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張遼(ちょうりょう)

呂布集団(りょふしゅうだん) · 将軍

張遼(ちょうりょう)

字 文遠

登場回
32
台詞の記録
54
人間関係
45
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

張遼(ちょうりょう)は、字を文遠といい、雁門馬邑の人で、もとの姓は聶であったが、怨みを避けるために姓を改めた。彼は少年の頃、郡吏を務めた。漢末、并州刺史・丁原(ていげん)は張遼の武力が人に勝れているのを見込み、彼を従事に徴し、兵を率いて京都へ赴かせた。何進(かしん)はさらに張遼を河北へ遣わして兵を募らせ、千余人を募ることに成功した。何進の敗亡後、張遼の部隊は董卓(とう たく)に属した。董卓の敗亡後、張遼は呂布(りょふ)に属し、騎都尉に任じられた。呂布が李傕(りかく)に敗れた後、張遼は呂布に従って東のかた徐州(じょしゅう)へ奔り、時に二十八歳、魯相の職を領した。建安三年(198年)、曹操(そうそう)が下邳(かひ)で呂布を破り、張遼は部を率いて降り、中郎将に任じられ、関内侯の爵を賜った。これより張遼はしばしば戦功を立て、裨将軍に昇った。曹操が袁紹(えんしょう)を破った後、張遼は命を受けて魯国の諸県を平定した。彼はかつて夏侯淵(かこう えん)とともに昌豨(しょうき)を東海に囲み、数か月で糧が尽き、諸将は撤兵を議した。しかし張遼は昌豨のためらいを鋭く見抜き、降伏を勧められると考えた。彼は単身で昌豨と対話に赴き、曹操の威信と徳政をもって降伏を勧め、昌豨はついに帰順した c:1794。

張遼はまた曹操に従って袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を黎陽(れいよう)に征討し、功により中堅将軍を行った。鄴(ぎょう)を攻めた際、袁尚が堅守して下らず、曹操は一度許都(きょと)へ帰り、張遼は楽進(がくしん)とともに陰安を攻め抜き、その民を河南へ遷した。鄴が攻め破られた後、張遼はまた別に趙国・常山を徇り、山に沿う諸賊や黒山の孫軽らを招き降した。袁譚を攻め破った後、張遼はまた別に兵を率いて海浜を徇り、遼東の賊・柳毅らを撃ち破った。彼が鄴に戻った際、曹操は自ら城を出て迎え、彼と車を同じくして載せ、荡寇将軍に任じた。これより、張遼はまた命を受けて荊州(けいしゅう)を撃ち、江夏(こうか)の諸県を平定し、後に臨潁に屯し、都亭侯に封じられた。袁尚を柳城(りゅうじょう)に征討した際、張遼は敵軍と遭遇し、曹操に出戦を力説して士気が高揚し、曹操はこのために自らの戦旗を張遼に授け、最終的に敵軍を大破し、単于・蹋頓(とうとん)を斬殺した c:1794。

建安十三年(208年)、荊州が未だ定まらず、張遼は長社へ遣わされて屯兵した。出発に先立ち、軍中に叛乱が起こり、夜間に驚乱が並び起こって火が出た。張遼は沈着に対応し、叛かぬ者には安坐するよう命じ、自ら数十の親兵を率いて陣中に立ち、たちまち叛乱を平定し、首謀者を捕らえた c:1797。後に、陳蘭・梅成が氐の六県で叛乱し、張遼は張郃(ちょうこう)・牛蓋らを督して陳蘭を討伐した。険峻な天柱山を前にして、諸将は兵少なく道険しく深入りしがたいと考えたが、張遼は「これいわゆる一と一、勇者のみ前を得るなり」と言った。彼は毅然として進兵し、山寨を攻め破り、陳蘭・梅成を斬殺し、その衆をことごとく虜にした。曹操は論功行賞の際、張遼を「天山に登り、峻険を履み、もって蘭成を取る、荡寇の功なり」と称賛し、邑を増し、節を仮した c:1797。

建安二十年(215年)、曹操が張魯(ちょうろ)を征討し、張遼を楽進・李典(りてん)らとともに七千余人を率いて合肥(がっぴ/ごうひ)を屯守させた。孫権(そん けん)が十万の大軍で合肥を囲んだ。曹操が護軍・薛悌(せつてい)に残した密函にはこう指示されていた。「もし孫権至らば、張・李の将軍は出戦せよ。楽将軍は護軍を守り、戦うことを得ざれ」。諸将はこの指示に困惑したが、張遼は衆議を排し、敵軍が足場を固めぬうちに逆撃してその鋭気を挫き、軍心を安んずべきだと考えた。彼は夜を徹して八百人の敢死の士を募り、翌朝、張遼は甲を披き戟を持ち、士卒に先んじて敵陣に突入し、数十人と二人の将を斬り、孫権の麾下に直迫した。孫権は大いに驚き、張遼はまた数度囲みを突き、最終的に撤回に成功し、呉軍の士気は大いに挫けた。孫権は城を囲むこと十余日も攻め落とせず、最終的に兵を引いて退いた。張遼は軍を率いて追撃し、あやうく孫権を擒にするところであった。曹操はこれによって張遼を大いに壮とし、彼を征東将軍に拝した c:1799。

建安二十四年(219年)、関羽(かんう)が曹仁(そうじん)を樊城(はんじょう)に囲み、孫権が藩を称し、曹操は張遼らを召して救援に向かわせた。張遼が至らぬうちに、徐晃(じょこう)がすでに関羽を破り、曹仁の囲みは解けた。張遼は曹操と摩陂で会い、曹操は輦に乗って出迎えこれを労い、彼を陳郡へ調えて屯兵させた。曹丕(そうひ)が魏王を称した後、張遼は前将軍に転じ、その兄・張汎および一子を列侯に分封した c:1800。孫権が再び背くと、張遼は命を受けて合肥に屯し、都郷侯に進爵した。曹丕は特に張遼の母のために輿車を賜い、兵馬を遣わしてその家眷を屯所まで護送し、張遼の母が至った時には張遼が督する諸軍の将吏を率いて道の傍らに羅拜して迎えるよう敕令し、観る者はこれを栄とした。曹丕が帝を称した後、張遼を晋陽侯に封じ、邑千戸を増し、前後あわせて二千六百戸とした。黄初二年(221年)、張遼は洛陽(らくよう)に入朝し、文帝は建始殿で自らその破呉の状を尋ね、「これもまた古の召虎なり」と感嘆し、特に彼のために府邸を修め、その母のために殿堂を建て、張遼が率いて呉を破った応募の歩卒を皆虎賁に封じた c:1800。

孫権が再び藩を称した後、張遼は雍丘に屯したが、不幸にも病を患った。文帝は侍中・劉曄(りゅうよう)に太医を携えて見舞わせ、虎賁を遣わして問候させ、道路には往来が絶えなかった。病が癒えぬうちに、文帝は張遼を行在所に迎え、自ら臨み、その手を執り、御衣を賜い、太官が毎日御食を送った。病がやや好転すると、張遼は屯に戻った。孫権が再び叛くと、文帝は張遼に船に乗って曹休(そうきゅう)とともに海陵に至り、江に臨ませた。孫権は張遼を甚だ忌憚し、諸将を戒めて言った。「張遼は病なりといえども、当たるべからず、これを慎め」。同年、張遼は諸将とともに孫権の将・呂範(りょはん)を撃ち破った。張遼の病が重くなり、最終的に江都で逝去した。文帝はこれがために涕を流し、剛侯と諡した。その子・張虎が爵を嗣いだ c:1800。

演義における姿(In the Novel)

『三国演義』において、張遼の姿はさらに文学化され、その勇武と忠義が濃墨重彩に描かれている。彼は第11回に初登場し、呂布(りょふ)麾下の八健将の一人として、臧覇(ぞう は)とともに出戦し、夏侯惇(かこう とん)を截り止め、人に勝る武力を示した c:5368。曹操が濮陽(ぼくよう)を攻めた際、張遼は臧覇とともに東・西の巷から曹操を夾撃し、曹操を敗退させた c:1804。

張遼は呂布麾下にあった際、たびたび戦事に参加した。例えば、呂布と袁術(えんじゅつ)の聯姻の事件では、呂布は陳宮(ちんきゅう)の言により、張遼を遣わして袁術の使者を追わせ、娘を奪い返し、韓胤(かんいん)を囚えた c:5369。後に、呂布が兵を五路に分けると、張遼は臧覇とともに琅琊へ出兵し、雷薄(らいはく)に対抗した c:5370。呂布と劉備(りゅうび)が徐州を争った際、高順(こうじゅん)が張遼を引いて関羽(かんう)を攻め、呂布が自ら張飛(ちょうひ)を攻め、関・張の両軍はみな潰え、劉備は妻子を棄てて逃げざるを得なかった c:5372。

張遼の最も劇的な筋立ての一つは、下邳城が破られた後、曹操に俘虜とされた際の振る舞いである。呂布が擒にされた後、張遼もまた刀斧手に擁されて至った。曹操は張遼を指して「この人、いたく面善し」と言い、張遼は「濮陽城中にてかつて相遇うたるを、いかんぞ忘れ却るや」と応じた。曹操が「何を惜しむか」と問うと、張遼は豪邁に「惜しむらくは当日、火大ならず、汝この国賊を焼き殺さざりしことよ」と答えた。曹操は大いに怒って彼を殺そうとしたが、劉備と関羽に諫め止められた。曹操は最終的に張遼を釈放し、彼を中郎将に拝し、関内侯の爵を賜った c:10626 c:5373。この筋立ては史書には明記がなく、演義が張遼の忠勇と曹操の愛才を際立たせるために行った芸術的創作である。

関羽が曹に降る件において、張遼は鍵となる役割を演じた。彼は自ら曹操に願い出て、関羽に降伏を勧めた。彼は「三罪」の説、すなわち劉備がもし再び現れた時、関羽がすでに死んでいては助けられぬこと、二人の嫂が頼る所を失うこと、そして漢室を匡扶することを思わず、徒に匹夫の勇を成すことをもって、関羽に「三約」を提出させて降らせることに成功した c:10637 c:10638 c:10639。関羽が顔良(がんりょう)を斬り文醜(ぶんしゅう)を誅した後、張遼は曹操の命を受けて関羽の去就を探った。関羽は明確に「吾ついにここに留まらず。要は必ず効を立てて曹公に報い、しかる後に去るのみ」と表し、もし劉備がすでに世を棄てたなら、喜んで「地下に従わん」と表した c:10643。これらの対話は、関羽の忠義と張遼の知人善任をさらに描き出している。

関羽が千里独行した際、張遼もまた曹操の命を受け、夏侯惇とともに関羽を追った。張遼は夏侯惇に曹操が関羽を放行した意図を説明し、曹操の鈞旨を伝え、関羽を引き続き前進させた c:1809。

官渡の戦い(かんとのたたかい)において、張遼は曹操に従って烏巣を劫した。許攸(きょゆう)が糧を劫する計を献じた際、張遼はその真実性を疑ったが、曹操は己の見を堅持した。張遼と許褚(きょちょ)が前、徐晃・于禁(うきん)が後、曹操が中に居て、最終的に烏巣を劫し焼くことに成功した。帰路、張遼と許褚はまた蔣奇(しょうき)を斬殺した c:10659 c:1810。

長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)において、張遼は許褚とともに曹操を追い、曹操が張飛の吼え声に震えて逃げた際、張遼・許褚が追いついて轡環を扯み止め、曹操を慰め、軍を返して再び戦うよう勧めた c:1812。これらの筋立ては、張遼の勇猛と智謀、そして曹操陣営における彼の重要な地位を際立たせている。

重要な関係

* 何夔(かき):正史において、何夔はかつて張遼とともに黄巾の余賊を討伐し、広長県の叛乱を平定した c:1793。
* 丁原(ていげん):張遼は早年、武力が人に勝るために丁原に従事として召され、兵を将いさせられた c:1794。
* 董卓集団(とうたくしゅうだん):何進の敗亡後、張遼の部隊は董卓に属した c:1794。
* 呂布集団(りょふしゅうだん):董卓の敗亡後、張遼は呂布に属し、騎都尉に遷った。彼はかつて呂布に従って東のかた徐州へ奔り、魯相を領した c:1794。演義では、張遼は呂布麾下の八健将の一人で、たびたび呂布に従って出戦した c:5368。
* 曹魏(そうぎ):呂布の敗亡後、張遼は衆を率いて曹操に降り、曹魏の重要な将となった。彼はしばしば戦功を立て、曹操と曹丕に深く重んじられ、官は征東将軍に至り、晋陽侯に封じられ、剛侯と諡された c:1794 c:1800。
* 昌豨(しょうき):張遼はかつて夏侯淵とともに昌豨を囲み、言辞をもって昌豨を降伏させることに成功した c:1794。
* 関羽(かんう):演義において、張遼は関羽と深い交誼があり、かつて関羽に降伏を勧め、関羽が千里独行した際に取りなした c:1805 c:1808(演義独自)。
* 孫権(そん けん):張遼は合肥の戦い(ごうひのたたかい)で孫権を大破し、孫権に甚だ忌憚させ、「張遼は病なりといえども、当たるべからず」と言わしめた c:1799 c:1800。
* 武周:正史において、張遼はかつて護軍・武周と隙があったが、後に人の勧めによって和解した c:1803。

象徴的な場面

* 昌豨を降伏させる:張遼は昌豨を囲んだ際、敵情を鋭く洞察し、単身で営に入って降伏を勧め、最終的に昌豨を説得して曹操に帰順させ、その智勇兼備の一面を示した c:1794。
* 長社の平叛:張遼は長社に屯兵した際、軍中に叛乱が起こったが、彼は危に臨んで乱れず、沈着に指揮し、迅速に叛乱を平定し、その鎮定と果断な統率の才を示した c:1797。
* 天柱山の戦い:険峻な天柱山を前にして、張遼は衆議を排し、毅然として進兵し、陳蘭・梅成の山寨を攻め破って大勝を収め、曹操に「天山に登り、峻険を履み、もって蘭成を取る」と称賛された c:1797。
* 合肥の戦い(逍遙津に威を震わす):張遼は八百人の敢死隊を率い、合肥の戦い(ごうひのたたかい)で孫権の大軍を突襲し、敵将を斬り、孫権の麾下に直突し、呉軍の士気を大いに挫き、孫権は今なお彼に余悸を抱いている。この戦いは張遼の最も称えられる象徴的な戦役となった c:1799。
* 柳城の戦い:袁尚を柳城(りゅうじょう)に征討した際、張遼は曹操に出戦を力説して旗を授けられ、最終的に敵軍を大破し、単于・蹋頓(とうとん)を斬殺し、その果敢と勇猛を示した c:1794。
* 下邳城で曹を罵る:演義において、張遼は俘虜となった後、曹操の審問を前にしていささかも畏れず、かえって曹操を「国賊」と大いに罵り、その忠勇剛烈の一面を示した c:10626(演義独自)。
* 関羽に降伏を勧める:演義において、張遼は「三罪」の説をもって関羽を曹に降らせることに成功し、関羽の「三約」を促し、その出色の弁舌と人心への洞察を体現した c:10637 c:10638 c:10639(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
張遼(ちょうりょう)は武力が人並みはずれ、陣に臨んでは奮い勇み、変事に処しては沈着で、主君に忠勤を尽くし、君臣の節を明らかにした。かつて死を前にしても恐れる色なく、首を差し出して斬られるのを待ち、面と向かって曹操(そうそう)を「国賊」と罵った。
話し方
張遼(ちょうりょう)の言葉は簡潔で率直、君主を「公」「明公」と呼び、兵を論じるにはしばしば「成敗の機はこの一戦にあり」といった断固たる言葉で締めくくった。
生涯
張遼(ちょうりょう)は雁門馬邑の人で、もと聶壱の後裔が仇を避けて姓を改めたもので、若くして郡の吏となった。丁原(ていげん)・何進(かしん)・董卓(とう たく)・呂布(りょふ)に属し、のちに曹操(そうそう)に降って中郎将に任ぜられ関内侯を賜った。たびたび合肥(がっぴ/ごうひ)を鎮め、孫権(そん けん)を大いに破り、単于蹋頓(とうとん)を斬り、ついに江都で病没した。
武器
張遼(ちょうりょう)は主に戟を用い、また弓や刀も用いた。
逸話
陳寿(ちんじゅ)は張遼(ちょうりょう)を「五子の筆頭」と評し、張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)とともに「備さに詳らか」と讃えられた。関公は彼に忠義の気があることを知っており、かつて濮陽(ぼくよう)での旧戦の記憶によって物語に引き入れられた。

人間関係

45 件の関係

名言

全 54 件の台詞 · 厳選 3 件

「當初劉使君與兄結義之時,誓同生死;今使君方敗,而兄即戰死,倘使君復出,欲求兄相助,而不可復得,豈不負當年之盟誓乎?其罪一也。劉使君以家眷付託於兄,兄今戰死,二夫人無所倚賴,負卻使君依託之重。其罪二也。兄武藝超群,兼通經史,不思共使君匡扶漢室,徒欲赴湯蹈火,以成匹夫之勇,安得為義?其罪三也。兄有此三罪,弟不得不告。」

演 第25回→ 関羽(かんう)

この言葉は関羽(かんう)に降伏を勧めるもので、張遼(ちょうりょう)の智勇兼備を示し、『三国(さんごく)演義』の名場面である。

「主公遠征在外,吳兵以為破我必矣。今可發兵出迎,奮力與戰,折其鋒銳,以安眾心,然後可守也。」

演 第67回→ 楽進(がくしん)

この言葉は、合肥の戦い(ごうひのたたかい)における張遼(ちょうりょう)の果敢さと戦略眼を示し、その名将としての地位を確立した。

「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢,以安衆心,然後可守也。成敗之機,在此一戰,諸君何疑?」

史 第17回

これは史実の記述であり、張遼(ちょうりょう)が合肥の戦い(ごうひのたたかい)の前に士気を鼓舞したことを示し、その軍事的才能を表している。

登場回32 回 ▸
  • 史ch.12ch.17ch.18ch.27ch.36
  • 演ch.11ch.12ch.16ch.17ch.18ch.19ch.20ch.23ch.24ch.25ch.26ch.27ch.28ch.30ch.32ch.33ch.42ch.46ch.48ch.49ch.50ch.53ch.58ch.67ch.68ch.86ch.98
関係の年表24 条 ▸

史 ch.12

史 ch.17

史 ch.18

  • 陳蘭§19

    fights_in

    张辽讨陈兰,臧霸为之断孙权援

史 ch.27

  • friend_of

    见刺史温恢求请质委意于己,质辞以疾;后辽感言复与周平

演 ch.12

演 ch.24

演 ch.25

  • friend_of

    张辽以故人之情上土山说关公,劝以"三便"易"三罪",往复传约不绝

演 ch.26

演 ch.27

演 ch.28

演 ch.30

演 ch.33

演 ch.42

演 ch.49

演 ch.50

演 ch.67

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私はすでに江都(こうと)に至ったが、病状は日ごとに重くなっている。江風に衣を吹かれると、今なお合肥(がっぴ/ごうひ)のことを思い出す。あの戦いでは、先帝の詔により、李典(りてん)、楽進(がくしん)とともに城を守った。孫権(そん けん)が軍勢
  • 私は常々、敵と相対したとき、最も難しいのは戟を振るうことではなく、人々の心を見極めることだと思っていた。かつて長社(ちょうしゃ)に駐屯していた折、夜に突然火の手が上がり、軍中が騒然となった。この混乱は必ずしも一営から起きたものではないと見て
  • 私は張遼(ちょうりょう)、字は文遠(ぶんえん)、雁門郡の馬邑の人である。若き日を思い返せば、我が家はもともと聶壹(じょういつ)の末裔で、怨恨を避けるために姓を改めた。このことから、名や姓は必ずしも自分で選べるものではないと早くから知った。自
生涯の大事23 ▸
  1. 濮陽の火攻め(ぼくようのひぜめ)· 武将
  2. 0198-01-01 · 下邳(かひ)
    下邳の戦い(かひのたたかい)· 武将
  3. 0198-01-01 · 許都(きょと)
    禰衡の撃鼓罵曹(でいこうのげきこばそう)· 目撃者
  4. 0199-01-01 · 下邳(かひ)
    白門楼の審問(はくもんろうのしんもん)· 武将
  5. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    関羽の曹操への降伏(かんうのそうそうへのこうふく)· 軍師
  6. 0200-01-01 · 下邳(かひ)
    土山の三条件(どざんのさんじょうけん)· 軍師
  7. 印を掛け金を封じる(いんをかけきんをふうじる)· 目撃者
  8. 0201-01-01 · 倉亭
    倉亭の戦い(そうていのたたかい)· 武将
  9. 烏桓征伐(うがんせいばつ)· 武将
  10. 0207-01-01 · 鄴(ぎょう)
    曹操の河北平定(そうそうのかほくへいてい)· 武将
  11. 曹操の烏桓征討(そうそうのうかんせいとう)· 武将
  12. 白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)· 武将
  13. 曹操の荊州南征(そうそうのけいしゅうなんせい)· 武将
  14. 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)· 武将
  15. 0210-01-01 · 天柱山
    天柱山之戰· 総大将
  16. 0214-01-01 · 皖城
    皖城の戦い(かんじょうのたたかい)· 目撃者
  17. 合肥の戦い(ごうひのたたかい)· 総大将
  18. 逍遥津の戦い(しょうようしんのたたかい)· 総大将
  19. 張遼の逍遙津での威名(ちょうりょうのしょうようしんでのいめい)· 総大将
  20. 合肥の戦い(がっぴのたたかい)· 総大将
  21. 逍遙津北での伏撃(しょうようしんきたでのふくげき)· 総大将
  22. 濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)· 武将
  23. 曹丕の広陵の役(そうひのこうりょうのえき)· 戦死