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周瑜(しゅうゆ)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 大都督

周瑜(しゅうゆ)

字 公瑾

登場回
28
台詞の記録
206
人間関係
97
内面の独白
3

史載(Historical Record)

周瑜(しゅうゆ)は、字を公瑾といい、廬江(ろこう)舒県の人である。その従祖父・周景、景の子・周忠はいずれもかつて漢朝の太尉を務め、父・周異はかつて洛陽(らくよう)令を務めた c:992。彼は容貌が秀麗で、姿態が傑出していた。孫堅(そん けん)が挙兵して董卓(とう たく)を討伐した際、家を舒県に移し、周瑜(しゅうゆ)は孫堅(そん けん)の長子・孫策(そん さく)と同年で、二人の関係はきわめて良く、周瑜(しゅうゆ)は自家の南側の大邸を孫策(そん さく)に住まわせ、家族のように孫策(そん さく)の母を拝し、互いに有無を通じ合った c:992。

建安三年(一九八年)、周瑜(しゅうゆ)の従父・周尚が丹楊太守を務めており、周瑜(しゅうゆ)はその許へ赴いた。ちょうど孫策(そん さく)が長江を東に渡る準備をしており、歷陽に達したとき、書を送って周瑜(しゅうゆ)を召し寄せた。周瑜(しゅうゆ)は兵を率いて孫策(そん さく)を迎え、孫策(そん さく)は周瑜(しゅうゆ)に会って非常に喜び、「われ卿を得て、事は成る」と称した c:992。続いて、周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)に従って横江・当利を攻め、いずれも攻略した。江を渡った後、また秣陵を攻め、笮融(さくゆう)・薛礼(せつれい)を撃破し、続いて湖孰・江乗を攻め下し、曲阿に入った。劉繇(りゅう よう)が敗走した後、孫策(そん さく)の軍はすでに数万人に達した。孫策(そん さく)は周瑜(しゅうゆ)に言った。「われはこの兵力で呉会を攻め取り、山越を平定するに十分だ。そなたは丹楊に戻って鎮守せよ」。周瑜(しゅうゆ)はそこで丹楊に戻った。ほどなく、袁術(えんじゅつ)はその従弟・袁胤(えんいん)を遣わして周尚に代えて丹楊太守とし、周瑜(しゅうゆ)は周尚とともに寿春(じゅしゅん)に返った。袁術(えんじゅつ)は周瑜(しゅうゆ)を将に任じようとしたが、周瑜(しゅうゆ)は袁術(えんじゅつ)が結局大事を成しがたいと見抜き、居巣長を願い出て、道を借りて東に帰ろうとした。袁術(えんじゅつ)が同意すると、周瑜(しゅうゆ)は居巣から呉の地に返った c:992。

孫策(そん さく)は自ら周瑜(しゅうゆ)を迎え、彼を建威中郎将に任じ、二千の兵士と五十匹の戦馬を与えた c:994。当時、周瑜(しゅうゆ)はわずか二十四歳で、呉の人々は皆彼を「周郎」と呼んだ。周瑜(しゅうゆ)の廬江(ろこう)における恩信は遠くまで広まり、後に出兵して牛渚を守り、春谷長を兼ねた。ほどなく、孫策(そん さく)は荊州(けいしゅう)を攻め取ろうとし、周瑜(しゅうゆ)を中護軍に任じ、江夏(こうか)太守を兼領させ、軍に従って皖城を攻め、これを攻略した。この間、彼らは橋公の二人の娘を得たが、いずれも絶世の美女であった。孫策(そん さく)は大喬(だいきょう)を娶り、周瑜(しゅうゆ)は小喬(しょうきょう)を娶った c:994。

建安五年(二〇〇年)、孫策(そん さく)が死去し、孫権(そん けん)が継位した。周瑜(しゅうゆ)は兵を率いて喪に奔り、続いて呉の地に留まり、中護軍の身分で長史・張昭(ちょうしょう)とともに軍政の事務を掌った c:4972。建安十三年(二〇八年)、曹操(そうそう)が南下し、劉表(りゅう ひょう)の子・劉琮(りゅうそう)が降伏した。劉備(りゅうび)は夏口(かこう)まで南に退き、諸葛亮(しょかつりょう)を遣わして東呉へ援けを求めた。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)の進言を採り、曹操(そうそう)に抗することを決めた。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)を左右の督に任じ、それぞれ一万人を率いさせ、劉備(りゅうび)と連合して赤壁(せきへき)で曹操(そうそう)軍を大破し、その船を焼いた c:991。曹操(そうそう)軍は飢饉と疫病で死ぬ者が大半となり、やむなく北に退いた。劉備(りゅうび)と周瑜(しゅうゆ)らは南郡(なんぐん)まで追った c:990。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の後、孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)を偏将軍に任じ、南郡(なんぐん)太守を兼領させ、下隽・漢昌・劉陽・州陵をその封邑として割き当て、江陵(こうりょう)を守らせた。劉備(りゅうび)は左将軍の身分で荊州(けいしゅう)牧を兼領し、公安に駐屯した。劉備(りゅうび)が京城へ赴いて孫権(そん けん)に拝謁した際、周瑜(しゅうゆ)は上疏して孫権(そん けん)に、劉備(りゅうび)を呉の地に移し、美人と玩好でその耳目を娯しませ、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)を引き離し、周瑜(しゅうゆ)らが劉備(りゅうび)とともに戦って大事を成せるようにと進言した。彼は、もし土地を割いて劉備(りゅうび)を援助し、三人をともに辺境に置けば、蛟龍が雲雨を得て、ついに池中の物でなくなることを恐れた。しかし孫権(そん けん)は、曹操(そうそう)が北方にあり、広く英雄を招く必要があり、また劉備(りゅうび)を制しがたいことを恐れて、これを採らなかった c:4973。

当時、劉璋(りゅう しょう)が益州(えきしゅう)牧を務め、外には張魯(ちょうろ)の侵攻があった。周瑜(しゅうゆ)は京城へ赴いて孫権(そん けん)に拝謁し、曹操(そうそう)が新たに敗れて南を顧みる暇のない隙に乗じて、奮威将軍とともに益州(えきしゅう)を攻め取り、張魯(ちょうろ)を収めたのち、奮威将軍を留めて益州(えきしゅう)を鎮め、馬超(ばちょう)と結盟するよう進言した。周瑜(しゅうゆ)は孫権(そん けん)と襄陽(じょうよう)に拠って曹操(そうそう)の北伐を図るとした。孫権(そん けん)は周瑜(しゅうゆ)の計画に同意した。周瑜(しゅうゆ)は江陵(こうりょう)に戻って装備を整えたが、巴丘(はきゅう)で病没し、わずか三十六歳であった c:4973。孫権(そん けん)はこれがために素服して哀を挙げ、左右を感動させた。周瑜(しゅうゆ)の柩が呉の地に運ばれた際、孫権(そん けん)はまた芜湖で迎え、すべての喪葬の費用を負担した。後に孫権(そん けん)は命じた。「故将軍・周瑜(しゅうゆ)、程普(ていふ)、その人客あらば、皆問うことなかれ」 c:4973 周瑜(しゅうゆ)には二男一女があり、娘は太子・孫登(そん とう)に嫁いだ。長子・周循(しゅうじゅん)は公主を娶り、騎都尉を拝し、周瑜(しゅうゆ)の風があったが、早世した。次子・周胤(しゅういん)は初め興業都尉を拝し、宗室の女を娶り、兵千人を領して公安に屯したが、後に罪により廬陵郡へ徙された c:996。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、周瑜(しゅうゆ)の姿は、容貌秀麗で才華にあふれた儒将として造形されているが、性格上は心が狭く賢を妬む彩りを帯びており、とりわけ諸葛亮(しょかつりょう)との度重なる智の闘いに体現されている。演義における周瑜(しゅうゆ)と孫策(そん さく)の出会いは、より劇的に描かれている。孫堅(そん けん)が董卓(とう たく)を討った際、周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)と同年で、兄弟の契りを結び、周瑜(しゅうゆ)の叔父・周尚は丹陽太守で、周瑜(しゅうゆ)は親を訪ねに赴き、ちょうど孫策(そん さく)と出会った c:997。孫策(そん さく)は大いに喜び、「われ公瑾を得て、大事は成る」と称し、周瑜(しゅうゆ)の進言を採って、張昭(ちょうしょう)・張紘の二賢を招聘した c:9210。

孫策(そん さく)は臨終の際、母・呉夫人(ごふじん)に言った。「もし内事が決せぬなら、張昭(ちょうしょう)に問え。外事が決せぬなら、周瑜(しゅうゆ)に問え。恨むらくは周瑜(しゅうゆ)がここにおらず、面と向かって嘱することができぬことだ」 c:998 孫策(そん さく)はまた妻の乔夫人に嘱し、小喬(しょうきょう)に伝えて、周瑜(しゅうゆ)に心を尽くして孫権(そん けん)を輔けさせるようにと言った。周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)の死を聞き、夜を日に継いで喪に奔り、霊柩の前で哭拝し、呉夫人(ごふじん)と孫権(そん けん)に忠心を示し、「肝脳を地に塗り、知己の恩に報いる」と表した c:4974c:999。彼はまた孫権(そん けん)に魯粛(ろしゅく)を推薦し、「胸に韜略を懐き、腹に機謀を隠す」と称し c:1000、自ら赴いて魯粛(ろしゅく)を招聘し、最終的に魯粛(ろしゅく)を説き伏せて孫権(そん けん)に帰附させた c:9219。

曹操(そうそう)が孫権(そん けん)に子を朝廷へ入質させようとした際、演義では張昭(ちょうしょう)らが子を遣わすことを主張し、周瑜(しゅうゆ)は遣わさぬことを力説し、「将軍は父兄の遺業を承け、六郡の衆を兼ね、兵は精しく糧は足り、将士は命を用ゆ。何の逼迫ありて人に質を送らんと欲するや」と考えた c:9220。最終的に呉夫人(ごふじん)が周瑜(しゅうゆ)の言を採り、孫権(そん けん)は子を遣わさなかった。これは史実における、周瑜(しゅうゆ)が呉夫人(ごふじん)と私かに議を定め、公開の弁論ではなかったのとは異なる c:4972。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、演義では周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)の智の闘いが大いに渲染されている。曹操(そうそう)の大軍が迫ると、東呉の文武は降を主張する派と戦を主張する派に分かれた。張昭(ちょうしょう)ら文官は降を主張し、程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)ら武将は戦を主張した c:9223c:9226。周瑜(しゅうゆ)は表面上は両派の意見にいずれも明確な態度を示さなかったが、実は心中すでに戦の意があった c:9229c:9231。諸葛亮(しょかつりょう)との対話において、周瑜(しゅうゆ)はまず偽って曹操(そうそう)に降ろうとする意を示し、諸葛亮(しょかつりょう)を試した c:1001。諸葛亮(しょかつりょう)は「二喬」の計で周瑜(しゅうゆ)を怒らせ、曹操(そうそう)が大喬(だいきょう)小喬(しょうきょう)を得て銅雀台に置こうとしていると称し、曹植(そうしょく)の『銅雀台賦』を誦んで証とした c:9237c:9238。周瑜(しゅうゆ)は聞いて勃然と怒り、北を指して罵った。「老賊、われを欺くことはなはだし」 c:1002 諸葛亮(しょかつりょう)はこのとき初めて「うろたえる様を装い」、大喬(だいきょう)が孫策(そん さく)の妻、小喬(しょうきょう)が周瑜(しゅうゆ)の妻であることを知らなかったと表した。周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)に抗する決意を固め、諸葛亮(しょかつりょう)とともに曹を破ることを約した c:1002。

孫権(そん けん)の前で、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)の南征の四つの忌みを力説した。「北土いまだ平らがず、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)はその後患たり、しかるに操久しく南征す、一の忌みなり。北軍は水戦に慣れず、操は鞍馬を舍て、舟楫に仗り、東呉と争衡す、二の忌みなり。また時は隆冬の盛寒に値い、馬に蒿草なし、三の忌みなり。中国の士卒を駆り、遠く江湖を渉らせ、水土に服せず、多く疾病を生ず、四の忌みなり」 c:1003 孫権(そん けん)は聞いて大いに喜び、剣を抜いて案の角を斫り、曹に抗することを誓い、剣を周瑜(しゅうゆ)に賜って、彼を大都督に封じた c:4977。続いて、周瑜(しゅうゆ)はまた孫権(そん けん)に曹操(そうそう)軍の実際の兵力を分析し、曹操(そうそう)が率いる中国の兵は十五、六万に過ぎず、得た袁氏の衆も七、八万に過ぎず、しかも多くは疲弊し服さぬ者だと指摘し、「瑜、五万の兵を得れば、自ずから之を破るに足る」と表し c:9258、孫権(そん けん)の疑いを徹底的に打ち消した。

主要な関係

* 孫堅(そん けん)集団:周瑜(しゅうゆ)と孫策(そん さく)は総角の交わりで、情は手足のごとく、孫策(そん さく)はかつて「われ卿を得て、事は成る」と称した c:992。孫策(そん さく)が死去した後、周瑜(しゅうゆ)は心を尽くして孫権(そん けん)を輔け、孫権(そん けん)は彼を厚く信任し、「公瑾のこの言は、わが疑いを釈くに足る。子布は謀なく、深くわが望みを失わしむ。ただ卿と子敬とわれと心を同じくするのみ」と称した c:9258。
* 曹操(そうそう):周瑜(しゅうゆ)は孫呉(そんご)集団が曹操(そうそう)に抗する核心人物であり、とりわけ赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において、主帥として曹操(そうそう)軍を大破した c:990。演義において、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)を深く憎悪し、両立せぬことを誓った c:1002。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん):赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において、周瑜(しゅうゆ)は劉備(りゅうび)と手を結んで曹に抗したが、戦後、周瑜(しゅうゆ)はかつて孫権(そん けん)に劉備(りゅうび)を呉の地に移して、その勢力増大を防ぐよう進言した c:4973。演義において、周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)の間には複雑な協力と競争の関係があり、周瑜(しゅうゆ)は幾度も諸葛亮(しょかつりょう)を害そうとしたが、いずれも成功しなかった(演義のみ)。
* 周景:周瑜(しゅうゆ)の従祖父で、かつて漢朝の太尉を務めた c:992。
* 魯粛(ろしゅく):周瑜(しゅうゆ)が孫権(そん けん)に推薦した賢士で、二人の関係は密接であり、孫呉(そんご)集団の重要な謀士である c:1000。
* 小喬(しょうきょう):周瑜(しゅうゆ)の妻で、孫策(そん さく)の妻・大喬(だいきょう)とともに「二喬」と並び称される c:994。演義において、曹操(そうそう)が二喬を垂涎し、周瑜(しゅうゆ)が曹に抗する導火線の一つとなった(演義のみ)。

象徴的な場面

* 孫策(そん さく)との交わり:周瑜(しゅうゆ)は孫策(そん さく)と少年期に知り合い、情は手足のごとく、周瑜(しゅうゆ)は自家の大邸を孫策(そん さく)に住まわせ、家族のように孫策(そん さく)の母を拝し、互いに有無を通じ合った c:992。演義では、二人が出会った際、孫策(そん さく)は大いに喜び、「われ公瑾を得て、大事は成る」と称した c:997。
* 小喬(しょうきょう)を娶る:孫策(そん さく)に従って皖城を攻略した後、周瑜(しゅうゆ)は橋公の次女・小喬(しょうきょう)を娶り、孫策(そん さく)は大喬(だいきょう)を娶り、「二喬」の佳話を成した c:994。
* 赤壁の戦い(せきへきのたたかい):周瑜(しゅうゆ)は孫呉(そんご)連合軍の主帥として、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において曹操(そうそう)軍を大破し、その舟船を焼き、三国(さんごく)鼎立の基礎を築いた c:990。これは周瑜(しゅうゆ)の軍事生涯の頂点である。
* 孫権(そん けん)に曹への抗戦を勧める:曹操(そうそう)の大軍が迫った際、周瑜(しゅうゆ)は衆議を排し、孫権(そん けん)の曹に抗する決意を固め、曹軍の弱点を詳しく分析し、最終的に孫劉連合軍の形成を促した c:995。演義では、周瑜(しゅうゆ)は「二喬」の計によって孫権(そん けん)を怒らせ、曹に抗する決心を固めさせた(演義のみ) c:1002。
* 巴丘(はきゅう)で病没:周瑜(しゅうゆ)は益州(えきしゅう)を攻め取る準備をしている折、不幸にも巴丘(はきゅう)で病没し、わずか三十六歳であった c:4973。孫権(そん けん)はこれがために素服して哀を挙げ、周瑜(しゅうゆ)への重視と哀痛がうかがえる。
* 三たび周瑜(しゅうゆ)を気づかせる:演義において、諸葛亮(しょかつりょう)は幾度も計謀を用いて周瑜(しゅうゆ)を激昂させ、最終的に周瑜(しゅうゆ)は「既に瑜を生みて、何ぞ亮を生みしや」の悲嘆のうちに死んだ(演義のみ)。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
周瑜(しゅうゆ)は逞しく体格が良く姿かたちが立派で、資質は風流、容姿は秀麗であった [c:21, c:22]。
性格
周瑜は度量が広く、おおむね人望を得ており、若くして音楽に精通していた [c:8]。彼は才略が人並み優れ、孫策(そん さく)と義兄弟の契りを結び、犬馬の労を尽くした [c:9]。同時に、彼は智に富み決断力があったが、賢を妬み能ある者を忌み、度量が狭く勝ち気であった [c:12, c:15, c:16]。
話し方
周瑜の言葉の特徴は、笑いながら冷ややかに嘲り、故事を引いてみずからに託し、要点を列挙し、また常に硬く重い誓いの言葉を発する点にある [c:60, c:61]。
生涯
周瑜は建安十五年(おおよそ)に卒し、享年三十六、巴丘(はきゅう)で病没した [c:18]。彼はかつて水軍数万を率いて先主とともに力を合わせ赤壁(せきへき)で曹操と戦った [c:17]。臨終の前には「既に瑜を生みながら、何ぞ亮を生みしか」と長嘆し、また遺書して魯粛(ろしゅく)を自分の代わりに推挙した [c:20]。
逸話
周瑜はかつて南郡(なんぐん)太守を務めた [c:1]。彼はかつて霊柩の前にひれ伏して「敢えて犬馬の労を尽くさざらんや、これに継ぐに死をもってせん」と誓い、また孫権(そん けん)に魯粛(ろしゅく)を推挙した [c:2]。

人間関係

97 件の関係

名言

全 206 件の台詞 · 厳選 3 件

「大丈夫處世,遇知己之主,外託君臣之義,內結骨肉之恩,言必行,計必從,禍福共之,假使蘇秦、張儀、陸賈、酈生復出,口似懸河,舌如利刃,安能動我心哉!」

演 第45回→ 蔣幹(しょうかん)

この一句は、周瑜(しゅうゆ)の二心なき忠誠と高い志を示し、その人物像を映す名場面である。

「操雖託名漢相,實為漢賊。將軍以神武雄才,仗父兄餘業,據有江東,兵精糧足,正當橫行天下,為國家除殘去暴,奈何降賊耶?且操今此來,多犯兵家之忌:北土未平,馬騰、韓遂為其後患,而操久於南征,一忌也;北軍不諳水戰,操捨鞍馬,仗舟楫,與東吳爭衡,二忌也;又時值隆冬盛寒,馬無蒿草,三忌也;驅中國士卒,遠涉江湖,不服水土,多生疾病,四忌也。操兵犯此數忌,雖多必敗。將軍擒操,正在今日。瑜請得精兵數千,進屯夏口,為將軍破之!」

演 第44回→ 孫権(そん けん)

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、周瑜(しゅうゆ)は曹操(そうそう)への対抗を強く主張し、曹操の四つの弱点を分析して、その卓越した軍事的才能を示した。

「既生瑜,何生亮!」

演 第57回

『既に瑜を生みながら、なぜ亮を生んだのか』は、周瑜(しゅうゆ)が臨終の際に諸葛亮(しょかつりょう)へ漏らした嘆きであり、広く伝わって、周瑜と諸葛亮の宿命的な競争心の代名詞となっている。

登場回28 回 ▸
  • 史ch.9ch.17ch.32ch.35ch.37ch.46ch.47ch.51ch.54ch.55ch.56
  • 演ch.15ch.29ch.38ch.39ch.44ch.45ch.46ch.47ch.48ch.49ch.51ch.52ch.53ch.54ch.55ch.56ch.57
関係の年表67 条 ▸

史 ch.32

史 ch.47

史 ch.54

演 ch.15

  • oath_brother

    同年、结为昆仲;策长瑜两月、瑜以兄事策;愿施犬马之力共图大事

演 ch.29

演 ch.44

演 ch.45

演 ch.46

演 ch.47

演 ch.49

演 ch.51

演 ch.52

演 ch.54

演 ch.55

演 ch.56

演 ch.57

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 江風が江陵(こうりょう)を吹き渡ると、かつて伯符(Hakufu)に従って事業を興した頃を、いつも思い出す。若くして重任を担い、後には張昭(ちょうしょう)とともに諸事を取り仕切った。主君は大事を私に託された。私が考えていたのは、初めから一城一
  • 江風がここまで吹き渡り、旌旗を揺らすとともに、人々の心をいっそう落ち着かせた。曹公(そうこう)は荊州(けいしゅう)の軍勢を擁し、勢いは大いに盛んであった。書状を寄越して水軍八十万と称し、それを聞いた諸議者は顔色を失い、こぞって主君に降伏を勧
  • 昔、私が若かった頃、孫伯符(そんはくふ)と知り合い、世を救おうという志があると聞いて、犬馬の力を尽くして助けたいと願った。互いに心を通わせたのは、一時の名声のためだけではない。江東は広く人も多い。何かを成し遂げようとするなら、まず賢士を招き
生涯の大事29 ▸
  1. 太史慈、孫策に帰順(たいしじ、そんさくにきじゅん)· 軍師
  2. 0199-01-01 · 曲阿
    孫策の江東平定戦(そんさくのこうとうへいていせん)· 総大将
  3. 0199-01-01 · 廬江(ろこう)
    孫策の廬江攻略(そんさくのろこうこうりゃく)· 総大将
  4. 0200-01-01 · 呉県(ごけん)
    孫権の継位(そんけんのけいい)· 総大将
  5. 0200-01-01 · 丹徒(たんと)
    孫策の臨終における孫権への権限委譲(そんさくのりんじゅうにおけるそんけんへのけんげんいじょう)· 軍師
  6. 0200-01-01 · 歷陽
    孫策の江東平定(そんさくのこうとうへいてい)· 総大将
  7. 0203-01-01 · 呉県(ごけん)
    孫権、子の入朝を拒否(そんけん、このにゅうちょうをきょひ)· 軍師
  8. 七星壇の祭風(しちせいだんのさいふう)· 総大将
  9. 周瑜都督就任(しゅうゆととくしゅうにん)· 総大将
  10. 孫権の抗曹決断(そんけんのこうそうけつだん)· 総大将
  11. 江東の抗曹決策(こうとうのこうそうけっさく)· 総大将
  12. 0208-01-01 · 江夏(こうか)
    江夏の戦い(こうかのたたかい)· 総大将
  13. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 総大将
  14. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
  15. 苦肉計(くにくけい)· 総大将
  16. 0208-01-01 · 長江赤壁段
    草船借箭(そうせんしゃくせん)· 首謀者
  17. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 総大将
  18. 劉備の呉入り(りゅうびのごいり)· 首謀者
  19. 0209-01-01 · 劉郎浦
    劉備の呉脱出(りゅうびのごだっしゅつ)· 首謀者
  20. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 総大将
  21. 周瑜の矢傷と詐死(しゅうゆのやきずとさし)· 総大将
  22. 甘寧の夷陵攻略(かんねいのいりょうこうりゃく)· 総大将
  23. 甘寧の夷陵守備(かんねいのいりょうしゅび)· 総大将
  24. 趙雲(ちょううん)が南郡を奪取· 被害者
  25. 荊州の借用(けいしゅうのしゃくよう)· 軍師
  26. 周瑜の假途滅虢(しゅうゆのかとめっかく)· 首謀者
  27. 周瑜の取蜀の謀(しゅうゆのしょくをとるのはかりごと)· 首謀者
  28. 周瑜、巴丘に病没(しゅうゆ、ばきゅうにびょうぼつ)· 戦死
  29. 魯肅討荊州· 総大将