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徐庶(じょしょ)

劉備集団(りゅうびしゅうだん) · 军师

徐庶(じょしょ)

字 元直

登場回
9
台詞の記録
43
人間関係
14
内面の独白
3

史載(Historical Record)

徐庶(じょしょ)、字は元直、本名は福、潁川(えいせん)の人である。少年のころ任侠を好み剣を撃ち、かつて他人のために仇を報じた。中平の末年、義侠の行いによって官吏に捕らえられたが、彼は口を閉ざして姓名を言わず、その仲間が手立てを尽くして彼を救い出した。この後、徐庶は心を入れ替え、武を棄てて文に従い、節を折って学に向かい、謙虚で勤勉な態度で学問を求め、その精髄を深く得た。彼は同郡の石韜と親しく交わり、初平年間に中州の戦乱のためともに荊州(けいしゅう)へ南下し、諸葛亮(しょかつりょう)とも深い友情を結んだ。

劉備(りゅうび)が新野(しんや)に屯していたとき、徐庶(じょしょ)が訪ねて見え、劉備はその才能を大いに重んじた。徐庶は劉備に諸葛亮(しょかつりょう)を推薦し、彼を「臥龍」と称し、諸葛亮は「この人は就いて見るべきで、屈して致すべきではない」と指摘して、劉備に自ら訪ねるよう勧めた。徐庶の引き合わせにより、劉備は三顧の礼(さんこのれい)を尽くし、ついに諸葛亮に会うことができた。

建安十三年(208年)、曹操の荊州南征(そうそうのけいしゅうなんせい)が起こった。劉表(りゅう ひょう)の死後、その子の劉琮の降伏(りゅうそうのこうふく)により曹に降った。劉備(りゅうび)はこれを聞いて衆を率いて南へ退き、徐庶(じょしょ)は諸葛亮(しょかつりょう)とともに随行した。しかし、撤退の途中、劉備の隊は曹操(そうそう)の軍に追いつかれて潰され、徐庶の母がこの戦乱の中で曹軍に捕らえられた。徐庶はそこで劉備に別れを告げ、「もともと将軍とともに王覇の業を図ろうとしたのは、この方寸の地(心)あればこそです。今、老母を失い、方寸が乱れ、事に益なし。どうかここでお別れさせてください」と述べ、曹操のもとへ身を投じた。

徐庶(じょしょ)は曹に帰した後、官は右中郎将、御史中丞に至った。『魏略』の記載によれば、諸葛亮(しょかつりょう)は隴右を北伐したとき、徐庶と石韜が魏国で官職が高くないと聞き、かつて嘆じた。「魏にはことのほか多くの士がいるのか。なぜあの二人は用いられないのか。」徐庶は最終的に魏国で病没し、その墓碑は今なお彭城に残っている。

演中(In the Novel)

『三国演義』においては、徐庶(じょしょ)の形象にはいっそう多くの伝奇的色彩と劇的さが与えられている。彼は初めて登場するとき「単福」と名を偽り、遊侠の身分で市井で歌い、それによって劉備(りゅうび)の注意を引いた。水鏡先生司馬徽(しばき)はかつて劉備に「伏龍・鳳雛」の説を語ったが、徐庶こそ水鏡先生の言う「英雄豪傑は、ただ眼前にあり」の人であった。

徐庶(じょしょ)は劉備(りゅうび)のもとへ身を投じた後、卓越した軍事的才能を示した。彼は曹仁(そうじん)が布いた「八門金鎖の陣」を見破り、趙雲(ちょううん)を指導して陣を破らせ、劉備軍に大勝をもたらした。彼はまた曹仁の劫寨の行動を予見し、伏兵を設けて再び曹軍を破り、曹仁に兵を損じ将を失わせた。これらの軍事上の勝利により、劉備は徐庶の才華を深く信じ、彼を軍師に拝した。

徐庶(じょしょ)が劉備(りゅうび)のもとを去る筋は、演義において大いに脚色されている。曹操(そうそう)は程昱(ていいく)の建議により、計をめぐらして徐庶の母を許昌(きょしょう)に騙し連れ、徐母の書信を偽造して徐庶を曹に召し寄せた。徐庶は母が囚われたと知り、心は焦り乱れ、劉備に別れを告げた。劉備は徐庶の去ることを深く惜しみ、一里また一里と見送った。別れに際し、徐庶は劉備に諸葛亮(しょかつりょう)を推薦し、その才華は自分をはるかに勝り、「天を経し地を緯する才、けだし天下一人なり」と称し、劉備の三顧の礼の佳話を成した。

演義においては、徐庶(じょしょ)が曹に帰した後、その母は彼が「明を棄て暗に投じた」ことを痛罵して自尽し、これにより徐庶は「身はかしこにあれど、誓って一謀も設けず」と誓った。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、龐統(ほうとう)が連環の計を献じたとき、徐庶はこの計を見破ったが、龐統は「江南八十一州の百姓」と「八十三万の大軍」の命をもって脅し、徐庶は最終的に沈黙を選んだ。龐統はまた徐庶のために脱身の計を立て、徐庶に散関を守るという名目で赤壁(せきへき)の戦場から遠ざからせ、火攻めの中で命を落とすことを避けさせた。これらの筋は史書にいずれも記載がなく、人物の忠義の形象を造形し、物語の筋の展開を推し進めるために演義が行った芸術的加工である。

関鍵関係

* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(serves):徐庶(じょしょ)は史実においても演義においても、かつて劉備(りゅうび)に仕えた。史実では、彼は劉備に諸葛亮(しょかつりょう)を推薦し、劉備集団の早期の重要な謀士であった。演義では、彼はさらに劉備の早期の軍師であり、劉備のために謀をめぐらし、たびたび奇功を立てた。
* 劉備(りゅうび)(advises_in):徐庶(じょしょ)の劉備への建議は主として諸葛亮(しょかつりょう)の推薦に表れている。彼は劉備に諸葛亮を紹介しただけでなく、諸葛亮が屈して致すべからざる特質を強調し、劉備に自ら賢を求めに行かせた。演義では、彼の劉備への建議は軍事戦略と人材推薦に及ぶ。
* 曹魏(そうぎ)(defected_to):徐庶(じょしょ)は母が捕らえられたために曹操(そうそう)のもとへ身を投じた。これは史実と演義に共通する筋である。しかし、演義における徐庶の曹操への「終身一謀も設けず」の誓いは、その劉備への忠義と曹操への抵抗を体現している(演義独自)。
* 司馬徽(しばき)(friend_of):演義においては、司馬徽は徐庶(じょしょ)の友であり導き手であり、彼は劉備(りゅうび)に徐庶の才華を語り、徐庶と劉備の出会いを成した。史実では、司馬徽もかつて劉備に諸葛亮と龐統を推薦したが、徐庶との直接の関係は明確には言及されていない。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(friend_of):史実は徐庶(じょしょ)が諸葛亮と「特に相善し」と記す。演義では、徐庶はさらに諸葛亮の知己であり、彼は劉備(りゅうび)に諸葛亮を力推し、「三顧の礼」の佳話を成した。赤壁の戦いにおいては、龐統(ほうとう)も徐庶と諸葛亮の交誼をもって徐庶に秘密を守るよう説いた(演義独自)。

標志性場景

* 走馬薦諸葛(そうばせんしょかつ):これは徐庶(じょしょ)の最も代表的な場面であり、史実であれ演義であれ、いずれも徐庶が劉備(りゅうび)に諸葛亮(しょかつりょう)を推薦したことを記している。演義では、徐庶は劉備に別れを告げる際、馬を駆って引き返し、劉備に諸葛亮を力推し、その才華が自分をはるかに勝り「天を経し地を緯する才」であると称し、劉備の三顧の礼の佳話を成した。
* 八門金鎖の陣を見破る:演義においては、徐庶(じょしょ)は劉備(りゅうび)のもとへ身を投じてすぐに非凡な軍事的才能を示し、曹仁(そうじん)が布いた「八門金鎖の陣」を見破り、趙雲(ちょううん)を指導して陣を破らせ、劉備軍に大勝をもたらした。これは彼の軍師としての初登場であり、その智謀の表れでもある(演義独自)。
* 徐母が徐庶を罵る:演義においては、徐庶(じょしょ)が曹に帰した後、その母は彼が「明を棄て暗に投じた」ことを痛罵し、最終的に自尽した。この場面は徐庶の忠孝の板挟みと劉備(りゅうび)への忠誠を大いに強化するとともに、徐庶に「終身一謀も設けず」と誓わせ、その後の行為の礎となった(演義独自)。
* 赤壁の戦いでの脱身:演義においては、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、徐庶(じょしょ)は龐統(ほうとう)の連環の計を見破ったが、龐統は大局を重んじるよう説いて秘密を守らせた。龐統はまた徐庶のために、散関を守るという名目を借りて戦場から遠ざかる計を立て、徐庶を火攻めの禍から免れさせた。この筋は徐庶の智慧と龐統の友情を示している(演義独自)。
* 劉備に別れを告げる:徐庶(じょしょ)は母が捕らえられたためにやむなく劉備(りゅうび)のもとを去った。この場面は史実にも演義にも記載がある。徐庶は劉備に「方寸乱れ、事に益なし」という無念を表し、その孝道を重んじる品格を体現した。演義では、劉備と徐庶が名残を惜しんで別れる様が、いっそうこの場面を感動的に描いている。

肖像アーカイブ

人物像

性格
徐庶(じょしょ)は王を輔ける才を備え、臨機応変によく人を試し、仁に従って阿らず、事の機先を明察した。至孝であり、生涯にわたり曹操(そうそう)のために一つの謀もめぐらさぬと誓い、旧主を心に留め、機を知り勢いを見抜いた。
話し方
言葉づかいは多彩で、長歌の歌行、兵法の策論、また謙虚に自らを述べたり、叩頭して地に伏したりする。「駑馬と麒麟を並べ、寒鴉に鸞鳳を配す」といった比喩を巧みに用いた。
生涯
徐庶は劉皇叔の厚恩に感じ、曹操が母を死に追いやった後は生涯一つの謀もめぐらさぬと誓った。かつて単福と名を変えて玄徳を助けたが、後に母の手紙のために痛哭して玄徳と別れ、馬を走らせて戻り諸葛亮(しょかつりょう)を推薦した。許昌(きょしょう)に至って曹操に拝謁した後、その母は自ら縊れ、彼は喪に服して墓を守り、曹操の賜るものはすべて受け取らなかった。
逸話
徐庶は先主・劉備(りゅうび)の謀士であり、後に曹操の陣営に帰した。かつて関羽・張飛・趙雲(ちょううん)を采配して敵を破り、八門金鎖の陣を破る法を定め、曹仁(そうじん)が寨を劫かすことを予知して火攻めをかけた。曹操の陣営では諸葛亮を大いに讃え、龐統(ほうとう)の連環の計を見破り、密かに流言を布いて自ら散関を守ることを願い出た。

人間関係

14 件の関係

名言

全 43 件の台詞 · 厳選 3 件

「以某比之,譬猶駑馬並麒麟、寒鴉配鸞鳳耳。此人每嘗自比管仲、樂毅;以吾觀之,管、樂殆不及此人。此人有經天緯地之才,蓋天下一人也。」

演 第36回

徐庶が人を見抜き才を推挙することで諸葛亮の非凡さを引き立て、「三顧の礼」への布石となっている。

「此人不可屈致,使君可親往求之。若得此人,無異周得呂望、漢得張良也。」

演 第36回

諸葛亮は無理に招くことができないと示し、劉備の「三顧の礼」への行動指針を与えている。

「某才微智淺,深荷使君重用。今不幸半途而別,實為老母故也。縱使曹操相迫,庶亦終身不設一謀。」

演 第36回

徐庶の「身は曹営に在れど心は漢に在り」の典型的な描写であり、その忠義の人物像を形づくっている。

登場回9 回 ▸
  • 史ch.35ch.39
  • 演ch.35ch.36ch.37ch.38ch.39ch.41ch.48
関係の年表14 条 ▸

史 ch.35

演 ch.35

演 ch.36

演 ch.38

演 ch.41

演 ch.48

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 樊城(はんじょう)で別れて以来、私はあの時のことをよく思い返す。玄徳公(げんとくこう)と孔明(こうめい)はともに席にあり、旧友が再会したのだから、昔の情を一朝にして断ち切れるはずもなかった。曹操(そうそう)は私を降伏勧告に遣わしたが、その言
  • 昔を思い返せば、私が初めて劉備(りゅうび)に会ったとき、彼は新野(しんや)に駐屯していたものの、志気は衰えておらず、人にも誠実に接していた。軽んじてよい主君ではないと、すぐに分かった。私は彼に、諸葛孔明(Shokatsu Kōmei)を「臥
  • 若き日を思い起こせば、私はもともと潁上(えいじょう)の人で、乱世に身を置き、胸中には常に鬱屈した思いを抱いていた。やがて劉景升(りゅうけいしょう)の名を聞き、善悪を見分けられる人物だと思って、わざわざ会いに赴いた。だが実際に会ってみると、名
生涯の大事4 ▸