言語
陸遜(りくそん)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 上大将军、右都护

陸遜(りくそん)

字 伯言

登場回
26
台詞の記録
67
人間関係
58
内面の独白
3

史載(Historical Record)

陸遜(りくそん)、字は伯言、呉郡呉県の人で、江東の大族である。彼は幼くして父を亡くし、従祖父の廬江(ろこう)太守陸康に従って官にあった。孫権(そん けん)が将軍であったとき、陸遜はわずか二十一歳で幕府に勤め始め、東西曹令史を歴任し、後に海昌屯田都尉に出て、県事を兼ね理めた。海昌は連年干魃に見舞われたが、陸遜は倉を開いて貧民を賑済し、農桑を勧督し、深く百姓の擁戴を得た。

孫権は兄孫策(そん さく)の娘を陸遜に許嫁し、常に世事を彼に諮った。陸遜は孫権に、遠方を図る前に、まず山越などの内部の隠患を平定すべきと進言した。彼はかつて部を率いて会稽(かいけい)の山賊潘臨と鄱陽の賊帥尤突を討ち、向かうところ敵なく、部曲は二千余人に増えた。後に、丹楊の賊帥費棧が曹操(そうそう)の印綬に煽動されて山越に乱を起こすと、陸遜は少をもって多に勝ち、夜に疑兵の計を設けて費棧を大破し、精兵数万人を収編し、三郡を粛清させた。

建安二十四年(219年)、関羽(かんう)が襄陽(じょうよう)で曹仁(そうじん)を囲むと、孫権は荊州(けいしゅう)を奪取しようとした。呂蒙(りょもう)は病と称し、孫権に陸遜を推薦し、陸遜は「意思深長、才は重きを負うに堪える。その規慮を観るに、終に大任すべし。しかも遠名いまだあらず、羽の忌むところにあらず」と考え、彼に「外には自ら韜隠し、内には形便を察す」よう進言した。孫権は呂蒙の計を採り、陸遜を偏将軍右部督に拝し、呂蒙に代わって陸口を守らせた。陸遜は関羽に書を致し、言辞謙遜にして、関羽を麻痺させた。関羽は果たして計に陥り、警戒を緩めた。孫権はそこで呂蒙と陸遜を前部として遣わし、公安・南郡(なんぐん)を奪取することに成功した。陸遜はさらに宜都へ進兵し、秭帰・枝江・夷道を得て、樊友ら蜀将および蛮夷の君長を招降し、数万の兵力を収編した。

黄武元年(222年)、劉備(りゅうび)が大軍を率いて呉を伐つと、陸遜は大都督・節を仮されるよう任じられ、朱然(しゅぜん)・潘璋(はんしょう)ら五万人を統領して敵を拒んだ。蜀軍が数百里に営を連ねる態勢に直面し、諸将は迎戦を急いだが、陸遜は衆論を排して堅守して戦わず、蜀軍の鋭気は今まさに盛んで硬く闘うべきではなく、その疲弊を待って攻めるべきと考えた。彼は火攻の計を利用し、夷陵(いりょう)猇亭(こうてい)で蜀軍を大破し、張南(ちょうなん)・馮習(ふうしゅう)ら蜀将を斬殺し、劉備はかろうじて身を免れ、白帝城(はくていじょう)へ退いた。この戦の後、孫権は陸遜を輔国将軍に加拝し、荊州牧を領せしめ、江陵(こうりょう)侯に改封した。

黄武七年(228年)、魏の大司馬曹休(そうきゅう)が周魴(しゅうほう)の詐降の計にかかり、軍を率いて皖城に深く入った。孫権は陸遜を召して黄鉞を仮し、大都督として曹休を迎撃させた。陸遜は朱桓(しゅかん)・全琮(ぜんそう)を左右翼とし、三路で並進し、石亭(せきてい)で曹休を大破し、万余を斬獲し、大量の軍資を鹵獲した。

赤烏元年(238年)、陸遜は上大将軍・右都護に拝された。孫権が建業(けんぎょう)を東巡したとき、太子孫登(そん とう)と皇子孫和(そん か)を留め、陸遜を徴して太子を輔佐させ、荊州および豫章郡(よしょうぐん)の三郡の事を掌り、軍国を董督させた。晩年、陸遜は「二宮事件(にきゅうじけん)」に巻き込まれ、何度も上疏して孫権に太子孫和を立てることを諫めたために孫権を怒らせ、最終的に憂憤して死んだ。時に六十三歳、家中に余財はなかった。

演中(In the Novel)

『三国演義』における陸遜は、その姿が史実を基礎として文学的加工と強化が施され、とりわけ夷陵の戦い(いりょうのたたかい)と石亭の戦い(せきていのたたかい)において、その智謀がより際立って伝奇的に描かれている。彼は初めて登場したとき、孫権集団(そんけんしゅうだん)に「人材の盛んなる」賢才の一人と見なされた。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前、陸遜は第五隊の将領として、董襲(とうしゅう)とともに周瑜(しゅうゆ)に従って出征し、出番は多くないものの、すでに重要な将領の列にあった。濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)では、彼は孫策の女婿として、十万の大軍を率いて時宜よく駆けつけ、曹兵を射退け、勢いに乗じて追撃し、戦馬数千匹を奪い返し、曹操を大敗させて帰らせ、その軍事の才を示した。

関羽が油断して荊州を失う筋では、陸遜の智謀が遺憾なく体現されている。呂蒙が病と偽ると、陸遜は見舞いに行き、「病と詐って職を辞し、陸口の任を他人に譲り、他人に卑辞をもって関公を讃美させ、その心を驕らせる」計を献じた。呂蒙はこの計を採り、孫権に陸遜を推薦した。孫権はそこで陸遜を偏将軍右都督に拝し、呂蒙に代わって陸口を守らせた。陸遜は着任後、ただちに関公に書を致し、言辞卑謙にして礼物を贈り、いっそう関羽を麻痺させ、彼に荊州の兵をことごとく撤して樊城(はんじょう)を援けさせ、もって東呉が荊州を奪取する条件を作り出した。この筋は史実では呂蒙と陸遜が共同で策画したものだが、演義では陸遜の智謀が核心的な推進力として際立たされている。

夷陵の戦いでは、陸遜は孫権によって大都督に任じられ、軍馬を総督して劉備を破った。彼は諸将の不服と質疑、とりわけ韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)ら老将の軽視に直面し、常人を超える忍耐と堅毅を示した。彼は「高きに乗じて険を守り、軽々しく出るべからず」の戦略を堅持し、蜀軍が挑戦し罵倒しても揺るがず、諸将に「懦」と嘲笑されることすらあった。彼は蜀軍の疲弊と懈怠を観察することを通じて、最終的に火攻の計を施し、劉備を大破し、劉備に「われ遜に折辱せらる、あに天にあらずや」と言わせた。演義はまた、陸遜が劉備を追撃するとき、誤って諸葛亮(しょかつりょう)が布いた「八陣図」に入り込み、幸いにも黄承彦(こうしょうげん)の指点を得てようやく脱出できた挿話を加え、いっそう諸葛亮の神機妙算を引き立てると同時に、陸遜が陣中の殺気を察知できたことから、側面より陸遜の軍事的洞察力を肯定している。

石亭の戦いでは、陸遜は再び大都督に任じられ、曹休を迎撃した。彼は周魴の詐降の計を見破り、曹休が計にかかって深入りすると予判した。彼は巧みに部署し、朱桓・全琮に曹休の寨後を抄襲させ、自らは大軍を率いて中路から進攻し、最終的に曹休を大破した。演義はまた、賈逵(かき)が曹休を諫止したが曹休が聞かず、最終的に大敗した細部を描いている。陸遜は戦後さらに孫権に蜀と連んで魏を伐ち、司馬懿(しばい)を牽制し、蜀漢(しょくかん)の北伐の条件を作り出すことを進言し、その深遠な戦略眼を示した。北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう))の期間、陸遜はまた諸葛瑾(しょかつきん)とともに襄陽を攻め、曹叡(そうえい)の計謀を見破り、撤兵に成功した。

主要な関係

* 孫権集団(serves):陸遜は孫権集団の核心人物であり、孫権に深く器重された。彼は青年期から孫権のために尽くし始め、要職を歴任し、たびたび奇功を立てた。孫権は兄の娘を彼に許嫁しただけでなく、夷陵の戦いや石亭の戦いで大都督を担わせ、晩年には太子を輔佐させ軍国の大事を掌らせるなど、重要な時にも重任を委ねた。孫権の陸遜への信任と依頼は終始一貫し、後期に「二宮事件」のために多少の猜疑があったものの、陸遜は終始忠心耿耿であった。
* 劉備(fights_in):陸遜と劉備は宿敵である。夷陵の戦いにおいて、陸遜はその卓越した軍事の才によって、劉備の蜀漢の大軍を大破し、劉備に奇恥大辱を蒙らせ、最終的に白帝城で病没させた。この戦役は陸遜の軍事生涯の頂点であり、また彼と劉備の間の最も重要な衝突である。
* 孫呉(serves):陸遜は生涯孫呉政権に忠誠を尽くし、孫呉の建立と強固のために大きな功を立てた。彼は軍事においてたびたび奇功を立てただけでなく、積極的に内政に参与し、学を勧め民を惜しみ、孫呉の安定と発展に巨大な貢献をなした。
* 唐固(student_of):史料には陸遜が唐固の学生であったという明確な記載はないが、『三国志(さんごくし)・陸遜伝』には陸遜がかつて学を勧め、当時の一部の学説を評判したことが記載されており、深い学識の背景を示している。
* 呂蒙(recommends):呂蒙は荊州を奪取する前、孫権に陸遜を力薦し、彼を「意思深長、才は重きを負うに堪える」と考え、また陸遜が「遠名いまだあらず、羽の忌むところにあらず」として、自らに代わって関羽を麻痺させる最適の人選であると指摘した。呂蒙の推薦は、陸遜の軍事生涯における重要な転機であった。
* 諸葛亮(rivals in strategy):演義では、陸遜と諸葛亮は智謀上の対手として造形されている。陸遜は夷陵の戦いの後、誤って諸葛亮の「八陣図」に入り込み、「孔明はまことに『臥龍』なり。われ及ぶ能わず」と感嘆した。このほか、陸遜はまた諸葛亮が東呉の力を借りて曹魏を牽制する計謀を見破ったこともある(演義独自)。
* 曹操/曹丕(そうひ)/曹休(fights_in):陸遜は何度も曹魏の軍と交戦し、濡須口の戦いで曹操を撃退し(演義独自)、石亭の戦いで曹休を大破するなど、曹魏の侵入を防ぐ卓越した能力を示した。

象徴的な場面

* 荊州を奪取する:陸遜は呂蒙と合謀し、「外には韜隠して内には形便を察す」の計によって関羽を麻痺させ、荊州の奪取に成功し、孫呉のために長江中下流の基業を定めた。これは陸遜の軍事生涯の起点であり、その謀慮深長な性格を示している。
* 夷陵の火攻:陸遜は夷陵の戦いにおいて、劉備の数百里に連なる営に直面し、衆論を排して堅守して戦わず、蜀軍の疲弊を待ってから火攻を利用して劉備を大破し、蜀漢の元気を大いに傷つけた。この戦は陸遜の頂点の作であり、東呉の軍事における核心的地位を定めた。
* 石亭で曹休を破る:陸遜は周魴の詐降の計を見破り、巧みに部署して石亭で曹休を大破し、再びその卓越した軍事指揮の才を示した。
* 誤って八陣図に入る:演義では、陸遜は夷陵の戦いの後、劉備を追撃するとき、誤って諸葛亮が布いた「八陣図」に入り込み、幸いにも黄承彦の指点を得てようやく脱出できた(演義独自)。この場面は虚構ながら、いっそう陸遜の智謀と、諸葛亮がさらに一段上である姿を際立たせている。
* 「二宮事件」で憂憤して死す:陸遜は晩年、孫呉の「二宮事件」に巻き込まれ、何度も上疏して孫権を諫めたが、最終的に採用されぬために憂憤して死んだ。この悲劇的な結末は、陸遜の忠貞不二の品格と、国家社稷のために鞠躬尽瘁した献身の精神を示している。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
陸遜(りくそん)は身の丈八尺、顔は美玉のごとし。
性格
陸遜は謀慮が深遠で、恥を忍び重きを負うことができ、外には才を隠しつつ内では形勢の利を見抜いた。身を持すること謙虚で、学を勧め民を慈しんだ。彼は沈静にして智に富み、外見は臆病そうに見えるが、胸には韜略を秘め、しかも老成して慎重、全局の判断は的確であった。
話し方
陸遜の言辞は懇切で、謀は深く言葉は婉曲であり、しばしば経史を引いて衆を服させ、また「吾には吾なりの考えがある」といった短い句で将士を安んじた。
生涯
陸遜はもとの名を議といい、呉郡呉県の人で、幼くして父を失い従祖父の廬江(ろこう)太守陸康(りくこう)に従い、後に孫権(そん けん)が兄策の娘を娶らせた。彼は多くの職を歴任し、荊州(けいしゅう)を襲い取り、夷陵(いりょう)で劉備(りゅうび)を大いに破り、また石亭(せきてい)で曹休(そうきゅう)を撃破した。最期には上大将軍・右都護に任ぜられ、顧雍(こよう)に代わって丞相となった。
逸話
陸遜は昭侯と諡され、もとの名は陸議、後に遜と改名し、字は伯言である。彼はかつて孫権(そん けん)の先鋒を務め、また輔国将軍・江陵(こうりょう)侯に任ぜられて荊州牧を領した。

人間関係

58 件の関係

名言

全 67 件の台詞 · 厳選 3 件

「羽矜其驍氣,陵轢於人。始有大功,意驕志逸,但務北進,未嫌於我,有相聞病,必益無備。今出其不意,自可禽制。下見至尊,宜好為計。」

史 第58回→ 呂蒙(りょもう)📍 建業(けんぎょう)

この計略は呂蒙の白衣渡江(りょもうのはくいとこう)を助け、陸遜(りくそん)が頭角を現した名策である。

「備是猾虜,更嘗事多,其軍始集,思慮精專,未可干也。今住己久,不得我便,兵疲意沮,計不復生,掎角此寇,正在今日。」

史 第58回

この一句は、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)における陸遜(りくそん)の、劉備(りゅうび)軍の情勢と好機に対する的確な判断を示している。

「孔明真『臥龍』也!吾不能及!」

演 第84回

この一句は、陸遜(りくそん)が諸葛亮(しょかつりょう)の才知に心から敬服していることを示し、広く伝わっている。

登場回26 回 ▸
  • 史ch.3ch.32ch.47ch.51ch.56ch.57ch.58ch.59ch.60ch.61ch.64
  • 演ch.38ch.44ch.49ch.50ch.53ch.68ch.75ch.83ch.84ch.85ch.86ch.96ch.97ch.98ch.103
関係の年表28 条 ▸

史 ch.32

史 ch.47

史 ch.58

史 ch.59

史 ch.64

演 ch.53

演 ch.68

演 ch.75

演 ch.85

演 ch.86

演 ch.103

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は大都督に任じられ、節を仮されて諸軍を統督し、劉備(Ryūbi)を防ぐこととなった。五万の兵の命運が、私一人に懸かっていた。劉備は巫峡(Fukyō)、建平(Kenpei)から下り、陣営を連ねて夷陵(いりょう)に至り、数十の陣営が互いに見渡
  • 晩年に振り返れば、私はすでに丞相の位にあった。だが、憂えていたのは高い地位ではなく、国の根本が安定するかどうかだった。戦の勝敗は一時のことだが、民心と綱紀は国家の長久に関わる。昔、嘉禾五年、孫権(そんけん)が北征した際、私と諸葛瑾(しょかつ
  • 私はもとの名を陸議(りく ぎ)、字を伯言(はくげん)といい、呉郡呉県の人である。陸氏は代々江東に居住し、祖父の陸紆(りく う)、父の陸駿(りく しゅん)は、いずれも官職に就いたことがあった。しかし、家には旧来の名声があったとはいえ、私は幼く
生涯の大事19 ▸
  1. 陸遜(りくそん)の費棧討伐· 総大将
  2. 濡須口の戦い(じゅすこうのたたかい)· 武将
  3. 関羽の北伐(かんうのほくばつ)· 首謀者
  4. 呂蒙の白衣渡江(りょもうのはくいとこう)· 軍師
  5. 白衣渡江(はくいとこう)· 首謀者
  6. 三路の呉征討(さんろのごせいとう)· 軍師
  7. 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)· 総大将
  8. 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)· 総大将
  9. 周魴の詐降で曹休を誘引(しゅうほうのさこうでそうきゅうをゆういん)· 総大将
  10. 0228-01-01 · 皖城
    皖城での曹休撃破(かんじょうでのそうきゅうげきは)· 総大将
  11. 石亭の戦い(せきていのたたかい)· 総大将
  12. 孫権と蜀漢の同盟再締結(そんけんとしょくかんのどうめいさいていけつ)· 軍師
  13. 孫権の称帝・呉建国(そんけんのしょうてい・ごけんこく)· 軍師
  14. 呂壹の専権事件(りょいちのせんけんじけん)· 被害者
  15. 孫権の夷州遠征(そんけんのいしゅうえんせい)· 軍師
  16. 合肥新城の戦い(ごうひしんじょうのたたかい)· 総大将
  17. 嘉禾五年、呉の襄陽攻撃(かわごねん、ごのじょうようこうげき)· 総大将
  18. 満寵の淮南防衛(まんちょうのわいなんぼうえい)· 総大将
  19. 二宮事件(にきゅうじけん)· 戦死