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孟達(もうたつ)

劉備集団(りゅうびしゅうだん) · 将軍

孟達(もうたつ)

字 子敬

登場回
15
台詞の記録
15
人間関係
22
内面の独白
3

史実(Historical Record)

孟達(もうたつ)は、字を子敬といい、扶風の人である。その父・孟他はかつて奇計をもって中常侍・張譲(ちょうじょう)に賄賂を贈り、涼州(りょうしゅう)刺史の職を得た。孟達は若くして蜀に入り、初めは劉璋(りゅう しょう)の配下となった。建安十九年(214年)、劉璋は孟達と法正(ほうせい)にそれぞれ二千の兵を率いさせて劉備(りゅうび)を蜀に迎え入れさせ、劉備はそこで孟達にその部隊を統率させ、江陵(こうりょう)に留め置いた c:40。蜀地が平定されると、孟達は宜都太守に任じられた。

建安二十四年(219年)、劉備は孟達に房陵を北に攻めさせ、房陵太守・蒯祺は孟達の部下に殺された。孟達は引き続き上庸(じょうよう)に進攻しようとしたが、劉備は孟達が単独で一方面を担うのは難しいと懸念し、劉封(りゅうほう)を漢中(かんちゅう)から沔水に沿って下らせ、孟達の軍を統率させて、上庸で合流させた。上庸太守・申耽(しんたん)は衆を率いて投降し、妻子および宗族を成都(せいと)に送った。劉備は申耽を征北将軍に加封し、なお上庸太守を領させ、申耽の弟・申儀(しんぎ)を建信将軍・西城太守とし、劉封は副軍将軍に任じられた c:40。

同年、関羽(かんう)が樊城(はんじょう)・襄陽(じょうよう)を包囲し、幾度も劉封・孟達に援軍を求めたが、二人は山郡が初めて帰附したばかりで民心が定まっておらず、軍を動かしがたいことを理由に出兵を拒んだ。関羽が敗れた後、劉備はこのことに深い不満を抱いた。加えて劉封と孟達の間にはもとより確執があり、劉封はかつて孟達の鼓吹の楽隊を奪っていた。孟達はこのため、罪を得ることを畏れ、また劉封を怨み、ついに上表して劉備に別れを告げ、部衆を率いて曹魏(そうぎ)に投降した c:40。

曹魏の文帝・曹丕(そうひ)は孟達の物腰と才華を大いに気に入り、これを散騎常侍・建武将軍に任じ、平陽(へいよう)亭侯に封じた。曹丕はまた房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達を新城太守として、西南辺境の重任を委ねた c:40。文帝はかつて自ら孟達と車を同じくし、お前は劉備が遣わした刺客ではないかと戯れに言い、孟達への信任と重用ぶりがうかがえる c:3。しかし文帝が没した後、孟達は長らく辺疆に身を置き、また桓階(かんかい)・夏侯尚(かこう しょう)ら旧友が相次いで世を去ったため、内心不安を感じた。諸葛亮(しょかつりょう)はこの事情を知り、ひそかに孟達を誘って降そうとし、二人は幾度も書信を往来させた c:3。魏興太守・申儀は孟達ともとより不和であり、ひそかに魏帝に孟達が蜀漢(しょくかん)と内通していると告発したが、魏帝は当初これを信じなかった。司馬懿(しばい)は参軍・梁畿を遣わして探察させ、孟達に入朝するよう勧めた。孟達はこのため驚き恐れ、ついに兵を挙げて反逆した c:3。太和元年(227年)十二月、孟達が反逆すると、魏帝は驃騎将軍・司馬懿に詔して討伐に向かわせ、最終的に孟達は斬殺された c:3。諸葛亮は孟達に誠意がなかったため、救援しなかった c:41。

演義(In the Novel)

『三国演義』において、孟達の形象はより多くの劇的さと反復性を帯びている。彼の初登場は、劉璋が彼を法正とともに遣わして劉備を蜀に迎え入れさせる場面である c:1481。演義では、孟達は法正・張松(ちょうしょう)の三人と密かに謀り、劉璋を無能と見なして益州(えきしゅう)を劉備に献じることを決め、孟達が精兵五千を率いて遠く玄徳を迎えることになる c:1480。これは史実における、孟達が劉璋の配下として劉備を蜀に迎え入れた筋立てとおおむね一致するが、演義はその主体的な献策と劉備への傾倒を強調している。

続いて、孟達は霍峻(かくしゅん)とともに葭萌関(かぼうかん)を鎮守し、張郃(ちょうこう)の進攻に対して孟達は迎え撃つことを主張したが、結果として大敗して帰り、霍峻は堅守を貫いた c:5191。この筋立ては史実には明確な記載がなく、人物の性格を造形し物語の展開を推し進めるためのものが多い。

孟達が魏に降った経緯は、演義では劉封との確執および劉備への猜疑として詳細に描かれている。関羽が麦城(ばくじょう)に追い詰められた際、廖化(りょうか)が劉封・孟達に援軍を求めたが、孟達は出兵を拒んだだけでなく、関羽が劉封の「螟蛉子(養子)」の身分を認めないかもしれず、また山城が初めて帰附したばかりで軽々しく動くべきではないという理由で、劉封に救う必要はないと説いた c:1483。この挙動は直接関羽の覆滅を招き、劉封が劉備に処刑される伏線ともなった。劉封が綿竹(めんちく)に呼び戻され、孟達は劉備が自分を害そうとしていることを知ると、申耽・申儀兄弟と相談し、最終的に曹魏に身を投じることを決めた c:5192。曹丕が孟達を受け入れた後、劉封が兵を率いて討伐に来ると、孟達は計を設けて劉封を伏兵に誘い込み、夏侯尚・徐晃(じょこう)と連合して劉封を破り、最終的に劉封は劉備に斬られた c:10196。これらの筋立ては史実では「封と達は忿争して和せず」という簡略な記載があるのみで c:40、演義はそれを孟達の叛変と劉封の死を招いた直接の原因として渲染している。

諸葛亮の北伐(しょかつりょう)の期間、演義では孟達と諸葛亮の間に幾度も書信の往来がある。孟達は新城で挙兵して蜀漢に呼応しようとしたが、諸葛亮は司馬懿の手強さをよく知り、孟達に用心するよう注意した c:1484。しかし孟達は新城の堅固さを恃み、司馬懿は遠く宛城(えんじょう)にいて救援に間に合わないと考え、諸葛亮の警告を意に介さなかった c:10198。最終的に、司馬懿は迅雷耳を掩うに及ばざる勢いで新城に駆けつけ、孟達は措置を取る間もなく、「果たして孔明の見立てた通りだ」と嘆き c:1485、最終的に敗れて殺された。この筋立ては史実では諸葛亮が孟達を誘って降そうとしたことに言及するのみで、その経緯や対話は詳細に描かれていないが c:41、演義はこれらの細部を通じて、諸葛亮の智謀と孟達の自負をさらに際立たせている。

主要な関係

* 劉璋集団(serves):孟達は最初、劉璋集団の配下であり、かつて命を受けて劉備を蜀に迎え入れた c:1481。
* 劉備集団(serves, defected_from):孟達は劉備の入蜀後に帰附し、これに従って征戦し、宜都太守を務めた。後に劉封との不和と罪を畏れたことから叛離した c:40。
* 劉封(忿争して和せず):孟達と劉封の間には深刻な確執があり、劉封はかつて孟達の鼓吹の楽隊を奪い、これが直接、孟達の怨みを生んで曹魏への投降を招いた c:40。演義では、孟達はさらに関羽の援救を拒み、計を設けて劉封を破り、劉封の死を早めた c:1483、c:10196。
* 曹魏(defected_to):孟達は曹魏に投降した後、曹丕に重用され、新城太守に任じられ、西南辺境の重任を委ねられた c:40。
* 曹丕(重用):曹丕は孟達の才華と物腰を大いに気に入り、かつて彼と車を同じくし、散騎常侍・建武将軍・平陽亭侯に封じた c:40。
* 諸葛亮(誘降):諸葛亮はかつて孟達を誘って降そうとし、彼と曹魏との確執を利用したが、最終的に孟達に誠意がなかったため救援しなかった c:41。演義では、諸葛亮は孟達の叛変を的確に予見していた c:1484。
* 司馬懿(討伐):司馬懿は命を受けて孟達を討伐した魏将であり、最終的に孟達を斬殺し、その反乱を平定した c:3。
* 申耽・申儀(協力、のちに裏切り):孟達が上庸を攻めた際、申耽はかつて衆を率いて劉備に投降した。演義では、申耽・申儀兄弟はかつて偽って孟達と協力して魏に反くと見せかけたが、実は内応であり、最終的に孟達の敗北を招いた c:1485(演義独自)。

象徴的な場面

* 曹魏への投降:劉封との確執と劉備への畏れから、孟達は上表して劉備に別れを告げ、部隊を率いて曹魏に投降し、曹丕の厚遇と重用を受けた c:40。この出来事は孟達の政治生涯の重大な転機であり、また彼の変節を常とする性格を体現している。
* 関羽の援救を拒む:演義では、関羽が麦城に包囲された際、孟達は劉封とともに出兵して救うことを拒み、関羽の最終的な敗亡を招いた c:1483。この筋立ては蜀漢の運命に深く影響し、また孟達の利己的で短慮な一面を示している(演義独自)。
* 新城の反逆:孟達は曹魏の文帝が没した後、内心の不安から諸葛亮と内通し、最終的に新城で兵を挙げて反逆した c:3。しかし司馬懿の迅速な対応により、孟達の反乱はたちまち平定され、彼自身も斬殺された c:3。この出来事は孟達の生涯における最後の重大な選択であり、その変節を常とする結末を裏付けている。
* 劉封との衝突:孟達と劉封の忿争・不和、劉封がかつて孟達の鼓吹を奪ったことは、孟達が魏に投じた重要な原因である c:40。演義では、孟達はさらに計を設けて劉封を破り、間接的に劉封が劉備に処刑されることを招き、その睚眦必報(わずかな恨みでも必ず報いる)の性格を示している(演義独自) c:10196。
* 司馬懿の予見:演義では、諸葛亮はかつて孟達が司馬懿の敵ではないと予言し、用心深くするよう勧めたが、孟達は意に介さず、最終的に司馬懿に迅速に破られ、諸葛亮の遠見卓識を裏付けた c:1484、c:1485(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
魏の文帝はその容姿と才、風采を愛した。
性格
劉封(りゅうほう)と争って不和になり、罪を恐れる一方で憤りもした。弁が立ち、まず自らの保身を優先した。自負して敵を侮り、孔明(こうめい)を「心配が多すぎる」と笑った。
話し方
比喩を巧みに用い、故事を引き、しばしば冷笑した。自信をもって軽々しく断じ、「何を懼れようか」「懼れるには及ばぬ」といった言い回しを多用した。
生涯
扶風の人で、初め劉璋(りゅうしょう)の部将であったが、後に劉備(りゅうび)に帰順した。建安二十四年に房陵・上庸(じょうよう)を攻め、後に罪を恐れ劉封(りゅうほう)を憤って魏に降った。魏の文帝はその容姿と才、風采を愛し、平陽(へいよう)亭侯に封じ、新城太守に任じた。諸葛亮(しょかつりょう)はかつて彼を誘って外援としようとしたが、事は失敗し司馬懿(しばい)に斬り滅ぼされた。
逸話
劉曄(りゅうよう)は彼が必ず叛くと予見し、後に果たして叛いて敗れた。諸葛亮(しょかつりょう)は彼を誘って外援としようとし、達(孟達)と書簡で幾度もやり取りした。事は失敗し司馬懿(しばい)に斬り滅ぼされた。

人間関係

22 件の関係

名言

全 15 件の台詞 · 厳選 3 件

「將軍以關公為叔,恐關公未必以將軍為姪也。某聞漢中王初嗣將軍之時,關公即不悅。後漢中王登位之後,欲立後嗣,問於孔明。孔明曰:『此家事也,問關、張可矣。』漢中王遂遣人至荊州問關公。關公以將軍乃螟蛉之子,不可僭立,勸漢中王遠置將軍於上庸山城之地,以杜後患。此事人人知之,將軍豈反不知耶?何今日猶沾沾以叔姪之義,而欲冒險輕動乎?」

演 第76回→ 劉封(りゅうほう)

この言葉は、劉封(りゅうほう)と関羽(かんう)の対立を明らかにしており、劉封(りゅうほう)が最終的に死を賜った重要な原因である。

「臣為不救關公之危,漢中王欲殺臣,因此懼罪來降,別無他意。」

演 第79回→ 曹丕(そうひ)

孟達(もうたつ)が魏に降った直接の原因であり、その変わり身の激しい性格を体現している。

「適承鈞教,安敢少怠?竊謂司馬懿之事,不必懼也:宛城離洛城約八百里,至新城一千二百里。若司馬懿聞達舉事,須表奏魏主:往復一月間事,達城池已固,諸將與三軍皆在深險之地。司馬懿即來,達何懼哉?丞相寬懷,惟聽捷報。」

演 第94回

孟達(もうたつ)の司馬懿(しばい)に対する軽視は、そのまま彼の敗亡を招いており、悲劇的な運命の伏線となっている。

登場回15 回 ▸
  • 史ch.2ch.3ch.14ch.32ch.37ch.40ch.41
  • 演ch.60ch.62ch.70ch.76ch.79ch.85ch.94ch.95
関係の年表11 条 ▸

演 ch.60

演 ch.76

演 ch.94

演 ch.95

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は孟達(もうたつ)、字は子敬(しけい)である。今、新城に立ち、山河を眺めている。魏の朝廷から賜った恩命と、故郷への旧情とが、いっしょに胸に重くのしかかる。かつて劉封(りゅうほう)、李平(りへい)に従い、上庸(じょうよう)で申耽(しんたん)
  • 私は孟達(もうたつ)、字は子敬である。生涯を振り返って、最も心に残るのは、一つの城や郡を得たか失ったかではない。去就を決めるたびに志が幾度も揺らぎ、ついには進退の道を見失ったことだ。かつて先主(せんしゅ)に従って蜀へ入り、蜀が平定された後は
  • 我が名は孟達(もうたつ)、字は子敬(しけい)という。身の上を思い返すたび、まず史書と伝聞を区別しなければならない。正史には、私はもと蜀の将で、のちに兵を率いて魏に帰順したと記されている。一方、小説では字を子慶(しけい)とされ、法正(ほうせい
生涯の大事5 ▸