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袁尚(えんしょう)

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 君主

袁尚(えんしょう)

登場回
10
台詞の記録
8
人間関係
17
内面の独白
3

史載(Historical Record)

袁尚(えんしょう)は袁紹(えんしょう)の末子であり、その容貌が秀麗であったために袁紹に深く愛され、また袁紹の妻の劉氏もまた袁尚を偏愛し、たびたびその才華を称えたため、袁紹に彼を後継者に立てる意があったが、明確に態度を表さないうちに袁紹は没してしまった c:6223。袁紹の死後、審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)と辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)の間の権力闘争のため、審配・逢紀は自身の利益を保つべく、長子の袁譚(えんたん)ではなく袁尚を擁立して袁紹の位を継がせた。袁譚はこれによって自ら車騎将軍を号し、黎陽(れいよう)に屯兵し、ここから袁譚と袁尚の兄弟の間に隔たりが生じた c:6223。

曹操(そうそう)が北征した時、袁譚・袁尚の兄弟はたびたび敗退し、城を固守した。袁譚はかつて袁尚に援軍を求めたが、袁尚は兵を分けて助けようとしながらも、袁譚に兵権を奪われることを恐れ、最終的に自ら兵を率いて袁譚とともに曹操を防ぐことを選んだ。しかし、黎陽の城下の大戦において、袁譚・袁尚は再び敗退し、夜に遁走した。曹操は鄴(ぎょう)まで追い、その麦を刈り取り、陰安を抜いてから軍を引いて許都(きょと)に帰った c:6223。

曹操の荊州南征(そうそうのけいしゅうなんせい)の期間、袁譚と袁尚の兄弟は仇敵として反目し、互いに攻め合った。袁譚は敗戦の後、平原(へいげん)へ奔り、袁尚は緊追して止まなかった。袁譚はそこで辛毗(しんぴ)を遣わして曹操に救いを求めた。曹操はこれによって軍を返して袁譚を救い、十月に黎陽に着いた c:6223。袁尚は曹操が北へ返したことを知ると、平原の包囲を放棄して鄴に戻った。その部将の呂曠・呂翔が叛いて曹操に投降し、袁譚はまた密かに偽って将軍の印を呂曠・呂翔に授けた c:6223。

後に、袁尚は敗走し、烏桓に身を投じた。烏桓の首領の蹋頓(とうとん)らは袁尚を受け入れ、その勢力を借りて冀州(きしゅう)を図ろうと試みた c:3280。建安十一年、曹操は烏桓を親征し、柳城(りゅうじょう)で袁尚および蹋頓の連合軍と交戦した。曹操は烏桓軍を大いに破り、陣中で蹋頓を斬り、袁尚と烏桓の首領である楼班・烏延らは遼東へ逃げた c:3280。最終的に、遼東太守の公孫康(こうそんこう)が袁尚を斬殺し、その首級を曹操に献じた c:3280。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、袁尚の姿はさらに造形されている。彼は「形貌が俊偉」であったために袁紹に深く愛され、また袁紹の後妻である劉氏の生んだ子であり、劉氏もまた袁紹に彼を嗣に立てるよう力説した c:3281。官渡の戦い(かんとのたたかい)の後、袁紹は心が乱れ、劉氏は再び袁尚を後継に立てるよう勧めた。袁尚は父が病重の時、みずから進んで願い出て曹操を迎え撃ち、父の前で能を逞しくしようと焦る性格を示した c:13496。

袁尚は史渙(しかん)を斬殺した後、その勇に自負し、袁譚らの援軍の到着を待たずに、数万の兵を率いて黎陽を出て曹軍を迎え撃った。しかし、彼は張遼(ちょうりょう)と交戦して「三合ならず」して敗走し、袁紹の旧病を再発させ、血を吐いて死なせた c:3282。袁紹の死後、劉夫人は寵妾の家属が乱を起こすのを防ぐべく、袁紹の寵妾をことごとく殺害し、袁尚もまた「寵妾の家属が害をなすことを恐れ、あわせて収めてこれを殺した」c:6225。審配・逢紀は袁尚を大司馬将軍に擁立し、冀・青・幽・并の四州牧を領させた c:6225。

袁譚は父の死を知ると、郭図・辛評と謀り、審配・逢紀が必ずすでに袁尚を立てたであろうと考えた。郭図が冀州に入ると、袁尚は袁譚に前部を担わせ、審配あるいは逢紀を遣わして袁譚を補佐させようとした。逢紀はくじを引いて袁譚の軍中へ赴いたが、袁譚に斬殺された c:13497。袁尚と袁譚の兄弟間の矛盾は、演義においていっそう激しく描かれており、袁譚は一度は曹操に降ろうとし、袁尚は審配を留めて冀州を守らせ、みずから軍を率いて黎陽へ赴いて袁譚を救った c:13500。

袁尚と袁煕(えんき)は曹操が冀州を攻めた時、迎え撃ちがたいと判断し、城を捨てて遼西へ逃げ、烏桓に身を投じた c:3285。彼らは時機を待って公孫康を殺してその地を奪い、河北を回復しようと密かに謀った c:3286。しかし、公孫康はその計を見破り、偽って病と称して会わず、後に曹操に遼東を攻める意がないことを知ると、伏兵を設けて袁尚・袁煕を斬殺し、その首級を曹操に送った c:13503。この結末は史実と一致するが、演義には多くの劇的な細部が加えられており、たとえば袁尚が坐席を敷くよう求めると、公孫康は「お前の頭はこれから万里を行くのに、どうして坐席が要るのか」と嘲った c:13503。

重要な関係

* 袁紹(えんしょう)(kin_of):袁尚は袁紹の末子であり、容貌が秀麗であったために袁紹に深く愛され、袁紹はかつて彼を嗣に立てる意向を持っていた c:6223。演義において、袁尚は父の前で自分を表そうと焦り、かつてみずから進んで願い出て出戦した c:13496。
* 袁譚(えんたん)(kin_of):袁尚と長兄の袁譚は継承権の問題によって隔たりを生じ、最終的に兄弟は反目して互いに攻め合った c:6223。演義において、袁尚はかつて逢紀を袁譚の軍中へ遣わしたが、かえって逢紀を斬らせる結果となり、矛盾をいっそう激化させた c:13497。
* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(lord_of):袁尚は袁紹の死後、審配・逢紀によって袁紹集団の継承者に擁立され、冀・青・幽・并の四州牧を領した c:6225。
* 三郡烏丸(defected_to):袁尚は敗走した後、烏桓に身を投じ、烏桓の力を借りて曹操に対抗しようと試みた c:3280。
* 蹋頓(とうとん)(friend_of):烏桓の首領の蹋頓は袁尚を受け入れ、袁尚と手を組んで曹操に対抗したが、最終的に柳城の戦いで斬殺された c:3280。
* 審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)(supporter_of):袁紹集団の内部の権力闘争において、審配・逢紀は袁尚を擁立した、その重要な支持者である c:6223。
* 公孫康(こうそんこう)(executioner_of):袁尚と袁煕は遼東へ逃げた後、公孫康に斬殺された c:3280 c:13503。

象徴的な場面

* 袁紹の病重の際にみずから出戦を請う:袁紹が病重の期間、袁尚はみずから進んで願い出て曹操を迎え撃ち、父の前で能を逞しくしようと焦る性格を示した(演義独自)c:13496。
* 黎陽之戰にて敗走する:袁尚は黎陽で曹軍と交戦し、張遼に敵わず、大敗して走り、ひいては袁紹の旧病を再発させ、血を吐いて死なせた(演義独自)c:3282。
* 兄弟が垣を挟んで争い、互いに攻め合う:袁尚と袁譚は継承権を争って仇敵として反目し、互いに攻め合い、袁譚に曹操へ援軍を求めさせた c:6223。
* 烏桓に身を投じ、柳城の戦いに至る:袁尚は敗走した後、烏桓の首領の蹋頓に身を投じ、蹋頓の連合軍とともに曹操に対抗したが、最終的に柳城の戦いで大敗し、蹋頓は斬られた c:3280。
* 遼東にて斬られる:袁尚と袁煕は遼東へ逃げ、機に乗じて公孫康の地盤を奪おうと試みたが、公孫康に見破られて斬殺され、その首級は曹操に献じられた c:3280 c:13503。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
容貌が美しく、姿かたちは立派で堂々としていた。
性格
父の前で能力を誇示しようと焦り、進んで自ら出戦を願い出た。己の武勇を恃み、威を立てることを急ぎ、挫折に遭うとたやすく退いて守勢に回った。
生涯
字は顕甫、容貌が美しかった。袁紹(えんしょう)は彼を後継者に立てようとし、審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)が彼を擁立して袁紹の位を継がせた。兄の袁譚(えんたん)と争戦し、敗れて中山(ちゅうざん)へ逃れ、故安(こあん)にいた袁煕(えんき)のもとに身を寄せ、後にさらに遼東(りょうとう)へ奔った。公孫康(こうそんこう)が彼を誘い出して殺し、その首級を曹操(そうそう)のもとへ送り届けた。
武器
双刀(二振りの刀)。
逸話
袁紹(えんしょう)の末子で、劉氏の生んだ子である。劉夫人の偏愛によって跡継ぎに立てられた。兄と争ったため、劉表(りゅう ひょう)がかつて書簡を送って和解を勧めた。

人間関係

17 件の関係

名言

全 8 件の台詞 · 厳選 2 件

「吾受父親遺命,立我為主,加兄為車騎將軍。目下曹軍壓境,請兄為前部,吾隨後便調兵接應也。」

演 第32回→ 郭図(かくと)

この一句は袁尚(えんしょう)が家督を継いだ後の傲慢さと兄を利用する姿勢を示しており、その人物像を典型的に描き出している。

「遼東軍兵數萬,足可與曹操爭衡。今暫投之,後當殺公孫康而奪其地,養成氣力而抗中原,可復河北也。」

演 第33回→ 袁煕(えんき)

この一句は袁尚(えんしょう)の野心と謀略を体現し、敗れてなお再興を思う、その末路の足掻きを代表するものである。

登場回10 回 ▸
  • 史ch.1ch.6ch.11ch.26ch.30
  • 演ch.30ch.31ch.32ch.33ch.106
関係の年表9 条 ▸

史 ch.1

史 ch.6

史 ch.30

演 ch.31

演 ch.32

演 ch.33

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は袁尚(えんしょう)、字は顕甫(けんぽ)という。今や兵に敗れて流浪し、逃げ込んだ先は遼東。かつての冀州(きしゅう)の基盤は、もはや私のものではない。父の袁公(えんこう)が健在だったころを思えば、私はその家の恩恵を受け、その名声も受け継いで
  • 私は袁尚(えんしょう)、字は顕甫(けんほ)である。父が存命中、父は私が年若く容貌も美しいことをことのほか愛で、母もたびたび私には才があると称えた。父は私を後継者に立てようとしたが、明言はしなかった。父が亡くなり、葬儀も終わらないうちに、母は
  • 父が病に倒れた後、私はそばに付き添った。兄の袁譚(えんたん)は字を顕忠といい、青州(せいしゅう)の守りに赴いた。袁煕(えんき)は字を顕奕といい、幽州(ゆうしゅう)の守りに赴いた。私だけが劉夫人(Liu Furen)の子で、父にことのほか愛さ
生涯の大事13 ▸