えていたなら、諸葛亮(しょかつりょう)はなお出山したかもしれないが、「独占的な丞相の地位」としてではなく「徐庶(じょしょ)の副手」という立場においてであったろう。蜀漢(しょくかん)中後期の決策構造は完全に異なるものになっていた。この観点から見ると、「走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ)」は単純な人事推薦ではなく、蜀漢(しょくかん)政権の未来五十年の核心的な決策機制を諸葛亮(しょかつりょう)一人の手に固定した重要な事件であった。
