史実(Historical Record)
陳宮(ちんきゅう)、字は公台、東郡の人である。その人となりは剛直で烈壮、早くから天下に名の知れた士たちと多く交わりを結んでいた c:4066。天下大乱の際、陳宮はかつて短期間ながら曹操(そうそう)に従った。初平二年(191年)、曹操が奮武将軍となり東郡に屯したとき、陳宮はこの時に曹操の陣営に加わった c:4067。
興平元年(194年)、曹操が陶謙(とうけん)を東征した際、陳宮を残して兵を率い東郡を守らせた。しかし、陳宮は張邈(ちょうばく)の弟である張超(ちょうちょう)、従事中郎の許汜(きょし)、王楷らと共に曹操への謀反を企てた。陳宮は張邈に進言し、当時天下に群雄が並び起こる中、張邈は千里の衆と四方に戦う要地を擁し、本来一方の豪傑として自立できるはずなのに、甘んじて人に制せられているのは賢明ではないと指摘した。彼は張邈に対し、曹操が東征して兗州(えんしゅう)が手薄になっている隙に、かねて勇武の名のある呂布(りょふ)を迎え、共に兗州を占拠して天下の形勢を観望し、機を伺って動くよう進言した c:4065。張邈は陳宮の進言を採り入れ、その部衆をもって東に呂布を迎え、これを兗州牧として奉じ、濮陽(ぼくよう)を占拠した。兗州の各郡県は次々と呼応し、ただ鄄城(けんじょう)、東阿、范県の三地のみが荀彧(じゅん いく)、程昱(ていいく)らの堅守によって保全された c:4065。
曹操はこれを聞くと軍を引いて援けに戻り、呂布と濮陽で激戦を繰り広げた。曹操軍は緒戦に利あらず、双方は百日余り相持した。その間、蝗害と飢饉により人民が互いに食い合い、呂布軍の兵糧も尽き、ついに双方はそれぞれ兵を引いて撤退した c:4064。その後の二年間、曹操は次第に失地を回復し、巨野で呂布を破った。呂布は敗れると、東へ走り劉備(りゅうび)を頼った c:4065。
建安三年(198年)、呂布は下邳(かひ)で曹操に包囲され、ついに敗れて捕らえられた。陳宮もまた捕らわれた。曹操がかつて陳宮に老母と娘のことを案じないのかと問うと、陳宮はこう答えた。「宮の聞くところ、孝をもって天下を治める者は人の親を絶たず、仁を四海に施す者は人の祀りを乏しくせぬと申します。老母が在るか否かは公の御心次第であって、宮にはございませぬ。」 c:4066 彼は自らの老母や妻子の存亡は、すべて曹操の一念にかかっていると考えた。陳宮はまた、呂布が敗れたのは、まさに自らの計策に従わなかったためだと指摘した。最後に、陳宮は軍法を明らかにするために刑を受けることを願い出て、曹操の引き留めも顧みず、毅然として死に赴いた。曹操はこのために涙を流して別れを惜しみ、陳宮の死後、その家族を以前と変わらず手厚く遇した c:4066。
演義(In the Novel)
『三国演義』においては、陳宮の像はより劇的な開幕を与えられている。彼が初めて登場するのは、中牟県令としてである c:15279。曹操が董卓(とう たく)の暗殺に失敗して逃れ、中牟県で捕らえられた。陳宮は曹操の身分を見破ったが、その忠義報国の志に感服し c:15280、官を捨てて曹操と共に逃亡した c:4068。この筋立ては史書には記載がなく、演義の虚構である。
逃亡の途中、曹操と陳宮は呂伯奢(りょはくしゃ)の家に宿を求めた。曹操は呂伯奢の家人が自分に危害を加えようとしていると疑い、なんと呂伯奢一家八人を残忍に殺害し、さらに酒を買って帰ってきた呂伯奢までも殺害した。陳宮の咎める言葉に対し、曹操は「むしろ我が天下の人に背くとも、天下の人をして我に背かしむなかれ」という有名な台詞を吐いた c:15287。この事件は陳宮の曹操への信頼を大きく揺るがし、曹操の冷酷な本性を悟らせた。その夜、陳宮は曹操を殺そうという考えすら抱いたが、最終的には忍びず断念し、曹操のもとを去って東郡へ身を寄せることを選んだ c:4069。この「むしろ我が天下の人に背くとも」の筋立ては、『世説新語』に類似の記載があるものの、これを陳宮との決裂と結びつけたのは演義独自の造形である。
その後、陳宮は演義において幾度も呂布の謀士として登場する。曹操が父の仇を報じるために徐州(じょしゅう)を攻め、城を屠ろうとしたとき、陳宮は東郡従事として曹操を諫めに来たが、曹操は聞き入れず、陳宮はそこで張邈のもとへ身を転じた c:4071。呂布が兗州を占拠していた間、陳宮はその謀を巡らし、例えば泰山の険要な地に伏兵を置いて曹操を待ち伏せるよう進言したが、呂布は採用できなかった c:15236。濮陽の戦いでは、陳宮は城中の富豪である田氏を内応とし、曹操を城内に誘い込む計を献じたが、曹操の謀士である劉曄(りゅうよう)に計を見破られ、呂布の火攻めは成功しなかった c:4075。
演義における陳宮の呂布への忠心と謀略は終始一貫しているが、呂布はしばしばその言を聞かず、たびたび敗北を招いた。例えば、小沛(しょうはい)の戦いでは、陳宮は呂布に劉備が酔っている隙に徐州を襲うよう進言し c:4078、また呂布が劉備を見逃そうとしたときには禍根を断つよう諫めたが c:15261、呂布はいずれも完全には採り入れなかった。最後に、呂布は下邳で囲まれ、陳宮はなお謀を巡らしたが、呂布は依然として旧態のままで、ついに敗亡を招いた。陳宮は捕らえられた後、曹操との対話、および最終的に死に赴く場面は史実とほぼ一致するが、演義はそれ以前の伏線を通じて、陳宮の「臣として不忠、子として不孝、死は自ら分なり」 c:4066 という言葉をより悲壮なものにしている。
重要な関係
* 呂布(friend_of / serves):陳宮は呂布の最も重要な謀士の一人である。史書において、陳宮は張邈を説いて呂布を兗州に迎え入れさせ、その謀を巡らした c:4065。演義では、陳宮は幾度も呂布のために計を献じ、城を攻め取るにせよ曹操を防ぐにせよ、心血を注いだ。しかし、呂布はしばしば陳宮の進言を採用せず、たびたび好機を逸し、最終的に敗れて命を落とした c:15236。陳宮は死に臨んでも、呂布が自分の言を聞かなかったがゆえにこの結末に至ったと責めた c:4066。
* 張邈(advises_in):陳宮はかつて張邈に進言し、曹操に背いて呂布を迎え、共に兗州を占拠するよう説いた c:4065。張邈は陳宮の進言を採り入れ、呂布集団(りょふしゅうだん)の重要な一員となった。
* 曹操(dies_in):陳宮は早期にはかつて曹操に従ったが、演義では曹操の残忍な行い(呂伯奢一家の殺害など)によって去ることを選んだ c:15287。後に陳宮は曹操の強敵である呂布の謀士となり、幾度も曹操と矛を交えた。最終的に、陳宮は下邳の戦いで曹操に捕らえられ、処刑された c:4066。曹操はその才能を認めつつも、原則の問題において引き留めることはできなかった。
* 荀彧、程昱:陳宮と張邈が曹操に背き、呂布を迎えて兗州を占拠したとき、まさに荀彧と程昱が鄄城、東阿、范県の三地を堅守し、曹操のために立脚の地を保った c:4065。彼らは曹操陣営において陳宮の智謀と対峙した鍵となる人物である。
象徴的な場面
* 官を捨てて曹操に従い、後に呂伯奢事件によって決裂する(演義独自):陳宮は中牟県令として、曹操の董卓暗殺の忠義に感服し、毅然として官を捨て曹操と共に逃亡した c:4068。しかし、呂伯奢の家における曹操の残忍な行いは、陳宮の彼に対する見方を根本から変え、曹操の「冷酷さ」を悟らせた c:4069。この事件は陳宮と曹操の関係破綻の引き金であるばかりでなく、曹操の「むしろ我が天下の人に背くとも、天下の人をして我に背かしむなかれ」という性格的特質を深く明らかにしている c:15287。
* 張邈を説いて呂布を兗州に迎え入れさせる:陳宮は張邈に天下の形勢を分析し、曹操が徐州を東征して兗州が手薄になっている今こそ、呂布を兗州に迎え入れる絶好の機会だと指摘した。この計は呂布に兗州を占拠させることに成功し、曹操に大きな脅威を与えるとともに、陳宮の政治的立場をも根本から変えた c:4065。
* 濮陽の戦いで呂布のために計を献じるも、たびたび採用されず:曹操と呂布が兗州を争った濮陽の戦いにおいて、陳宮は幾度も呂布のために妙計を献じ、例えば泰山の険要な地に伏兵を置くよう、あるいは内応を利用して曹操を城内に誘い込むよう進言した c:15236, c:4075。しかし、呂布はしばしば自らの勇武を恃み、陳宮の進言を聞かず、戦況の悪化を招き、最終的に兗州を失った c:15238。この一連の出来事は陳宮の智謀を十分に示すとともに、呂布の剛愎自用ぶりを際立たせている。
* 下邳城が陥落し、曹操と対話して慷慨として死に赴く:呂布が下邳で敗れ、陳宮は捕らえられた。曹操の問い詰めに対し、陳宮は自らの敗北を率直に認め、呂布が自分の言を聞かなかったことが敗亡の原因だと責めた。彼は曹操の招降を拒み、毅然として死を求め、その剛烈不屈の性格を示した。曹操は旧情を思い、涙を流して別れを惜しみ、陳宮の死後にはその家族を手厚く遇した。この場面は陳宮の人生の悲劇の最高潮となっている c:4066。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 陳宮(ちんきゅう)は性格が剛直で烈しく壮んであり、初めは忠義を慕ったが、後には曹操(そうそう)を「非情な者」と見なした。彼は謀略が明晰であったが、しばしば主君に採用されず、忠言を幾度も諫めても容れられずに鬱々とし、最後には忠節を決然と貫き、老いた母や妻子のために生を求めることを顧みなかった。
- 話し方
- 言葉の風格として、陳宮(ちんきゅう)はしばしば仁義の弁をもって他人を説得した。たとえば曹操(そうそう)に徐州(じょしゅう)の民を虐殺しないよう勧めたことである。彼はまた「忠言が容れられねば、我らは必ず災いを受けよう」との嘆きの辞を発し、儒の教えを引いて言を立て、「孝をもって天下を治める者は人の親を害さず、仁政を天下に施す者は人の祀りを絶たない」と強調した。
- 生涯
- 陳宮(ちんきゅう)は東郡(とうぐん)の人で、最初は曹操(そうそう)に従ったが、後に曹操を疑って呂布(りょふ)に転じた。彼はかつて張邈(ちょうばく)を説得して呂布を兗州(えんしゅう)牧に迎えさせ、呂布のために謀を巡らした。建安三年、下邳(かひ)城が破られた時に捕らえられ、最終的に縊り殺された。
- 逸話
- 陳宮(ちんきゅう)はかつて中牟県令(ちゅうぼうけんれい)を務め、曹操(そうそう)を見破りながらも釈放した。彼はかつて曹操を刺すことを取りやめ、自ら東郡(とうぐん)に身を投じ、後にさらに陳留(ちんりゅう)太守の張邈(ちょうばく)に転じた。彼は臧覇(ぞう は)と結び泰山(たいざん)の賊寇を連ねて兗州(えんしゅう)を攻め、またかつて蕭関(しょうかん)の守将であった。
人間関係
15 件の関係
名言
全 59 件の台詞 · 厳選 3 件
「我將謂曹操是好人,棄官跟他;原來是個狠心之徒!今日留之,必為後患。」
陳宮(ちんきゅう)が曹操(そうそう)を見限る鍵となる台詞であり、その品性への失望と決裂を示している。
「今雄傑並起,天下分崩,君以千里之衆,當四戰之地,撫劒顧眄,亦足以爲人豪,而反制於人,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,若權迎之,共牧兖州,觀天下形勢,俟時事之變通,此亦縱橫之一時也。」
この言葉は張邈(ちょうばく)を説いて呂布(りょふ)を迎え入れさせたもので、陳宮(ちんきゅう)の政治的謀略を代表し、影響は深遠であった。
「吾聞以孝治天下者,不害人之親;施仁政於天下者,不絕人之祀。老母妻子之存亡,亦在於明公耳。吾身既被擒,請即就戮,並無挂念。」
陳宮(ちんきゅう)が臨終の際に述べた慷慨の弁であり、その忠孝を全うする品格を体現し、広く世に伝わっている。
登場回15 回 ▸
- 史ch.1ch.7ch.10
- 演ch.4ch.5ch.10ch.11ch.12ch.13ch.14ch.15ch.16ch.17ch.18ch.19
関係の年表17 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私はすでに捕らえられ、曹公(そうこう)の面前にいる。生涯の道も、ここで尽きた。公は、今日のこの状況をどうするつもりかと私に問われた。私は取り繕う言葉を持たない。臣下として忠を尽くさず、子として孝を尽くさなかったのだから、死は当然の報いである
- 私は陳宮(ちんきゅう)、字は公台(Kōdai)である。興平元年、曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)へ東征すると、兗州(えんしゅう)の兵力は手薄になった。私は張邈(ちょうばく)に勧めた。「天下は分裂し、豪傑が次々と立ち上がっている。君は千里
- 私は陳宮(ちんきゅう)、字は公台、東郡の人である。かつて明主に巡り会う前、県令の職にあったとはいえ、心に思い描いていたのは一県一官にとどまらなかった。漢室は傾き、董卓(とう たく)が政を乱して、天下の識者の多くは憂憤を抱いていた。ただ、下級
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