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公孫瓚(こうそんさん)

公孫瓚集団(こうそんさんしゅうだん) · 君主

公孫瓚(こうそんさん)

字 伯珪

登場回
17
台詞の記録
17
人間関係
24
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

公孫瓚(こうそんさん)は、字を伯珪といい、遼西令支の人で、その姿が秀麗で声が朗々としていたことから太守に重んじられ、その娘を妻に迎えた。彼はかつて盧植(ろ しょく)に従って経書を学び、後に郡吏となった。太守の劉某が廷尉に召喚された際、公孫瓚は自ら車を御し、徒役の服を着て付き従い、北芒で先人を祭って慷慨と語り、見る者を皆嘆息させた。劉太守は最終的に赦され、公孫瓚もそのため孝廉に挙げられて郎官となり、後に遼東属国長史に遷った。

光和年間、涼州(りょうしゅう)で叛乱が起こると、公孫瓚は命を受けて幽州(ゆうしゅう)の突騎三千人を率いて鎮圧に赴いた。その間、漁陽の張純が叛乱を起こし、公孫瓚は追討の功によって騎都尉に遷った。後に属国の烏丸・貪至王が衆を率いて帰降すると、公孫瓚は中郎将に遷り、都亭侯に封じられ、胡人と数年にわたって交戦した。しかし、丘力居(きゅうりききょ)らの部族が青・徐・幽・冀の四州を略奪し、公孫瓚はこれを有効に食い止めることができなかった。

朝廷は、劉虞(りゅう ぐ)に徳望があり、かつて幽州刺史を務めて恩信が広く行き渡っていたことから、彼を幽州牧に任じた。劉虞は着任すると、使者を遣わして胡人を招撫し、丘力居らの部族はこれを聞いて帰附した。公孫瓚は劉虞の功績を嫉み、ひそかに人を遣わして胡の使者を待ち伏せして殺させた。劉虞は各屯兵の罷免を上奏し、ただ公孫瓚に歩騎一万を率いて右北平に駐屯させるにとどめた。張純は最終的にその客・王政に殺され、首級は劉虞に献じられた。劉虞はこの功によって太尉に拝され、後に大司馬に遷り、公孫瓚は奮武将軍に任じられ、薊侯に封じられた。

董卓(とう たく)の死後、天子は使者を遣わして劉虞の食邑を増やし、六州を督させ、公孫瓚は前将軍に遷って易侯に封じられた。しかし公孫瓚は劉虞が帝位を称しようとしていると讒言し、使者の段訓を脅して劉虞を斬殺させた。この後、公孫瓚は驕慢で傲岸となり、恨みを覚えて恩を忘れ、多く殺戮を行った。劉虞の旧部・鮮于輔(せんうほ)、斉周らは閻柔(えんじゅう)を烏丸司馬に推し、胡漢数万人を募って、公孫瓚が置いた漁陽太守・鄒丹を撃破して斬った。袁紹(えんしょう)もまた麴義と劉虞の子・劉和(りゅうか)を遣わし、兵を率いて鮮于輔と合流して公孫瓚を攻めた。公孫瓚は戦うたびに敗れ、最終的に易京(えきけい)に退いて守った。

公孫瓚は易京に十重の堑壕を築き、その中に高楼を建て、自らは特に高い十丈の中京楼の上に居て、三百万斛余りの食糧を蓄えた。彼は「兵法では、百楼は攻めない」と考え、これによって袁紹を消耗させようとした。袁紹は長く攻めても落とせなかった。建安四年、袁紹は易京を悉く包囲した。公孫瓚は囲みを突こうとしたが、長史の関靖(かんせい)に諫め止められた。彼は人を遣わして子の公孫続(こうそんぞく)に救援を求め、火を挙げて合図とすることを約した。袁紹の斥候がその書信を捕らえ、期日どおりに火を挙げた。公孫瓚は援軍が到着したものと誤認して出戦したが、袁紹の伏兵に大敗し、退いて固守するほかなかった。袁紹はその後、地道を掘ってその高楼を破壊し、次第に中京へ迫った。公孫瓚は敗北を悟り、妻子をことごとく殺した後、自殺した。

演義の記述(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、公孫瓚の人物像にさらに多くの劇的さと情感の色合いが与えられている。彼は初登場の際に劉備(りゅうび)と深い縁をもち、劉備の同窓の兄弟子として描かれている。黄巾軍(こうきんぐん)討伐の後、公孫瓚は劉虞に劉備を推挙し、平原(へいげん)県令の官職を得させた。

董卓が政を乱した際、公孫瓚は兵を率いて十八路諸侯の董卓討伐に加わった。虎牢関の前で、彼は劉備と再会し、袁紹ら諸侯に劉備を引き合わせた。関羽(かんう)が華雄(かゆう)への出陣を願い出ると、袁術(えんじゅつ)はその馬弓手という身分を軽んじたが、公孫瓚は関羽が劉備の義兄弟であり、かつてともに黄巾を破ったことを明確に指摘した。これは、史実では劉備が董卓討伐の時すでに高唐令であり、公孫瓚が引き合わせたという筋立てはないのと異なっている。

小説では、公孫瓚と袁紹の対立がより直接的かつ個人的に描かれている。公孫瓚の弟・公孫越(こうそんえつ)(史書に明記なし)が公孫瓚のために袁紹に冀州(きしゅう)を求めた際、袁紹に董卓の名を借りて射殺され、これが直接の原因となって公孫瓚は怒って兵を起こし袁紹を伐ち、磐河で袁紹と対峙した。この筋立ては両者の間の憎しみを大いに強め、後の戦争の伏線となった。磐河の戦いでは、趙雲(ちょううん)(演義独自)が初めて登場し、文醜(ぶんしゅう)と大いに戦った後、公孫瓚に収容された。

小説における公孫瓚の劉備への引き立てと配慮は終始一貫している。彼は劉備が督郵を鞭打った後、その罪を免れさせただけでなく、たびたび劉備を官に推挙した。劉備が援軍を必要とした際、公孫瓚は気前よく馬歩軍二千を貸し与え、趙雲を随行させることを許した。これにより公孫瓚は劉備の初期の生涯において重要な恩主の役を演じており、史実における劉備が「中郎将・公孫瓚のもとへ赴いた」という記載と一致するが、具体的な筋立てはより豊かにされている。

主要な関係

* 盧植(student_of):公孫瓚はかつて盧植に従って経書を学び、盧植はその師であった。
* 劉虞(enemy_of):公孫瓚と劉虞は幽州で権力闘争にあった。公孫瓚は劉虞の功績を嫉み、最終的に劉虞が帝位を称しようとしていると讒言して、これを殺害した。
* 袁紹(enemy_of):公孫瓚と袁紹は同盟関係から宿敵へと転じた。袁紹はかつて公孫瓚と手を組んで韓馥(かんふく)に対抗したが、後に両者は冀州の帰属および公孫越の死(演義独自)をめぐって反目し、最終的に袁紹は易京で公孫瓚を破り、自殺に追い込んだ。
* 韓馥(enemy_of):公孫瓚はかつて袁紹と手を組み、董卓討伐を名目に、実は韓馥の冀州を狙った。韓馥は最終的に袁紹の威圧と利誘のもと、冀州を袁紹に譲った。
* 公孫瓚集団(こうそんさんしゅうだん)(lord_of):公孫瓚はその集団の指導者で、麾下に関靖、鄒丹ら多くの将や謀士を擁していた。
* 劉備(恩主/引き立てられた者):公孫瓚は劉備の初期の恩主であった。彼はかつて劉備を官に推挙し、劉備が必要とする時に助けと兵力を提供した。
* 趙雲(演義独自、部下):演義では、趙雲は当初公孫瓚の指揮下にあり、後に劉備に従って転戦した。

象徴的な場面

* 北芒で先祖を祭る:公孫瓚は連座した太守・劉某を護送する際、北芒で先人を祭り、慷慨と語って忠義の情を吐露し、見る者を感動させた。この挙はその孝義と果敢な一面を示している。
* 塞外で胡を刺す:公孫瓚はかつて数十騎を率いて塞外に出て、数百の鮮卑の騎兵に遭遇した。彼は両頭に刃のついた長矛を手に敵陣に突入し、数十人を殺傷して、見事に脱出した。この戦いによって鮮卑人は再び軽々しく塞内に入ることをしなくなり、公孫瓚の勇猛と智謀を顕した。
* 磐河の戦い(演義独自):公孫瓚は弟・公孫越が袁紹の計略で殺されたため(演義独自)、怒って兵を発し、磐河で袁紹と対峙した。この戦いで、公孫瓚は袁紹と川を隔てて罵り合い、趙雲が初めて登場して文醜と大いに戦う見事な描写がある。
* 易京の固守:公孫瓚は袁紹との戦いでたびたび敗れ、最終的に易京に退き、十重の堑壕と高楼を築いて長期の固守を図った。彼は特に高い十丈の中京楼の上に居て、大量の食糧を蓄え、「百楼は攻めない」と考えて、これによって袁紹を消耗させようとした。
* 易京での自殺:袁紹が地道戦術をとって、次第に易京の防御を破った後、公孫瓚は大勢が去ったことを悟り、妻子をことごとく殺してから、自ら焼身して死んだ。この結末は悲壮で凄惨であり、その軍事生涯の終わりを示している。
* 虎牢関で劉備を引き合わせる(演義独自):十八路諸侯が董卓を討伐した際、公孫瓚は袁紹らに劉備を引き合わせ、関羽が華雄への出陣を願った際にこれを弁護し、劉備への重んじと兄弟の情誼を示した。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
公孫瓚(こうそんさん)は容姿端麗で、声が大きかった。
性格
公孫瓚は慷慨で果敢であったが、剛愎で人の過ちを覚えて善を忘れた。彼は旧誼を重んじて友を思いやり、玄徳(げんとく)の才を見抜いて推挙した。
生涯
公孫瓚は遼西令支の人で、郡の門下書佐から身を起こし、のちに盧植(ろ しょく)に従って経書を学んだ。彼はかつて韓馥(かんふく)の安平の軍を撃破し、兵を率いて冀州(きしゅう)に入り、劉虞(りゅう ぐ)と対立して劉虞を殺し、幽州(ゆうしゅう)を併呑した。最終的に建安四年、易京(えきけい)に籠城したが、袁紹(えんしょう)に敗れて自殺した。
武器
公孫瓚は両端に刃を施した矛を用いた。
逸話
公孫瓚は字を伯珪といい、「白馬将軍」と号した。幽州(ゆうしゅう)の軍閥であり、劉備(りゅうび)の少年時代の遊学の友かつ旧主であった。

人間関係

24 件の関係

名言

全 17 件の台詞 · 厳選 3 件

「如此可謂埋沒英雄!今董卓作亂,天下諸侯,共往誅之。賢弟可棄此卑官,一同討賊,力扶漢室,若何?」

演 第5回→ 劉備(りゅうび)

この一句は公孫瓚(こうそんさん)が劉備(りゅうび)を引き立てた様子を示し、その初期の豪放な気概を表している。

「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」

史 第8回

この一句は公孫瓚(こうそんさん)の後期における戦略思想の転換、すなわち進取から保守への変化を反映している。

「曹操與君無讎,何苦替人出力?」

演 第11回→ 劉備(りゅうび)

この一句は公孫瓚(こうそんさん)と曹操(そうそう)の対立、および劉備(りゅうび)への説得を明らかにし、その政治的立場を表している。

登場回17 回 ▸
  • 史ch.1ch.6ch.8ch.11ch.14ch.17ch.26ch.30ch.32
  • 演ch.1ch.2ch.5ch.6ch.7ch.11ch.21ch.28
関係の年表12 条 ▸

史 ch.6

史 ch.8

史 ch.32

演 ch.2

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.7

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私はここまで来た。易京(えきけい)の城楼は今にも崩れそうで、袁紹(えんしょう)の軍勢は日ごとに迫っている。あの頃を振り返れば、黄巾の乱が起こったとき、私もまた兵を率いて賊を討った。その後、劉備(りゅうび)が敗れて頼ってくると、私は彼を別部司
  • 私は公孫瓚(こうそんさん)、字は伯珪である。この時、兵勢はまさに盛んで、青州・徐州の黄巾賊を破った後、兵の数はますます増えた。袁紹(えんしょう)もまた渤海の兵を率いて援軍に来たため、私はついに界橋(かいきょう)へ進軍した。隊列の中では旗と太
  • 私は公孫瓚(こうそんさん)、字は伯珪(はくけい)、遼西の令支(れいし)の人である。かつて郡の門下で書佐を務めていた頃、容姿や声、物腰を太守に大いに評価されていた。公務を報告するたび、私は簡単に述べるだけでは済ませず、いくつもの曹の事務をまと
生涯の大事7 ▸