沙盤推演
戦役の沙盤
AI が三国志・三国演義と現代の研究から再構成した立体の戦場。兵力、陣形、火攻め、追撃のすべてに出典を付す。

官渡の戦い
200建安五年(200年)、袁紹は河北の大軍を率いて南下し、まず顔良を先遣して白馬を包囲させた。曹操は荀攸の陽動策を用い、白馬で顔良を斬り、延津の南では輜重を餌に文醜を斬った。その後、官渡に退いて守った。両軍は数か月にわたり対峙し、袁軍は土山や地下道を築き、曹軍は霹靂車と長い塹壕で対抗した。十月、許攸が投じてくると、曹操は夜に烏巣を襲い、淳于瓊を斬った。張郃と高覽は曹操に降り、袁軍は崩壊し、袁紹は黄河を渡って北へ逃れた。
11 幕 · 約 2 分

赤壁の戦い
208建安十三年冬、曹操は荊州を取った後、江陵から長江を下って東進した。孫権は周瑜・程普に水軍三万を率いさせ、劉備と合流した。赤壁での初戦に勝利し、曹軍は北岸の烏林に退いて停泊した。黄蓋は偽って降伏し、薪草と油脂を満載した火船で強風に乗じて曹軍の船陣に突入し、岸上の陣営に燃え広がらせた。曹軍は大敗し、さらに飢餓と疫病に見舞われ、南郡に退いて守りを固めた。曹操は曹仁を江陵の守備に残して北へ帰った。『三国志演義』には、船を鉄索でつなぐこと、東風を借りること、華容道で関羽が義によって曹操を見逃すことなどの筋立てもある。
11 幕 · 約 2 分

長坂の戦い
208建安十三年秋、劉琮の降伏を受け、劉備は十余万の軍民を伴って南の江陵へ向かい、一日十余里を進んだ。曹操は精鋭騎兵五千を率い、一昼夜で三百余里を駆け、当陽長坂で追いついた。劉備は妻子を捨て、数十騎とともに逃れた。趙雲は幼主の劉禅を抱き、甘夫人を護って難を免れた。張飛は二十騎で川を押さえ、橋を断って後方を守った。劉備は斜めに漢津へ向かい、関羽の船隊および劉琦と合流し、ともに夏口へ向かった。『三国志演義』にはほかに、趙雲の単騎救主、張飛が曹軍を一喝して退けたこと、関羽が山の後方から現れたことなどの筋書きがある。
10 幕 · 約 2 分

潼関の戦い
211建安十六年、馬超・韓遂ら関中の諸将が兵を挙げ、潼関に駐屯した。曹操は七月に西征し、関前に大軍を集める一方、密かに徐晃・朱霊を遣わして夜に蒲阪津を渡らせ、河西を占拠させた。自ら北へ渡る際に馬超の急襲を受けたが、許褚が船を守り、丁斐が牛馬を放ったため、脱出できた。その後、車を連ねて柵を設けた甬道を築き、河南沿いに南下し、渭水をひそかに渡って渭南に陣を構えた。賈詡の離間策を用い、韓遂と馬を交えて旧交を語り、書き直しの跡がある書状を送ったことで、馬超と韓遂は互いを疑うようになった。最後は虎騎で挟撃し、連合軍を大いに破った。『三国志演義』では、髭を切り捨て袍を脱ぎ捨てる場面、氷の城、許褚の裸身での戦い、馬超が韓遂の左手を斬り落とす場面も描かれる。
10 幕 · 約 2 分

巴西の戦い
215建安二十年、曹操は張魯を破り、漢中を平定した。張郃を残して諸軍を別に指揮させ、南下して巴西へ進ませ、巴の民を漢中へ移住させようとした。宕渠、蒙頭、蕩石へ進軍し、張飛と五十余日にわたって対峙した。張飛は精鋭一万余人を率いて別の道から急襲した。山道が狭く、張郃軍は前後で互いに救援できず大敗した。張郃は馬を捨てて山をよじ登り、麾下の十余人とともに間道を通って南鄭へ退いた。『三国志演義』では、張飛が酒を飲んで敵陣を罵り、草人で敵を誘い、車を焼いて谷道を断ち、梓潼山の小道から瓦口関を奪う筋書きとなっている。
12 幕 · 約 3 分

合肥の戦い
215建安二十年八月、孫権は十万の兵を率いて合肥を包囲した。守将の張遼、楽進、李典の兵は七千余りにすぎなかった。張遼は曹操の密命に従い、八百人の決死隊を率いて夜明けに敵営へ突入し、孫権の麾下にまで迫って、呉軍の士気をくじいた。呉軍は十余日にわたり城を囲んだが陥落させられず、さらに疫病にも見舞われた。撤退の際、孫権は逍遙津の北で張遼の奇襲を受けた。凌統、甘寧は死を覚悟して戦い、孫権は馬を躍らせて断橋を越え、脱出した。『三国志演義』では、逍遙津の北に伏兵を置き、小師橋を馬で飛び越えた話として描かれている。
13 幕 · 約 2 分

定軍山の戦い
219建安二十四年春、劉備は夏侯淵・張郃と陽平関で一年余り対峙した後、法正の策に従い、陽平から南へ沔水を渡り、定軍山で山に寄せて陣営を築いた。夏侯淵が争いに来て、走馬谷に陣営を築いた。劉備は夜に魏軍の陣営の鹿角を焼き払い、張郃を攻撃した。夏侯淵は兵を分けて救援し、黄忠が高所から鬨の声を上げて駆け下り、夏侯淵を討ち取った。張郃は陽平へ退き、郭淮は彼を主帥に推し、川から離れて陣を敷いた。劉備は渡河しなかった。『三国志演義』では別に、黄忠が対山を奪い、紅白の旗を合図に夏侯淵を斬ったと描く。
10 幕 · 約 2 分

夷陵の戦い
222章武元年秋、劉備は関羽の仇を討つため、自ら孫権を討伐し、三峡沿いに東進して巫を破り、秭帰に進軍して駐屯した。翌年二月、夷道の猇亭に進み、水軍は長江を挟んで夷陵に駐屯し、黄権は江北の諸軍を指揮し、数十の陣営を連ねて駐屯した。陸遜は五万人を率いて守りに徹し、戦わず、七、八か月にわたって対峙した。閏六月、陸遜は火攻めで蜀軍の四十余りの陣営を次々と破り、馬鞍山で劉備を包囲した。劉備は夜に白帝城へ逃れ、舟船と軍需物資をすべて失い、黄権は魏に降った。『三国志演義』には、陣営が七百里に連なること、林陰に陣を移すこと、趙雲が救援に駆けつけること、八陣図などの筋立てもある。
10 幕 · 約 2 分

街亭の戦い
228建興六年春、諸葛亮は祁山に進出し、三郡が呼応した。異例の抜擢で馬謖を先鋒として街亭に向かわせたが、魏将の張郃が陇山を越えて迎え撃った。馬謖は水辺を離れて山に登り、南山に拠って守った。張郃はその水汲み道を断ち、これを大破した。蜀軍は四散し、ただ王平の千人だけが太鼓を鳴らして持ちこたえ、残兵をまとめて帰還した。郭淮もまた列柳城で高詳を破った。諸葛亮は進んでも拠点を得られず、西県の千余家を移して漢中へ退いた。『三国志演義』には、司馬懿が主謀者であること、魏延の迎撃、泣いて馬謖を斬ること、空城計などの筋書きもある。
10 幕 · 約 2 分

五丈原の戦い
234建興十二年春、諸葛亮は斜谷から北へ進出し、流馬で兵糧を運び、武功の五丈原を占拠して、渭水を挟んで渭南で司馬懿と対峙した。郭淮が先んじて北原に駐屯・占拠し、蜀軍の原の争奪、西を装って東を攻める陽遂への夜襲はいずれも成功しなかった。諸葛亮は兵を分けて屯田させ、長期駐留を図った。司馬懿は守りを固めて戦わず、百日余り対峙した。八月、諸葛亮は軍中で没した。楊儀は喪を秘して諸営を率い、撤退した。魏延は先んじて南へ帰り、桟道を焼き落とし、南谷口を拠点に抗戦したが、部下は離散し、馬岱に追撃されて斬られた。『三国志演義』には別に、上方谷の火攻め、婦人の衣装の贈呈、禳星、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」などの筋書きがある。
14 幕 · 約 2 分