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袁術(えんじゅつ)

袁術集団(えんじゅつしゅうだん) · 仲家天子(僭号)

袁術(えんじゅつ)

字 公路

登場回
24
台詞の記録
21
人間関係
36
内面の独白
3

史載(Historical Record)

袁術(えんじゅつ)、字は公路、汝南袁氏の出身で、司空袁逢(えんほう)の子であり、袁紹(えんしょう)の従弟である。彼は侠気で名を知られ、かつて孝廉に推挙され、郎中・折衝校尉・虎賁中郎将を歴任した。董卓(とう たく)が少帝を廃そうとした際、袁術を後将軍に任命した。袁術は董卓の禍を恐れ、南陽(なんよう)へ出奔した。当時、長沙(ちょうさ)太守の孫堅(そん けん)が南陽太守の張諮を殺害したため、袁術は南陽を占拠することができた。

袁術は南陽を占拠した後、生活は奢侈をきわめ、民に対して過酷な徴税を行い、その地の民は生活が立ち行かなくなり、ついには人が互いに食らうという惨状すら現れた。彼は袁紹との間にもともと不和があり、また劉表(りゅう ひょう)とも仲が悪く、北方の公孫瓚(こうそんさん)と結んだ。一方の袁紹は公孫瓚と不和で、南方の劉表と結び、兄弟がこのように近きを捨てて遠きと交わり、互いに猜疑し合った。

興平二年(195年)冬、漢の献帝は曹陽で挫折した。袁術は部下を召集し、漢室は衰微し、袁氏は四世にわたり三公を輩出して民心が帰服しているとして、天命に順って帝を称しようとした。主簿の閻象が諫めて、周の文王は天下の三分の二を有しながらなお殷商に仕えたのであり、袁氏は周の盛時にはるかに及ばず、漢室もまた殷の紂王のような暴虐ではないと指摘した。袁術はこれを聞いて不快に思ったが、なお河内の張烱の符命の説を採り入れ、寿春(じゅしゅん)で帝号を僭称し、自ら「仲氏」と称し、公卿を設置し、天地を祭った。

袁術の帝位僭称(えんじゅつのていいせんしょう)の後、生活はますます荒淫無度となり、後宮の数百人は皆綾羅綢緞をまとい、膏粱の美味を食したが、兵卒たちは凍えと飢えに苦しみ、江淮地域は荒廃しきっていた。彼はかつて呂布(りょふ)に使者を遣わして帝を称する意図を告げ、援軍として結ぼうとしたが、呂布は使者を留め、その書信を朝廷に上奏した。袁術は大いに怒り、呂布を攻めたが、かえって呂布に撃破された。後に袁術はまた陳の地を侵し、曹操(そうそう)が自ら東征した。袁術はこれを聞くと軍を捨てて逃げ、橋蕤(きょうずい)・李豐・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)らの将を残した。曹操が到着すると、橋蕤らを撃破して斬り、袁術は淮水を渡って逃げ去った。

袁術は敗れた後、その部曲である雷薄(らいはく)・陳蘭を灊山に頼ろうとしたが、彼らに拒絶された。彼は憂え恐れて策もなく、帝号を袁紹に返そうと考え、青州(せいしゅう)へ赴いて袁譚(えんたん)に頼ろうとしたが、その途上で病死した。その妻子は後に袁術の旧吏である廬江(ろこう)太守の劉勲(りゅうくん)に身を寄せ、劉勲が孫策(そん さく)に敗れた後、袁術の娘は孫権(そん けん)の後宮に納められ、子の袁燿(えんよう)は郎中に任じられ、袁燿の娘はまた孫権の子の孫奮(そん ふん)に嫁いだ。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』における袁術の人物像は、史実を基礎としつつ、その驕奢・自大という文学的色彩がいっそう加えられている。董卓が政を乱し、十八路の諸侯が会盟して董卓を討った際、袁術は総督糧草官に推挙された。華雄(かゆう)が連盟軍の大将を次々と斬った際、袁術は関羽(かんう)の出身が卑しいとして叱責し、その出陣を許さず、その傲慢さと人材を軽んじる一面をあらわにした。後に孫堅が華雄を斬って大功を立てたが、袁術は讒言を信じて糧草を送らず、孫堅を敗北させ、あやうく命を落とさせかけた。

袁術と袁紹の兄弟の不和も、演義に現れている。袁紹が冀州(きしゅう)を得た後、袁術が彼に馬を求めたが、袁紹は与えず、兄弟二人はこれによって怨みを結んだ。袁術はまたひそかに使者を遣わし、孫堅をそそのかして劉表を攻めさせ、漁夫の利を得ようとした。

帝を称する一事については、演義はいっそう詳細に描いている。袁術は淮南で広大な土地と充分な糧草を有し、また孫策が抵当に入れた伝国の玉璽を手にしていたため、僭越の心を生じた。彼は部下を召集して協議し、主簿の閻象が再び諫めたが、袁術は「袁姓は陳より出で、陳は大舜の後にして、土をもって火を承け、まさにその運に応ずる」および「吾が字は公路、まさにその讖に応ずる」などの理由で、執拗に帝を称し、「多言する者は斬る」と脅した。彼はこうして「仲氏」と建号し、台省などの官を立て、龍鳳の輦に乗り、天地を祭り、馮方の娘を立てて后とし、子を立てて東宮とした。

袁術は帝を称した後、大将の紀霊(きれい)に兵を率いさせて劉備(りゅうび)を攻めさせ、また呂布を抱き込もうとした。彼は呂布に糧草や金銀を約束し、劉備を挟撃させようとした。しかし呂布は前言をひるがえし、轅門射戟(えんもんしゃき)によって劉備と紀霊の衝突を収めた(演義独自)。袁術はこれによって大いに怒り、張勲(ちょうくん)ら七路の大軍二十余万を遣わして徐州(じょしゅう)の呂布を攻め、自らも三万の大軍を率いて後詰めとした。しかし、韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)ら降将の反逆により、袁術は大敗して帰った。

袁術の末路について、演義はその悲惨な結末を描いている。彼は敗れた後、帝号を袁紹に返そうとし、袁譚に身を寄せようとした。青州へ向かう途上、曹操と劉備の連合軍に追撃され、また雷薄・陳蘭に銭糧を奪われた。最終的に彼は江亭に退き、兵卒はわずかに千余の老弱が残るのみであった。盛暑の中、食糧は尽き、麦屑三十斛が残るだけであった。彼は蜜の汁を飲もうとしたが得られず、櫺床に座してしばし嘆息し、「袁術がここに至るとは!」と大声で叫び、たちまち血を斗余も吐いて死んだ。

関鍵関係

* 袁紹(rival_of):史実では、袁術と袁紹は従兄弟であるが、関係は不和で、互いに猜疑し合い、「兄弟が二心を抱き、近きを捨てて遠きと交わる」ありさまであった。演義では、この矛盾はいっそう際立ち、袁術は袁紹が馬を与えなかったために大いに怒り、兄弟はこのときから不和となった。袁術は帝を称した後、帝号を袁紹に返そうとしたが、袁紹の意は玉璽を奪うことにあり、真心から受け入れようとしたのではなかった。
* 曹操(enemy_of):袁術と曹操は直接の軍事的対手であった。史実では、曹操はかつて袁紹と袁術の軍を合撃し、これを大いに破った。後に曹操は陳の地を侵した袁術を東征し、袁術はこれを聞いて逃げた。演義では、曹操は袁術を討伐する主力の一つであり、劉備は曹操の命を奉じて袁術を討ち、最終的に袁術を破った。
* 呂布(rival_of):史実では、袁術はかつて呂布を抱き込もうとし、帝を称する意図を告げたが、呂布は使者を留めて朝廷に上奏した。袁術はこれによって呂布を攻めたが、かえって撃破された。演義では、袁術と呂布の関係はいっそう複雑である。袁術はかつて呂布に糧草・金銀を約束し、劉備を挟撃させようとした。しかし呂布は轅門射戟によって劉備と紀霊の衝突を収め、袁術を大いに怒らせ、大軍を遣わして呂布を攻めさせた,。
* 公孫瓚(friend_of):史実では、袁術は袁紹と不和であったため、公孫瓚に援助を求め、公孫瓚もまた兵を遣わして助け、袁紹を圧迫した。これは袁術の「近きを捨てて遠きと交わる」戦略を体現している。
* 孫堅/孫策:史実では、孫堅はかつて袁術のために南陽太守の張諮を攻め、袁術は南陽を占拠することができた。孫策はかつて袁術に身を寄せ、袁術のために戦功を立てた。しかし後に孫策が袁術に玉璽を求めたが、袁術は返さず、孫策はこうして袁術と決裂した(演義独自)。
* 劉備:演義では、袁術は劉備を「むしろを織り履をつくる夫」と見なし、彼が大郡を占拠することにきわめて不満を抱き、再三兵を遣わして劉備を攻めた,。劉備は曹操の命を奉じて袁術を討ち、最終的にこれを破った。

象徴的な場面

* 南陽での僭称:袁術は南陽で百万の戸口を擁しながら、奢淫無度であり、最終的に寿春で帝号を僭称し、自ら「仲氏」と称し、漢末で最初に公然と帝を称した諸侯となった。この挙動は彼の野心を完全に暴き、また彼の滅亡を加速させた。
* 十八路諸侯の董卓討伐における関羽の軽視:演義では、華雄が連盟軍の大将を次々と斬り、関羽が出陣を願い出た際、袁術はその「馬弓手」という身分を理由に大声で叱責し、帳外へ追い出そうとし、その驕慢で容貌によって人を判断する性格をあらわにした。この場面は関羽の「温酒のうちに華雄を斬る」勇姿と鮮明な対比をなし、袁術の短慮を際立たせている。
* 糧草を送らず孫堅を敗北させる:董卓討伐の間、孫堅は先鋒としてしばしば戦功を立てたが、袁術は讒言を信じて糧草を送らず、孫堅を敗北させた。これは袁術が功を妬む不公正さを体現するとともに、その狭量な心と盟友への猜疑をも反映している。
* 呂布との恩讐:袁術はかつて呂布を抱き込んで共に劉備に対抗させようとし、重金や糧草を約束したが、呂布は轅門射戟によって劉備の危機を収め、袁術を大いに怒らせた(演義独自)。続いて袁術は大軍を遣わして呂布を攻めたが、かえって撃破され、その勢力をさらに削がれた。
* 末路に血を吐いて死す:袁術は敗れた後、流離して身の置き所なく、最終的に江亭で、糧も蜜もない苦境に直面して「袁術がここに至るとは!」と嘆き、たちまち血を斗余も吐いて死んだ。この場面は、彼の一生の驕奢淫逸と最終的な窮途末路の悲劇的な描写であり、その性格の欠陥が招いた失敗の最終的な体現でもある。

肖像アーカイブ

人物像

性格
袁術(えんじゅつ)は驕り高ぶって傲慢であり、功を妬んで公平を欠き、詐りが多く意地を張り、しばしば同盟を離間させた。彼は思い上がって自負し、剛愎にして殺戮を好んだ。
話し方
彼はかつて「奉先(ほうせん)は反覆して信義なし、まず娘を送らせ、しかる後に兵を発すべし」と言った。
生涯
袁術は字を公路といい、司空袁逢(えんほう)の子、袁紹(えんしょう)の従弟である。かつて糧草の総督を務めたが、讒言を聞き入れて糧草を送らず、孫堅(そん けん)を敗北させた。彼は荀彧(じゅん いく)の『駆虎呑狼の計』に踊らされ、後に四世三公を自称し、「仲氏」と僭称して帝位に就こうとしたが失敗し、淮南へ敗走した。最期は江亭に流亡し、喉が渇いて蜜水を求めたが得られず、血を吐いて死んだ。
逸話
袁術は何進(かしん)が殺された後、兵を率いて宮廷に突入し、宦官を尽く殺した。かつて使者を遣わして呂布(りょふ)に即位を報じ、後に讖緯をもってみずからに附会し、「わが袁姓は陳より出づ、陳は大舜の後なり。土をもって火を承く、まさにその運に応ず」と言った。

人間関係

36 件の関係

名言

全 21 件の台詞 · 厳選 3 件

「吾袁姓出於陳。陳乃大舜之後。以土承火,正應其運。又讖云:『代漢者,當塗高也。』吾字公路,正應其讖。又有傳國玉璽,若不為君,背天道也。吾意已決,多言者斬!」

演 第17回→ 閻象

袁術(えんじゅつ)が帝を称した核心的な理由であり、その傲慢不遜さと荒唐無稽さを体現している。

「汝乃織蓆編屨之夫,今輒占據大郡,與諸侯同列;吾正欲伐汝,汝卻反欲圖我!深為可恨!」

演 第14回→ 紀霊(きれい)

袁術(えんじゅつ)が劉備(りゅうび)を蔑む名台詞であり、その門閥観念を映し出している。

「今劉氏微弱,海內鼎沸。吾家四世公輔,百姓所歸,欲應天順民,於諸君意如何?」

史 第6回

正史の記載であり、袁術(えんじゅつ)が帝を称する前の独白として、その野心を反映している。

登場回24 回 ▸
  • 史ch.1ch.6ch.7ch.11ch.13ch.22ch.32ch.46ch.56ch.57ch.58
  • 演ch.3ch.5ch.6ch.7ch.8ch.11ch.14ch.15ch.16ch.17ch.19ch.21ch.44
関係の年表18 条 ▸

史 ch.1

史 ch.6

史 ch.58

  • enemy_of

    有隙,将攻之

演 ch.5

演 ch.6

演 ch.7

演 ch.11

演 ch.15

  • rival_of

    许以粮五万斛、马五百匹、金银一万两、彩缎一千疋使夹攻刘备;后又失信不予

  • mentor_of

    甚爱之、叹「使术有子如孙郎,死复何恨」;许借兵、扣留玉玺

演 ch.16

演 ch.17

演 ch.19

演 ch.21

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は袁術(えんじゅつ)、字は公路。ここに至って兵は散り、兵糧は尽き、かつての威勢は風前の灯火となった。寿春(じゅしゅん)にいた頃を思えば、私は淮南の地は広く兵糧も豊かだと自負し、袁氏は四世にわたり三公を輩出し、天下の人々が帰服していると誇っ
  • 私は袁術(えんじゅつ)、字は公路(こうろ)。四代にわたって公卿を輩出した家の出である。若い頃は侠気で知られ、孝廉に推挙されて内外の官職を歴任し、後将軍にまでなった。董卓(とう たく)が朝廷を乱すと、その威圧を恐れて南陽(なんよう)へ逃れた。
  • 私は袁術(えんじゅつ)、字は公路(こうろ)、袁氏(えんし)の出である。若い頃から、家柄の重みを背負ってきたことで、自分には事を任されるだけの力があると信じていた。しかし漢末の世にあって、名望はただ頼みにできるものではない。群雄の間で声望を勝
生涯の大事12 ▸