背景
建安十六年(211年)の潼関の戦い(とんかんのたたかい)は、曹操(そうそう)が赤壁(せきへき)の失敗後に戦略の重心を西北へ転換した際の要衝となる戦役である。馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)は関中十部の連合軍、号称十万を率いて潼関(どうかん)に屯し、曹操(そうそう)は中軍を挙げて北上し、渭水の南北において西涼連合軍と長期の対峙を展開した。戦役が膠着状態に入ると、曹操(そうそう)は正面からの強攻では勝算が低いと悟り、賈詡(かく)の離間策を採用した。これは前漢以来の用兵の古典的手法であるが、賈詡(かく)はそれを極めて精巧な水準にまで昇華させた。小説『三国(さんごく)演義』第58・59回では、この離間のプロセスが複数の劇的な段階に分解されており、各段階は馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の間に存在する構造的亀裂を精確に突いていた。韓遂(かんすい)は馬超(ばちょう)の亡き父馬騰(ばとう)の結義の兄弟で、輩分上は馬超(ばちょう)の叔父にあたるが、二人はそれぞれ独自の兵権と部曲を持ち、名目は同盟でも実態は合伙に過ぎない関係であった。
主要人物
賈詡(かく)、字は文和、涼州(りょうしゅう)武威の人で、董卓(とうたく)・李傕(りかく)・張繡(ちょうしゅう)・曹操(そうそう)と次々に仕えた。「乱世を生き延びる知者」として知られ、演義における「馬韓の離間」はその謀略の代表作の一つである。曹操(そうそう)はこの戦役において雇い主であると同時に自ら演じる者でもあった。賈詡(かく)が策を献じ、曹操(そうそう)が実行するという二人の連携は、演義における「主臣の計謀」の範本とも言えるものであった。馬超(ばちょう)、字は孟起、西涼の勇猛な将で、臨戦の勇は当代随一だが、政治的判断力は比較的粗雑であった。これが離間計が成立するための根本的前提であった。演義は第58回でいち早く「韓遂(かんすい)が曹操(そうそう)の勧降の書を受け取り、馬超(ばちょう)が怒って韓遂(かんすい)の陣営に押しかけて問い質す」という場面を布石として置いており [c:17762]、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の間の不信感は賈詡(かく)が一から作り出したものではなく、すでに存在していた亀裂であり、賈詡(かく)はただそれを拡大して適切なタイミングで爆発させたにすぎないことを示している。韓遂(かんすい)は西涼の老将として、本来は馬騰(ばとう)家族との協力関係を維持しようとしていたが、年老いており、性格は慎重で、曹操(そうそう)の圧倒的な兵力の前では和議を志向していた。この点がまさに馬超(ばちょう)に「単独講和を企てている」と疑わせる火種となった。
核心議題
賈詡(かく)の離間計の核心は「情報の非対称性」を利用して猜疑を生み出すことであり、操作全体は精巧に設計された三段階で構成されていた [c:17765]。第一段階は「単騎対話」:曹操(そうそう)が陣前において単騎で韓遂(かんすい)と長時間対話し、話の内容を誰にも知らせなかった。意図的に神秘感を演出することで、馬超(ばちょう)に疑念を抱かせた [c:17764]。第二段階は「書状の改竄」:曹操(そうそう)が韓遂(かんすい)に親書を送り、故意に肝心な箇所を自ら塗り消し書き改めた。馬超(ばちょう)がそれを見た時、韓遂(かんすい)が自ら修正し、曹操(そうそう)との密謀を隠蔽しようとしたと思い込むようにしたのである [c:17765]。第三段階は「諸将の内通」:賈詡(かく)は同時に韓遂(かんすい)の部下である楊秋(ようしゅう)・侯選(こうせん)・李堪・馬玩(ばがん)・梁興(りょうこう)ら将に接触し、馬超(ばちょう)の前で「事は急を要する」と漏らすように仕向けた [c:17766]。三層の積み重ねにより、馬超(ばちょう)が得た「証拠」は一つから三つになり、たとえ理性的に叔父が裏切らないと分かっていても、感情的には猜疑を抑えることができなくなった。この「複数の偽証拠を同一の結論に向けて作り出す」技法は、情報戦の歴史において今日も離間策の範式の一つとして評価されている。
政治後果
事変の頂点は馬超(ばちょう)が韓遂(かんすい)の陣屋に踏み込んだ場面であった。五将が韓遂(かんすい)と密語しているのを目撃し、楊秋(ようしゅう)が「事は急を要する」と言うのを聞くや、直ちに剣を抜いて斬りかかり、韓遂(かんすい)の左手が斬り落とされ、五将は四散して逃げた [c:17766]。韓遂(かんすい)は最終的に命を保ったものの、西涼連合軍の中枢はこれによって完全に崩壊した。連合内で馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)両派を調整できる人物が失われ、曹操(そうそう)は勢いに乗じて翌日総攻撃を発動し、関中の諸将はそれぞれ潰走した。政治的後果から見ると、この離間計の真の破壊力は戦場の勝敗を遥かに超えていた。数か月にわたりかねなかった攻城戦を一度の総攻撃に圧縮し、曹操(そうそう)が211年のうちに関中の平定を完了し、手を空けて涼州(りょうしゅう)と漢中(かんちゅう)に対処できるようにした。以後、馬超(ばちょう)は漢中(かんちゅう)へ流亡して最終的に劉備(りゅうび)の麾下に帰し、韩遂(かんすい)は衰残老死し、西涼軍(せいりょうぐん)政治集団全体が瓦解した。曹魏(そうぎ)による関隴地域に対する実際的支配はここに確立された。
反事実推演
もし馬超(ばちょう)の韓遂(かんすい)に対する信頼がより堅固であったなら、離間計のいくつかの段階はいずれも成立しなかったかもしれない。第一の分岐路:馬超(ばちょう)が最初に曹操(そうそう)の勧降の書を目にした時、使者を即座に斬って忠心を示す(演義でも彼はもともと韓遂(かんすい)と生死を共にする意志を示していた)[c:17762] という選択をしていたなら、賈詡(かく)のその後の書状改竄は着手する余地がなかったであろう。第二の分岐路:もし韓遂(かんすい)が単騎対話の際に赴会を拒否し、公開の場での協議を要求していたなら、曹操(そうそう)の「神秘の対話」は猜疑を生み出す素材を失っていたであろう。第三の分岐路:もし西涼連合軍の中に張良のような謀主がいて賈詡(かく)の布局を見抜いていたなら、三層の偽証拠は馬超(ばちょう)の前で暴かれ、かえって馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が同心協力する契機となっていたかもしれない。しかしこれらの分岐路はいずれも起きることがなかった。西涼軍(せいりょうぐん)政治集団の構造的弱点(多頭で謀主なし)が、賈詡(かく)ほどの水準の離間の前には到底太刀打ちできない宿命を負わせていたのである。したがってこの離間計は個人の智謀の勝利に止まらず、構造的に必然の結末でもあった。統一した謀主を欠く部族式連合軍は、謀主を擁する中央集権式軍隊に必ず敗れるのである。
