
史載(Historical Record)
李傕(りかく)、字は稚然、北地の人。初め董卓(とう たく)の部将となり、董卓に従って洛陽(らくよう)に入った。漢の献帝の初平三年(192年)夏四月、司徒の王允(おういん)は呂布(りょふ)と謀って董卓を誅殺した。董卓の死後、その旧部であった李傕、郭汜(かくし)、樊稠、張済(ちょうさい)らは、赦免の詔書もなく、また長安(ちょうあん)が涼州(りょうしゅう)の人々をことごとく誅殺しようとしているとの報に接し、恐れおののいてどうしてよいか分からなかった。賈詡(かく)の進言により、彼らは兵を率いて西進し、道中で兵力を糾合し、長安に至った時には十数万の衆に達していた。
李傕らは董卓の旧部曲である樊稠、李蒙(りもう)、王方らと合流して長安城を包囲した。城が陥落すると、城中で呂布と交戦し、呂布は敗走した。李傕らは兵を放って長安を大いに略奪し、老若を殺戮して屍が野に満ちた。彼らは王允を市中で処刑し、その一族十数人をも誅殺した。その後、李傕らは擅断で朝政を握り、李傕は車騎将軍・池陽侯に封じられ、司隷(しれい)校尉を領し、節を仮された。
朝政を掌握すると、李傕は郭汜、樊稠らと権力を争い始めた。樊稠はかつて韓遂(かんすい)と私的に談じたことがあったため、李傕に異心ありと疑われた。李傕は宴を設けて樊稠を招き、その席上で彼を殺害し、その部衆を併呑した。続いて、李傕と郭汜の間にも亀裂が生じ、両者は長安城中で戦端を開き、数か月にわたって死者は万を数えた。
戦乱の中、李傕は漢の献帝を自らの軍営に拉致し、宮殿や城門を焼き、官署の財物を略奪した。彼は献帝の食事の供給にも極めて苛酷で、帝が米五斛と牛骨五具を求めて左右の者に賜ろうとした時、李傕は「朝餔(ちょうほ)に上飯あり、何ぞ米を用いんや」と言い、腐った牛肉を提供するのみで、臭くて食えたものではなかった。李傕と郭汜の内紛の中で、朝廷の公卿は拉致され、百姓は流離した。鍾繇(しょうよう)はかつて李傕・郭汜を説得し、曹操(そうそう)は王室に忠実であり、その使者を拒むべきではないと指摘して、曹操の使命を通行させた。後に、天子が長安を出る過程においても、鍾繇は力を尽くした。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、李傕は董卓の腹心の部将として、その人物像はさらに残虐・貪欲かつ変節常ない軍閥として描かれている。彼は初登場の際、董卓に従って入京し、董卓の様々な暴行に参加した。連合軍が董卓を討つ際、李傕は郭汜とともに董卓の命を奉じ、五万の兵を率いて汜水關を守り、関東の諸侯を阻んだ。孫堅(そん けん)がかつて董卓と縁組を結ぼうとした際、董卓は李傕を遣わして説き合わせようとしたが、孫堅に厳しい言葉で拒絶された。
董卓が呂布と王允に誅殺された後、李傕、郭汜、張済、樊稠らは逃亡した。謀士の賈詡の進言により、彼らは涼州の旧部を召集し、董卓の仇を討つという名目で長安に攻め入った。演義では、李傕らが長安を陥落させた後、王允とその一族を殺害したばかりか、漢の献帝を弑そうとしたが、張済・樊稠に諫止され、転じて帝を奉じて朝政を挟持した。
李傕は演義の中ではより迷信深く描かれており、自分が権勢を得られたのは鬼神の力の助けによるものだと考え、巫師を厚遇する一方で、生死を共にした将士には恩賞を与えなかった。これが騎都尉の楊奉(ようほう)らの不満を招き、最終的に宋果(そうか)による李傕暗殺事件(演義独自)を引き起こした。成功はしなかったものの、李傕の軍勢はこれによって衰えた。
演義はさらに李傕と郭汜の内紛を詳細に描いている。その発端は、郭汜の妻が讒言を信じ、李傕が毒を盛ったと疑ったことにあり、両者は反目して仇敵となった。李傕が天子を郿塢に拉致した後、帝后への苛酷な扱いもより具体的になり、帝が米五斛・牛骨五具を求めたのに対し、李傕は腐肉と朽ちた糧をもって与えた。皇甫酈(こうほり)が帝命を奉じて李傕と郭汜の和解を勧めに行ったが、李傕は聞き入れないどころか、剣を抜いて皇甫酈を殺そうとし、幸いにも楊奉と賈詡に諫止された。最終的に、張済の介入により、李傕と郭汜は一時的に和解し、天子を護送して東のかた弘農へ帰らせた。しかし、彼らはまもなく前言を翻し、再び帝の車駕を追撃して天子を拉致しようとした。
主要な関係
* 董卓集団(とうたくしゅうだん)(lord_of):李傕は董卓の腹心の部将であり、董卓に従って征戦し、董卓の死後はその仇を討って長安を攻め取り、董卓集団の支配を継続させた。
* 王允(おういん)(enemy_of):王允は董卓を誅殺した首謀者であり、李傕らは長安に攻め入った後、王允とその一族をことごとく殺害して董卓の仇を報じた。
* 郭汜(かくし)(rival_of):李傕と郭汜はともに董卓の旧部であり、共同で長安を攻め取り、朝政を握った。しかし、両者は権力を争って反目し、幾度も長安城内で兵を交え、生霊を塗炭の苦しみに陥れた。演義では、郭汜の妻の離間の計が二人の反目の直接の引き金となった(演義独自)。
* 樊稠(betrayed_by):樊稠もまた董卓の旧部であり、李傕らとともに長安を攻め取った。しかし李傕は樊稠が韓遂と内通したと疑い、宴を設けて彼を殺害し、その部衆を併呑した。
* 賈詡(かく)(advisor_of):賈詡は李傕集団の重要な謀士である。董卓の死後、まさに賈詡の計策が李傕らを長安に攻め入らせ、政権を奪取させた。李傕と郭汜の内紛の際、賈詡も幾度か和解を勧め、李傕に重爵をもって将士を慰撫するよう進言したが、李傕は完全には採用しなかった。
* 漢の献帝(captor_of):李傕は長安で朝政を握っていた間、幾度も漢の献帝を拉致してその自由を制限し、その食事にも苛酷であり、献帝は屈辱を受け続けた。
* 鍾繇(しょうよう)(intervened_for):鍾繇はかつて李傕らを説得し、曹操は王室に忠実でありその使者を拒むべきではないと指摘して、曹操の使命を通行させた。天子が長安を出る過程でも、鍾繇は力を尽くした。
象徴的な場面
* 長安陥落、王允誅殺:董卓の死後、李傕・郭汜らは賈詡の謀略のもと、軍を率いて長安に攻め入った。彼らは呂布と激戦し、最終的に呂布を破って長安を陥落させた。続いて、王允を市中で処刑し、長安の百姓を大いに屠戮して、その残虐な一面を露わにした。
* 宴席に鴻門の宴を設け、樊稠を誅殺:李傕は樊稠が韓遂と内通したと疑い、酒宴を設けて樊稠を招いた。宴席上、李傕は突然に発難して樊稠を斬殺し、その部衆を併呑した。この場面は李傕の陰険さと権謀を際立たせている。
* 郭汜との内紛、天子拉致:李傕は郭汜と権力を争って反目し、長安城中で長期にわたる混戦を繰り広げた。この間、李傕は漢の献帝を自らの軍営に拉致し、帝后に苛酷の限りを尽くし、十分な食物を提供することすら拒んで、天子を飢えと恐怖に苦しめた。
* 皇甫酈の和解の勧めを拒み、天使を殺そうとする:漢の献帝はかつて皇甫酈を遣わして李傕と郭汜の和解を勧めさせた。皇甫酈が率直に李傕の天子拉致の行為を指摘すると、李傕は激怒した。李傕は剣を抜いて皇甫酈を殺そうとしたが、幸いにも楊奉と賈詡に諫止されて思いとどまった。この場面は李傕の傲慢さと残虐さ、そして皇権への蔑視を露わにしている。
* 巫術を迷信し、軍将に恩賞を与えず:演義では、李傕は鬼神を迷信する人物として描かれ、自らの成功は巫術の賜物であると考えた。そのため、巫師を厚く賞する一方で、生死を共にした将士を軽んじ、軍心の動揺を招き、最終的に楊奉らの離反を引き起こした(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 李傕(りかく)は百姓を残虐に扱い、初め賈詡(かく)の計略を軽んじ後にこれを重用し、また宴席で鴻門の会を設けて樊稠を誅殺した。彼は残暴で、邪道妖邪の術を好み、あろうことか巫女に鼓を打たせて神を降ろさせた。
- 生涯
- 李傕(りかく)は北地の人で、董卓(とうたく)の死後、賈詡(かく)の計略を採り入れて西へ長安(ちょうあん)を攻め、郭汜(かくし)らとともに城を十日包囲した後に陥落させた。彼はかつて車騎将軍、池陽侯となり、司隷校尉を領し、節を仮された。建安二年、李傕は裴茂(はいぼう)の率いる関西の諸将に誅殺され、三族を夷滅された。
- 逸話
- 李傕(りかく)は西涼の人で、董卓(とうたく)の部将であり、かつて董卓に従って兵を率い洛陽(らくよう)へ向かった。彼は郭汜(かくし)・張済(ちょうさい)らとともに陳留(ちんりゅう)・潁川(えいせん)の諸県を攻略し、後に長安(ちょうあん)に入って権を専らにし、郭汜と内訌して天子を拉致した。
人間関係
17 件の関係
名言
全 23 件の台詞 · 厳選 3 件
「求赦不得,各自逃生可也。」
この言葉は、絶体絶命の中で賈詡に諭された李傕が、敗勢を勝機に転じる転換点を示している。
「董太師乃陛下社稷之臣,無端被王允謀殺,臣等特來報讎,非敢造反。但見王允,臣便退兵。」
この言葉は、李傕らが長安へ進軍する口実であり、その政治的動機を明らかにしている。
「既到這裡,不殺天子謀大事,更待何時?」
この言葉は、天子を擁して諸侯に令せんとする李傕の凶残さと野心を示している。
登場回13 回 ▸
- 史ch.1ch.6ch.10ch.13
- 演ch.3ch.5ch.6ch.9ch.10ch.11ch.13ch.14ch.17
関係の年表10 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は李傕(りかく)、字は稚然(ちぜん)。ここに至るまでに兵勢は次第に衰えた。長安(ちょうあん)以来を振り返ると、兵が強く、功績が高ければ、それだけで自らを守れると思い込んでいた。皇甫酈(こうほり)が詔を奉じて、私と郭汜(かくし)に和解を勧め
- 長安(ちょうあん)城が陥落したとき、私はようやく、命をつなぐことのほうが忠義より切実なのだと知った。董卓(とう たく)公の死後、朝廷から赦免の詔は出ず、城中の涼州(りょうしゅう)人は皆殺しにされるとも聞いた。私と諸将は恐れ、頼るところもなか
- 私は李傕(りかく)、字は稚然。若い頃の行跡について問われても、伝世の文献には詳しく記されていない。自分の出身地や家柄をでっち上げるつもりはなく、少年時代に何か不思議な経験をしたなどと、うそぶくつもりもない。ただ、後に董卓(とう たく)の幕下
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