言語
張任(ちょうじん)

劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん) · 将軍

張任(ちょうじん)

登場回
5
台詞の記録
6
人間関係
6
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

張任(ちょうじん)は、蜀郡の人で、寒門の出身であったが、幼少のころから胆識と気節を示し、後に益州(えきしゅう)で従事を務めた c:1618。劉備(りゅうび)と劉璋(りゅう しょう)の衝突において、張任は劉璋麾下の重要な将領の一人として、劉備軍への抵抗に積極的に参与した。公元212年、劉備は孫権(そん けん)を救援するという名目を借りて、劉璋に兵馬と銭糧を求めたが、実は益州を奪う意図であった。張松(ちょうしょう)の密謀が露見し、劉璋と劉備の間に亀裂が次第に生じた後、劉備は劉璋の白水軍督・楊懐(ようかい)を斬り、黄忠(こうちゅう)、卓膺(たく よう)らを遣わして兵を率いて劉璋を攻めさせた c:1618。

劉備の侵攻に直面して、劉璋は劉璝、冷苞、張任、鄧賢(とうけん)らの将領を遣わして涪城(ふうじょう)で劉備を防がせた。しかし、劉璋軍はこの戦役で敗北を喫し、やむなく綿竹(めんちく)に退いて守った。続いて、劉璋はまた李厳(りげん)に綿竹の諸軍を統べさせたが、李厳は衆を率いて劉備に投降し、劉備の軍事力をさらに強大にした c:1618。劉備軍が兵を分けて益州の各県を平定し、雒城(らくじょう)を包囲攻撃する際、張任の結末は史料には詳しく記されていないが、劉備が益州を攻め取る過程において、戦局を覆すことができなかったと推断できる。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』においては、張任の人物像は忠勇で胆略のある将領として造形され、その事跡はより詳細かつ劇的に描かれている。彼の初登場は、劉備と劉璋の宴会の席である。当時、龐統(ほうとう)と法正(ほうせい)は魏延(ぎえん)に剣を舞わせて劉璋を刺殺させようと密謀した。張任はこれを見て、自らも剣を抜いて舞い、劉璋を守り、その忠誠と警戒心を示した c:1619。

劉備が益州を攻めたとき、張任は劉璋によって雒城を守る将領の一人に任じられ、劉璝、冷苞、鄧賢とともに五万の大軍を率いて防御に赴いた c:5267。劉備軍との交戦において、張任は卓越した軍事的才能を示した。彼はかつて城の東南の小道を利用して伏兵を置くことを提案し、龐統の軍を待ち伏せすることに成功した。ある交戦において、張任は白馬(はくば)に乗る龐統を誤って劉備と認め、部隊を指揮して射殺させ、龐統が矢に当たって没する結果となった。これは演義における張任の最もよく知られた「戦績」の一つである c:1620。

雒城の攻防戦において、張任は幾度も城を出て挑み、かつて偽りの敗走の計を仕掛け、劉備軍を伏兵の中に誘い込もうとした c:10398。しかし、諸葛亮(しょかつりょう)が益州に到着した後、張任の計謀は次第に見破られていった。ある諸葛亮を追撃する過程で、張任は諸葛亮が仕掛けた金雁橋の伏兵に陥り、橋が壊され、退路を断たれた。最終的に、張任は葦の茂みの中で魏延と黄忠の伏撃に遭い、さらに逃走の途中で張飛(ちょうひ)にぶつかり、生け捕りにされた c:1621。

捕らえられた後、劉備は張任に降伏を勧めたが、張任は「目を見開いて怒鳴った。『忠臣がどうして二君に仕えようか』」 c:10400 と、死んでも降らず、最終的に孔明の命によって斬首され、その忠義の名を全うした。演義はこれらの情節を通じて、張任の人物像を大いに豊かにし、彼を悲壮な忠義の士としている。

主要な関係

* 劉璋集団(serves):張任は劉璋麾下の重要な将領であり、彼に忠心耿耿として、劉備が益州を攻め取る際、終始その持ち場を堅守し、死を誓って抵抗した c:1618。
* 劉備(fights_in):張任と劉備は敵対関係にあり、益州争奪戦において幾度も矛を交え、とりわけ雒城の戦い(らくじょうのたたかい)において、張任は劉備が益州を攻め取る主要な障害の一つであった c:5267。
* 劉璋(commands_in):張任は劉璋の部下であり、劉璋の命を受けて、劉備の進攻を防ぐ任に当たった c:5267。
* 龐統(enemy_of):演義において、張任は龐統の直接の敵であり、自ら龐統を射殺し、劉備軍が益州を攻め取る過程で重大な損失を被らせた c:1620(演義独自)。

象徴的な場面

* 宴会で剣を舞い主君を守る:劉備と劉璋の宴会の席で、魏延が剣を舞って劉璋を刺殺しようとしたとき、張任はただちに剣を抜いて加わり、劉璋を守り、その忠誠と警戒心を示した c:1619(演義独自)。
* 龐統を射殺する:雒城の攻防戦において、張任は伏兵を置き、白馬に乗る龐統を誤って劉備と認め、部下を指揮して彼を射殺させ、劉備軍に重要な謀士を失わせた c:1620(演義独自)。
* 金雁橋で捕らえられる:諸葛亮の計謀のもと、張任は諸葛亮を金雁橋まで追撃したが、橋がすでに壊され、退路を断たれていることに気づき、最終的に葦の茂みの中で魏延、黄忠、張飛に力を合わせて捕らえられた c:1621(演義独自)。
* 死んでも降らず:捕らえられた後、劉備の降伏の勧めに対して、張任は「目を見開いて怒鳴った。『忠臣がどうして二君に仕えようか』」 c:10400 と、死んでも屈せず、最終的に斬首され、忠義の象徴となった(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
忠勇にして胆略があり、蜀郡で最も胆略のある者と称された。捕らえられたのちには目を見開いて怒鳴り「忠臣がどうして二君に仕えようか」と叫んだ。
生涯
劉璝・冷苞・鄧賢(とうけん)らとともに涪水で劉備(りゅうび)に抵抗したが、みな撃破された。
逸話
劉璋(りゅう しょう)の部将で、かつて従事を務めた。劉璋の四将の一人であり、雒城(らくじょう)を守り、かつて伏兵を設けて落鳳坡で龐統(ほうとう)を射殺した。

人間関係

6 件の関係

名言

全 6 件の台詞 · 厳選 2 件

「忠臣豈肯事二主乎?」

演 第64回→ 劉備(りゅうび)

この言葉は、忠貞にして屈しない張任の武将としての気節を際立たせ、その人物の核心的な特質を体現している。

「今日便降,久後也不降!可速殺我!」

演 第64回→ 劉備(りゅうび)

この台詞は、死すとも降らぬ張任の決意を示し、その忠義の人物像を典型的に描き出している。

登場回5 回 ▸
  • 史ch.32
  • 演ch.61ch.62ch.63ch.64
関係の年表4 条 ▸

史 ch.32

演 ch.61

演 ch.63

演 ch.64

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は張任(ちょうじん)。蜀郡の貧しい家に生まれ、若い頃から胆力と勇気を備え、節義を守ることを志としてきた。州の一介の従事官にすぎぬ私にできたのは、命を受けて行動し、危難に臨んでも退かぬことだけである。劉備(りゅうび)の軍が涪城(ふうじょう)
  • 私は張任(ちょうじん)、字は不詳である。雒城(らくじょう)の兵勢は次第に切迫し、城中の諸将はそれぞれ不安げな表情を浮かべていた。私はただ、まず守るべき場所を守り抜くことだけを考えていた。城の東南には山深い地があり、そこにもう一本の小道が通じ
  • 私は張任(ちょうじん)、字は詳らかでない。漢末に生まれ、世の移り変わりを経験してきたが、そのすべては州郡と軍旅の間にあった。若い頃、どのように身を立てたのかと問われても、昔の記録には詳しい記載がない。若い頃に何を経験したかを、みだりに語るこ
生涯の大事6 ▸