言語
張邈(ちょうばく)

袁術集団(えんじゅつしゅうだん)

張邈(ちょうばく)

字 孟卓

登場回
8
台詞の記録
1
人間関係
11
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

張邈(ちょうばく)は、字を孟卓といい、東平寿張の人で、任侠をもって世に聞こえた。彼は善を楽しみ施しを好み、家財を傾けて貧困を救済したため、士人に深く帰附された c:1819。曹操(そうそう)も袁紹(えんしょう)も、かつて彼と親しく交わった。彼は公府に徴辟され、後に高第ゆえに騎都尉に任じられ、陳留(ちんりゅう)太守に遷った。董卓(とう たく)が政を乱した際、張邈は曹操とともに率先して義兵を挙げた c:1819。汴水の戦いで、張邈は衛兹を遣わして兵を率い曹操に従って出征させた。袁紹が盟主となると、態度が驕矜であったため、張邈はかつて義をもって直言し、面と向かって袁紹を責めた。袁紹はこれによって恨みを抱き、かつて曹操に張邈を殺すよう勧めたが、曹操は「孟卓は親友なり、是非まさにこれを容るべし。今、天下未だ定まらず、よろしく自ら相危うくすべからず」と言って拒み、かえって袁紹を責めた。張邈はこのことを知って、ますます曹操を敬った c:1819。曹操が陶謙(とうけん)を征討した際、かつて家人に言った。「我もし還らずば、往きて孟卓に依れ」。両者の関係の深さがうかがえる。後に、曹操が徐州(じょしゅう)から戻り、張邈と相見えた際には、涙を垂れて相対するほどであった c:1819。

しかし、張邈と曹操の関係は最終的に破裂へと向かった。呂布(りょふ)が袁紹のもとを離れて張楊(ちょうよう)に身を投じる際、かつて張邈と手を執って共に誓い、これが袁紹を大いに不満にさせた。張邈はこのため、曹操が最終的に袁紹のために自らを攻めるのではないかと恐れ、心中穏やかでなかった c:1821。興平元年(西暦194年)、曹操が再び陶謙を征討した際、張邈の弟・張超(ちょうちょう)が、曹操の将・陳宮(ちんきゅう)、従事中郎・許汜(きょし)、王楷らと曹操への背反を密謀した。陳宮は張邈を説いた。「今、雄傑並び起こり、天下分崩す。君は千里の衆をもって、四戦の地に当たり、剣を撫して顧眄すれば、また人の豪たるに足る。しかるにかえって人に制せらるるは、卑しからずや。今、州軍東征し、その処空虚なり。呂布は壮士、善く戦いて前に無敵なり。もし権りにこれを迎え、ともに兗州を牧し、天下の形勢を観、時事の変通を俟たば、これまた縦横の一時なり」。張邈は陳宮の進言に従った c:1821。

こうして、張邈は曹操に背き、人を遣わして呂布を兗州(えんしゅう)に迎え入れ、呂布を兗州牧に推し、濮陽(ぼくよう)を占拠した。兗州の各郡県は次々と呼応し、ただ鄄城(けんじょう)・東阿・范の三県のみが曹操のために固守した c:1821。曹操はこれを知ると、ただちに軍を引いて兗州に戻り、呂布と濮陽で交戦した。戦況は不利で、双方は百余日相持した。その時はちょうど大旱・蝗災にあたり、百姓は飢え、人が相食む惨状すら現れた。呂布軍の糧もまた尽き、軍を引いて東のかた山陽に屯した c:1818。続く二年の間に、曹操は徐々に失地を回復し、鉅野で呂布を破った。呂布は最終的に東のかた劉備(りゅうび)に身を投じた c:1821。張邈はこの叛乱において最終的に成功できず、その結末は史料に直接言及されていないが、その弟・張超は曹操が定陶(ていとう)を攻め破った後に自焚して死んだ c:5385。

演義における姿(In the Novel)

『三国演義』において、張邈の姿は史実とおおむね一致するが、曹操への背反の詳細と結末が異なっている。小説では、張邈は呂布・張超らとともに定陶を据守した。曹操が定陶を攻めた際、呂布はかつて城を出て迎え撃ったが、曹操の伏兵に敗れた c:1823。呂布が敗れた後、陳宮は呂布に城を捨てて逃げるよう勧め、呂布の家眷を護って離れさせた。この時、曹操が定陶に攻め入り、張超は自焚して死に、張邈は袁術(えんじゅつ)に身を投じた c:5385。これは史実における張邈の結末の描写と異なっており、史実は張邈が袁術に身を投じたとは明記していない。

小説では、張邈の背反はより多く陳宮の謀略と煽動として描かれており、張邈本人はいくぶん受動的に見える。彼と曹操の深い情誼も小説に体現されているが、最終的にはなお曹操への猜疑と陳宮の蠱惑によって対立の側へと向かった。小説はこれらの詳細の描写を通して、乱世における人間関係の複雑さと脆さをさらに際立たせている。

重要な関係

* 呂布(りょふ)(friend_of):張邈と呂布はかつて手を執って共に誓い、曹操に背いた後に呂布を兗州に迎え入れ、彼を兗州牧に推した c:1821。演義では、張邈は呂布とともに定陶を据守し、ともに曹操に対抗した c:1823。
* 曹操(そうそう)(friend_of, rival_of):早期、張邈と曹操の関係は極めて良く、曹操はかつて「我もし還らずば、往きて孟卓に依れ」と言い、袁紹が張邈を殺せという提議を拒んだ c:1819。しかし、最終的に張邈は疑慮と陳宮の説得によって曹操に背き、兗州における彼の強敵となった c:1821。
* 袁紹(えんしょう)(rival_of):張邈はかつて袁紹の驕矜ゆえに面と向かって彼を責め、袁紹に恨みを抱かせ、曹操の手を借りて張邈を除こうとさせるに至った c:1819。
* 袁術集団(えんじゅつしゅうだん)(defected_to):『三国演義』において、張邈は定陶城が破られた後、袁術(えんじゅつ)に身を投じた c:5385(演義独自)。
* 陳宮(ちんきゅう)(ally_of):陳宮は張邈を説いて曹操に背かせ、呂布を兗州に迎え入れさせた鍵となる人物である c:1821。

象徴的な場面

* 義をもって直言し袁紹を責める:酸棗(さんそう)の会盟の際、袁紹は盟主として態度が驕矜であったが、張邈は権勢を畏れず、面と向かって正議して袁紹を責め、その任侠仗義の性格を示した c:1819。
* 曹操が張邈に後事を託す:曹操が陶謙を征討した際、かつて家人に言った。「我もし還らずば、往きて孟卓に依れ」。この短い言葉は、曹操の張邈への信任と両者の深い友誼を深く体現している c:1819。
* 曹操に背いて呂布を迎える:興平元年、張邈は陳宮の言に従って曹操に背き、呂布を兗州に迎え入れ、呂布を兗州牧に推し、この挙は兗州ひいては中原全体の構図を完全に変えた c:1821。
* 定陶城が破られ袁術に投じる:『三国演義』において、曹操が定陶を攻め破った後、張邈は張超らとともに据守し、最終的に張超は自焚し、張邈は袁術に身を投じた c:5385(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
張邈(ちょうばく)は任侠にして義を重んじ、家財を傾け尽くして困窮し急難にある人々を救済した。曹操(そうそう)・袁紹(えんしょう)とは少年の頃からの友であった。
生涯
張邈は東平寿張の人で、若くして侠義をもって知られた。かつて公府の官吏・騎都尉に辟召され、後に陳留(ちんりゅう)太守に昇進した。率先して義兵を挙げて董卓(とう たく)を討ち、かつて正論をもって袁紹を責めた。後に陳宮(ちんきゅう)と謀って曹操に背き、呂布(りょふ)を迎え入れたが、事が敗れた後、配下の者に殺され、一族は滅ぼされた。
逸話
張邈は陳留太守であり、かつて連合軍の一員であった。陳宮とともに背いて呂布を迎え入れ、兗州(えんしゅう)をほとんど陥落させた。典韋(てんい)はかつて彼の部下であった。

人間関係

11 件の関係

台詞

  • 史 ch.7 §30→ 張超(ちょうちょう)

    「聞弟為郡守,政教威恩,不由己出,動任臧洪,洪者何人?」

登場回8 回 ▸
  • 史ch.1ch.7ch.10ch.18
  • 演ch.7ch.10ch.11ch.12
関係の年表6 条 ▸

史 ch.1

史 ch.7

史 ch.10

演 ch.12

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張邈(ちょうばく)、字は孟卓(もうたく)、東平の寿張の出身である。若い頃から侠気で知られ、人が困窮しているのを見れば、家財を傾けてでも救った。そのため士人たちは私に帰服し、太祖曹操(そうそう)や袁紹(えんしょう)も私と親しく交わった。董
生涯の大事4 ▸