
史書の記載(Historical Record)
馬騰(ばとう)、字は寿成、右扶風茂陵の人で、漢の伏波将軍馬援の後裔である。その父の馬肅(字は子碩)は桓帝の時代にかつて天水蘭干尉となったが、後に官を失って隴西に流れ落ち、羌人と雑居し、羌の女を娶って妻とし、馬騰を生んだ。馬騰は若いころ家が貧しく、産業もなく、しばしば彰山の中で木材を伐り、城市に売って生計を立てていた。身の丈は八尺あまり、体格は魁偉で、容貌は雄異、性情は賢厚で、深く人々に敬われた。
霊帝の末年、涼州(りょうしゅう)刺史の耿鄙が奸吏を任用したため、当地の民衆である王国らおよび氐・羌の族群が叛いた。州郡が勇力ある者を募って叛乱を討伐すると、馬騰は応募して入伍した。その活躍により、軍従事に任じられ、部衆を統べた。彼は叛賊討伐で戦功を立て、軍司馬に昇り、後に偏将軍に遷り、さらに征西将軍に昇って、常に汧・隴の間に駐屯した。
初平年間、馬騰は征東将軍に任じられた。当時、西州は糧食が不足しており、馬騰は軍中に飢乏が多いと上表して、池陽へ就食に赴くことを請い、長平岸頭に移屯した。しかし、将の王承らは馬騰が自分に不利を働くことを恐れ、馬騰の営を攻めた。当時、馬騰は外出して備えがなく、敗れて逃げ、西へ撤退した。折しも三輔地区が動乱に陥り、彼は再び東へ戻ることができず、鎮西将軍の韓遂(かんすい)と異姓の兄弟の契りを結んだ。初めは両者の関係は親密だったが、後に部曲が互いに侵犯したために仇敵へと転じた。馬騰はかつて韓遂を攻め、韓遂は敗走した後、再び兵を集めて馬騰に反攻し、馬騰の妻子を殺害し、双方は年を連ねて交戦してやまなかった。
建安の初め、国家の綱紀はほとんど廃れ、朝廷は司隷(しれい)校尉の鍾繇(しょうよう)と涼州牧の韋端を遣わして、馬騰と韓遂の矛盾を和解させた。その後、馬騰は召されて槐里に屯し、前将軍に転じ、節を仮され、槐里侯に封じられた。彼は北に胡寇を防ぎ、東に白騎に備え、士を待ち賢を進め、民命を矜み恤れみ、三輔地区を安寧たらしめた。
建安十年(205年)、曹操(そうそう)が司空であったとき、司隷校尉の鍾繇を遣わして関中の諸将である馬騰らを説得させた。鍾繇が彼らに利害を分析すると、馬騰らは従った。馬騰はその子の馬超(ばちょう)を遣わして一万あまりを率いさせ、鍾繇と合流して共に郭援(かくえん)・高幹(こうかん)を攻め、敵軍を大破し、郭援の首級を斬った。高幹および匈奴の単于は皆降った。後に高幹が再び并州で叛き、河内の張晟が一万あまりを糾合して崤・澠の間で乱を起こし、河東の衛固、弘農の張琰もそれぞれ起兵して呼応した。曹操は馬騰を議郎に任じ、鍾繇の軍事に参じさせ、彼を遣わして諸将である馬騰らを西征させ、共に出兵して張晟らを討伐し、これを撃破した。張琰・衛固の首級を斬り、高幹は荊州(けいしゅう)へ逃れた。
曹操が荊州征伐を準備した際、馬騰らは依然として関中に割拠していた。曹操は再び鍾繇を遣わして馬騰らに部曲を放棄して京師へ戻るよう説かせた。馬騰はすでに承知したものの、また躊躇して決しなかった。鍾繇は彼が変を生じることを恐れ、各県に命じて物資の備蓄を催促し、二千石の官に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむなく東行した。曹操は上表して馬騰を衛尉に、その子の馬超を将軍に任じ、その部曲を統べさせた。
演義の記述(In the Novel)
『三国演義』において、馬騰の人物像にはより多くの忠義の色彩と劇的さが与えられている。彼が初めて登場するのは董卓(とう たく)の乱政の後、韓遂とともに十余万の大軍を率い、董卓の残党である李傕(りかく)・郭汜(かくし)らを討伐すると称して、長安(ちょうあん)に迫った場面である。このとき、馬騰の子の馬超が初めて姿を現し、わずか十七歳にして英勇無敵、陣前で数合のうちに王方を刺殺し、李蒙(りもう)を生け捕りにして、馬家の将門の勇武を示した。
馬騰は演義において、漢室を心に抱く忠臣として造形されている。彼はかつて董承(とうしょう)らと密かに盟を結び、「衣帯の詔(いたいのみことのり)」の事件に加わり、曹操を誅殺しようと密謀した。董承が漢献帝の密詔を彼に示すと、馬騰は「毛髪が逆立ち、歯を食いしばり唇を噛んで、口いっぱいに血を流し」、西涼の兵を統べて外応となることを誓った。彼はさらに董承に劉備(りゅうび)と連絡を取って共に挙事するよう建議し、劉備は曹操を討ちたくないわけではなく、ただ曹操の爪牙が多く、力が及ばないことを顧慮しているだけだと考えた。これらの筋立ては史書に明確な記載がなく、演義がその忠義を際立たせるために行った芸術的加工である。
後に、曹操は孫権(そん けん)を南征するにあたり、馬騰が後方から許都(きょと)を襲うことを恐れ、荀攸(じゅん ゆう)の計を採り、偽って馬騰を征南将軍に加封し、これを都に誘い込んだ。馬騰は長子の馬超と相談し、馬超は曹操が天子の命を奉じて父を召すのに、行かなければ命に逆らったと責められる恐れがあり、いっそこの機に乗じて入京し、機を見て行動し、昔日の志を遂げるべきだと考えた。しかし、馬騰の甥の馬岱(ばたい)は、曹操が腹に一物を抱いており、この行きは凶多吉少だと諫め止めた。馬騰は最終的に、次子の馬休・馬鉄(ばてつ)と甥の馬岱だけを連れて向かい、馬超を西涼の鎮守として残し、不測に備えることを決めた。
入京後、馬騰は黄奎(こうけい)と曹操が点軍する際にこれを斬る密謀をした。しかし、黄奎の家奴の密告により、計画が漏れた。馬騰父子は城中で力戦奮闘したが、最終的に衆寡敵せず、馬鉄は乱箭に射殺され、馬騰と馬休も重傷を負って捕らえられた。曹操は黄奎と馬騰父子をともに縛って引き立てさせた。馬騰は曹操を「腑甲斐なき腐れ儒者がわしの大事を誤らせた。わしが国のために賊を斬れぬのは、これ天意なのだ」と罵り、最終的に馬休・黄奎とともに殺害された。この悲壮な結末は、演義における馬騰の忠義の人物像をいっそう強めている。
主要な関係
* 韓遂(rival_of):史実において、馬騰と韓遂はかつて異姓の兄弟の契りを結んだが、後に部曲が互いに侵犯したために反目して仇となり、年を連ねて交戦し、韓遂はかつて馬騰の妻子を殺害した。演義においても、両者は共に李傕・郭汜を討伐するなど、しばしば一緒に登場するが、その間の恩讐の絡み合いは演義では淡められ、むしろ盟友関係として表れている。
* 馬超(parent_of):馬超は馬騰の長子であり、史実においても演義においても馬騰の重要な部将である。史書には馬騰がかつて馬超を鍾繇に随わせて郭援・高幹を討伐させたとある。演義では馬超はさらに早くから登場してその勇猛を示し、馬騰の入京の際には西涼を鎮守し、馬騰一族の重要な支柱となっている。
* 鍾繇(fights_in):鍾繇は史実において曹操の重要な謀士にして将であり、たびたび命を受けて馬騰を説得・連絡し、馬騰と共に郭援・高幹を討伐するなど共に戦った。
* 曹魏(そうぎ)(defected_to):史実において、馬騰は最終的に曹操の召し出しを受け、入京して衛尉となり、その部曲は馬超が統べた。これは馬騰が曹魏陣営に帰順したと見ることができる。しかし、演義では馬騰の入京は曹操に騙されたものであり、最終的に殺害され、その帰順は悲劇的な色彩を帯びている。
* 董承(ally_of):演義において、馬騰は董承の「衣帯の詔」事件の重要な参加者にして盟友であり、共に曹操を誅殺しようと密謀した(演義独自)。
* 劉備(ally_of):演義において、馬騰は劉備に極めて高い期待を抱き、彼を共に曹操を討伐できる忠義の士であると考え、董承に劉備の助けを求めるよう建議した(演義独自)。
象徴的な場面
* 韓遂と反目し、年を連ねて交戦:史実において、馬騰と韓遂が兄弟の契りを結んでから反目して仇となり、互いに攻め合い、韓遂が馬騰の妻子を殺害したことは、その人生における重要な転換点であり衝突である。
* 馬超を鍾繇に随わせて郭援・高幹を討伐:これは馬騰が曹操陣営と協力した重要な出来事であり、馬超が初めて史書において軍事的才能を示した記録でもある。
* 入京して衛尉となる:史実において、馬騰は最終的に曹操の召し出しを受け、入京して衛尉となり、その政治生涯の終結と曹操との関係の転換を画した。
* 「衣帯の詔」による曹操誅殺の密謀:演義において、馬騰は「衣帯の詔」を知ると、「毛髪が逆立ち、歯を食いしばり唇を噛んで、口いっぱいに血を流し」、死を賭して曹操誅殺の密謀に加わり、その忠義に燃える激しい性格を示した(演義独自)。
* 馬超が陣で王方を斬り、李蒙を生け捕りにする:演義において、馬騰が韓遂と李傕・郭汜を討伐した際、その子の馬超が初登場から大いに神威を発揮し、王方を斬り、李蒙を生け捕りにして、馬騰軍に初めての勝利をもたらした(演義独自)。
* 許昌(きょしょう)で殺害され、曹操を罵る:演義において、馬騰は曹操に騙されて入京した後、密謀が露見し、最終的に子の馬休とともに殺害された。彼は臨終の前に曹操を罵り、国のために賊を除けなかった無念と曹操への憎しみを表し、その忠義の人物像の悲壮な結末となった(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 容貌
- 身の丈八尺、体貌は雄々しく傑出していた。
- 性格
- 忠義に篤く憤激し、毛髪は逆立ち、歯を食いしばり唇を噛んだ。生まれつき温良で、人々の多くが彼を敬った。
- 話し方
- 「生を貪り死を恐れる輩め」「汝はなお曹賊を好人とみなすのか」と直に罵る爆烈さがあった。
- 生涯
- 字を寿成といい、漢の伏波将軍馬援の後裔である。父の馬肅は字を子碩といい、桓帝の時に天水蘭干県尉となり、後に官を失って隴西に流落し、羌人と雑居して羌の女を娶り騰を生んだ。霊帝の末年に民兵を募って羌を破り、初平年間に賊を討った功により征西将軍に拝せられ、鎮西将軍の韓遂と兄弟の契りを結んだ。董承とともに衣帯の詔を受けて以来、劉玄德と共に賊を討つことを約した。
- 逸話
- 馬超の父。陣中で「背後に追っ手あり」と叫んで子に警告した。劉備を密謀に加えるよう提案し、義状の署名者の一人である。
人間関係
18 件の関係
名言
全 21 件の台詞 · 厳選 3 件
「許田射獵之事,吾尚氣滿胸膛;公乃國之至戚,猶自滯於酒色,而不思討賊,安得為皇家救難扶災之人乎!」
この台詞は馬騰(ばとう)が漢室に忠実で、悪を憎むこと仇のごとくである鮮明な個性を表している。
「吾自與董承受衣帶詔以來,與劉玄德約共討賊,不幸董承已死,玄德屢敗。我又僻處西涼,未能協助玄德。今聞玄德已得荊州,我正欲展昔日之志,而曹操反來召我,當是如何?」
この台詞は馬騰と衣帯の詔(いたいのみことのり)事件との関わり、および劉備(りゅうび)への共感を要約している。
「豎儒誤我大事!我不能為國殺賊,是乃天也!」
この台詞は馬騰の臨終前の悲憤の言葉であり、その忠義の心を表している。
登場回12 回 ▸
- 史ch.10ch.13ch.15ch.18ch.31ch.36
- 演ch.10ch.20ch.21ch.23ch.57ch.58
関係の年表9 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は馬騰(ばとう)、字は寿成(Shoucheng)という。若いころを思い返せば、家は貧しく、財産もなかった。彰山(Zhangshan)に入って木を伐り、背負って市へ売りに行き、ようやく自分の暮らしを支えていた。父は官職を失い、隴西にとどまっ
- 私、馬騰(ばとう)、字は寿成(じゅせい)は、西涼に生まれ、長く辺境に身を置いてきた。目にしてきたのは、兵馬が行き交い、州郡が争い合う光景である。乱世に身を置く以上、今日の行いが天下を安定させるとは限らない。それでも、一家一身の利害だけを考え
- 私は馬騰(ばとう)、字は寿成(じゅせい)である。かつて関中の諸将がそれぞれ強兵を擁し、互いに勢力を競っていたころを思い起こす。兵馬の盛んなさまは、独立して立てるほどに見えたが、いざ戦が始まれば、まず民がその害を受ける。曹公(そうこう)はちょ
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