背景
曹沖(そうちゅう)(196〜208)、字は倉舒。曹操(そうそう)と環夫人の子で、生まれはおよそ建安元年前後、曹操が漢の献帝を奉じて許に遷都し政治的勢力を拡大しつつあった重要な時期に当たる。孫権(そん けん)が象を献じた出来事は、三国志(さんごくし)において「幼少の頃よりよく観察し賢かったことは、生後五六歳にして、その知識と考えは成人の智に達していた」という段落の冒頭に据えられており [c:16980]、対応する時期は建安五〜十年頃と考えられる。このとき孫権は兄・孫策(そん さく)の業を承け継いで間もない頃(200年)であり、江東の若き主として北方の権臣に親しみを示す外交姿勢をとっていた。巨象は南方の珍獣として政治的な象徴意味を帯びた贈り物だった——江東の物産の豊かさを示すと同時に、南北それぞれの強みを暗示するものでもあった。曹操が「象の重さを量る」という問いに興味を持ったのは、純粋な好奇心からだけでなく、「贈り物を測定する方法を見出すことで、この政治的象徴への応答を示す」という身振りも含んでいた。
経緯
当時の臣僚たちは「誰一人としてその方法を思いつかなかった」——後漢末の度量衡技術では、活きた象を直接量る既成の方法は確かに存在しなかった。曹沖が提案した解法は物理的には「等しい浮力による置き換え」に等価である。象を大船に乗せて水面の刻み目まで喫水を記し(排水量を確定)、次に既知の重さのもの(石・米・鉄など)を同じ刻み目(すなわち同じ排水量)まで積み込み、それらの重さの合計が象の重さに等しいというものだ [c:16980]。これはアルキメデスの浮力原理の実用的な表現である。アルキメデスの法則自体は紀元前三世紀にすでに西洋で知られていたが、中国本土における応用の記録としてはこれが初期の典型的な事例に当たる。事件そのものは規模が小さく、軍政上の決断にも関わらないが、「魏書」はこれを曹沖の数々の「聡明かつ仁愛」にまつわる逸話の冒頭として丁重に記録し、「鼠が鞍の革を齧る」件や「道理を弁じて罪人を救った」件などと並列させ、彼の早熟な才覚という形象を体系的に作り上げている [c:16980]。
結果
第一に、曹操はこれ以降「曹沖のことを群臣に繰り返し称え、後を継がせたいという意を持った」 [c:16980]。この記述は、象を量った出来事が曹氏の立嗣の格局に直接影響を与えたことを示している。曹沖の聡察は父親によって繰り返し語られ、曹氏諸子の中で事実上「未公示の候補」となったのである。第二に、この出来事により曹沖は曹氏一族内で「仁智の体現者」という形象を確立した。「魏書」は続けて彼が何度も「太祖に陳説して」数十人を厳刑から救ったと記録しており、「聡察と仁愛を兼ね備える」というこの形象は、曹操の晩年の「用刑を重くする」という全体的な政治的雰囲気と鮮明な対照をなしている。曹操は曹沖を「厳刑必行と仁政長治の間の緊張を橋渡しできる最良の人選」として見ていた。第三に、孫権が象を献じた出来事の政治的含意は、曹沖が解法を示したことによって逆転した。もともとは江東が「珍獣で豊かさを示す」という姿勢だったものが、北方が「幼子の知恵で対応する」という物語に変わったのである。
影響
第一に、曹沖は建安十三年(208)に十三歳で病没した。「曹操は親ら天地に命乞いをした」という。亡くなった後、曹操は文帝(曹丕(そうひ))に対して「これはわが不幸であり、汝たちの幸いである」と語ったと伝わる [c:16980]。この言葉は曹沖の死が曹丕の嗣位への道を「空白にした」効果を直接示している。もし曹沖が夭折しなければ、曹丕と曹植(そうしょく)の「嗣位争い」はおそらく生じなかった——曹操は明らかに、この抜群に聡察な幼子に家業を伝えることをより望んでいたのだから。第二に、曹沖、象の重さを量る(そうちゅう、ぞうのおもさをはかる)は、中国古代の「子どもの知恵話」の典型として、後世に蒙学の古典たる『二十四孝』・『幼学瓊林』を通じて繰り返し伝えられ、司馬光の瓶を割った話・文彦博が水を注いで鞠を取り出した話と並んで「少年早熟」の三大典型とされてきた。第三に、孫盛が三国志に注を付した際、「嫡長を立てて賢に立てない」という『春秋』の原則をわざわざ引用して曹操の「後を継がせたい意」を論評した [c:16980]。これは六朝の史家にとっても本件が繰り返し評議に値する政治倫理的事例であり続けていたことを示している。曹沖がどれほど聡察であっても、幼者が長者を凌ぐことは礼制上なお不当であるということだ。曹沖の死は客観的に曹氏一族がこの倫理的問題に真正面から向き合う試練を回避させ、「賈詡(かく)が袁・劉父子を思った」という助言が十年後に自然な文脈を得るための下地をも作ったのである。
