
史載(Historical Record)
張魯(ちょうろ)、字は公祺、沛国豊の人で、その一族は代々道教を信奉した。その祖父の張陵は蜀の地に客居し、鵠鳴山において道教を創立し、道書を撰して百姓を惑わした。およそ彼から道を受ける者は米五斗を出さねばならなかったため、世人は彼を「米賊」と称した。張陵の死後、その子の張衡(ちょうこう)がその道を継承し、張衡(ちょうこう)の死後、張魯(ちょうろ)が引き続きその教義を行った。
益州(えきしゅう)牧の劉焉(りゅうえん)は張魯(ちょうろ)を督義司馬に任じ、別部司馬の張脩とともに兵を率いて漢中(かんちゅう)太守の蘇固を攻めさせた。しかし張魯(ちょうろ)はその機に乗じて張脩を襲って殺し、その部衆を奪った。劉焉(りゅうえん)の死後、その子の劉璋(りゅう しょう)が位を継いだ。張魯(ちょうろ)が劉璋(りゅう しょう)に服従しなかったため、劉璋(りゅう しょう)は張魯(ちょうろ)の母と家族をことごとく殺し、双方はこれによって深い仇を結んだ。
張魯(ちょうろ)は漢中(かんちゅう)に拠り、鬼道をもって民衆を教化し、自ら「師君」と称した。初学者を「鬼卒」と称し、道を信じて成った者を「祭酒」と称し、その中で部衆を多く領する者を「治頭大祭酒」とした。彼は民衆に誠信を本とし欺詐を許さぬよう教え、病ある者はその過ちを自首するよう定めた。その教義は黄巾軍(こうきんぐん)と類似する点があった。張魯(ちょうろ)は各地に「義舎」を設け、当時の駅站のごとく、その中に義米・義肉を備えて通行人が必要に応じて取れるようにし、多く取れば病を生じるとした。法を犯した者に対し、張魯(ちょうろ)は「三原」の制度を実行し、すなわち三度諭してから初めて刑を施した。彼は長吏を置かず、祭酒によって地方を治めさせ、当地の民衆と少数民族をともに安楽たらしめた。張魯(ちょうろ)は巴・漢の地区に三十年近く雄踞した。
建安二十年(215年)、曹操(そうそう)は軍を率いて漢中(かんちゅう)を攻めた。張魯(ちょうろ)は陽平関(ようへいかん)を失った後、もとは降ろうとしたが、その部下の閻圃が、まず巴中に退いて杜濩・朴胡らの勢力と拒みつつ、機を見て帰降し、より大きな功を争うよう進言した。張魯(ちょうろ)はこの進言を採用し、南山へ奔り、巴中に入った。左右の従者が宝貨の倉庫を焼こうとすると、張魯(ちょうろ)はこれを止めて言った――「わたしはもと国家に帰順しようと思っていたが、ただ意願が達せられなかっただけだ。今逃げるのは曹操(そうそう)の鋭気を避けるためであって、悪意があるのではない。宝貨の倉庫は国家のものであり、毀ってはならぬ」と。そこで彼は倉庫を封じて去った。曹操(そうそう)は南鄭(なんてい)に入った後、この挙を深く称賛し、張魯(ちょうろ)にもとから善意があったと認め、人を遣わして慰問した。張魯(ちょうろ)は全家を率いて降り、曹操(そうそう)は張魯(ちょうろ)を逆らえて鎮南将軍に拝し、客の礼をもって遇し、閬中(ろうちゅう)侯に封じ、食邑万戸を与えた。張魯(ちょうろ)の五人の子および閻圃らもみな列侯に封じられた。曹操(そうそう)はまた自らの子の曹彭祖のために張魯(ちょうろ)の娘を娶らせた。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』の張魯(ちょうろ)に対する描写は、とりわけその宗教的背景と治理の方式において、大いに史実を踏襲している。小説の中では、「師君」としての張魯(ちょうろ)の姿、および五斗米道(ごとべいどう)の具体的な教義と実践、例えば「三官手書」の祈祷の方式、義舎の設置、そして法を犯した者を「三度恕す」という規定などが詳しく描かれる。これらの細部の描写により、張魯(ちょうろ)の人物像はより豊かになっている。
劉璋(りゅう しょう)との関係においても、演義は史実に忠実であり、劉璋(りゅう しょう)が張魯(ちょうろ)の不順により、張魯(ちょうろ)の母と弟を殺し、双方が仇敵となったことを指摘している。しかし演義は、張魯(ちょうろ)と曹操(そうそう)の交鋒において、史書に明記のない劇的な筋立てをいくつか加えている。例えば、曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を攻める際、演義には張魯(ちょうろ)の弟の張衛(ちょうえい)が陽平関(ようへいかん)に寨を設けて敵を迎えるよう進言する筋がある。さらに劇的なのは、演義が楊松(ようしょう)が曹操(そうそう)の賄賂を受けて龐徳(ほうとく)を誣告し、張魯(ちょうろ)に龐徳(ほうとく)への誤解を生じさせ、ひいてはこれを斬ろうとさせる筋を虚構していることである。この段落は曹操(そうそう)の謀略と楊松(ようしょう)の奸詐を際立たせるとともに、龐徳(ほうとく)の後の降伏への伏線ともなっている。小説の中で、張魯(ちょうろ)が曹操(そうそう)の大軍の圧迫に直面した際、楊松(ようしょう)は門を開いて降ることを勧め、張衛(ちょうえい)は倉庫を焼いてから撤退することを主張した。張魯(ちょうろ)は最終的に倉庫を封じることを選び、その「もとから国家に帰命しようとした」善意を体現しており、この点は史実と一致を保っている。
演義はまた、劉備(りゅうび)が蜀に入る前、劉璋(りゅう しょう)が曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)を攻めてひいては益州(えきしゅう)を脅かすことを恐れ、張松(ちょうしょう)の進言に従って劉備(りゅうび)を蜀に引き入れ、張魯(ちょうろ)に対抗させる筋を描いている。これは史実において劉璋(りゅう しょう)が曹操(そうそう)が益州(えきしゅう)を取ることを憂え、劉備(りゅうび)を蜀に引き入れた背景と符合するが、演義は張魯(ちょうろ)を劉璋(りゅう しょう)と劉備(りゅうび)の間の重要な切り札としてより強調している。
主要な関係
* 劉焉(りゅうえん):張魯(ちょうろ)はかつて劉焉(りゅうえん)に督義司馬に任じられ、その早期の上司であった。
* 五斗米道(ごとべいどう):張魯(ちょうろ)は五斗米道(ごとべいどう)の実際の指導者であり、祖父の張陵と父の張衡(ちょうこう)の教義を継承し、漢中(かんちゅう)でこれを発揚し、これをもって地方を治め、自ら「師君」と号した。
* 劉璋(りゅう しょう):張魯(ちょうろ)と劉璋(りゅう しょう)は死敵である。劉璋(りゅう しょう)は張魯(ちょうろ)の不順により、張魯(ちょうろ)の母と弟を殺し、張魯(ちょうろ)は漢中(かんちゅう)に拠って劉璋(りゅう しょう)に対抗した。劉璋(りゅう しょう)は幾度も兵を遣わして張魯(ちょうろ)を攻めたが、いずれも撃破された。
* 曹操(そうそう):張魯(ちょうろ)は最終的に曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を攻めた後、帰降を選んだ。曹操(そうそう)はその倉庫を封じた行為を称賛し、厚遇を与え、鎮南将軍・閬中(ろうちゅう)侯に封じ、食邑万戸を与え、その娘を自らの子に嫁がせた。
* 楊松(ようしょう):演義において、楊松(ようしょう)は張魯(ちょうろ)の手下の謀士だが、その忠誠度には疑いがある。彼はかつて劉備(りゅうび)の賄賂を受け、張魯(ちょうろ)と劉備(りゅうび)の連合を促そうとした(演義独自)。後にまた曹操(そうそう)の賄賂を受けて龐徳(ほうとく)を誣告し、張魯(ちょうろ)の軍心を不安定にし、漢中(かんちゅう)の失陥を加速させた(演義独自)。
* 閻圃:張魯(ちょうろ)の謀士で、幾度も張魯(ちょうろ)に進言した。張魯(ちょうろ)が曹操(そうそう)に降ろうとした際、閻圃はまず巴中に退き、機を見て帰降して、より良い条件を争うよう進言した。曹操(そうそう)はその張魯(ちょうろ)に王を称さぬよう諫めた挙を大いに称賛し、列侯に封じた。
象徴的な場面
* 漢中(かんちゅう)に拠り、道もて民を治む:張魯(ちょうろ)は祖父の張陵の五斗米道(ごとべいどう)を継承し、漢中(かんちゅう)地区に独特の政教合一の政権を樹立した。彼は自ら「師君」と称し、「鬼道」をもって民衆を教化し、「義舎」を設け、「三原」の制度を実行し、巴・漢に三十年近く雄踞した。これは彼の政治生涯において最も代表的な時期であり、その独特の治理の理念と影響力を示している。
* 劉璋(りゅう しょう)と仇を結ぶ:劉璋(りゅう しょう)は張魯(ちょうろ)の不順により、張魯(ちょうろ)の母と弟を殺し、張魯(ちょうろ)と劉璋(りゅう しょう)の間に不倶戴天の仇を結ばせた。この事件は直接、張魯(ちょうろ)が長く漢中(かんちゅう)を占拠し、益州(えきしゅう)と対峙する局面を招いた。
* 倉庫を封じ、曹操(そうそう)に帰降す:曹操(そうそう)の大軍が圧迫し、漢中(かんちゅう)が失陥する際、張魯(ちょうろ)は撤退時に倉庫を焼かず、これを封じることを選び、「宝貨の倉庫は国家のものなり」と述べた。この挙は曹操(そうそう)の称賛を勝ち取り、後の厚遇の礎ともなった。この場面は乱世における張魯(ちょうろ)の得難い「善意」と国家への認同を体現している。
* 楊松(ようしょう)が主を売って栄を求む:演義において、楊松(ようしょう)は個人の利益のために、まず劉備(りゅうび)の賄賂を受け、後にまた曹操(そうそう)の賄賂を受けて忠良を誣告し、最終的に張魯(ちょうろ)の敗北を招いた。曹操(そうそう)は漢中(かんちゅう)を平定した後、楊松(ようしょう)を斬首して衆目に示し、主を売って栄を求める者を戒めとした(演義独自)。この筋立ては演義の虚構ではあるが、物語の劇的な葛藤を大いに強め、楊松(ようしょう)というこの悪役を造形した。
* 劉璋(りゅう しょう)が劉備(りゅうび)を蜀に引き入れて張魯(ちょうろ)に抗す:劉璋(りゅう しょう)は曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)を攻めた後その勢いで益州(えきしゅう)を奪うことを憂え、張松(ちょうしょう)の進言に従い、劉備(りゅうび)を蜀に引き入れ、劉備(りゅうび)の力を借りて張魯(ちょうろ)に対抗し、益州(えきしゅう)を保とうとした。この決定は最終的に劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)に入主することを招き、三国(さんごく)の構図を変えた。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 曹操(そうそう)はかつて彼を「くだらぬ小人物で、取り上げるに足りない」と評した [c:4]。張昭(ちょうしょう)は彼を「自らを守るだけの賊で、決して境を侵しに来る度胸はない」と考えた [c:31]。
- 生涯
- 張魯(ちょうろ)は沛国豊の人で、祖父の張陵は蜀の地の鵠鳴山で道を学び、五斗米道(ごとべいどう)を創立した。張魯は祖業を継承し、劉焉(りゅうえん)の下で督義司馬を務め、のちに張脩を襲殺して漢中(かんちゅう)を占拠した。彼は鬼道をもって民を教え、自ら師君と号し、巴漢に三十年近く雄拠した。建安二十年、曹操(そうそう)が張魯を征討すると、張魯は最終的に一家を率いて帰順し、鎮南将軍・閬中侯(ろうちゅうこう)に封じられた [c:6]。
- 逸話
- 張魯は字を公祺という [c:1]。彼は漢中(かんちゅう)の主であり、また五斗米道(ごとべいどう)の首領でもある [c:9]。彼はかつて劉璋(りゅう しょう)の救援要請を拒んだが、のちに黄権(こうけん)の約束によって劉璋を援けた [c:5]。
人間関係
19 件の関係
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「我向本欲歸命國家,而意未得達;今不得已而出奔,倉廩府庫,國家之有,不可廢也。」
この台詞は、張魯が曹操に帰順する際の政治的知恵と仁義の心を示すもので、歴史的意義を持つ。
「本欲歸命國家,而意未達。今之走,避銳鋒,非有惡意。寶貨倉庫,國家之有。」
正史の記載であり、国家の財産に対する張魯の尊重を示し、その独特な人物像を形づくっている。
登場回13 回 ▸
- 史ch.1ch.8ch.16ch.17ch.18ch.25ch.31ch.32ch.35
- 演ch.59ch.61ch.65ch.67
関係の年表7 条 ▸
史 ch.1
- 曹操(そうそう)§102
defected_to
自巴中将余众降;封列侯
史 ch.8
- 劉焉(りゅうえん)§70
serves
益州牧刘焉以鲁为督义司马
- 劉璋(りゅう しょう)§70
enemy_of
璋杀鲁母家室,鲁遂据汉中
史 ch.25
- 馬超(ばちょう)§15
friend_of
遣大将杨昂以助马超攻冀
史 ch.31
serves
焉遣为督义司马住汉中,斷絕谷閣,殺害漢使
- 劉璋(りゅう しょう)§12
enemy_of
不承顺璋;遂为讎敌(璋杀魯母及弟)
演 ch.67
- 楊松(ようしょう)§18
betrayed_by
卖主求荣,闭门不纳张鲁
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 漢中(かんちゅう)がすでに定まった今、私は曹操(そうそう)に帰順した。このことを思えば、心中に恥じるところがまったくないわけではないし、自分一人の栄辱だけを気にしているわけでもない。曹軍の勢いは盛んで、その進撃を前に旧来の基盤を守り抜くのは
- 陽平関(ようへいかん)が陥落したとの知らせが届き、漢中(かんちゅう)は存亡の瀬戸際に立たされたのだと悟った。かつて関を守っていた頃、弟の張衛(ちょうえい)は、険しい地形を頼みに砦を築き、食糧や物資を十分に備えるよう私に勧めた。私もまた、山や
- 私は張魯(ちょうろ)、字は公祺(こうき)、沛国(はいこく)豊(ほう)の人である。身の上を語るとなれば、祖父の張陵に触れずにはいられない。祖父は蜀に入り、道を学び、道書を作った。学びに来る者から五斗の米を受け取ったため、世間では米賊と呼ばれた
生涯の大事7 ▸
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- 0215-01-01 · 漢中(かんちゅう)曹操の張魯征討(そうそうのちょうろせいとう)· 被害者
- 0215-01-01 · 漢中(かんちゅう)曹操の漢中征討(そうそうのかんちゅうせいとう)· 総大将