
史載(Historical Record)
周瑜(しゅうゆ)は、字を公瑾といい、廬江(ろこう)舒県の人である。その従祖父・周景、景の子・周忠はいずれもかつて漢朝の太尉を務め、父・周異はかつて洛陽(らくよう)令を務めた c:992。彼は容貌が秀麗で、姿態が傑出していた。孫堅(そん けん)が挙兵して董卓(とう たく)を討伐した際、家を舒県に移し、周瑜(しゅうゆ)は孫堅(そん けん)の長子・孫策(そん さく)と同年で、二人の関係はきわめて良く、周瑜(しゅうゆ)は自家の南側の大邸を孫策(そん さく)に住まわせ、家族のように孫策(そん さく)の母を拝し、互いに有無を通じ合った c:992。
建安三年(一九八年)、周瑜(しゅうゆ)の従父・周尚が丹楊太守を務めており、周瑜(しゅうゆ)はその許へ赴いた。ちょうど孫策(そん さく)が長江を東に渡る準備をしており、歷陽に達したとき、書を送って周瑜(しゅうゆ)を召し寄せた。周瑜(しゅうゆ)は兵を率いて孫策(そん さく)を迎え、孫策(そん さく)は周瑜(しゅうゆ)に会って非常に喜び、「われ卿を得て、事は成る」と称した c:992。続いて、周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)に従って横江・当利を攻め、いずれも攻略した。江を渡った後、また秣陵を攻め、笮融(さくゆう)・薛礼(せつれい)を撃破し、続いて湖孰・江乗を攻め下し、曲阿に入った。劉繇(りゅう よう)が敗走した後、孫策(そん さく)の軍はすでに数万人に達した。孫策(そん さく)は周瑜(しゅうゆ)に言った。「われはこの兵力で呉会を攻め取り、山越を平定するに十分だ。そなたは丹楊に戻って鎮守せよ」。周瑜(しゅうゆ)はそこで丹楊に戻った。ほどなく、袁術(えんじゅつ)はその従弟・袁胤(えんいん)を遣わして周尚に代えて丹楊太守とし、周瑜(しゅうゆ)は周尚とともに寿春(じゅしゅん)に返った。袁術(えんじゅつ)は周瑜(しゅうゆ)を将に任じようとしたが、周瑜(しゅうゆ)は袁術(えんじゅつ)が結局大事を成しがたいと見抜き、居巣長を願い出て、道を借りて東に帰ろうとした。袁術(えんじゅつ)が同意すると、周瑜(しゅうゆ)は居巣から呉の地に返った c:992。
孫策(そん さく)は自ら周瑜(しゅうゆ)を迎え、彼を建威中郎将に任じ、二千の兵士と五十匹の戦馬を与えた c:994。当時、周瑜(しゅうゆ)はわずか二十四歳で、呉の人々は皆彼を「周郎」と呼んだ。周瑜(しゅうゆ)の廬江(ろこう)における恩信は遠くまで広まり、後に出兵して牛渚を守り、春谷長を兼ねた。ほどなく、孫策(そん さく)は荊州(けいしゅう)を攻め取ろうとし、周瑜(しゅうゆ)を中護軍に任じ、江夏(こうか)太守を兼領させ、軍に従って皖城を攻め、これを攻略した。この間、彼らは橋公の二人の娘を得たが、いずれも絶世の美女であった。孫策(そん さく)は大喬(だいきょう)を娶り、周瑜(しゅうゆ)は小喬(しょうきょう)を娶った c:994。
建安五年(二〇〇年)、孫策(そん さく)が死去し、孫権(そん けん)が継位した。周瑜(しゅうゆ)は兵を率いて喪に奔り、続いて呉の地に留まり、中護軍の身分で長史・張昭(ちょうしょう)とともに軍政の事務を掌った c:4972。建安十三年(二〇八年)、曹操(そうそう)が南下し、劉表(りゅう ひょう)の子・劉琮(りゅうそう)が降伏した。劉備(りゅうび)は夏口(かこう)まで南に退き、諸葛亮(しょかつりょう)を遣わして東呉へ援けを求めた。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)の進言を採り、曹操(そうそう)に抗することを決めた。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)を左右の督に任じ、それぞれ一万人を率いさせ、劉備(りゅうび)と連合して赤壁(せきへき)で曹操(そうそう)軍を大破し、その船を焼いた c:991。曹操(そうそう)軍は飢饉と疫病で死ぬ者が大半となり、やむなく北に退いた。劉備(りゅうび)と周瑜(しゅうゆ)らは南郡(なんぐん)まで追った c:990。
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の後、孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)を偏将軍に任じ、南郡(なんぐん)太守を兼領させ、下隽・漢昌・劉陽・州陵をその封邑として割き当て、江陵(こうりょう)を守らせた。劉備(りゅうび)は左将軍の身分で荊州(けいしゅう)牧を兼領し、公安に駐屯した。劉備(りゅうび)が京城へ赴いて孫権(そん けん)に拝謁した際、周瑜(しゅうゆ)は上疏して孫権(そん けん)に、劉備(りゅうび)を呉の地に移し、美人と玩好でその耳目を娯しませ、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)を引き離し、周瑜(しゅうゆ)らが劉備(りゅうび)とともに戦って大事を成せるようにと進言した。彼は、もし土地を割いて劉備(りゅうび)を援助し、三人をともに辺境に置けば、蛟龍が雲雨を得て、ついに池中の物でなくなることを恐れた。しかし孫権(そん けん)は、曹操(そうそう)が北方にあり、広く英雄を招く必要があり、また劉備(りゅうび)を制しがたいことを恐れて、これを採らなかった c:4973。
当時、劉璋(りゅう しょう)が益州(えきしゅう)牧を務め、外には張魯(ちょうろ)の侵攻があった。周瑜(しゅうゆ)は京城へ赴いて孫権(そん けん)に拝謁し、曹操(そうそう)が新たに敗れて南を顧みる暇のない隙に乗じて、奮威将軍とともに益州(えきしゅう)を攻め取り、張魯(ちょうろ)を収めたのち、奮威将軍を留めて益州(えきしゅう)を鎮め、馬超(ばちょう)と結盟するよう進言した。周瑜(しゅうゆ)は孫権(そん けん)と襄陽(じょうよう)に拠って曹操(そうそう)の北伐を図るとした。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)の計画に同意した。周瑜(しゅうゆ)は江陵(こうりょう)に戻って装備を整えたが、巴丘(はきゅう)で病没し、わずか三十六歳であった c:4973。孫権(そん けん)はこれがために素服して哀を挙げ、左右を感動させた。周瑜(しゅうゆ)の柩が呉の地に運ばれた際、孫権(そん けん)はまた芜湖で迎え、すべての喪葬の費用を負担した。後に孫権(そん けん)は命じた。「故将軍・周瑜(しゅうゆ)、程普(ていふ)、その人客あらば、皆問うことなかれ」 c:4973 周瑜(しゅうゆ)には二男一女があり、娘は太子・孫登(そん とう)に嫁いだ。長子・周循(しゅうじゅん)は公主を娶り、騎都尉を拝し、周瑜(しゅうゆ)の風があったが、早世した。次子・周胤(しゅういん)は初め興業都尉を拝し、宗室の女を娶り、兵千人を領して公安に屯したが、後に罪により廬陵郡へ徙された c:996。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、周瑜(しゅうゆ)の姿は、容貌秀麗で才華にあふれた儒将として造形されているが、性格上は心が狭く賢を妬む彩りを帯びており、とりわけ諸葛亮(しょかつりょう)との度重なる智の闘いに体現されている。演義における周瑜(しゅうゆ)と孫策(そん さく)の出会いは、より劇的に描かれている。孫堅(そん けん)が董卓(とう たく)を討った際、周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)と同年で、兄弟の契りを結び、周瑜(しゅうゆ)の叔父・周尚は丹陽太守で、周瑜(しゅうゆ)は親を訪ねに赴き、ちょうど孫策(そん さく)と出会った c:997。孫策(そん さく)は大いに喜び、「われ公瑾を得て、大事は成る」と称し、周瑜(しゅうゆ)の進言を採って、張昭(ちょうしょう)・張紘の二賢を招聘した c:9210。
孫策(そん さく)は臨終の際、母・呉夫人(ごふじん)に言った。「もし内事が決せぬなら、張昭(ちょうしょう)に問え。外事が決せぬなら、周瑜(しゅうゆ)に問え。恨むらくは周瑜(しゅうゆ)がここにおらず、面と向かって嘱することができぬことだ」 c:998 孫策(そん さく)はまた妻の乔夫人に嘱し、小喬(しょうきょう)に伝えて、周瑜(しゅうゆ)に心を尽くして孫権(そん けん)を輔けさせるようにと言った。周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)の死を聞き、夜を日に継いで喪に奔り、霊柩の前で哭拝し、呉夫人(ごふじん)と孫権(そん けん)に忠心を示し、「肝脳を地に塗り、知己の恩に報いる」と表した c:4974c:999。彼はまた孫権(そん けん)に魯粛(ろしゅく)を推薦し、「胸に韜略を懐き、腹に機謀を隠す」と称し c:1000、自ら赴いて魯粛(ろしゅく)を招聘し、最終的に魯粛(ろしゅく)を説き伏せて孫権(そん けん)に帰附させた c:9219。
曹操(そうそう)が孫権(そん けん)に子を朝廷へ入質させようとした際、演義では張昭(ちょうしょう)らが子を遣わすことを主張し、周瑜(しゅうゆ)は遣わさぬことを力説し、「将軍は父兄の遺業を承け、六郡の衆を兼ね、兵は精しく糧は足り、将士は命を用ゆ。何の逼迫ありて人に質を送らんと欲するや」と考えた c:9220。最終的に呉夫人(ごふじん)が周瑜(しゅうゆ)の言を採り、孫権(そん けん)は子を遣わさなかった。これは史実における、周瑜(しゅうゆ)が呉夫人(ごふじん)と私かに議を定め、公開の弁論ではなかったのとは異なる c:4972。
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、演義では周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)の智の闘いが大いに渲染されている。曹操(そうそう)の大軍が迫ると、東呉の文武は降を主張する派と戦を主張する派に分かれた。張昭(ちょうしょう)ら文官は降を主張し、程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)ら武将は戦を主張した c:9223c:9226。周瑜(しゅうゆ)は表面上は両派の意見にいずれも明確な態度を示さなかったが、実は心中すでに戦の意があった c:9229c:9231。諸葛亮(しょかつりょう)との対話において、周瑜(しゅうゆ)はまず偽って曹操(そうそう)に降ろうとする意を示し、諸葛亮(しょかつりょう)を試した c:1001。諸葛亮(しょかつりょう)は「二喬」の計で周瑜(しゅうゆ)を怒らせ、曹操(そうそう)が大喬(だいきょう)小喬(しょうきょう)を得て銅雀台に置こうとしていると称し、曹植(そうしょく)の『銅雀台賦』を誦んで証とした c:9237c:9238。周瑜(しゅうゆ)は聞いて勃然と怒り、北を指して罵った。「老賊、われを欺くことはなはだし」 c:1002 諸葛亮(しょかつりょう)はこのとき初めて「うろたえる様を装い」、大喬(だいきょう)が孫策(そん さく)の妻、小喬(しょうきょう)が周瑜(しゅうゆ)の妻であることを知らなかったと表した。周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)に抗する決意を固め、諸葛亮(しょかつりょう)とともに曹を破ることを約した c:1002。
孫権(そん けん)の前で、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)の南征の四つの忌みを力説した。「北土いまだ平らがず、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)はその後患たり、しかるに操久しく南征す、一の忌みなり。北軍は水戦に慣れず、操は鞍馬を舍て、舟楫に仗り、東呉と争衡す、二の忌みなり。また時は隆冬の盛寒に値い、馬に蒿草なし、三の忌みなり。中国の士卒を駆り、遠く江湖を渉らせ、水土に服せず、多く疾病を生ず、四の忌みなり」 c:1003 孫権(そん けん)は聞いて大いに喜び、剣を抜いて案の角を斫り、曹に抗することを誓い、剣を周瑜(しゅうゆ)に賜って、彼を大都督に封じた c:4977。続いて、周瑜(しゅうゆ)はまた孫権(そん けん)に曹操(そうそう)軍の実際の兵力を分析し、曹操(そうそう)が率いる中国の兵は十五、六万に過ぎず、得た袁氏の衆も七、八万に過ぎず、しかも多くは疲弊し服さぬ者だと指摘し、「瑜、五万の兵を得れば、自ずから之を破るに足る」と表し c:9258、孫権(そん けん)の疑いを徹底的に打ち消した。
主要な関係
* 孫堅(そん けん)集団:周瑜(しゅうゆ)と孫策(そん さく)は総角の交わりで、情は手足のごとく、孫策(そん さく)はかつて「われ卿を得て、事は成る」と称した c:992。孫策(そん さく)が死去した後、周瑜(しゅうゆ)は心を尽くして孫権(そん けん)を輔け、孫権(そん けん)は彼を厚く信任し、「公瑾のこの言は、わが疑いを釈くに足る。子布は謀なく、深くわが望みを失わしむ。ただ卿と子敬とわれと心を同じくするのみ」と称した c:9258。
* 曹操(そうそう):周瑜(しゅうゆ)は孫呉(そんご)集団が曹操(そうそう)に抗する核心人物であり、とりわけ赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において、主帥として曹操(そうそう)軍を大破した c:990。演義において、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)を深く憎悪し、両立せぬことを誓った c:1002。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん):赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において、周瑜(しゅうゆ)は劉備(りゅうび)と手を結んで曹に抗したが、戦後、周瑜(しゅうゆ)はかつて孫権(そん けん)に劉備(りゅうび)を呉の地に移して、その勢力増大を防ぐよう進言した c:4973。演義において、周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)の間には複雑な協力と競争の関係があり、周瑜(しゅうゆ)は幾度も諸葛亮(しょかつりょう)を害そうとしたが、いずれも成功しなかった(演義のみ)。
* 周景:周瑜(しゅうゆ)の従祖父で、かつて漢朝の太尉を務めた c:992。
* 魯粛(ろしゅく):周瑜(しゅうゆ)が孫権(そん けん)に推薦した賢士で、二人の関係は密接であり、孫呉(そんご)集団の重要な謀士である c:1000。
* 小喬(しょうきょう):周瑜(しゅうゆ)の妻で、孫策(そん さく)の妻・大喬(だいきょう)とともに「二喬」と並び称される c:994。演義において、曹操(そうそう)が二喬を垂涎し、周瑜(しゅうゆ)が曹に抗する導火線の一つとなった(演義のみ)。
象徴的な場面
* 孫策(そん さく)との交わり:周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)と少年期に知り合い、情は手足のごとく、周瑜(しゅうゆ)は自家の大邸を孫策(そん さく)に住まわせ、家族のように孫策(そん さく)の母を拝し、互いに有無を通じ合った c:992。演義では、二人が出会った際、孫策(そん さく)は大いに喜び、「われ公瑾を得て、大事は成る」と称した c:997。
* 小喬(しょうきょう)を娶る:孫策(そん さく)に従って皖城を攻略した後、周瑜(しゅうゆ)は橋公の次女・小喬(しょうきょう)を娶り、孫策(そん さく)は大喬(だいきょう)を娶り、「二喬」の佳話を成した c:994。
* 赤壁の戦い(せきへきのたたかい):周瑜(しゅうゆ)は孫呉(そんご)連合軍の主帥として、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において曹操(そうそう)軍を大破し、その舟船を焼き、三国(さんごく)鼎立の基礎を築いた c:990。これは周瑜(しゅうゆ)の軍事生涯の頂点である。
* 孫権(そん けん)に曹への抗戦を勧める:曹操(そうそう)の大軍が迫った際、周瑜(しゅうゆ)は衆議を排し、孫権(そん けん)の曹に抗する決意を固め、曹軍の弱点を詳しく分析し、最終的に孫劉連合軍の形成を促した c:995。演義では、周瑜(しゅうゆ)は「二喬」の計によって孫権(そん けん)を怒らせ、曹に抗する決心を固めさせた(演義のみ) c:1002。
* 巴丘(はきゅう)で病没:周瑜(しゅうゆ)は益州(えきしゅう)を攻め取る準備をしている折、不幸にも巴丘(はきゅう)で病没し、わずか三十六歳であった c:4973。孫権(そん けん)はこれがために素服して哀を挙げ、周瑜(しゅうゆ)への重視と哀痛がうかがえる。
* 三たび周瑜(しゅうゆ)を気づかせる:演義において、諸葛亮(しょかつりょう)は幾度も計謀を用いて周瑜(しゅうゆ)を激昂させ、最終的に周瑜(しゅうゆ)は「既に瑜を生みて、何ぞ亮を生みしや」の悲嘆のうちに死んだ(演義のみ)。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 周瑜(しゅうゆ)は逞しく体格が良く姿かたちが立派で、資質は風流、容姿は秀麗であった [c:21, c:22]。
- 性格
- 周瑜は度量が広く、おおむね人望を得ており、若くして音楽に精通していた [c:8]。彼は才略が人並み優れ、孫策(そん さく)と義兄弟の契りを結び、犬馬の労を尽くした [c:9]。同時に、彼は智に富み決断力があったが、賢を妬み能ある者を忌み、度量が狭く勝ち気であった [c:12, c:15, c:16]。
- 話し方
- 周瑜の言葉の特徴は、笑いながら冷ややかに嘲り、故事を引いてみずからに託し、要点を列挙し、また常に硬く重い誓いの言葉を発する点にある [c:60, c:61]。
- 生涯
- 周瑜は建安十五年(おおよそ)に卒し、享年三十六、巴丘(はきゅう)で病没した [c:18]。彼はかつて水軍数万を率いて先主とともに力を合わせ赤壁(せきへき)で曹操と戦った [c:17]。臨終の前には「既に瑜を生みながら、何ぞ亮を生みしか」と長嘆し、また遺書して魯粛(ろしゅく)を自分の代わりに推挙した [c:20]。
- 逸話
- 周瑜はかつて南郡(なんぐん)太守を務めた [c:1]。彼はかつて霊柩の前にひれ伏して「敢えて犬馬の労を尽くさざらんや、これに継ぐに死をもってせん」と誓い、また孫権(そん けん)に魯粛(ろしゅく)を推挙した [c:2]。
人間関係
97 件の関係
親族2
君臣3
友人6
敵対15
師弟1
その他63
名言
全 206 件の台詞 · 厳選 3 件
「大丈夫處世,遇知己之主,外託君臣之義,內結骨肉之恩,言必行,計必從,禍福共之,假使蘇秦、張儀、陸賈、酈生復出,口似懸河,舌如利刃,安能動我心哉!」
この一句は、周瑜(しゅうゆ)の二心なき忠誠と高い志を示し、その人物像を映す名場面である。
「操雖託名漢相,實為漢賊。將軍以神武雄才,仗父兄餘業,據有江東,兵精糧足,正當橫行天下,為國家除殘去暴,奈何降賊耶?且操今此來,多犯兵家之忌:北土未平,馬騰、韓遂為其後患,而操久於南征,一忌也;北軍不諳水戰,操捨鞍馬,仗舟楫,與東吳爭衡,二忌也;又時值隆冬盛寒,馬無蒿草,三忌也;驅中國士卒,遠涉江湖,不服水土,多生疾病,四忌也。操兵犯此數忌,雖多必敗。將軍擒操,正在今日。瑜請得精兵數千,進屯夏口,為將軍破之!」
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)への対抗を強く主張し、曹操の四つの弱点を分析して、その卓越した軍事的才能を示した。
「既生瑜,何生亮!」
『既に瑜を生みながら、なぜ亮を生んだのか』は、周瑜(しゅうゆ)が臨終の際に諸葛亮(しょかつりょう)へ漏らした嘆きであり、広く伝わって、周瑜と諸葛亮の宿命的な競争心の代名詞となっている。
登場回28 回 ▸
- 史ch.9ch.17ch.32ch.35ch.37ch.46ch.47ch.51ch.54ch.55ch.56
- 演ch.15ch.29ch.38ch.39ch.44ch.45ch.46ch.47ch.48ch.49ch.51ch.52ch.53ch.54ch.55ch.56ch.57
関係の年表67 条 ▸
史 ch.32
- 曹操(そうそう)§13
fights_in
率水军数万与先主并力,与曹公战于赤壁,大破之
史 ch.47
- 曹操(そうそう)§10
fights_in
赤壁主帅大破曹公
史 ch.54
演 ch.15
- 孫策(そん さく)§10
oath_brother
同年、结为昆仲;策长瑜两月、瑜以兄事策;愿施犬马之力共图大事
演 ch.29
- 小喬(しょうきょう)§26
spouse_of
夫妻(由策临终嘱大乔「早晚汝妹入见,可嘱其转致周郎」间接指明)
- 孫権(そん けん)§34
advises_in
顿首称「愿以肝脑涂地,报知己之恩」
- 魯粛(ろしゅく)§35
friend_of
居巢长时受鲁肃赠米一囷三千斛;本回亲往聘鲁肃同投东吴
演 ch.44
- 魯粛(ろしゅく)§6
rival_of
佯言纳降以试鲁肃;二人互相争辩
- 小喬(しょうきょう)§33
spouse_of
小喬乃瑜之妻
- 孫権(そん けん)§36
advises_in
数曹操"四忌",请精兵数千进屯夏口为将军破之
- 諸葛亮(しょかつりょう)§41
rival_of
暗忖"高我一头,久必为江东之患,不如杀之"
- 韓当(かんとう)§43
commands_in
差为前部先锋,领本部战船下寨三江口
- 黄蓋(こうがい)§43
commands_in
差为前部先锋,领本部战船下寨三江口
- 蔣欽(しょうきん)§43
commands_in
调拨为第二队
- 周泰(しゅうたい)§43
commands_in
调拨为第二队
- 凌統(りょうとう)§43
commands_in
调拨为第三队
- 潘璋(はんしょう)§43
commands_in
调拨为第三队
- 太史慈(たいし じ)§43
commands_in
调拨为第四队
- 呂蒙(りょもう)§43
commands_in
调拨为第四队
- 陸遜(りくそん)§43
commands_in
调拨为第五队
- 董襲(とうしゅう)§43
commands_in
调拨为第五队
- 呂範(りょはん)§43
commands_in
差为四方巡警使
- 朱治(しゅち)§43
commands_in
差为四方巡警使
演 ch.45
演 ch.46
rival_of
因孔明洞察反间计、料定曹操换水军都督之事,公瑾欲斩之;遂以监造十万箭为公道之由相逼
rival_of
借公事索十万箭、暗令军匠迟延不齐物料以陷孔明于必死
- 諸葛亮(しょかつりょう)§43
rival_of
借箭事毕,周瑜叹"孔明神机妙算,吾不如也"
- 諸葛亮(しょかつりょう)§48
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二人各暗写掌中字,皆为"火",定下火攻之议
- 甘寧(かんねい)§50
commands_in
密令甘宁殷勤相待蔡中蔡和、就裏隄防、出兵之日先杀二人祭旗
- 黄蓋(こうがい)§54
commands_in
帐前借口降议震怒,喝令斩之;众官苦谏方改责脊杖五十
演 ch.47
演 ch.49
- 諸葛亮(しょかつりょう)§11
遣将刺杀
- 甘寧(かんねい)§18
遣兵分路出击
- 太史慈(たいし じ)§18
遣兵断合淝援兵
- 呂蒙(りょもう)§18
遣兵接应乌林
- 凌統(りょうとう)§18
遣兵彝陵接应
- 董襲(とうしゅう)§18
遣兵攻汉阳
- 潘璋(はんしょう)§18
遣兵接应汉阳
- 蔡和§29
祭旗斩杀
演 ch.51
演 ch.52
演 ch.54
演 ch.55
演 ch.56
- 魯粛(ろしゅく)§17
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頓足曰「子敬又中諸葛亮之計也」;獻「假途滅虢」之計授魯肅再往荊州
- 諸葛亮(しょかつりょう)§17
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獻假途滅虢之計欲擒玄德奪荊州雪恨;至荊州城下被趙雲喝破,箭瘡復裂墬於馬下
演 ch.57
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 江風が江陵(こうりょう)を吹き渡ると、かつて伯符(Hakufu)に従って事業を興した頃を、いつも思い出す。若くして重任を担い、後には張昭(ちょうしょう)とともに諸事を取り仕切った。主君は大事を私に託された。私が考えていたのは、初めから一城一
- 江風がここまで吹き渡り、旌旗を揺らすとともに、人々の心をいっそう落ち着かせた。曹公(そうこう)は荊州(けいしゅう)の軍勢を擁し、勢いは大いに盛んであった。書状を寄越して水軍八十万と称し、それを聞いた諸議者は顔色を失い、こぞって主君に降伏を勧
- 昔、私が若かった頃、孫伯符(そんはくふ)と知り合い、世を救おうという志があると聞いて、犬馬の力を尽くして助けたいと願った。互いに心を通わせたのは、一時の名声のためだけではない。江東は広く人も多い。何かを成し遂げようとするなら、まず賢士を招き
生涯の大事29 ▸
- 0196-01-01 · 涇県(けいけん)太史慈、孫策に帰順(たいしじ、そんさくにきじゅん)· 軍師
- 0199-01-01 · 曲阿孫策の江東平定戦(そんさくのこうとうへいていせん)· 総大将
- 0199-01-01 · 廬江(ろこう)孫策の廬江攻略(そんさくのろこうこうりゃく)· 総大将
- 0200-01-01 · 呉県(ごけん)孫権の継位(そんけんのけいい)· 総大将
- 0200-01-01 · 丹徒(たんと)孫策の臨終における孫権への権限委譲(そんさくのりんじゅうにおけるそんけんへのけんげんいじょう)· 軍師
- 0200-01-01 · 歷陽孫策の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)· 総大将
- 0203-01-01 · 呉県(ごけん)孫権、子の入朝を拒否(そんけん、このにゅうちょうをきょひ)· 軍師
- 0208-01-01 · 赤壁(せきへき)七星壇の祭風(しちせいだんのさいふう)· 総大将
- 0208-01-01 · 柴桑(さいそう)周瑜都督就任(しゅうゆととくしゅうにん)· 総大将
- 0208-01-01 · 柴桑(さいそう)孫権の抗曹決断(そんけんのこうそうけつだん)· 総大将
- 0208-01-01 · 柴桑(さいそう)江東の抗曹決策(こうとうのこうそうけっさく)· 総大将
- 0208-01-01 · 江夏(こうか)江夏の戦い(こうかのたたかい)· 総大将
- 0208-01-01 · 江陵(こうりょう)江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 総大将
- 0208-01-01 · 赤壁(せきへき)赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
- 0208-01-01 · 赤壁(せきへき)苦肉計(くにくけい)· 総大将
- 0208-01-01 · 長江赤壁段草船借箭(そうせんしゃくせん)· 首謀者
- 0208-01-01 · 赤壁(せきへき)赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
- 0209-01-01 · 南徐(なんじょ)劉備の呉入り(りゅうびのごいり)· 首謀者
- 0209-01-01 · 劉郎浦劉備の呉脱出(りゅうびのごだっしゅつ)· 首謀者
- 0209-01-01 · 江陵(こうりょう)江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 総大将
- 0209-01-01 · 江陵(こうりょう)周瑜の矢傷と詐死(しゅうゆのやきずとさし)· 総大将
- 0209-01-01 · 夷陵(いりょう)甘寧の夷陵攻略(かんねいのいりょうこうりゃく)· 総大将
- 0209-01-01 · 夷陵(いりょう)甘寧の夷陵守備(かんねいのいりょうしゅび)· 総大将
- 0209-01-01 · 南郡(なんぐん)趙雲(ちょううん)が南郡を奪取· 被害者
- 0210-01-01 · 荊州(けいしゅう)荊州の借用(けいしゅうのしゃくよう)· 軍師
- 0210-01-01 · 江陵(こうりょう)周瑜の假途滅虢(しゅうゆのかとめっかく)· 首謀者
- 0210-01-01 · 巴丘(はきゅう)周瑜の取蜀の謀(しゅうゆのしょくをとるのはかりごと)· 首謀者
- 0210-01-01 · 巴丘(はきゅう)周瑜、巴丘に病没(しゅうゆ、ばきゅうにびょうぼつ)· 戦死
- 0210-01-01 · 荊州(けいしゅう)魯肅討荊州· 総大将